経済を考える8-7

さて、GーW  変換を深掘りする。等価交換である。

 

G貨幣資本ーW生産資本への変換と生産活動Pまでの製造業工程を細かく見てみよう。

マルクスは、貨幣資本としてのGをWの不変資本Pmと可変資本Aとの生産資本に等価で変換してP生産活動を行う。

製造業は、ある材料を労働により有用な生産商品にして等価で生産資本を回収して再生産できるようにする。これが、剰余価値を産まないで再生産のみを可能にする生産水準が不生産階級だから、剰余価値を産んでいる水準の生産が資本主義生産。

等価交換なのにどこから剰余価値が生まれるのか。

等価交換でありながら剰余価値が生まれる価値以上の労働があった、即ち生産工程でWーW'がないと説明できないから、生産工程が価値を産むとした。出来上がり商品増の価値増加部分が無賃労働に帰属するとした為、

GーWーGではなく、GーWーW'-G'とした為に、製造業唯一主義、製造業労働価値説を生み出した。

結論は、やはりGーWーG  だったのだ。

マルクスは労働力商品の資本側からの搾取として捉え階級闘争の必要性を科学的社会主義として導いたわけだが。ここからは、サービス業の剰余価値生産を説明できできない。サービス業の価値も説明できない、この理論闘争は現在も続いているが、現実から無視されかかっているだけで、理論的には置き去りにされている。

初期資本主義の野蛮さでしかなく、反乱が主流になる前に健全化されて逆に発展した。理論が間違っていたからだ。にもかかわらず、マルクスの功績は画期的であり、尊敬に値する論理性ある科学的なものなので、後継者の理論研究の不足であり、革命宗教理論のままにして放置した後継者に問題があった。

 

ミクロ的に見て見よう。

不変資本Pmは、原材料、エネルギー費用、機械の減耗費用、工場施設等の減耗費用が、A賃金という労働力の再生産費用を伴って製造段階Pで化合させて生産物を生産する。この製造業の流れを継続したいなら、製造後商品にこれらの価値が移転していなければならない。ではどこに剰余価値が潜んでいるのか?探してみよう!

 

原材料やエネルギー費用は、確かに不変資本として同価値が製品に移行し、即ち再生産費用としても回収すべきだが、また労働力もその再生産費用を回収しなくてはならないが、ここでの労働力の支出は素手で行うのではなく、全部移転しない過去資産の固定資産を活用しての生産水準なので、その意味では固定資産増の減耗分もPm分に含めて回収べき費用ではある。

 

不変資本は、先ほど原材料とエネルギーの費用と述べたが、原材料はエネルギーを使ってそのものを製品に変化させる、と考えるべきもので、原材料が多ければ投入エネルギーも大きい、という関係にある。不変資本に分類するのは、いかがなものか?

回収しなければならない経費支出ではあるが、自ら変化させられるもの、ではなく変化させる為の力なのだ。

機械の投入エネルギーは機械の食糧にあたる。機械は減耗とエネルギー消費を行う労働力の代替物であり、変化前の原材料とは異なり、変化させる側にある性質のものである。

労働力もエネルギー支出して、減耗するその再生産費用と共に賃金として受け取るわけだ。その意味では、機械など、エネルギー消費でものを変える労働と同質の側面をもつ。

 

素手で労働を行うなら、例えば針金からクリップを作る場合、価値の移転は、針金代と、労働力商品の再生産費用の和が製造後の価値として、というより価値額で販売できれば、彼の生活は成り立つ。

金持ちが職人を大工場で雇い、 そこでクリップを大量生産しても、何も変わらない。剰余価値は生まれない。ここでできるのは、金持ちが職人労賃で1.2倍の労働を強いて、1.2倍の製品を、1.2倍の貨幣資本を回収すれば、0.2の剰余価値を手にすることができる、というものだ。極端に言えば、これがマルクスだ。確かに階級制度が問題だ。しかし、これは階級制度の略奪を資本主義的生産システムに持ち込んだ訳であるから等価交換ではない。それに、1.2の生産物には、1.2倍の原料投入が必要になる。これでは、働きすぎで労働力の再生産ができない職人をバラバラにいさせるか、一箇所に集めたかの違いでしかなく、マクロではなにも違わない。こんな目に合うなら、中長期には職人が去るだけだ。第一集まらない。集まる必要もないから破綻する。資本主義初期には、日本の女工哀史、イギリスにおける労働者階級の状態、少し前の中国だ、固定資産減耗のというか機械化比率が低すぎるので長続きはしない。この方式での略奪的不等価交換、がマルクス剰余価値の説明だ。まだ、初期で機械生産による置き換えが未発達だし、エネルギーも高価だったかも。

 

大工場にする意味は、職人による生産スタイルを、機械という、固定資産減耗とエネルギー消費する人間労働の代替物を導入し、置き換えられる部分に、機械操作という、ペンチで針金を切断して短時間で大量に丸めるクリップ職人(たとえである)に変わり、高速切断機と丸め加工機、の機械操作のできるクリップ職人としては未熟練な少数労働者と、電気代に組成Wの組成を組み替えて、職人集団を集めて同量の生産物を得るのに対し、少なくて済む費用支出で同量の生産が可能な時、ここに内的に剰余価値が生まれるのだ。

ラッダイト運動に、その意味はあるのだ。

増産の増分に剰余価値がある、労働時間の延長に発生根拠がある、というのはあるが主要ではない。機械が摩耗するものの疲れないぶん、寝なくても良いぶん、労働時間が3倍になる?機械労働者を雇ってそこにエネルギー食糧と摩耗代償金を払うだけ、しかも逆らわないし。

三交代でやれば圧倒的な増分を得るが、それは剰余価値の発生根拠とは無縁の話。生産サイクルがより短時間になるだけで回転数があがるからだけだ。

また、天候の影響や、種子のDNA情報による限界もないから圧倒的な生産量を産むが。

 

機械の減耗+機械のエネルギー代が、労賃のそれと比較して機械<労賃となるから機械を導入するわけで、その差が剰余価値となる。

確かにここで削減される人は、マクロ的には他の不生産階級や生産材製造業の労働者となるから、必ずしも否定的なばかりではない。農業部門の増産なくても、職人が、機械生産労働者になれば問題はない。

PmとAに分けて考えるのではなく、Aは労賃と機械の減価償却と機械のエネルギー消費に置き換える、

即ちA1+Pm2+Pm2のエネルギー費用、を可変資本のAに分類して考えるべきだ。

固定資産減耗でも工場施設の償却経費等はPm1としてもいいはずだが、大工場でないと機械の導入運用ができないから、可変資本に分類すべき。

こう分類した後で、可変資本から剰余価値が生まれる、と規定すべきで、労働者の長時間労働の中の不払労働が本来労働者に帰属すべき剰余価値というのは歴史的にはあるし、そうした略奪型資本主義は労使関係の不平等性や社会的認知度により現在も存在している。が、それはいつの世もある権力関係の歪みであり、資本主義の本質ではない。

日本や中国の資本主義には、この略奪型が多く存在し、ドイツにおいては少なく、純粋資本主義により近い形でありながら堅実に発展している。

 

 

 

 

経済を考える8-6

ケネーの範式の時代は、不生産階級の労賃は職人労働の再生産で、その為には主婦も子供も養える賃金はあるわけだ。

これが、工場生産に移行して労働が児童や女性による単価の低い労働に機械化で移行すると、剰余価値が生産される。その意味ではマルクスの生産資本段階で剰余が生まれるのではあるが、ケネーの言う通り、農業は、自然の力で商品自体が増殖するが、労働はその補佐でしかない。農業は労働と太陽や土の恩恵により価値が増加する。一方で不生産階級の特徴は、本質的に価値の増殖はできない。Aという原料を、労働でBという有用物に変えるだけで、それを行うのが労働であることに変わりがないが、機械により、部分的に労働を置き換えることで、労働だけで生産するより余剰が出る。その余剰とは機械の減耗を補充して余りある余剰であり、それが更に高度機械生産の根拠となる。

この余剰、剰余価値の生産をするか否か、ゼロなら

剰余価値は、全額賃金となり、賃金を平均的なその時代の再生産費に抑えて剰余価値をそこそこに抑えるなら、次世代の高度化にも対応できる再生産だが、市場を独占していないと、賃金をギリギリにした方が勝つ。ここで労使の対立関係があるが、生産を管理する部門を労使どちらが主導するかでその分配が決まる。

市場では、職人生産物が駆逐され切るまでは、職人生産物と工場生産物が共存しているが、剰余分の一部は運輸や商業資本の発達を通じた生産活動にも行き渡り、ここでの雇用と機械投資を生み、また一方の使い道として生産を上げる高度な機械と同時に商業システムを高度化する機械の生産をももたらす。剰余は健全に投資として活用されきる。

マクロ的には職人の人口減による労賃総量減と機械を使用する非熟練労働による労賃増加があり、後者が剰余価値を生む為に、この剰余が、市場の商品需要が一定でしかないとしても、機械生産による生産物比率の高まりは、剰余の使い道が高度な生産機械生産に振り向けられるので、また、ここにはより高度な技術が必要となるので、廃業した職人による生産材生産部門への移転が進むことになりやすいのではないか。

であれば、労働者階級は絶対的に貧困化するのかどうかも疑問だが、生産総量の問題が関係するかもしれないので、この検討はこの先にする。

 

 

 

経済を考える8-5

ちょっとお休みして、ぶつくさ独り言。(^^)

 

不生産階級による職人作業の機械化へ置き換えによるコスト削減を通じて、剰余を得て、その剰余で一方では機械化の高度化の為の機械生産へ、もう一方では、W-Gに要する商業経費増を通じて、職人生産物価格により近いが下回る価格販売を可能にして職人生産物の置き換えが急ピッチで進む。

一方で商業にも同じ流れを促し、製造業の発展分の発展が販売する生産物と同額の販売システムまで派生成長する。不生産階級の商人が商業資本に成長する。外国生産物の輸入により、商業資本の発達は止まらない。また、製造業も生産することで剰余が得られるから、国内市場が飽和したら、実質的に国外の職人生産がなくなるまで輸出が続く。その市場がなくなると、需要が固定化して生産回転数が定常になる。この間に機械化と回転数の向上がなくなるわけだ。それは剰余が固定資産を新たには形成されないことをも意味する。剰余価値が固定資産減耗で消し飛ばされる。要は補充だけの現状維持だ。需要が減退すると、そこから更に補充も部分的になる。固定資産減耗分の補充が減るから、そのぶんの賃金削減を頭数の削減含めて存続させる段階になるはずだ。

現代経済は、ここの研究が必要かもしれない。

 

生産階級の不生産階級化が進行しだすと、資本主義のシステムが機能不全になる。現代日本はここの段階にある?

戦争などで生産需要は一時的に増え、システムが機能するが、戦争は終わる。

勝った側には過剰生産設備が残され、失業が待つ。負けた側には、激しい生産需要が起こる。トータルではゼロサムで、ある意味労働者の悲劇の優生保護が機能するだけだ。

それならいっその事、ケネーののどかな範式の時代に戻った方がいいのかも知れないが、資本主義生産が勝るがゆえに、また、市場を求めるがゆえに、世界の資本主義が成熟するまでは止まれないで進むしかない。現代日本は先頭に立っている為、部分的にこの課題に直面している。今は茹でガエル状態で次なる方策を待っている時期なのだ。

 

経済学に価値があるのなら、マルクス後継者により新たな経済学批判=(新)資本論、を完成させなければ真価はない。

人の機能の外部化のうち、筋肉消費部分が初期には外部化され、人は機械の操作人となってきたが、今は頭脳の外部化が進み、そこに資本主義が機能する活動場所ができている。その操作人となって久しい。マルクスの時代に、職人労働が、機械により児童や婦人の労働に置き換えられた。初期は劣悪で長時間労働だったが、全社会的には失業者部分に賃金が払われ、職人生産に置き換えられ、職人が減る、がトータルでは生産量拡大で職人の単独よりもマクロ的には収益性はよい。日本人は職人で、生産基地が中国に移る現代と変わらないし、世界という枠では平均すると豊かになっているはずだ。

頭脳さえも機械の操作人になった後に待っている世界とは?

自動運転で採掘して自動大型トラックで地下資源を採掘輸送、輸送はGPSで中央制御盤で監視コントロールされている映像を見たことがあるが、作業員はごくわずかしかいないとすれば、金属需要があるかぎり剰余価値が生産されるものの、他の生産方式が一掃されれば定常化する。

イノベーションがなければ、単純再生産の近代的中世、の時代が、機械化前の長い封建的中世と同じに続くのだけではないか、また、その時代は、

快適空間の創造、が新たな需要となりそうな気がする。ここに労働が発生して効率化していくのでは?とも思う、芸術やスポーツなどの娯楽ニーズなのかも知れない。人に必要性と欲望があれば不均等でも発展は続くし、そこに最大の欲望、金、名誉欲があればシステムがなんであれ、不生産階級は生まれるのではないか。ケネー当時の不生産階級はすでに生産階級になった。現代の不生産階級にその芽は🌱

芽生えてるのかもしれない。

暇な話に付き合わせて申し訳ない。(^^)

 

 

経済を考える8-4

W-W'変換を深める。

目的は、資本主義システムの普遍的な表式を作ることである。偉大なマルクス表式の批判者ではなく、後継の一人でありたいから。

 

貨幣資本Gを商品Wに等価交換して生産資本を編成して、剰余価値を含んでアウトプットを等価交換で貨幣資本Gに戻す、と考える。

 

製造業の場合は、物の生産なら種類は問わない。

Pm1を投入し、G回収時にその価値分を回収する。

Aも投入し、Aを同じくG回収時に価値分を回収。

これだと、剰余価値はゼロだ。即ち不生産階級だ。

物を人が需要あるものに変化させるだけだ。ケネーの言通り。誰でもできるし差もない。

ここで、マルクスの方法で剰余価値を生産するには、Pm2がない、0とすると、上の状況で剰余価値生産するには、

Aを1.5倍働かせると、Pm1も、1.5倍必要になるから、Gの投入も丁度1.5倍に増やさないと生産が止まるだけだ。剰余価値は出ない。だから、賃金を1のまま、Pm1を1.5倍投入すると、1.5-1=0.5の剰余価値が生まれる。これは確かだ。残業代払えばなくなるが。残業代を支払わずにmを得るには、投入するGは1.5+1.5=3  3が完成品W'の価値ではあるが、これは3人でしかこの価値生産はできないのに、給料は二人分しか払ってないから、G-Wが不等価交換になる。

不等価交換は長続きしない。ここを等価交換にするのは困難だ。日本では通用するかも知れないが。で、W-W' を編み出したわけだ。

これは、機械Pm2のない職人集合型生産で、1つの原料で1人の職人生産で1の製品ができる環境で、3つの原料を手配して、2人の職人しか集めずに、1人あたり1.5倍の時間を働いてくれ、といっているようなものである。この考え方では資本主義のシステムの表式としては不完全である。

 

Pm2の減価償却分もPm1に加算して、更にAを投入している。Pm1、Pm2は確かに不変資本だから、価値はそのまま製品の価値に移行するから、更にAの賃金も移行するから、またぞろ長時間労働か過密労働で賃金を踏み倒すことでしかなく、Pm2は余計な費用でしかなく、Pm2が無い方が資本の多くをPm1とAに振り分けられることになり、矛盾する。

 

Pm2は不変資本ではあるが、それでもコストかかるPm2を導入する理由は何か、というと、Pm1と異なりAと結合することで、Pm2を導入しないでAを働かせるよりもPm2を導入してAを働かせた方がコスト的にまし、だからだ。

A1+Pm2 がAより小さいのだ。A1+Pm2<A

ここでA1は、Pm2導入に伴う労働力商品即ち労働者数の減少または、非職人レベルの賃金労働者、又はその両方だ。

この左辺と右辺Aとが同等になるには左辺にmを加算しなければならない。

 

Pm2は固定資産減耗費用だが、Pm2<A(労賃)でAを圧縮する。だから導入するのだが、

A1+Pm2+m=A

となるA1とmを発生したまま、Pm1からの目的変化物を等価交換で貨幣資本Gに戻せば剰余価値mは貨幣Gとして現れ、W段階ではPm1の変化物の物即ち商品として現れる。

だから

GーW[(Pm1+A=(A1+Pm2+m)]-G  

であり、Pm2のコストが低いほど、又は高くても性能が良いほどA1は小さくなりmは大きくなる。

尚、この表式だと、

マルクス主義経済学の最大の問題点、サービス労働は労働か、何も生産してないのに。

また、このことが、ソ連の崩壊の根源的欠陥システムの理論的裏付けであることが、未だに解明出来ておらず、論争がなおつづいている問題だ。

 

商業活動でも運輸活動でも説明できる。それは、W-G  を担っているということだ。製造業が資本主義化すれば、サービス業が同等に伸びないと製造業自体の回転が止まる。

 

サービス業でもW-G工程で、賃金を機械化に置き換えて剰余価値を捻出するから生産階級となり、納税も可能だ。が、商人1人で機械化なしにやれば、不生産階級の商人となる。

製造業だけではなく、製造業の発達は、資本化してまた製造で剰余mを得るために商業の発達が必要不可欠となる。生産後の商品を売って換金し、また原料、機械、人を金で雇わないと剰余がでないからだ。製造業で生み出された剰余は等価交換された当初のGに加算されるが、固定資産として蓄積し、要は更に機械化を進め、次回生産時のmを大きくする。

固定資産である機械の製造が、即ち生産材生産をマクロで描くには、再生産表式に頼っているが、ここも検証したい。

 

機械化は生産時間を短縮し回転率を上げて剰余額をあげることもできる。この回転率こそが、等価生産しかできない工業が農業に勝る剰余価値を生み出す原動力で、1回転での比較では農業の方が上である。一つの種から何倍のも種になるから。

このあたりは次以降に検討するが。

経済を考える8-3

WーW'変換を考察する。

貨幣資本Gは、生産資本Wに変換して商品資本W'にして、G'にする。

しかし、WーW'で価値が増殖するのだろうか?

 

GとW、G'と、W'とはマルクスは等価交換しているから

WとW'の間で価値が増殖していないと辻褄は合わない。が、サービス業は価値を実現する為の経費支出でしかなく、何も価値生産していないとするならば、マルクスのこの式では当てはまらない例外となり、しかも現代では、当てはまらない方が大きくなっていてこれが混迷の主因となっている。

例えば家政婦協会など、ほとんど人材派遣業に近く、これも規模を個人から会社組織にすると、固定資産である事務所や、機器などの小さくても資本形成ができる。Wは、労働力でしかなく何も増えてはいないのだ。

商業も個人で個店やってる範囲でも資本形成はできるが、また巨大資本になることもできるが、ここでも生産資本はPを経て商品資本にはなっていない。

何も製造はしてはいないから、産出商品が増えるのとは、また違うのではないか。資本主義は誰の目にもあきらかだが、GーWーW'-G'  は、資本主義の普遍的な表式にはなり得ない部分的な表式でしかないのではないか。

だから、ケネーの不生産階級が、生産階級になるプロセスの研究が大切だ。

とりあえず、製造業が資本蓄積する過程を見てみよう。

生産資本に貨幣を転換する場合、まず、原材料を動力エネルギーと機械を使って労働して生産する。

要は人の再生産費用と機械の固定資産減耗で、原材料を変化させた商品にする。商品の価値は

原材料、エネルギーをPm1

固定資産減耗を、Pm2

労働力をAとすると、

貨幣資本が生産資本に転換するとき、原材料とエネルギーは固定資産減耗と労働力の結合により、違う物質に変わるだけで、価値は増えも減りもしないで加工後の製品に移行するだけだ。だから製造業は

G-WーWーG  でしかないのでは?

例えば家具工場を考えよう。

原材料の木材を仕入れて、ノコギリや丸ノコ機で細かくして、カンナで削ってそれを更に部品にして、組み立てて、釘や接着剤の原料を付加してイスや机を作る。原料を多くして、労働者も多く雇えば、製品も多くできるから、高い売上としてGが回収される。がそれがなんだ、だ。もし、家具職人がほとんど自分の手と簡単な道具で全作業をやるという、職人生産が主流の生産市場であったとき、職人を一箇所に大量に集めて大工場としてやったら、何が変わるのだろうか、何も変わらないはずだ。通勤費が発生し、町工場が各地に必要なくなり、事務経費が節約されるだろうが。

ここに、機械を導入して、機械に労働の一部を肩代わりさせ、より多くの生産は可能になる。

例えば10日で100個のイスを100人の労働者が手作りでつくっていたものが、機械を導入して、1日で10人の労働者で機械化とエネルギーを原料にくわえて木材原料も多くして100個をつくれるようになったとするとどうだろう。10日で1000個を作れるようになる、だれが900個を増やしたのか、労働者なのか、だ。然も労働者は1/10に減っている。

Pmに固定資産減耗と原材料を合算したことでAと同列の価値としたことが間違いなのだ。マニュファクチュアレベルの発想だ。要はGがWになるときに、労働力を機械化で置き換えることで同じ生産力をローコストで得ることができ、それが市場がマニュファクチャ生産のコスト構造での価格でW'-G'が可能ならば、その差額が剰余価値をWに内在化させて生み出され、資本化するのだ。資本の発生はW内であり、製造後の商品からできるのではなく、機械化による労賃の削減に起因するのだ。

だから、GーW(Pm+A)、ではなく

GーW[Pm1+(Pm2+A)]ということになり、

Aが、A>固定資産減耗である機械化導入により置き換えられ、更に高速生産が可能になり、Aが極小化して、m(剰余価値)が発生する、これが資本になるのだ。もちろんA>固定資産減耗、で

Pm2+Aが可変資本なのだ。Pm2自体は減価償却上は不変資本ではあるが。

木材工場労働者は数多首になるが、固定資産の機械製造業労働者として雇用される。ここから先は、ケネーの経済表範式の応用編、マルクスの再生産表式、に発展するが。、

マルクスはマクロ的な視点を導入したものの、資本の運動自体の興味はさほど大きくはなく、この辺りで革命家マルクスの命は尽きたわけだ。

イギリスの産業革命直後の大工場を観察して資本論を書き上げたが、当時まだ主流だったマニュファクチャ、職人による不生産階級の実態から、意識はまだその分類の範囲を抜けきれなかった。

まさか労働者階級の職人生産から機械化生産の中での労賃の削減と節約の中に資本形成があるとは思いもよらず、労働者生産物からの収奪に根拠を求めたのは彼のヒューマニズムだったとしか思えない。

 

起用する労働者の節約が剰余価値、資本の源であるなら、サービス業の説明も可能になる。また、WーW'なる魔法も不要になる。

 

GーWーG  で、剰余価値はWに内在して生産されるのだ。これが正しい後継マルクス主義経済学だと思う。そしてGーWーGーWー…を繰り返しながら社会は格差を広げながら発展する。

W-GーW の労働者階級は生活費と豪奢な暮らしの為に働き、資本家階級は  GーWーG を組織編成してW段階での資本の増殖の為に働く、というわけだ。

 

 

 

 

 

経済を考える8-2

ロビンソンクルーソーの魚とりは、道具の高度化による生産性向上、即ち需要分の魚が取れる時間の短縮により彼の自由時間が拡大される。

彼の資源は個人的労働力のみなので労働時間減少が資本増加を促すからわかりやすい。

 

自由時間に道具を高度化するのに消費するか、自由な遊びで消費するかだが、前者は資本としての投資、後者は最終消費だ。

彼にとっての剰余価値は自由な労働時間の量とそこでの固定資産投資労働として現れる。

借りに、道具を高度化できたら、さらなる自由時間が後にえられるはずだ。彼の一人の暮らしには、交換に不可欠な貨幣は不要である。交換は時間と行動との交換だけだ。

 

たとえば、木の枝の先をナイフでささっと削って素潜りで魚とると、1時間で1匹の魚しかとれず1日で6匹の需要があった場合、6時間の労働でがんばったわけだが、やってられないので、

余剰時間で1時間かけて10日間で、タコ糸で漁網を作った。

網を使ってみたら1時間で3匹とれるようになった。

網が原前払い、固定資産になったわけだ。

 

彼の魚とり労働時間は、6時間から2時間に削減できたわけだ。とすると、漁網漁では、補修作業時間を無視すると、木の枝のモリでの素潜り漁の1時間で1匹から、投網漁で3匹なら、かれの労働価値は時給1匹が、時給3匹になるのだが、漁網という道具と組合わせて3匹だから、労働時間が半減したのは、漁網のおかげであり、彼の過去労働の影響だが、10日で漁網を作り直さねばならないとすると、1日で10×1/10で1労働時間の減価償却資産とともに作った成果だ。

したがって6時間労働で6匹が3時間労働で6匹になったわけだ。ここでかれの時間当たりの労働は同じ価値か、ということだ。過去労働のおかげで、3時間の剰余がでたわけだ。素潜り労働と投網労働の各々の1時間の労働は同一人がやっているが、価値が違わないと変だ。

6時間の素潜り漁労働=3時間の投網漁労働

同じ人の労働時間が異なるというのは、労働の価値が同一ではない、と見なければ辻褄が合わない。

素潜り漁労働は、投網漁労働の3/6=50%の価値しかない、ということだ。

 

ロビンソンでは、自分の過去労働だが、ケネーでは、長い農本社会の歴史ではもうすでに亡くなった祖先の労働成果物であったはずだ。この上に現在労働による余剰生産物や剰余価値生産物がある。

 

したがって、投網漁労働と投網製造の過去労働蓄積の現固定資産減耗が投網漁の原動力である。

 

では少し話を変えて、たこ糸から網を作って、市場で漁網を販売する製造業を考えてみよう。

糸は製糸業者から買入、漁網を職人のハンドメイドで完成させた場合と、パート雇用で、製造機械で完成させた場合の差は何か、ということだが、漁網を作っている原価は、誰のものが主かと言えば、現在労働者の労働で機械の過去労働の償却と、機械のエネルギー源の消費量や保守メンテナンス料だ。この場合の労働賃金は、単位時間当たりでは、同一ではない。たとえ、職人だと10時間、パートだと30分だとしても。

要は、労働が、固定資産の減耗や動力エネルギーに置き換えられると労働力の価値が下がる、ということだ。しかも、労働価値は、生産力が上がると、たとえば6時間の投網漁だと18匹取れるようになり、賃金は、1/2に下げても魚が9匹買えるわけ。

要は生産力が上がると、労賃を下げても労働力は再生産できるから、下げた労賃分が剰余価値生産となってきて、これが資本化するのではないか。

ただし、生産力の増加は、需要で止まるし、資本蓄積も率で低下する。機械化後は換金できないので恐慌の引き金を引く。

 

初めにGがあり、原料部分と固定資産減耗は生産後のGに移行する不変資本である。あとは、労賃と剰余が移行して、当初のGと交換できれば剰余価値はえられるのではないか。

交換は、尺度でしかないから、等価交換を前提にする。不等価の交換もあるし、これは強制的交換であり、長続きはしない。

マルクスは生産工程を入れて不等価交換を混ぜ込んだが、肝は生産工程の解析にあるのではないか。

生産工程で説明すると、非生産部門やサービス部門での資本形成が説明できないので、製造業労働者の理論に矮小化される弱点をもつ。

 

あとで修正する部分多いが投稿する。

 

WーW'工程の深掘りが必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

経済を考える8

いよいよ、本題?にせまりたい。

マルクス資本論の主要命題  (記号の定義は後述)

 

GーW(Pm+A)…p…W'ーG'    

 

即ち、GーWーG'   説に対置して

名付けてGーW-G仮説を8シリーズでは検討してみたい。

 

労働者は、労働力商品Wを賃金G貨幣と交換して、生産活動に参加し、得た賃金Gで生産消費材商品Wと交換して生活、再生産する。

W-GーW  

が労働者階級の図式で、蓄積即ち資本化できる剰余生産ができない働き蜂的な階級。

   現代でも消費を抑えれば貯金はできるが、それもいざの蓄え、老後の蓄え、豊かさ先送りの消費資金でしかない。貨幣が資本化するには、生産活動に資金投下しなければならないから、あと送り消費可能労働者階級でしかない。

 

 一方で資本家は、

GーW-G

貨幣資本を労働力商品含む商品に交換で変え、生産活動させて拡大貨幣資本にもどす。

しかしこれでは価値が増えないので、この交換ではあえて交換の王者的存在の貨幣を資本化するリスクをとる意味がない。だから

GーW-G′   

であることが必要。として貨幣増殖即ち資本の増殖としてマルクスは展開する。

資本としての貨幣Gを等価の商品資本と交換する、即ち不変資本Pmと可変資本Aとに交換入手して生産活動PをさせてW′なる増殖した生産後商品を得てG′価値増殖した商品を等価の貨幣資本に変える。

ここで、Aは労賃、Pmは、原材料と施設や機械等の固定資産減耗。

等価交換で、資本は形を変える。

生産工程で労働により価値が増殖される、というもの。したがって増殖は労働によって得られ、労働者階級に帰属するものと考えている。

マルクス主義経済学の根幹部分だ。

そして交換自体は価値を増やしも減らしもしないというものだ。

G-WーW'-G'

より細かく正確に表現すると、

GーW(Pm+A)…p…W′ーG′    

Pは生産工程。 

価値の増加は生産工程で作られ、交換は常に等価交換、労賃以上の生産をさせる生産工程で、生産工程前の価値が生産活動を通じて商品として現れるから商品資本として増え、その後の貨幣資本が増え、剰余価値が資本家所有所有の貨幣資本になる、というもの。

 

ケネーの範式での生産階級は、30のインプットで50のアウトプットを得る。これをマルクス資本論に当てはめると、不変資本Pmを10+5、可変資本Aを15とすると、というのは、原前払い100、の年間償却が10で、年前払い20が、種子や年間消耗する資材の原材料、と農民の食糧即ち賃金にあたる、の合計が表現されているので、それを便宜的に原材料5、と食糧15に分けてみた。Pmは10+5で15、Aも15になるわけ。

30Gー30W(15Pm+15A)…50W'-50G'

となる。30Gが、生産活動で50Gになるわけだ。

今のが剰余価値を生む生産階級だが、ちなみに不生産階級はどうなるのだろう。

10Gー10W(10Pm+10A)…[(20W'ー10A)=10W']ー10G'

になるのではないか。剰余価値分の生産増はA即ち食糧=賃金に吸収されて貨幣資本は生まれない。これは、資本家のいない生活するだけの為の自営業者的な単純再生産社会であり、没落して資本生産参加する労働者階級になるか、生産性上げて資本主義化して剰余即ち資本を生み出す資本家になるかの分岐点の幅の中に存在する将来分岐する前段階階級であると思う。現代では、社長も雇われ経営者で高級労働者でしかない。

 

話を進めると、たしかにPm+Aが生産過程に入る条件で、ここで剰余価値='  が生まれると、これまで触れて来なかった、ケネーの経済表範式ではない、もう一方のジグザグ表と呼ばれる「経済表」の意味が見えて来る。

余剰生産物が資本化して、それ自体が自己運動できて、半分の?資本を生み、またその運動が更に半分の資本を生みという現代の乗数理論そのものだ。

ケネーのジグザグで単純な図の意味が300年前の当時は本人の残されたメモとしてあり、誰もわからなかったが、100年程前のケインズの乗数理論そのものだったことがわかったようだ。資本とは何かを最も初めに理解していたケネーは天才であるが、その思考方法を理解できれば深い経済知識がえられるはずだ。

余談だが、ケネーは宮廷医になる前の学生時代、まずしくて40km?の彼方の図書館に通って何冊かの本を借り、読みながら帰ると全部読み終わって理解した、との逸話もある。好きなことは苦痛にならないようだ。

また脱線したが、要は剰余価値生産が貨幣であろうと現物であろうと、単純な消費で経済循環から外れずに、経済循環に資本化されとどまる。したがって資本の生産活動がどうなされるかを解明しなければならない。マルクスの図式に問題はないのだろうかをケネーの視点で分析したいが、直感では

GーWーG仮説だ。

資本主義の剰余(資本の前段階)を生み出すスタートは労働だが、労働だけなら単純再生産を繰り返すだけ。ロビンソンクルーソーがいくら頑張って熟練しても、手作りのモリすらなければ消費生活を繰り返すだけ。余剰時間でモリや網を生産できなければ、船を生産しなければ、魚群探知機を生産できなければ余剰時間がより多く生まれない。資本は余剰生産物が生まれて初めて形成されるし、その形成は原前払い、が拡大生産する資本を増殖する。

即ち、償却する有効な固定資産形成が資本の現象形態である。蓄積労働でもある。蓄積労働は、労働力商品そのものに分類統合され、Pmのうちの原材料とは区別されるべきではないか、が8-2での検討課題だ。