唯物史観

           

  • 「資本主義の発生、成長、停滞と衰退、そして衰退後(=ポスト資本主義) の世界」を考察し予測してみる。

 経済史を「経済システムの弁証法的進化の過程」と捉え、マルクスの「唯物史観」を再構築し修正して、新たな「唯物史観」を自然科学的、社会学的視点に立脚して導き、これを演繹させて「弁証法的進化による論理的な到達点」として予測しうる範囲での「ポスト資本主義」世界を推論してみることにした。

 

【目次】

 

  •  「獲得経済」から「生産経済」への転換移行
  •  「生産経済」の成長拡大と「交換経済」の発生
  •  「交換経済」と「貨幣経済」の関係性
  •  「貨幣の進化史」
  •  「交換経済」での「商人」の「貨幣の生産蓄積」
  •  「生産経済」の生産力飽和と「獲得経済的」転換
  •  「国際交換経済」の発展拡大と「宗教戦争」史
  •  「戦争国体」化による貨幣不足と「信用紙幣」化
  •  「英国史」に見る「資本主義化」転換の経緯
  •  「信用貨幣」による「国際交換経済」の拡大
  •  「産業革命型(信用)金融資本主義」誕生の経緯
  •   綿織物「産業革命型資本主義生産」開始の経緯
  •  「信用紙幣発行」による「金融資本国」化
  •   英国資本主義のグローバル拡散
  •  「信用紙幣発行」による「金融資本国」化
  •  「産業革命型信用金融資本主義」構造の「範式」化
  •  「資本主義」の衰退、停滞とポスト資本主義世界

 

 

  •  「獲得経済」から「生産経済」への転換移行

 

・人類がこの世に誕生してから約700万年間は、自然が産出してくれる人類にとっての(主として大型動物の)「食糧資源」を「群れ(共同体)」で狩猟して食糧消費することで生存を維持し、不足すると再び移動を繰り返す (「狩猟、採集、漁労」依存での)「獲得経済」に一元的に依存して、世界的な広域拡散をも実現していた。

しかし、今から約1万年前、長く続いた地球の氷期が終了して温暖化継続したことで、地球の「植相」環境が一変し、人類にとって直接摂取も可能な「大型種子植物(麦や米の原種)」の「群生地」が誕生したことで、これまでの「獲得経済」への一元的依存は「穀物食糧資源」を「人為的に産出増」する(農業)「生産経済」依存への移行転換が可能になった。

・ただし、この新たに登場した「生産経済」は、人為的に産出増できる「余剰生産(穀物食糧)」の支配獲得抗争を共同体内で発生させ、その占有支配に成功した「支配階級」と、余剰生産することでのみ生存を許される「生産階級」とに「共同体」を「階級分裂」させて「(階級制)生産経済」に移行転換して安定的な定住定着化を実現でき、「大型種子植物の生育可能域」全域に広域拡散することが可能になった。

・「階級制生産経済」は、これまで全世界に拡散していた「獲得経済」共同体の「広域テリトリー」の一角(群生地)に定住して占有支配するので、「経済共同体」間での「大型種子の群生地」の占有支配を巡る「経済圏間」抗争をもたらしたが、人為的生産による穀物食糧を余剰産出できる「階級制生産経済」が、その経済的優位性によって占有支配を維持でき、その結果として「獲得経済」は、自らのテリトリーを「抗争圏外にシフト」するか、抗争圏外で新たな「大型種子植物」の群生地を発見して自ら「生産経済に転換」するか、の選択が迫られ、紆余曲折はありながらもその繰り返しの果てに、「生産経済」転換不能な地域へのテリトリーの移動を迫られた。

・こうして、これまで全世界を覆ってきた「獲得経済」は(まだ地球上に残されていた、寒冷地、乾燥地、海岸や山岳地、森林地帯等)のような「農業不能域や不適域」への移動を迫られたが「階級制生産経済」は「農業生産不能域や不適域」にまで領域拡散できないので、「獲得経済」は「農業不能域又は不適領域」を争うことなく占有支配継続できてここで生き残ることができ、両「経済圏」間の抗争はここにきて一段落し、各々の適地で各々の「経済圏」を住み分ける「平和共存」時代が訪れた。

・ただし「獲得経済」の食糧資源獲得は不安定なので、飢餓が訪れると、狩猟道具を武器として「生産経済圏」に攻め込んで収穫穀物を略奪し、更には支配階級を排除して自らが支配階級となることも度々発生してはいた。

西欧は海流によってやや温暖で「生産経済」適地であったが「獲得経済圏」との境界が「海峡」で分断されていたことで(中国等とは異なり)その脅威の影響は少なくて済み、生産経済を発展させることができていた。

また、氷期終了で氷結が溶け、海面が140mほど上昇したことで「米大陸」や「オセアニア大陸」はユーラシア大陸から分離され、この地域に関しての「経済圏間抗争」は大航海時代後にまで持ち越されることになったが。

 

  •  「生産経済」の成長拡大と「交換経済」の発生

 

・西欧では比較的に平和が持続し、海流の影響を受けて比較的温暖だったことで「階級制生産経済」は定着して成長でき、「(開墾継続による)耕作面積の拡大」や「(三圃制や鉄製農具の発明等による)農業技術の進化」によって「生産力」が急増し、「生産階級と支配階級」の合計人口の自家消費分を超える「余剰生産」食糧 (以下「残所得」と呼ぶ)を持続的に産出できる生産力水準に達することができ、この「残所得」分を既存の「(支配、生産)両経済主体」では消費しきれないので、階級人口増をそれぞれでもたらしつつも、「生産階級」からの分業的生産としての「生産と交換」を担う(「経済主体」として)「商工階級」人口を発生、成長させて (「職人」による「非食糧消費財の生産」と「商人」による各「経済主体」間での「交換」)とによって (生産、支配の) 両階級の「残所得」と「職人生産物」との商人による「交換」を実現することで有効消費増が得られ、かつ、同時に交換により「商工階級」にも「残所得」を交換獲得させて(「残所得」分の消費による生存と再生産) としての有効消費が実現し、相互に経済的発展が得られた。

・「残所得」で「商工階級人口」を形成する「階級制生産経済」に進化して、「残所得」生産増による「商工階級」人口増として「階級制生産経済」国体に「交換経済」領域を拡大し続けて「有効消費」増を継続的に実現できることで、本来なら「自家消費目的の食糧生産増」は停滞して生産調整することになるはずだが、「生産増」の目的を「自家消費」から「交換目的」に移行転換することで、「残所得」生産増を経済成長のエンジンとして生産拡大し続ける「階級制生産経済」国体に進化させたことで経済発展が持続して、その中での「交換経済」領域が量的に拡大し続けて、国体を質的に「交換経済」化転換させていった。

・こうして「残所得」発生後は、「支配階級」「生産階級」に新たな「経済主体」としての「商工階級」を形成増し続けることで有効消費増が得られ、経済成長を持続できる「(3階級構成での)階級制生産経済」に進化した。

「残所得」の発生後は「交換経済」領域を拡大し続けるので「階級制生産経済」のそれ以降の生産増目的が「自家消費目的」から「交換増目的」に転換し(「交換経済」領域は「商人による貨幣使用での間接的物々交換」に依存して交換が実現できる交換法則の制約を受けるので)「貨幣経済」化転換して、まず「貨幣」を(商人から)「交換獲得」して、その「貨幣」で「需要物、欠乏物」を交換獲得して有効消費できることになるので、「貨幣」を(交換で)獲得する為の生産増(=実質的な貨幣生産)に本質的に移行して「階級制生産経済」を拡大し続け、内実、実体は「交換経済=貨幣経済」領域を「階級制生産経済」国体内で拡大し続けた。

「商人」による「貨幣経済化」領域を「生産経済」国体内で量的拡大し続けたわけである。

・また穀物食糧の余剰所得としての「残所得」は、国外でしか生産、産出できない「特産物」や、国内生産では不足する「原料資源」のような「需要物、欠乏物」を「国際交易」によって獲得することも可能になるので、その分の「国内職人増」を抑制してしまうことにはなるが、必ずしも国内「職人生産」だけに依存せずとも「商人」さえいれば「残所得」と「国外産出物」とを交換して有効消費することも可能で、その意味で「交換経済」領域での主役は「商人」、といえることになる。

・「残所得」発生後の初期段階(=国内交換市場が未発達)では、例えば「隊商」による陸路での「遍歴商人」や「交易船」での国内外の往復による「残所得」と「欠乏物」との交換による有効消費化も実現していたこともあり、「商人」さえも「国外商人」に完全依存できたが、「残所得」増により、国内「商工階級」を「経済主体」形成できるようになると、国内で「職人工房」による持続的な需要物の「生産」と「城下町市場」での「商人」による貨幣使用での持続的「交換」による有効消費増が実現定着できて「国内交換経済」領域の自主的な成長拡大が進むが、ここでも「商人」が「交換経済」の主役として市場を(「貨幣」で機能させて)「職人」に(「支配」「生産」「商人」)の「欠乏物」を生産させ、相互に交換獲得して有効消費増できるので、「国内交換経済」の主役も「商人」が主役、ということになる。

 「交換経済」は経済発展のエンジンとなっていった。

・話しは変わり(「地政学」上で)ユーラシア大陸北西端に位置していたやや温暖な西欧は(中国等とは異なり)「階級制生産経済」圏(欧州大陸圏)と「獲得経済」圏(北欧)とが海峡を隔てて住み分けしていた為、海峡が障害となり「獲得経済圏」から「生産経済圏」への略奪や侵略支配は少なくて済み軍事的な財政支出もないままで「生産経済」が定着でき順調に拡大進化でき、国内「交換経済」領域の拡大に留まらず、「生産経済圏」の港湾地域に(生産経済の「支配階級」の直接的支配を免れた「国際交易商人」を自治圏内での「国際交易商人」を実質的な支配階級とする)「国際的商業自治都市」が誕生して、大量輸送可能な船舶を使用する「(国際的経済圏間)交易」が営まれ、成長拡大したことで、北欧の「獲得経済圏」は「略奪や侵略支配」に依存せずとも、交易による「有効消費」が実現できたことで更に共存共栄でき、戦争による消耗や被害をお互い免れて「国際交換経済の拡大」が実現し、同時に「国際商人」に(「交易利得」として国際商人に)「貨幣蓄積」増をもたらして、これによって国際的交換経済拡大も実現継続させることができた。

 「階級制生産経済」での「残所得」生産増の継続は、各階級(経済主体)での有効消費の拡大による経済的発展と同時に、交換経済での「商人」、特に自治権のある「国際商人」への交換時での「所有権移転」を「貨幣形態」でもたらし「国際商人」の「貨幣蓄積(=生産)増」に帰結させ、それにより「国際交易」を拡大再生産した。

 資本主義生産での本源的蓄積は、マニュファクチュア生産とかではなく、「国際商人」の「貨幣蓄積(=生産)」であり、これを交換媒体として使用するだけではなく、担保として貨幣不足による貨幣需要の高まりの中で「信用貨幣」の有利子発行を実現でき、これが産業革命型の機械動力化工場生産としての「擬制金融資本主義生産」を可能にした、のである。スタートから「金融資本主義」での国際市場の拡大対応用の「擬制資本」に依存した「生産様式の最適化」でしかない、というこ。話を戻す。

・この西欧、北欧間での「(国際経済圏間)交易」とは、

「生産経済圏」には(程度の差はあれ)国内に「商工階級」人口形成できる「余剰穀物」としての「残所得」があり、「獲得経済圏」では、そもそもの安定食糧としての「穀物」生産ができない為にその「欠乏、需要」があり、商工階級人口形成もできずに経済発展も遅れたが、その一方で「寒冷地、沿岸、森林、山岳地」特有の「特産物」や「余剰資源」(=毛皮、革、干し魚、木材、鉱物資源、等)」には恵まれ、かつ「生産経済圏」にはその「欠乏と需要」があったことで、両経済圏での「残所得」と「余剰資源」との「物々交換」による「相互所得移転」ができれば、相互に「欠乏物」を交換獲得できて有効消費増できるので、「(経済圏間)交易」は発展拡大し、同時に交換に際して「交換物」から(「商人経費+α」を)部分的に所得移転できて「自治都市国際商人」には「商業利得」を(国際交換では金銀等の「金属実貨幣」での物々交換が原則なので)「貨幣蓄積増(=生産増)」もたらし、その富で「国際交易」拡大も実現し続けていった。

・また「階級制生産経済」の世界的広域拡散によって、遠隔地の「生産経済」間での地域偏差による「特産物等」の交易交換(=香辛料、絹織物等)も、複数の「国際市場」を「中継」経由しながら「(東西)遠隔地間交易」として発生成長し、それを「(経済圏間)交易」ともリンク(穀物食糧⇔木材金属資源⇔香辛料や絹織物)させて「国際交換経済」領域を拡大し、やはりここでも「国際商人」に「貨幣蓄積増」をもたらして「蓄積貨幣」による「国際交易拡大」をももたらした。

・まとめると「階級制生産経済」で「農業生産」が生産力増して自給自足でき、更に「残所得」が発生すると、この分の「交換経済」領域、即ち「貨幣経済領域」を発生拡大できて、「残所得」増を(生産調整することなく)「交換経済」増に振り替えて、「交換経済」領域を拡大し続けて「有効消費増」を実現し、同時に「商人の貨幣使用」による「物々交換」で「貨幣経済化」を拡大して「商人」に(交換物からの所得移転による)「貨幣(蓄積)増」をもたらして「交換経済(=貨幣経済)」領域を拡大し続ける循環が実現した。

・こうして農業生産力拡大は、自家消費分を超えると生産目的を「自家消費目的」から「交換目的」即ち「貨幣獲得目的」に切り替えて「貨幣生産」目的とした農業生産増を継続させ「貨幣交換目的生産」の割合が量的に拡大して逆転するまでになると、「階級制生産経済」国体に弁証法的な質的転換をもたらして、実質的な「(階級制)交換経済」国体(=「貨幣経済」国体)に変質転換する。

・「階級制生産経済」は「階級制(交換目的)生産経済」に移行して「商人による貨幣経済支配」社会に移行する。

しかし、農業生産力増の継続が貨幣獲得目的化したことで、「国内農地増」が飽和して不足しだすと「残所得増」が飽和限界に到達して「交換経済」領域の拡大も停滞して経済発展が止まり、進化し発展し続けた「階級制生産経済」もいよいよその役割を終えて非自立型の「獲得経済的変質化」を既存国体に求める本質的転換が迫られた。

それは「国外農地の略奪的獲得」や「交換経済国体化転換(による交易用特産物や資源の産出生産)」か、その両方か、への既存国体の根源的転換需要を発生させ、優れていて進化していた「階級制生産経済」国体も、所詮は有限世界で永遠不滅ではなく衰退死滅しはじめる「弁証法唯物論」に支配され、約一万年弱、支配的な地位を占めた「階級制生産経済」国体社会も「貨幣経済」を土台とした(「獲得経済型」の)「交換経済」社会へ移行し、交換経済用の「非残所得」生産部門での最適化生産様式として、貨幣の進化形態としての(擬制=信用貨幣による)「金融資本主義」経済社会がこの世に誕生した。

・この移行転換後、まだたった250年しか経っていないが世に言われ定義が不鮮明な「資本主義社会」が登場した。この(擬制)「金融資本主義」経済も永遠不滅などではなく「階級制生産経済」の衰退死滅と同様に、いずれ弁証法的にその役割を終えて衰退し死滅する運命をたどることになるはずである。

それは「社会科学」という名の階級闘争としての「宗教的哲学」の普及の結果、としてではなくリンゴが熟れて木から落ちるように経済活動での最適化を求めた結果として、自然科学的、社会学的な「弁証法的」な進化を観察することになるだろう。段階的であり、程度の低い意識改革を無理に進めると、既存の旧社会主義国のような逆効果による遅れをもたらすだけである。

その為に、次章以降で「交換経済」と「貨幣」について徹底解明して、それを共有してから「ポスト資本主義」世界の考察に進むことにする。

 

 

・「交換経済」とは、自家消費分を超える「余剰生産(所得)物」所有者間での「欠乏物」獲得による有効消費の実現を目的とした「所有権の相互移転」としての「物々交換」に依存した経済制度を指す。

以下「物々交換」の交換原理を共有しておくことにする。

・「物々交換」では、「交換物」どうしでの「(W1-W2)の直接交換」ができればよいのだが、異種で量的にも異なる交換物間「W1⇔W2」の「直接的物々交換」には「欲望の偶然の二重の一致」が必要になるので、それぞれの欠乏物同士をそれぞれの「余剰物」同士で丁度埋め合わせられるような「幸運な偶然の一致」が「交換市場」内での異なる「交換物」間で起きでもしない限り、「交換物」同士の「直接的物々交換」は実現し得ない。

・例えばAが持ち込んだX量の「交換物」が、Bの持ち込んだY量の「Aにとって同等価値の欠乏交換物」であり、かつ、Bの持ち込んだY量の「交換物」がAの持ち込んだX量の「Bにとって同等価値の欠乏交換物」として過不足なく一致して「直接交換」ができる、などということは現実の「交換市場」では起こり得ない。

・交換後の消費による再生産を保証する為には、Aの欠乏物がBだけ、とはならずC、Dに跨る交換も必要となる。

「交換市場」が存在して余剰の「交換物」が数多市場に持ち込まれたとしても「貨幣」との直接交換ができない (=価値量を示す共通交換価値物(=貨幣)との交換ができない)、又は貨幣(機能)を自ら発揮できない「交換物」しか市場に登場していのであれば「物々交換」は成立せず「交換市場」が存在しなかったと同じ結果になる。

市場に交換物があれば物々交換ができる、というわけではない。「直接交換」は(「貨幣」と「交換物」」間の交換としてのみ成立できる。

・勿論、大昔、交換の継続性のない偶然得られた余剰物の「譲渡」や「互酬」、「善意の発露」や「相互扶助」としての「生活慣習的文化」に伴う「相互譲渡」等の再生産性の保証を求めない不等価交換を是認する形での「所有権の相互移転行為」としての直接的「物々交換」(W1-W2)、が全くなかったとはいえないが。

・例えば「果実」と「豚」とを交換しようとすると、何個と何匹の交換となるか、の交換価値尺度問題が生じて、交換価値尺度が求められる。この場合、果実何個が豚一頭になるのかが問題となり、再生産労働の為に必要な交換価値に内在する「抽象的的人間労働力」を反映するが、果実は季節品であり、これをこの市場で売り尽くしたい、その為には「貨幣」と交換することで、その後にその貨幣で肉を少しずつ買い続けて有効消費する、という(貨幣に蓄積機能を与えた)時間差交換が求められる。

即時物々交換だけでなく、貨幣に交換価値尺度機能と貨幣形態での蓄積機能が求められ、それは貨幣による「貸し借り」の発生証明の機能を意味するが、時間差交換対応させる為に(蓄積機能を求めて)「金属商品貨幣G」に貨幣を収斂させ、交換市場を時間差分拡大して市場継続させ、その拡大と共に「金属貨幣」を不足させるので、「金属貨幣」を「借用書」で代行する「貨幣の進化」をもたらす。これにより交換市場の停滞、抑制化を打破でき、「信用貨幣」(=負債証明書)時代に進化させて現代にいたった。話を戻すと、

・「間接的物々交換」による「交換物1-貨幣」(W1-G)と「貨幣-交換物2」(G-W2)の二段階での「(貨幣と交換物)との直接物々交換」=「(W1-G)→(G-W2)」によって、 (W1-W2)の「直接交換」がさも実現したかのように迂回的に実現するので「交換経済(物々交換経済)」には「貨幣」(又は貨幣機能代行交換物)の存在が初めから必須となっていたことになる。「交換経済」とは「貨幣経済」そのものであり、たまたま当初は「(専用)貨幣G」のない「物品貨幣G’」段階で代行していただけにすぎない。

 「貨幣(又は貨幣代行物)」が「交換経済」での「物々交換」を実行した、即ち貨幣自体が交換市場なのである。

・「貨幣」は「交換価値(尺度)を自ら体現できる実体価値物」としての交換価値物(の一つ)として市場に現れ、交換市場としての(W1-G)交換を機能させて、後半の「貨幣-交換物2」(G-W2)にたどり着いて物々交換を完了する。

貨幣のなかった時代には、貨幣代行可能な「交換物」現物を価値尺度表現の可能な「物品貨幣G’」として扱い(W→G’)、その後に後半の「(G’)-(W2)」交換を実現して(G’→W1)に戻して、即ち貨幣機能を放棄させた現物として「物品貨幣G’=W1」として(W1-W2)交換として有効消費する=市場が終了してしまう、のである。

・専門の「商人」による「貨幣G」使用での交換の場合は、

「交換物W1所有者」と「貨幣G所有商人」との直接交換による「(W1-G)」によって「商人のW1所有者化」と、「交換物W1所有者の貨幣G所有者化」が実現し、次に「貨幣所有者となった元W1所有者」による(G-W2)が実現できて、(W1-G-W2)として、あたかも(W1-W2)の直接物々交換が実現したかのように実現し、この「W2所有者」となれた「元交換物W1所有者」は、交換目的を達成し終わり、市場から退出して、W2を有効消費しつつW1その消費過程で再びW1を再生産する消費生産過程に入る。

・次に新たに「貨幣G所有者」となった「元W2所有者」 

 は「商人所有のW1」との直接交換が可能となり(G-W1)交換ができ(W2-G-W1)によって(W2-W1)交換が実現し同様に市場から退出してW1を有効消費しつつW2を再生産する。

 「商人」は「W1所有者」から再び「貨幣G所有者」となり、交換は期末となり期首ともなる。

結果としては、交換希望者の(W1-G-W2)と(W2-G-W1)と商人の「G-(W1-W2)-G」とが実現することで交換希望者の(W1-W2)と(W2-W1)とが実現する。

これが(物々交換)市場の内実である。ただし商人は(G-W-G)で、交換希望者の希望だけしかこの表式では実現しておらず、「商人の希望、目的」としての (G→W→G’)又は「(G-⊿G’) →W→G」又は両方、での「貨幣蓄積(=生産)増」の仕組みにここでは触れていないので、この後の章で詳細に解明する。

・「商工階級」の発生と定着によって「交換経済」領域形成できる段階になると、市場発生ごとに現れては消滅して消費する非常勤的な「物品貨幣G’」の段階から、市場が継続定着して拡大する常勤的な「金属商品貨幣G」への進化を遂げることができる。

 この貨幣の進化は、「物品貨幣G’」による即時交換から、一旦 (W1-G) での「貨幣G」段階で止めることを可能にし、その後に (G-W2)を実現して、非即時交換による交換市場の継続拡大を実現する。

(G-W2)を担保する貨幣蓄積段階の継続性を担保する貨幣の進化をもたらす。

 ・「交換市場」では「商人(又は商人機能代行者)」による「(貨幣G)が交換物として持ち込まれ(又は貨幣代行物としての適性を備えた「物品貨幣G’」が交換物の中から選びだされて)」「(W1-G)直接交換」、か 「(W1→G’)選定が先に行われて貨幣を代行できた場合にのみ、目的「欠乏物W2」の即時交換獲得(G-W2)を実現して「(W1→G’)-W2)」として(G’→ W1)として(W1-W2)直接交換できたかのように実現する。

「貨幣の交換獲得(又は貨幣代行物の選定)」での「貨幣との交換」によってのみ「物々交換」は実現成立できる。

・この交換方式は「経済主体」としての「商工階級」が形成される進化により、「商人」によって専門的な「貨幣G」交換物の持込によって「G-W-G」が実現して各「経済主体」の再生産と存続の為に、等価交換性を担保した交換を実現し「生産交換循環」の継続(=商工階級の再生産継続)に必須な交換形態を実現できる。

  「貨幣」は、昔からのその場凌ぎの臨時貨幣「物品貨幣G’」の段階から、専任貨幣としての「金属商品貨幣G」に収斂させ、進化させた。

  「貨幣の進化」が「物々交換市場」を規定し、貨幣のない「交換市場」は交換ができずに機能せず、交換市場の交換範囲や交換速度は「貨幣の進化」に規定されるので「貨幣」は「交換市場」の実体そのもの、といえる。

 ・「金属貨幣G」に収斂させて恒常的貨幣とすることで、「(W1-G)→(G-W2)」での二段階分離での直接交換を実現して(=蓄蔵手段として)交換市場の継続性を実現したことで、交換市場を拡大するだけでなく、貨幣の有効消費化を奪い(=交換市場に残り続けて交換市場を実質常設化することになり、専用貨幣価値物Gに有効消費化が訪れるのは(=鋳つぶして貴金属装飾品や食器として有効消費できるようになるのは)交換市場が廃業閉鎖する場合に限定されて訪れ、有効消費化が初めて可能となる。

・「交換経済」では、有効消費増目的の為に、貨幣との交換獲得目的での自己目的化した「余剰交換物の生産増」が行われ、その生産増分の交換(W1-G)需要の為に、或いは「蓄蔵貨幣」段階分で、市場での貨幣が (G-W2)でのGで不足して貨幣不足を生じるので、その合計分の「貨幣」需要が発生する。

「交換経済」領域拡大の局面では、(広域拡大した「階級制生産経済」全般での「残所得」生産力の高まり)交換経済の拡大に帰結することで生産力増が継続し続けるので、「貨幣G」不足に悩まされ続け「貨幣」という交換市場が閉鎖消滅でもしない限り、有効消費できもしない生産物を生産増継続しなければならず、「商品貨幣G」そのものに進化が求められていた。

有効消費不能な生産物生産に貴重な生産力を奪われることになるから、であるが、かといってそれを拒めば交換市場の拡大を抑制してしまうので、必要悪を受け入れた。

・以上から「貨幣」と「交換市場」との関係は「交換市場がまず先にあって」その後に「便利な交換道具として貨幣が登場」して便利になり交換を加速した、という前後関係ではなく、「交換経済」は「物々交換」での交換原理によって、「貨幣機能」の存在による直接交換ができて市場がはじめて機能する、できる、ので同時発生していたが、当初は貨幣のまま残ることのない(=後世で貨幣として発見されるはずのない)有効消費されてしまう「物品貨幣G’」依存ではじまったことで、有効消費されず二段階直接交換で前半で蓄積残存した「金属製商品貨幣G)」段階が可能なように貨幣進化を遂げたことで「歴史的な最古の蓄積貨幣段階としての鋳貨の発掘発見」が可能になり発見されたにすぎない、ということである。

・「交換市場」では、その開始から既に「貨幣代行交換物」があった時にのみ「物々交換」が成立した、ということであり、「物々交換」が「間接的物々交換」としてしか、即ち「貨幣との交換」又は「貨幣に依る交換」でしか「直接的物々交換」には到達し得ない、という交換原理による。

・しかし、市場での交換需要の飽和限界に「階級制生産経済」での「残所得」生産力が到達してしまうと (交換経済需要をも飽和させてしまうと)過剰生産状態に移行して「貨幣」と交換のできない生産継続となって、生産調整を余儀なくされる。(既に貨幣との交換目的生産に移行していたので)

あえて生産継続して貨幣を交換獲得したいのなら「交換市場」を拡大して需要増させる、しか方法はない。

・同時にそれは生産側での生産拡大ができなくなる等の生産限界を迎えてしまうと(開墾農地の不足による生産飽和等)、今度は生産拡大の為に「農地用領土」を「国外から獲得」しようと「獲得経済状態化」転換する。

それは工業製品を資本主義的に生産する場合でも全く同じで「原料資源」や機械生産化の為の「金属資源」や「動力資源」「労働力資源」の国内生産限界による不足分の「国外からの獲得」増が必要で、「資源と市場」を求めて「獲得経済状態化」転換しようとする。

・市場での「需要規模」も、生産での「資源」供給も有限なので、無限に拡大し続けることはできず、いずれ世界単一のグローバル交換市場化すると、最終到達点を迎えて、到達後は生産増を停止して生産調整、又は縮小せざるを得なくなる。

需要も供給もその時々で有限であり、「国際交換市場」の拡大が飽和して需要拡大できなくなれば、生産側での「生産調整」を余儀なくされる時代は必ず訪れ、資本主義生産であっても、過剰生産化に怯えることになる。

・「交換経済」化、とは「非自家用消費物」の「交換目的での生産増社会」=「商品」生産増社会 =「貨幣獲得」目的での生産増社会、に移行することを意味し、「生産経済」で自家消費分を超えた生産力が得られると、それ以降の生産増分の全てが「交換経済」に移行してその領域を拡大し続け「交換経済依存での生産が拡大」するだけなので(=単一経済主体の社会で全く必要のなかった)「交換経済での物々交換の為」の「貨幣生産、貨幣の交換獲得を目的」とした「貨幣生産」社会に移行することになる。「交換経済化」とは「貨幣経済化」である。

 

  •  「貨幣の進化史」

 

・「第一段階」は、「生産経済」体制の中で、自然発生的、非目的的な生産余剰物を「欠乏物」と「物々交換」して有効消費化しようと「市(いち)」に「交換物」を持ち寄る。

そして持ち込まれた各種の余剰「交換物」の中から、貨幣で欠乏物を直接交換獲得する為の(貨幣機能を代行できる)「物品貨幣G’」を選定して「直接交換獲得」する「(W1→ G’)ことから始まる。そして「G’-W2」が実現してG’を市場外に持ち出して貨幣機能を失効させると(G’→ W1)に復帰して(W1⇔W2)の物々交換が実現する。

もし「市」に貨幣代行できる交換物が選定できなければ(W1≠G’)となり(G’-W2)に進めず「市」は閉鎖される。

・「市」に持ち込まれる「交換物」の構成はその時々の「市」ごとに異なるので、歴史の「記録」に残されている「物品貨幣G’」は200種以上の記録があり、例えば、

「米、麦、トウモロコシ、酒、塩、砂糖、たばこ、各種金属類(秤量)、宝石類、貝殻、石、織物類、皮革、武器、家畜類、奴隷等々」と市場の数だけ「物品貨幣G’」が存在した、と言える程に多種多様であった。

「物品貨幣G’」の中でも実際によく選定された交換物としては「米、麦、酒、塩、織物類、金属類等」に収斂していき、いずれも分割(「升」や「天秤」で)が可能で価値量を表現できた。

この(交換価値尺度を表現できる即時交換用の)「物品貨幣G’」に依存した時代は「残所得」生産が恒常的に産出され「商工階級」が形成されて定着するまでの期間は、この貨幣形態が続いていたはず、と考えられる。

・「第二段階」は、「残所得」を恒常的、目的的に発生して「商工階級」が形成され「交換経済」での常設的交換市場に(即時交換だけではない)「季節差や時間差」を伴う交換をも可能にして交換範囲を拡大する為に、「物品貨幣G’」から市場外での有効消費化転換機能を奪い、「物品貨幣G」として貨幣を非常勤状態から専任常勤化して、交換市場内での滞留保管をも可能にする為に(耐久性、保存性)に優れた「物品貨幣G」を(銅、銀、金)のような「貴金属物品貨幣G」に絞り込んだ。

・保管蓄蔵に耐えうる、また市場が継続する間は、永続的使用可能な「貨幣G」が求められ「金属貨幣G」は「表記貨幣化=鋳造コイン化」して、交換時の秤量を省略し、個数カウントで量を表示できて「物々交換」を加速できたが、減耗や、悪意の削り取りによる価値減、貨幣生産コスト増問題に悩まされ続けるが、交換経済の拡大でコスト吸収して凌いでいた。

この時代は3000年程度続き、現在も併用されている。一般に「貨幣史」と言われるものはこれ以降を指す。

尚、この「物品貨幣G’」から「金属の専用貨幣G(鋳造コイン)」への進化した段階でも、貨幣それ自体が担保価値物であるある貴金属の「金属商品貨幣G」であることに変わりはなかった。非常勤が常勤化しただけ。

・そして「第三段階」は、「第二段階」で「物々交換」が「金属商品貨幣G」によって「(W1-G)→(G-W2)」、即ち「貨幣との交換」「貨幣による交換」の二段階直接交換への分離が可能になって常勤化したことで、本来の「貨幣による交換」の為の「貨幣との交換」から「貨幣との交換(=貨幣の蓄積段階)」と「蓄積貨幣による交換(による消費段階)」とが分離されて、「物々交換」での即時交換性を阻害し、「貨幣による交換(G-W2)」が(蓄積貨幣段階分)「貨幣不足」となって交換経済を抑制する現象が発生した。「貨幣不足」による デフレ化である。

・「物品貨幣G’」の場合なら、に即後半が実現する「(W1→G’)-W2」ので (G’-W2)=(W1-W2)が実現するが、常勤の「金属貨幣G」に収斂させた後は「(W1-G)→(G-W2)」での「前半 (W1-G)」段階で (貨幣G)段階での滞留(=貨幣蓄積)が可能になり、後半部の(G-W2)での「貨幣G」が

蓄積段階分不足してしまい交換縮小するので、「商人」は、蓄積貨幣段階(貨幣G)分を商人発行の「借用書」=「信用手形G’」で「貨幣不足」を解消して(G’-W2)として「蓄積貨幣G」補って実現する。

この発行「信用手形G’」は、蓄蔵貨幣Gが増加し続けるのであれば、「G’」のまま「物品貨幣G」を代行し続けることができ、更に増加分を追加発行増するし、しなければ「物々交換」経済が収縮してしまう。

 ・他方で「蓄積貨幣G」が縮小し始めると、その分は市場に投入されるので、即ち「(G-W2)」が続き、市場内が貨幣過剰となり、その分の「信用手形G’」を回収して廃棄しなければインフレ経済化する。

時間差交換は、交換市場の持続を意味し、いつでも市場に戻って「後半部分」を実行できるので、蓄積貨幣がたとえ市場外で保管されていようとも鋳つぶすなどして有効消費はされず、市場内で保管されるのと変わらない。

価値物としての「商品貨幣G」が(商人に)蓄積され交換経済も拡大したことで、たとえ「商人」の蓄積「貨幣」が交換過程で運用されて「商品」形態となっていたとしても、それには担保価値があるので、その価値分の「債務証書=借用書」の発行は可能になる。

実体価値物同士としての「貨幣」と「交換物」との「直接交換」に代えても「借用書=信用貨幣G’」を「商品貨幣G」代わりとして「実体価値物」との「直接交換」に使用することで、例えば「交換経済」の急拡大による交換用「貨幣の不足」を補える。

商人の「債務証書」と「交換物」との直接交換、即ち「交換」を「貸借」にした形での「(信用)貨幣生産G’」としての「貨幣」の画期的、革命的進化をもたらした。

「貨幣生産コスト」は「貴金属採掘精製労働」から「借用書の印刷労働」に圧縮できて「貨幣不足」を解消できた。一方で、担保分以上に乱発発行することも可能だが、貨幣量が交換物量を超えて流通して貨幣価値が下がりインフレ化するので「信用貨幣G’」の過剰発行分を「貴金属貨幣G」との交換が求められることになりインフレを治めることになる。

「金属貨幣G」なら「価値物としたまま蓄積」でき(鋳つぶして有効消費化もできるが)「信用紙幣G’」は無価値の(=借用書)でしかないので、商人が債務清算して貨幣代わりに交換回収すれば、用済みの借用書を回収できたことになり、廃棄し処分すればよいだけ、となる。

・この「信用紙幣」発行増の可能な時代とは、生産増による市場の急拡大での「貨幣不足」対策だったが、「戦争(による国の貨幣不足)」や「産業革命型(資本主義生産化による貨幣不足)」を「信用貨幣発行増」によって生産力拡大させて、交換市場を拡大する為にも利用できた。

 「交換物の生産拡大」による「交換経済」拡大需要に対する「貨幣不足」解消の為ではなく、「借金増」によって交換市場を拡大して生産拡大する為の「信用貨幣G’」の拡大であり、「交換市場」で需要拡大できれば有効に働くが、拡大し続けるか、返済清算することが前提となり、拡大継続できなくなれば返済清算できずに破綻する。

 現代は「第三段階」の「信用貨幣G’」発行に依存した「交換経済」社会であり、交換用「生産増」を前提としてのみ成り立つ「産業革命型資本主義生産様式」依存の世界なので、この章以降にその構造を解明するが、まず

ここでこの章の本題、「貨幣史」を確認しておく。

・「第二段階」では、最古の「貨幣」として、約2600年前(前6~7世紀)の古代トルコの「リディア王国」の「エレクトラム鋳造コイン(=金銀合金)」が、また「第三段階」での最古の「紙幣」として(960~1127年)古代の中国「北宋時代」の「交子(紙幣)」が発見されている。

それ以前の「第一段階」、即ちこれらの「貨幣や紙幣」の遥か昔の時代から「物品貨幣G’」の文書での記録はあり、貨幣や紙幣の発見以前から「貨幣は既に存在していた」が、「物品貨幣」は、交換後に有効消費されてしまうので、貨幣の痕跡を発見できるはずもなく、いつから「物品貨幣」が使用されたのか、も文字の発生以前ということしかわからず、発生時期は不明である。逆に「交換経済」が文字を発明させたとの説さえある。

・「金属貨幣G」に依存して時間差交換による貨幣段階での蓄積が可能になり、次に時間差交換を「借用書(信用紙幣)」で貨幣代行させる形での進化をもたらした。

「信用貨幣」の登場は(有効消費できない、無駄な生産物としての)「金属貨幣」の生産をなくし「交換経済」の拡大に伴う「金属実貨幣」の不足を(印刷代だけで短時間に)解消でき「交換市場の急速拡大」や「借金」での「交換市場拡大」を可能にした。

この「信用紙幣」の時代は約1000年、断続的に続き、現代に至っている。

・この「第三段階」の「信用紙幣」を世界初で登場させたのは、中国、北宋時代(960~1127年)の「交子」紙幣であった。

北宋」での商工業の急速な発展により、大量の「交換物」が(「銅銭」との交換を求めて)「交換市場」に集まり、商人が市場に持ち込んで交換に使用する当時の「金属貨幣」であった「銅銭」の生産供給が間に合わず「交換経済」の拡大対応が銅銭不足で抑制阻害される」ことを避ける為、商人個人による「信用手形(=短期借用書)」発行としてではなく「16人の富豪商人組合」としての共通の「(無期限)信用手形」としての「交子 (信用紙幣)」を「銅銭」との兌換を保証して発行し「銅銭」代わりに流通させて「銅銭」不足を補い、貨幣代行させて「物々交換」の拡大対応に成功した。

半ば公共性を帯びた無期限「信用手形」としての実質的な「信用紙幣」発行の形での貨幣生産増であった。

・「信用紙幣」で代替すると、もしも「交換市場」の成長拡大が停止、又は収縮すれば、「銅銭」生産増は停止されて、交換に使用されないで商人に死蔵蓄蔵されることになるのと同様、紙幣の発行増も停止し、市場に流通していた紙幣が商人に回収され死蔵されることになるが、もともと「商人の借用書」発行でしかないので、貨幣として回収した「商人の借用書」に実体価値はなく、交換回収で清算が済んだので「商人の借用書」なので用は済み、廃棄滅失させてよいし(将来の市場拡大での発行に伴う印刷代の節約)の為に保存しておくのも良い。

 ・しかし、この「信用紙幣」発行での「交換増」の実現に目を付けた当時の「北宋政府」は、商人組合の「交子紙幣」の発行を禁止して、「北宋政府」自らが「交子」紙幣を印刷発行して交換市場で「交換物」を交換獲得したことで「通貨発行益」(「紙幣の額面と実価値(=印刷代+紙代)」との差額)の「通貨発行益」が得られ、この場合、「銅銭」に代わる「偽硬貨を作ったことになり」「不等価交換」を交換市場で実現して「有効消費」を実現した。

・それでも貨幣不足による「交換市場の拡大障害」が(偽硬貨による貨幣増で)解消でき、銅銭代わりに交換使用されたので、市場の拡大分の範囲内での「信用紙幣の発行分」なら問題を起こすこともなく、政府財政を潤わせつつ「交換市場の拡大需要」を実現できた。

「政府発行の交子紙幣」の発行分を「課税」によって回収する必要もなくて済んだ。

しかしこの「信用紙幣発行増」は、市場での「物々交換の拡大による実貨幣不足分」を補う範囲内に限定される「通貨発行益」でしかなかったが、「交換市場」の拡大が停滞、縮小する事態に遭遇すると、「信用紙幣の追加発行」は交換市場での貨幣増によるインフレ経済化(通貨の価値減)をもたらすが、「通貨発行権」の行使依存による「通貨発行益」依存の政府財政は追加発行の継続をやめられず、追加発行分は「増税」して市場から回収しなければインフレを抑止できずに貨幣価値を喪失させ、市場での交換に「銅銭」による実価値貨幣が求められる。「信用紙幣」の価値が下がるので、市場は「銅銭」への兌換交換を求めても、政府に銅銭があるはずもなく「増税を強行」して内乱を誘発させ、もともと銅銭貨幣を蓄積保有している「商人」から「借りる」しか方法がない。結局、「信用紙幣」の発行権を商人に戻すことになり、政府財政は破綻する。

・「政府」には、信用紙幣の流通量、発行量を調整管理する能力はなく、発行し続けて「通貨発行益」を政府財源として得ようとするので、「交換市場」を収縮させて、政府は財政破綻して増税依存となることで崩壊する。

北宋」政府の場合は、戦時となり、倍額の信用紙幣を発行し続けてインフレを招き「交換経済」を混乱縮小させ、財政破綻して崩壊した。世界初の政府「信用紙幣」発行による破綻の初事例ともなった。

北宋崩壊後「金(きん)」の時代を挟んで「モンゴル帝国」が勃興してユーラシア大陸を広域に一元支配して「グローバル経済化」が実現した。その背景には世界の「生産経済」国が経済成長して「交換経済」化需要が高まっていた時代に、幾多の障害があって「国際交換経済」拡大できないでいたが、各種の障害を除去して国際交換市場(シルクロードの東西国際交易)拡大を実現した。

(それまでの「遠隔地間国際交易」での陸送物流で、通過する「主権国」や「城塞都市」ごとに、自給自足的「生産経済依存国」はバラバラな「通行税」がそれぞれの通貨で課せられ、国際的な陸送には治安上のリスクも大きかったが「モンゴル帝国」による一元支配で治安も改善され「通貨」も「銀」で統一し、為替制度も導入し、「通行税」も一律化したことで、グローバル「国際交換経済」は飛躍的に急成長して世界史上初の「グローバル経済」化を「銀」を基軸通貨として実現した。

・ところが「グローバル国際交換経済化の急成長」は、統一基軸通貨「銀」の激しい不足をもたらし、モンゴルは北宋時代の「交子(紙幣)」に倣って「交鈔(紙幣)」を大量に政府発行して「当初は銀との兌換、その後に専売の塩との兌換を保証して、銀貨幣不足を解消し、モンゴルは「交鈔(信用紙幣)」を発行して「国際交換経済の爆発的拡大による貨幣需要増」に応えて発行し続けることができ「通貨発行益政府財源」を獲得し続けた。

・しかしグローバル交易圏の広域拡大は、ローマ時代や現代にも通じるが「市場支配領域の成長拡大が止まる」と「基軸信用通貨での適用範囲の拡大が停滞」して「通貨発行益」の拡大域を喪失させて財政停滞させるが、通貨発行限界を超えても発行して北宋の轍を踏むことになる。

モンゴル帝国の場合は、グローバル国際交換経済化によるの負の側面、即ち、中国の一地方で発生した「ペスト」を世界交易ルートに乗せて全世界に拡散して世界的な「パンデミック」を引き起こし(1330年頃~1350年には西北欧まで拡散)、世界総人口の約1/3を失い、生産、交換経済を急激に委縮縮小させ、信用通貨発行増による通貨発行益が獲得できなくなるどころか「交鈔紙幣」の信用を失墜させてインフレ化し、モンゴル帝国財政破綻をもたらして、市場では「金属実貨幣」での交換が復活することで復興しつつ「交鈔(紙幣)」をただの紙屑としてしまったことで、モンゴル帝国も崩壊していった(1368年、朱元璋の明により中国からも追いだされる)。

・現代に通じる教訓にもなるがグローバル経済化により「北宋の二の舞」を大規模化して繰り返した結果となり、この後に再び「金属実貨幣」の時代に戻ることで「交換経済」が徐々に復活した。

特にモンゴル時代に、日本の金をガラス製品と交換して蓄積していた「オスマン帝国」が「金貨幣」で「武力」を獲得して金を通過とした「交換経済支配領域」を拡大して、東ローマ帝国も滅亡させ、地中海領域をも支配下として陸路と地中海経由での「東西遠隔地交易」を実質遮断してしまったことで、イタリアの商業自治都市が衰退し、彼らが見切りをつけて移動して、交易中心が地中海からスペインポルトガルの大西洋交易に移動して、この後の「大航海時代」を迎え。

結局は「陸路と地中海を結んだグローバル東西国際交易は破綻して「大西洋海路」グローバル国際交易として復活再生していくことになる。

・日本では、今から約1500年以上前に中国から「銅銭」が伝わり、当時の「交換市場」の拡大活性化を実現した。

それまで貨幣がなかった、のではなく、市場での「物品貨幣」としての「貨幣代行物」によって「物々交換」を実現できる範囲で実現していたが、この下地の上に専用貨幣としての「銅銭」が中国から持ち込まれて「物々交換」市場を加速拡大できたことで専用貨幣としての「銅銭」需要は高まり、貨幣の国産化も実施した。

その後「朝鮮通信使」でも、日本の市場での「貨幣(銅銭)」流通経済を見て、自国にも取り入れようとした記録もあり、朝鮮も少し遅れたが同程度だったことになる。

 

  • 「交換経済」での「商人」の「貨幣の生産蓄積」

 

・「階級制生産経済」での発展成長期の「残所得」の交換市場への持込みが継続し拡大する「交換経済」領域拡大期には「交換物(=残所得)の増加」に応じた「貨幣生産増」が(「交換経済」を担う「商人」に)求められる。

それは「商人の(貨幣による)商品との「直接交換(=仕入れ)」と「(仕入れた商品の)販売(=貨幣の交換回収)」とによる交換市場での「(直接的)物々交換」の反復連鎖で、商人による「(貨幣)と(交換物)との直接交換」時に、「商人」は「交換物(所得)」の中の一部から(商人経費+商業利得)分の所得を「等価交換での(貨幣G)」から控除する形で所得移転して)交換し「商業利得分」の「貨幣」増を生産する。

・市場の「交換増」需要に対しては、その「貨幣生産増」の範囲内で「交換」の拡大に対して貨幣対応できる。

「商人」が「交換」時に「不等価交換」(にあたる「所得移転」)を織り込んだ交換、即ち (商人の「交換に要する実経費支出の再生産分と、更にそれをも超える「商業利得」としての所得移転)を実現して「商人」に「貨幣蓄積増(=実質的な貨幣生産増)」をもたらす。

・「生産経済」での余剰の「残所得」が発生し拡大すると、その全ては「交換経済」に依存して有効消費化しようと「交換市場」に持ち込まれるが、交換者に有効消費化をもたらすことで「余剰生産を交換目的」で生産継続し続けることができ、また「交換経済」を機能させる「商人」に、「貨幣形態」での蓄積増としての生産増、を可能にさせ、帰結させる。

まず、この「商人」による「貨幣」の「本源的蓄積(貨幣生産)」の「構造」を解き明かすことにする。

・「残所得W1」と「職人生産物W2」との等価での「物々交換」は、これまでしつこく述べてきたように「(W1-W2)間での直接交換」ができない為に、「商人」の持ち込む「(貨幣G)との直接物々交換(G⇔W1)」そして→(元W1所有者による)G⇔W2(元W2所有者の)G⇔商人の(W1)=(商人の販売による)貨幣回収』で(元W2所有者のW1との交換もできて、「交換物」間の「物々交換」(W1⇔G⇔W2)を、商人による「G⇔W1↔W2⇔G」、即ち「G⇔W⇔G」構造によって交換物所有者間の「間接的物々交換」として(「W1⇔W2」)が実現する仕組みである。

・しかし、これでは「交換物所有者」間には「余剰物」と「欠乏物」との交換獲得ができて、相互の有効消費化が実現でき有益だが、商人の「G⇔W⇔G」交換は、その労働経費支出分の回収すらできず「商人」は「交換経費支出」分を持ち出して損失し再生産すらできず、商人の不在化による「物々交換を不能化」することになる。

さきほどの「交換過程」では「商人」にも職人とは異なる形での (生産物生産とは異なる「無形物生産」としての「商人の交換労働経費支出」、即ち「仕入れ作業(G-W1)交換に付随する最低限の輸送や交換後商品の保管等に伴う減耗費支出)や(倉庫や店での)販売作業(W1-G)による貨幣回収での減耗費支出」と「商人労働力の再生産補填(食糧獲得)」分の「貨幣」が、交換時に得られてはじめて「交換経済」を機能でき、それらの総経費支出分の原資は、交換に持ち込まれた「交換物所得」間の価値の中から「商人」に等価分を所得移転しつつ「貨幣」と「交換物」とを「等価交換する」しか方法がない。

・「交換経済での物々交換の実体」としての、「商人」にとっての「仕入れ(G-W)」と「販売(W-G)」とによって物々交換が実現成立するが、まず「仕入れ」としての「貨幣G」と「交換物W1」との「直接的物々交換時」に「商人」の交換経費支出消費分(=貨幣⊿G分)を (商人の等価交換用「貨幣G」の中から控除することで「交換物W1」と「貨幣G」との等価交換をするので、「交換物W1」は「交換者分の貨幣(G-⊿G)と商人分の(⊿G)」との合計で等価交換しなければ、その後の「欠乏物W2」との「物々交換」(G-W2)にまでたどり着くことができない。

(商人機能を交換者自身が果たして(貨幣⊿G)を節約することも可能だが、その経費支出分⊿Gは交換者本人の「交換物所得」の中から消費する形でしか実現しないので、結果は同じことであり「商人」の方が少額で済む)

・従って「交換物W1」と商人の「貨幣G」との「等価交換」は、「(W1)と(G-⊿G)」とで等価交換され、即ち、

交換物(W1)」と「(貨幣G)-(商人の経費支出分の貨幣⊿G))と商人の交換時消費分(+⊿G)の合計値とで「等価交換」される。(W1)⇔「(G-⊿G)+ (⊿G)」

 「W1所得所有者」は、「貨幣(G-⊿G)」分が交換で得られ、「商人」は「貨幣(⊿G)と商品 (W1)全量」が得られるが、商人の貨幣(⊿G)分はこの交換の開始と共に現物交換消費が開始され、貨幣回収と同時に消滅してしまう。この消費過程で「間接的物々交換が実現」する仕組み。

マルクスは「商人」による「無形物」生産労働 (サービス労働=間接的迂回的「物々交換」労働)の価値を無価値と評価して理論体系化してしまった。

「交換経済」での「商人」の労働価値を評価できず、それは「商人」の貨幣使用による「間接的物々交換(W1-G-W2)での(G-W-G)を伴う」物々交換原理に対する不理解であり「(実現し得ない)直接的物々交換経済(W1-W2)」を頭の中で創作したままでの「(W1⇔W2)直接物々交換可能論」に陥り、「商人」への「貨幣蓄積構造(「貨幣資本の本源的蓄積」)」や、その後の「商人」による「貨幣経済」の進化(=「商人」による「信用貨幣(=債務化)」としての「貨幣の貸借化」進化による「(国際的交換市場の拡大)」での「金融経済」化予測をも不可能にした。

・一方で「貨幣の金融化進化」と「国際交換経済」の急拡大による生産様式上の適応最適化」でしかない「産業革命型資本主義」を過大評価化して、歴史的には1万年前に既に発生していた「階級制」問題を「産業革命型資本主義資本主義生産」に特有の「階級論」として矮小化し「貨幣経済」のその後の弁証法的進化予測を不能にして「階級闘争」のバイブルとなってしまい、「階級支配」が「地主階級」から「国際交易商人」替わり国際的「交換経済」領域の拡大に伴う生産様式の適応最適化を「階級闘争」の根源問題に矮小化して生産様式の非人道性(余剰生産分の収奪)を分析解明し告発し「被支配階級の解放と搾取の撲滅」をしようとした意義や意味は人類愛の発露としても偉大ではあったが、「農民一揆」や「反逆暴動」としての「革命論」の正当化に利用され、ソ連での「直接物々交換」の現実化という「商人不要、商人不在」での空想的「交換経済論」に基づく「社会主義国家化」を実験して大失敗し、結局は支配階級を「国王(地主階級)の座から引きずり下ろしたが、国際商人、国内商人をも排除した官僚統制での専制君主支配階級」に入れ替えて暴力支配しただけの結果となった。

・「(貨幣G)との交換による直接交換」の連鎖の形成でしか「物々交換」は成立実現せず、「商人」の(貨幣蓄蔵による貨幣との)直接的「物々交換」によってしか交換増、余剰生産増による有効消費増によってしか経済的利益の享受ができないので、「富(所得)」が「貨幣形態」で「(国際)商人」に貨幣資本形態で「本源的蓄積」される社会にまず移行するしかなかったことが理解できない。

・「商人、主に国際商人」による「(貨幣資本の)本源的蓄積」を担保とした「信用貨幣」発行による擬制的な「金融資本」創造による有利子貸付増需要(=貨幣の直接的生産増需要=国際的交換市場の拡大需要)が「産業革命型金融資本主義生産様式」を産み出したにすぎないのである。

マニュファクチュア生産(=商人の流動貨幣資本による「資本主義生産様式」)の延長線上で、即ち英国経済史でもマニュファクチュア生産段階が「(国内需要用の)職人生産」と並行して「主として毛織物製品生産で」400年以上も続いたが、イングランド中央銀行設立による「信用貨幣(資本)」の創造と「国際交換経済市場の爆発的拡大(新大陸発見と生産拡大、既存「生産経済」の「交換経済拡大」)」によって「綿製品生産」で初めて「産業革命型の金融資本主義生産」が実現したのであり、それでも国内には「職人生産」と「毛織物の問屋制マニュファクチュア資本主義生産様式」も並行して残り、これ以降の「国際交易市場」の拡大とその支配で産業革命型資本主義生産は継続できたが、市場の獲得競争の激化の末、英国内の資本主義生産は競争力を弱めて収縮し、金融経済化し、他の世界にこの生産様式は拡散し拡大して「国際交換市場の拡大」に対応していった。世にいう「資本主義」が「金融経済下の金融資本主義最適化生産様式」であった、ということがわかる。話しを戻す。

・実際の「物々交換市場」では(「W1」「(G-⊿G)」)として不等価交換?されるが、本質的には(「W1」「(G-⊿G)+⊿G」)の等価交換がなされていて、「(G-⊿G)」貨幣分は「交換物W1」所有者に、そして「⊿G」貨幣分は「商人」に分配されて(=商人の手元に残したままで)、商人の経費支出を開始、即ち「⊿G」分の貨幣で経費支出消費し、最後に貨幣を回収して物々交換を実現した。

また「生産職人」には、再生産労働による生存維持原価分(=余剰生産分がない)としか等価交換させないので、ここからの商人経費分の控除による(貨幣の回収)は実現し得ない、できない、ので販売時の職人との交換の際の上乗せ型での「所得移転」は実行できない。もしそれをすると職人が生存維持できずに衰退し次期以降、この先の職人生産とそれとの「交換」による「残所得W1」での有効消費が実現できなくなってしまう。したがって、

「W1⇔G」ではなく、「W1⇔(G-⊿G)」+(商人消費用⊿G)で等価交換される

 商人には「W1残所得(食糧)」の全量(W1)」と「⊿Gの貨幣」とが交換で手元に残り、「残所得食糧W1全量の所有者」となり、⊿Gの貨幣で商人消費しつつ物々交換を実行する。

「残所得W1」の交換によって「(G-⊿G)」分の「貨幣所有者」となった「元W1保有者」は、この貨幣分の「職人生産物W2群」を等価交換で(W2-⊿W2)分を得て、これらの交換物と共に市場から退出して交換価値物を有効消費しでき、「残所得W1」の再生産後に交換市場に再登場する。

交換で「職人生産物W2群」を「(G-⊿G)分(=W2-⊿W2)分 失い、その(G-⊿G)分の貨幣を獲得できた「W2生産職人群」は、商人在庫の(W1)の中から(W1-⊿W1)分を等価交換で獲得し、これを市場外で有効消費再生産する。

・解説の為だけに、この段階での「商人」を中間確認しておくと、「W1」あった商人倉庫の期首在庫は(W1-⊿W1)分をW2生産職人との交換で失い、倉庫内残在庫は「⊿W1」となり、貨幣として(G-⊿G)分をW2職人群から交換回収できて、(⊿G)分がそのまま残っているので「(G-⊿G) + (⊿G)」=G、となり、「G貨幣 + (⊿W1)在庫残」となる。

・解説上分けたが、「残所得所有者W1」の(G-⊿G)分のW2生産職人の(W2-⊿W2)生産分との等価交換と同時に、実は「商人」も手元に残っていた (⊿G)分の貨幣で (商人用の減耗補填分のW2と貨幣と交換し、そのW2の貨幣と商人再生産食糧分の貨幣の合計分「=(⊿G)分」で商人所有の残った(⊿W1)と交換し、その交換で貨幣(⊿G)を回収する。商人用生産物W2生産者もW1と等価交換して市場を退出して有効消費し、商人は交換過程で有効消費してしまったので、 (⊿G)は商人倉庫内の(⊿W1)在庫残と等価交換されて交換消費されたことになり、(⊿G)の貨幣を交換回収して(G-⊿G)+⊿Gとなり、商人には元の貨幣Gの回収に成功して「物々交換」を実現した。

貨幣(⊿G)は商人の手元から出て、再び交換によって商人に回収されるので、期首状態の貨幣Gが回収され、次期交換を再び開始できる。

・また「W2=商品群(=職人生産物)」は「W2の加工生産労働価値分」だけでなく「W3=商品生産用道具類の減耗補填分生産労働価値分」及び「W4=商品用及び道具用の原料生産労働価値分」との合計労働価値分として「W2=商品群」が代表して「貨幣(G-⊿G)」と交換される、ので「W2」は (W3 + W4)生産者に受取貨幣の(G-⊿G)の中から彼らと分配することで道具減耗分補填、原材料を貨幣との交換で市場内で交換獲得もしているし、「W2」は製品の価値を指し、各種労働種別ごとに生産職人、W3、W4の生産職人がそれにリンクしていて、それらを合算した価値物に「W2」の生産労働分が付加合算されて「交換物W2」として出来上がっている。それ故「W2」と「貨幣」との等価交換には、「W2」の交換貨幣額内にW3、W4分が内包合算されていて「W1所有者」がW3、W4と貨幣で直接交換する必要もない。

・以上から「商人と職人」は、支配階級らの「残所得」「(W1)」と (「G-⊿G」分の「職人生産物」+「⊿G」分の「商人(無形生産物))の合計、とが等価交換され、「(W1)」所得所有者は「W2-⊿W2」分の職人生産物との「交換」しか実現できないことにはなるが、この交換は「商人による⊿G分の経費消費」で「物々交換」が実現できたことで「等価交換」となる。

・結局、交換されたのは「残所得W1」と等価の「貨幣G」ではなく、等価の「商工労働」支出、とが「等価交換」され、「商工」での「工」の生産価値物だけが、形あるものとして有効消費できるので「交換を実現するだけの商人」には有効消費する価値物としての形がなく「交換の実現」で消費されてしまい、この交換の仕組みは「残所得」の一部が交換経済による「物々交換」を実現する作業の為に失うことで「見方によっては、商人に(⊿G分の貨幣)をピンハネされた」ように映りかねない。

・(この素朴な不信の感覚はカトリック原理主義者に利用され)「支配階級、(農業)生産階級、職人」に対して扇動利用され、「商人」への差別や排斥、追放に利用され「交換経済」の発展拡大を阻害し、土地に依存しない商業者や金貸しのなり手を「プロテスタントユグノーユダヤ教徒」に押し付けた歴史があった)。

しかし上記では、商人は「交換過程」で消費する労働経費分を交換過程で所得移転して等価で獲得し、消費支出して「物々交換」を実現しただけで、実は、そこに所得からの移転控除としての(⊿G)はあっても、一切の「儲け」は実在しておらず、「生産職人」と全く同様に「交換職人」として商人が機能して再生産存続を実現しただけでしかなく、まさしく等価交換しただけにすぎない。

「残所得」⇔(「職人」+「商人」)労働支出、として。「商人」も、完全な「等価交換」としてのみ機能した。

・この「商人経費分の手数料控除」による等価交換、の構造の故に、(+⊿G’分)のピンハネ、即ち実経費分に商人の儲け分を(こっそり?)つけ加えて(⊿G)より大きい(=⊿G+⊿G’)としての(⊿G’)分の不等価交換の追加控除をも可能にできる構造の故に、(商人以外には「ブラックボックスの商人経費構造」なので、新たな商人の新規参入がなく交換市場が拡大し続けるのなら)、控除額(⊿G)に(+⊿G’)を任意に追加加算することも可能なので所得移転増して「商業利得」を発生させ、それによって「貨幣蓄積増」でき、それを実行し、実行できたことで「商人」に対する反感と非難の根拠が生じて、宗教的弾圧の口実を与えたし、商業利得のうま味がなければ「商人」はあえてわざわざやる動機がない。商人には「G-W-G’」

として貨幣蓄積増できなければ意味はないが、それは「貨幣」生産増に存在意義を感じるしかない構造である。

それ故にその構造の解明を更に続けることにする。

 ・交換時に控除する手数料(⊿G)が、実際にはこれより少なくて済む場合、(=「初期の経費想定に商業利得の (+⊿G’)分を意識的に加算する場合」や「想定経費の設定を安全性の為に高く計上しておいた場合」のような控除額拡大による場合、と「商人経費部分を合理化 (販売労働での労働強化、運搬を車両運搬に機械化して人員削減、倉庫を丁寧に使用して耐用年数を超えて減耗補填費を節約等)で控除額を実際には圧縮できた場合、は、未使用貨幣 (⊿G’分)が「物々交換」終了後に残り、当然にその等価分のW1在庫のうちの(⊿W1’分)の「未交換分の交換物」も在庫として商人に残るが、未使用貨幣 (⊿G’分)は商人が貨幣を生産増したことになり、不等価交換を実行したことになる。

  結局は「(⊿G’+⊿W1’)」の合計所得が、商人に不等価交換差益として「所得移転(=商業利得)」をもたらしたことになる。

・ここに「控除」による「所得移転」での「商人」への「商業利得発生」の根拠と源泉があり、商人には交換用の貨幣増が得られ、次期交換増時に追加使用できるので、またその貨幣増、交換拡大による再貨幣蓄積増の拡大循環をももたらすので現物残分の⊿W1’も貨幣化しておく。

(それは、国内で金銀の採掘、精製が可能なら食糧現物⊿W1’分と国内職人労働による⊿G’分の金属貨幣生産物とを等価交換獲得し、国内生産が不能なら⊿W1’分の食糧と⊿G’分の金銀実貨幣とを「国際交換市場」で(多少目減りするが)交換して⊿G’を獲得し)計2⊿G’分の貨幣増として次回期首のW1、W2生産増分にその範囲内で対応できる。

「商人」の本質は「貨幣生産者」でもあることになるが、交換市場の拡大再生産に貢献する側面もある。

・「残所得」増は、「職人生産増」と「商人」への「貨幣蓄積増」に帰結する、こともわかる。

 ただし、それを超えての「交換市場」での「交換物」の拡大に(「商人」貨幣増分を超えて)交換対応はできない。

生産力増だけが継続して「貨幣生産増」が追い付かず「貨幣不足」による「交換経済」の拡大障害をもたらす。

商人に更なる「貨幣蓄積増」が求められ、それが商人への「所得移転増」を歓迎さえすることにすらなり兼ねないが、不等価交換増による貨幣増にも限界がある。

・この限界を超えた貨幣不足には、歴史的には「北宋(交子紙幣)」や直後の「モンゴル帝国(交鈔紙幣)」のような「政府発行紙幣」で補った歴史はあり「近代ではイングランド中央銀行(株式会社)発行銀行券紙幣」がある。

商人が「交子信用紙幣」を貨幣不足分発行して、貨幣代わりに流通させた「北宋」や商人から派生した金融業としての英国の場合、貨幣不足分は「信用紙幣」が貨幣を代行して機能して「物々交換」急拡大に対応でき、金属現物貨幣と「信用紙幣」の合計として発行分も貨幣と一緒に回収されることで問題なく、更に交換市場が拡大すれば、追加発行すればよいことになる。

・しかし、「北宋後期」や「モンゴル帝国」のように国家が発行する場合、国家が商人機能の一角を担うことになり、商人の「残所得」の買い取りできる残分を国家発行の「信用紙幣」で国家が買い取り、商人に買い取らせた実貨幣分と合算して、W2職人生産物と交換する分までは何の問題も起きないが、その範囲を超える「信用紙幣」の発行での「W2職人生産物」との交換は、交換すべきW1を超過して発行するので、発行分の交換物がない。

 貨幣の過剰によるインフレ化による交換市場の収縮と貨幣信用の喪失による「信用紙幣」での決済拒否をもたらす。もし戦争等で軍需品の生産交換増を市場対して求め、それを「信用紙幣」の追加発行で得ようとしても、信用紙幣自体の相場での「金銀実貨幣との交換」又は、「金銀実貨幣」での交換、に交換経済が収縮する。

 北宋の場合は、戦争となり「北宋(交子紙幣)」の発行が2倍化して交換経済を崩壊させ、モンゴル帝国の場合は、やはり「交鈔紙幣」が発行増できなくなるほど「ペスト」によるグローバルパンデミックによる人口、生産、交換を急縮小して同様に財政破綻して崩壊した。

 商人による信用紙幣の貨幣不足分の発行の範囲なら、国家が発行しようと市場を混乱させずに交換経済を拡大できるし、国家がやれば「通貨発行益(=実貨幣と印刷代との差額)」が得られるが、交換市場が拡大し続けている限りにおいて、その分しか有効ではない。

国家が直接に「信用貨幣」を発行すると、歯止めがかからず、乱発して「通貨発行益」を継続拡大して「交換市場」をインフレ化して混乱させ経済崩壊させて信用を失いやすい。これを政府がやって通貨の信用を失い、崩壊して信用紙幣を紙屑化してきた歴史がある。

・話しを戻して、ついでに「国際経済圏間交易」について触れておくと、「階級制生産経済圏」の「残所得食糧」と「獲得経済圏」での特産品の余剰生産物としての「毛皮や革、木材や金属資源」との交換が「国際交換市場」の港湾都市市場等で行われるとする。

 どちらの余剰生産物も「金銀実貨幣G」との交換、即ち(G-⊿G)とW1、W2でそれぞれを交換して、商人倉庫にはW1、W2全てを保管陳列しておき、双方が交換で得たそれぞれの(G-⊿G)貨幣ずつで、双方の欠乏物を自由に買わせて一度に交換を実現し、貨幣回収も一気に終わらせる。(=現代の大型店舗と同じ「物々交換」の構造となる)

2倍の貨幣量が期首に必要にはなるが、商人の支配する「交換市場」での交換を一気に終了でき、「貨幣残2⊿G’」と共に等価の⊿W1’と⊿W2’分の現物残を所得移転できる。この残を同じく金銀実貨幣と交換させて、貨幣増とすると4⊿G’となり、あとは原理的には国内交換経済と同じであるが、効率良く貨幣蓄蔵増できる。

・「国内交換経済」と「国際交換経済」の違いは、交換市場の支配に「(地主的)支配階級」の影響力が及びやすいか否か、「商人自治支配又は商人ギルド」が可能か否か、で差が生じ「国際交易市場」が「商業利得を蓄積増しやすい」ので「国際商人」は「富豪」化し「国内交換経済」では「商人」が「職人」と同じく「交換職人」として再生産のみ、の単純再生産に絞られがちで、支配階級との癒着(賄賂による)が許されなければ、新規参入の制限がなく、ほとんど職人と同様の再生産が許されるのみとなり、貨幣蓄積増は期待できない。

国内で商人ギルドの形成が認可されれば(国際交換経済)同様に小規模の商業利得も得られるが。

・また「商業自治都市の商人ギルド」形成による高い商業利得の所得移転も、近接して新たな「商業自治都市」が出現したりすると、その所得移転はトータルで拡大しつつも個別には減退するので、一定の条件下、即ち余剰生産が各国で拡大し続けてくれない限り新規参入増が自然淘汰され薄利となる。自治都市としての共倒れを防ぐためにも、土地を支配する支配階級に働きかけて「残所得」の有効消費化の実現を楯に、新規参入を抑制する。

 しかし、本質的にはいずれも「階級制生産経済」の「支配階級」に蓄積する移転所得としての「残所得」増の一部が「商人」への所得移転による貨幣蓄積増をもたらすが、それでも尚貨幣不足によって「交換経済」の拡大が抑制される傾向が持続したので、商人に貨幣不足解消対策は求められ続け、貨幣の進化がもたらされた。

 

  • 「生産経済」の生産力飽和と「獲得経済的」転換

 

・「階級制生産経済」は、自家消費分を超えても交換用「残所得」の拡大(による有効消費の実現の為に)「残所得」の交換需要が交換市場にある限り消費され続けるので、交換市場での需要がある限り、その範囲内での生産増を目的意識的に拡大し続け(例えば近隣に「獲得経済圏」があればその需要は継続することになり)、そのことで生産拡大され続けるので、国内での農地拡大が継続し、やがて生産力が飽和限界に達して停滞する。

既存国領内での農地拡大余地が失われ、かといって農業生産技術の進化は急にはえられない。

特に、既に「交換経済」を国内で発達させた、先進「階級制生産経済」国(で、かつ国土面積が小さい、或いは地味の乏しい国)から順に、国内での農地拡大余地が無くなり、「残所得」生産力はより早く飽和限界に達することで、交換経済による有効消費の停滞がもたらされた。

残所得で国内商工階級人口は満たされ、国外交易での残った「残所得」と「特産物や資源」との交換による「有効消費増」のうちの、後者が停滞する。

・この停滞の克服打開には、「階級制生産経済」が「獲得経済」的に変質することと外形的には類似し、前述したように「獲得経済」の場合は「安定的食糧確保」の為に「生産経済圏」からの国外「残所得の略奪」による獲得か「経済圏間交易」による「特産品や資源」の余剰生産による「交換経済」に依存した獲得、に依存する。

「国外所得」からの「国内への所得移転」を通して「有効消費増」を実現するしかなく「侵略戦争による強奪」か(生産所得の相互移転による)「交換」かは別にしても「国外所得」からの移転が必須となる。

・「生産経済」は、既に自給自足を達成して国体内に「交換経済」領域を拡大させて「生産経済」を維持しつつ成長発展できたが「残食糧所得」増が断たれると「交換経済」拡大できず停滞し始め、「国外所得」の国内移転に依存する国体体質の転換を求められ「獲得経済化」する。国外の国土を略奪して以前のように「残所得」拡大継続に戻すか(この場合でも、またいずれ生産飽和するので断続的にでも戦争継続することになるが)、又は「非農産物(=特産品や資源)の対国内余剰生産増」による「国際交換経済」に依存した国外「残所得」の交換獲得(まさに「獲得経済」そのもの)によって「有効消費」を拡大し続けるか(この場合も非農産物(=特産品や資源)の余剰生産が継続拡大し続ける為に「国際交易市場」を拡大し続けて需要拡大しないと生産停滞を迎えるが)、この2つからの選択、又は両方、を選択する国体に転換、即ち「戦争国体化」か「国際商業国体化」(=これが資本主義生産経済化に繋がることになったが)か、その両者か、の大きくはその2者択一、又は両面追求からの選択でしかこの停滞状態から脱却できない、ことになる。

 ・「生産経済」に依存して発展してきたので「獲得経済」型転換をしようとすると「領土拡大による農地増」の為の「戦争国体化」転換が一般的には採用される。「獲得経済」と比べて「生産経済」の貿易依存度は低いし、「商業立国化」転換は、「国際商業自治都市」での国際商人による「商業利得」の獲得ノウハウを必要とし、国体を国際商人主導に変えなければできない。

「(農業依存の)生産経済」国がそれを実行することがそもそもできないので、現実史で、「国際商業自治都市」の獲得戦争を通じて自治都市商人、職人を自国内の商工階級ギルドとの折り合いをつけて丸ごと取り込むしかなく、「商業国化」転換を「(農業)生産経済」のままで量的移行させるしかなく(この場合、生産面の「資本主義生産化(問屋制マニュファクチュア生産)」として原理的に実現していた「フランドル国際商業自治都市」を行きがかり上(羊毛原料輸出にも経済依存していた)英国は、資本主義生産化をその後に本格的に発展させることに繋がったが)「(国際)交換経済依存国」化転換にいち早く成功した。この姿は、元々から農業「残所得」が得られなかった「獲得経済圏」の「国際交換経済依存」の姿そのものでもあるが(英国は、「半獲得経済圏」に位置していて「農業生産経済」依存でありつつもその生産性は低く羊毛原料の生産輸出に大きく依存していた)、異なるのは既に「交換経済」領域拡大に成功して飽和化し「残所得」生産増の停滞により「獲得経済」化して「商業国化」できたことになる。

しかし、ほとんどの「階級制生産経済先進国」は、「戦争国体化」転換による国外「残所得」生産領土の暴力的移転の道を選択した。

・英国型の「国際交易依存」の場合、国外の「交易拠点」を必要として国際交易を拡大し続けて国際的交換需要を獲得し続けなければならず、それは外国との軋轢が生じるので、海軍を派遣して「交易拠点」支配を確保し拡大しようとするので「領土」(陸軍)ではなく「市場」(海軍)の拡大による「戦争国体化」を強める結果になった。

・「戦争国体化」(=「生産経済」が停滞して「獲得経済化」移行するのは「生産経済先進国」であり)「国際交易自治都市」の「国際商人」にとっては、まだ周辺に「階級制生産経済」の発展途上国が残されており、そこは国内「残所得」の拡大過程にある国もあり、たとえ先進国の「残所得」増が停滞したとしても、「獲得経済圏」の産出物増が停滞するわけでもなく「国際交易」での拡大余地は後進国の国際交換市場への参加拡大の道は残されてはいた。しかし、それらの国は、先進国の領土拡大の目標にされ、抵抗戦争にまきこまれて戦禍にさらされた。

・特に、遠隔地のアジア各国は、国土面積も広く飽和限界にも到達していない成長過程の途上国ばかりだったことで、まだ自給生産依存中心で「残所得」の余剰生産は少なく、国際交易需要は乏しく、閉鎖的なままでいられたので、ここに「開国」を迫り「国際交換市場」に参入させて「遠隔地間国際交易」を拡大できる余地はあり、「国際商人」による国外所得移転による「貨幣蓄積」拡大の余地もここに多く残されていた。

・「獲得経済的な戦時国体化転換」は、これまでメリットであった(常備軍も軍需品生産もほとんど必要としない)西欧独特の長く続いた「封建制」国体のままで、同じカトリック小国間での領土戦争を避け (これまでカトリック教国間の紛争を仲裁裁定もしてきた)ローマ教皇により「異教徒」(イスラム圏支配地域) からの「聖地の奪還」「領土再征服」「カトリック布教拡大」名目での「領土拡大戦争」が提唱され「十字軍」派兵が実現した。

これまで戦争から遠ざかり、諸侯や騎士による時代遅れの「馬上での一騎打ち」戦法時代のままイスラム圏に領土拡大戦争を仕掛け、隣接していたイベリア半島の「レコンキスタ(領土再征服)」では何とかイスラム勢力を追いだしたものの、東ローマのキリスト教国救済も、中東の聖地奪還も得られず、200年間かけて失敗に終わった。

・その結果、十字軍遠征を提唱した「ローマ教皇」の権威は失墜し、プロテスタント勢力が台頭、これまで「ご法度」だった「カトリック教国間」の「領土拡大戦争」が解禁されてしまう。

「階級制生産経済」の当時の「荘園領主」としての支配階級であった「諸侯貴族や騎士」達は「十字軍遠征」で長期に遠方戦地に赴いて荘園を留守にし、借金による戦費支出と戦死増によって下部構造の「荘園経営」が困難になり、その後のカトリック国間領土戦争で「諸侯貴族」は消耗して没落して、「国王から封じられた荘園を国王に返納する」という「封建制」の形式を踏んで「荘園」を国王の直轄地として返納し、自らは国王の常備軍、官僚機構の構成員として廷臣化し、ここに「荘園制度」を基盤とした「封建制」は崩壊、国王に権力を一元的に集中した「絶対主義的階級制生産経済」国として「戦争国体化」「軍事化」転換していった。

そして、これまでの宗教的仁義も失い、イスラム教国との同盟をも伴う戦争も発生して「ナショナリズム」が勃興した国家間「領土拡大戦争」を本格化させた。

封建制」の「階級制生産経済」小国は、(国外の)「残所得」からの「所得移転」(=「獲得経済」化)に依存せざるを得なくなり、戦勝による領土拡大、農地増目的の戦争が長期間に渡って断続的に繰り返された。

・しかし、そもそも「戦争」による領土拡張策は、農業生産上は、自国領土増が交戦相手国領土減でしかないゼロサムゲームでしかなく、どちらが戦勝しようと交戦国全体の農業生産力は一度衰え、戦争を借金で臨むしかないので、逆に、戦災による人口減と生産手段の棄損をもたらして農業生産力総体を縮小させ「飽和限界到達前」の状態に「時計の針」を巻戻す。そして戦費が尽き、停戦の後に「戦災復興」による農業生産の回復をもたらし、再びその後に飽和限界に到達する迄の「時間稼ぎ」「問題の先送り」を反復して継続した。

・それにより「封建制」政体を自壊させ「絶対主義階級制生産経済」国に戦争国体化転換して軍事支出が拡大したことで、これまでの「封建制の経済的優位性(常備軍を持たず経済発展できる)」は失われ、農業生産力が飽和限界で停滞した「下部構造」のままなので、新たに「常備軍の維持費」と「爆発的な軍需品消費の為の生産増と、国によるその買い取り増」で「国体財政の爆発的支出増」による恒常的「財政赤字」がもたらされた。

  克服すべきは「下部構造」の「農業生産」への一元的依存だったはずなのだが、もとが農業生産単一依存国体なので、戦争での共食い的な農地拡大に依存して生き残ろうとするしか方策が見つけられずにいた。

 

  • 「国際交換経済」の発展拡大と「宗教戦争」史

 

・1290年、英国は「ユダヤ人追放令」の施行、またその前段での「ユダヤ人の土地所有と相続禁止令」の発布、

1492年~スペイン「異端審問」によるユダヤ人やプロテスタントの迫害と虐殺。(=実質の国外追放)

1562~1598年、仏のユグノー戦争。ユグノー(「誓約仲間」の意)のカルバン派プロテスタントの迫害と虐殺、(=実質の国外追放)等、が代表例である。

・こうして「商人や金貸し」を農業生産国体での流れ者、はみ出し者扱いして蔑視し「商人や金貸し」は宗教弾圧されて場末の地(港町等)や他国に追いやり「隔離」した。

こうして「隔離病棟」としての「国際商業自治都市」には「ユダヤ人」や「プロテスタント」の商人や金貸しが集積し「交換経済」を拡大する時代の流れに味方され、「貨幣形態での金融資本蓄積」を実現していった。

しかし「貨幣」がその「貨幣量増」分の「交換経済」を拡大できるだけなので、商人や金貸しにとっては交換用の道具としての貨幣蓄積増が「交換経済」の機能発揮と拡大対応に必要であっただけ、の一面もある。

・それ故「国際交換経済」の需要増に依存して貨幣蓄積した交換経済拡大用の量産生産体系としての「資本主義生産様式」も、ユダヤ人やプロテスタントの中からしか「産み出されなかった」ことになるはずである。

農業生産と職人生産に価値を置く保守的な「階級制生産経済」に既得権益をもつ「カトリック」からは「金融技術」や「資本主義生産技術」は生まれようがない。

しかし「残所得」「余剰所得」の生産量が増え、交換経済が需要され拡大する時代にあっては、「商人」による「交換経済」が繁栄する、繁栄せざるを得ない時代でもあり、支配階級も結局は「残所得」の交換による恩恵を求めざるを得ないので、根絶、絶滅まではできず、遠ざけ、隔離し、原理主義者によって国内から追放するに留まるが、彼らも交換の恩恵を受けざるを得ないので、絶滅まではしなかった。そして交換経済社会から自らを遠ざけ、経済的発展から取り残されることを自ら助長した。

そしてその後の「戦争国体化」による国債発行の際に、国家は「国際商人」を必要として接近し、カトリック原理主義から距離を置き、拝金主義を受け入れだす。

このカトリックの「生産重視、商業蔑視」の価値観は「マルクス」の思想にも影響を与えている。ユダヤ人家系のマルクスも、わざわざキリスト教に改宗しており「生産重視」の思想体系が貫かれている。

カトリック教国だった「英国」は、その後にローマ教皇が提唱したエルサレム聖地奪還の為の十字軍派兵に応えての失敗後、教皇と対立して自国内のカトリック教会を全廃してその土地を国民に分配して、新たにプロテスタント系の「英国教」を創作し、改宗した。

それは国体下部構造の「交換経済」化(=国体の商業化転換)と符合していたことを意味し、国としてユダヤ人を受け入れる国家に転換した証でもあった。

・1656年、「ユダヤ人追放令を(363年ぶりに)解除」した。

それは、その前から既にユダヤ人の国内流入があり、それを密かに黙認し、そのことで国際交易による富を得て、しかも「下部構造」転換していた証でもあり「階級制交換経済国」(=商業立国)化していた結果でもあった。

この先々の歴史を先行して述べておくと、追放令の解除直後に「イングランド銀行」を設立(1694年)し、その後に産業革命型の本格的な「(信用貨幣による)金融資本主義生産」(1760年~1840年)を実現し、それを適用拡張して世界の工場となり、その後「ユダヤ人首相(1868年)」を輩出して、(国際金融資本の力を借りて)「スエズ運河を買収(1869年)」して、アジアへの「国際交易市場」の拠点づくりと植民地拡大、を信用金融資本で進め、1816年のナポレオンとの戦勝後に「金本位制」にして「ポンドの国際通貨化、基軸通貨化」を国際市場に持込んで「英国経済圏」を形成して、(信用)金融資本の利子蓄積増を図る=(信用金融資本輸出)を加速して「(信用)金融資本としてのポンドでの貸付支配」を世界に先駆けて推進し実現して世界の金融覇権帝国になっていく。

こうしてカトリックはその権威を低下させつつ「階級制生産経済」の農業生産主軸とする未発展国に強く残るが、「交換経済」依存を高めた経済発展国では、カトリックとの距離を取りはじめて(拝金主義を容認する)ユダヤ教の容認とプロテスタントへの改宗、無神論化を拡散していった。

 

  • 「戦争国体」化による貨幣不足と「信用紙幣」化

 

・「階級制生産経済国」の「戦争国体化」転換は、停滞していた「交換経済」に「軍需品の爆発的消費増の為の生産増」や「常備軍の維持や傭兵の獲得」の為の「貨幣需要」と、「交換経済」の(戦争特需による拡大)をもたらすが、その為には膨大な「貨幣増」需要を停滞した「残所得」増に依存できるはずもなく、その国家の支出増分の貨幣が不足し、可能な範囲を既に超えた増税によってもなお著しい「貨幣不足」を国家にもたらして、構造的恒常的な「赤字財政」に陥った。

・しかし、過去の「獲得経済」の場合とは異なり(生産経済の成長段階での「残所得」増による「交換経済」成長期を経て「国際商人」への「所得移転」が実現し続けており「貨幣蓄積増」が既に実体として主に「国際商人」に形成蓄積されていたことで)、「国際商人」からの「利付貸付」による「借金」を「国」ができれば、支配階級の「貨幣増」が得られるので、(国際交易での商人の蓄積「金銀商品貨幣」のうち、まずは「死蔵」蓄積増部分を「有利子で借りる」ことで貨幣不足を補い、それで「職人生産増」させ「交換増」による軍需消耗品の調達が実現して、その結果、他国領土を占領支配して「残所得」移転増や「賠償金」を獲得して所得移転して、それで借金を返済する国家ビジネスを可能にした。

・しかし、この戦争で「利付借金」の利子分の所得移転を確実に「国際商人」(の「出先金融機関」での貨幣蓄積増)できたことで、真の戦争の勝者は「国際商人」傘下の「金貸し業者」であったことになる。

・また、「国外所得」の略奪に依存する「戦争国体化」は、戦争を断続的にでも継続せざるを得ない国体体質になるので、「利付借金」を恒常化し、完済前に新たな「利付借金」を追加することになり、それは「金貸し業」の持続化をもたらし、拡大再生産化を実現して「金融機関」としての自立をも可能にしたが、一方で「貸付」で「金銀実貨幣」を貸し付け増すると「国際商人」の「死蔵蓄積貨幣」では賄いきれず、一方で「国際交換経済の拡大」に対応する「金銀実貨幣」が不足し、傘下の「金融業者達」は、「金銀実貨幣」の不足を「信用紙幣」の発行、で補うことになり、国への発行の同意を迫った。

国家への「金銀実貨幣の有利子貸付」需要の高まりを、死蔵貨幣で対応すると、国際交換経済での使用金銀貨幣を不足させ「国際交換経済」の拡大需要に対応できない。

・国家による「信用通貨発行増」は、既に国家が累積債務超過状態になり、課税での回収清算も限界に達しているので、国家には「信用紙幣」を発行しても市場での信任は得られず、「(国際商人傘下の)金融業者の銀行」の「信用紙幣」発行(保有金銀実貨幣の信用できる担保のある)に依存せざるを得ず、国家は「民間銀行」の発行する「信用紙幣」を「法定通貨」として追認し、納税も「信用紙幣」で行わせ、この「法定紙幣通貨」での債務解消の「受取拒否」を認めず、こうして国家の「通貨発行権」は実質で民間銀行に移り、銀行の印刷紙幣による「金利」獲得による「貨幣蓄積」をもたらした。

・生産力拡大による「交換経済の拡大圧」の高まる「階級制生産経済」の成長期時代は、前述したように「貨幣増」圧が強まり、折角収斂した銅貨や銀貨の不足現象が現れて「交換経済」での「貨幣増を超える交換経済の拡大」を抑制してしまう為に、「商人への所得移転による貨幣蓄積増」の範囲内での「交換経済」の拡大にとどめられたが、前述したとおり、中国の「北宋時代(960~1127年)」の「信用紙幣」の「交子」発行で補うことで「交換経済」の拡大対応に成功していた。

「生産した銅銭での等価交換」を「借用書による貸し借り」、即ち「交換」を「貸借」に転換させ、戦争化で国が「交子紙幣」を倍化乱発して失敗したが、その轍を繰り返さず「信用紙幣」発行は「国際商人」系列下で実貨幣を拡大して担保力をもつ、傘下の「銀行」により発行させ、金利を付けて貸付けしたことで、インフレ化による崩壊を防ぐことができ、国の借金は返済不能なほど膨大になったが、それは額面上であり、「銀行」は金銀実貨幣ではなく、印刷紙を貸しただけなので回収不能になっても実害を伴わずに「市場」を拡大でき、交換と生産を拡大できたので貨幣の過剰もなくて済み、不足を補えた。何より「国際商人」は「金銀実貨幣」を国内市場から引き揚げることができて「国際市場の決済」に使用拡大できて「国際交易」拡大での貨幣不足を解消でき、他方で国家には金利債権を拡大し、金利獲得もできた。

 「北宋」「モンゴル帝国」の場合とは異なり、民間金融資本による「イングランド中央銀行」設立による「貨幣蓄積増」「通貨発行権獲得」による「通貨生産増」が実現したのである。「貨幣」のこの進化は現代に繋がる。

・「生産経済」が飽和して「交換経済」国体化転換して戦争国体化した「英国」は (=民間株式会社である「英国イングランド銀行」設立認可)によって、国家財政は実質「金融機関」の管理下、傘下となり債務過剰国として「国際金融資本」の管理下の国となったが、「国際交換経済」を拡大することで、交換による有効消費増をも拡大し続けることができ、交換用所得の実体的拡大を持続でき、GDP比260%にまで「利付国債」を発行したが、国家経済の崩壊を免れることができた。「無価値の印刷紙幣」依存で世界的な覇権支配を実現していった。

・国際的交換経済を拡大したことで、生産段階での「職人生産」依存からの脱却、即ち「(擬制的)信用資本による産業革命型の生産手段の機械化動力化を伴う、資本主義生産化」が、国際的交易品の消費財生産にも拡張され、軍需品生産にも拡張され、交易による所得移転を拡大して戦争継続と債務返済もでき、金融資本の側も成長拡大できた。

・それが交換市場で飽和し始めると、この生産様式の輸出制限を解き(解かせ)、「生産手段、生産様式」を国外に適用して輸出して、「国外市場の国内市場化」(=英国ポンド信用貨幣の国外貸付による金利所得移転蓄積範囲の世界的拡大)を実現(=国際基軸通貨化)して、国外交換市場を拡大による「金銀実貨幣の欠乏」による「交易経済拡大の抑制」を解消して貨幣蓄積していった。

「資本主義生産様式」はその過程で発生して、普及拡散したものだが、この「資本主義生産化」移行は「信用金融資本主義」にその根源があり、国際的な所得移転獲得を最大化する為の最も優れた生産様式を(金融資本の増殖手段として)、世界にも伝播拡散して「金融資本増」目的を実現した。資本主義生産化は職人生産の進化ではなく「国際的交換経済の拡大の過程」で、貨幣生産の進化形としての「金融資本」化で、「金融資本の(貸付による)増殖」の為の手段、道具として利用され、返済清算原資獲得競争を実現させる手段として普及拡散したものでしかない。「資本主義生産」での消費財生産力の拡大により「国際的交換需要」の飽和が早まり「資本主義生産」の拡大は停滞して需要拡大の為の「市場拡大」を求めることになり「市場の支配権」と「資本主義生産の為の資源獲得支配権」を巡る戦争を産み、戦災復興と成長による再飽和と、それによる戦争化を繰り返す時代に到達しており、「金融経済」自体からの脱却が迫られていて、それは「階級制生産経済」でのそれが「金融経済」

で繰り返されているだけである。一般的な言葉で言えば、「資本主義生産経済」の過飽和による「金融経済」の飽和到達による「金融経済」国間の戦争による支配権の獲得戦争の時代に到達した、ということである。

 

  • 「英国史」に見る「資本主義化」転換の経緯

 

・なぜ、「資本主義生産化」は英国中部ではじまり、産業革命による本格的な「資本主義生産化」もそこで始まることになったのか、そこまでの歩みを解明し、

また更に英国の「産業革命型資本主義生産」での輸出禁止規制解除後の「機械と技術」輸出の第一番目が、覇権を争っていた「仏」や新興勢力の「米、独」等ではなく、ベルギー(=フランドル)だったのか、を解明しておくことで、資本主義生産の発生と成長の根源と、停滞、衰退に至る過程のヒントを英国経済史から模索してみる。

・もともと、英国のロンドンより北部(中部以北)地域は、氷期時代は氷結地で、土地は痩せ、陸地面積も小さい島国で、国土の大半が大陸と比べてもやや寒冷で、歴史的には北海帝国支配下となったこともあり「獲得経済圏」的環境下に属していたが、穀物生産は可能であったことで、早くから「階級制(農業)生産経済」を導入してきたが、最適農業環境下にある「仏国」と比べ、その生産力は劣り、人口も仏国の1/3、更に収穫後の地力回復には「三圃制」の徹底(による耕作表土の施肥と踏みしめ)が必要で「牧羊穀作式農法」目的で牧羊が昔から根付いた。

・その結果「(穀作)農業生産力」の割に「副産物」である良質な「羊毛(原料)」を毎年大量に産出でき、海峡を挟んだ伝統的な「毛織物産地」である「フランドル(=現ベルギー)商業自治都市」の商人が羊毛原料を買い付けてくれたので、それに「輸出関税」をかけて、乏しい穀作農産物からの移転所得に依存する国家財政の不足を補ってきた経緯がある。英国の牧羊は全域に及んでいた、中でも中部の羊毛原料が最も良質であった。

英国は農業余剰からの移転所得財源の不足を、羊毛原料資源の「輸出関税」で補う「半獲得経済圏」型の「下部構造」にも依存する「階級制生産経済」国としての特質を古くから兼ね備えてきていた。

・一方で対岸の「フランドル商業自治都市」内の国際商人達は、英国から良質な「羊毛原料」を商人が輸入して、羊毛原料所得の一部を所得移転して、生産職人に原料販売する、だけではなく、商業利得(流動資本)分で自らが生産道具を購入調達し、職人を雇用して流れ作業で余剰に生産させることに成功し、余剰生産分を商人に所得移転増して「貨幣蓄積増」をもたらす「(問屋制)マニュファクチュア生産」で生産性を高めて拡大再生産していた。

「職人ギルド生産」とは異なり、生産資本の商人支配による余剰生産分をそのまま交換後に所得移転できるので原理的には「資本主義生産」への転換、が「商人資本主義生産」として既に実現できていた。

・この「職人生産」から「(商人)資本主義生産」への転換は「国際商業自治都市が治外法権」で、かつ「国際商人ギルド」が自治都市内での「実質の支配階級」であったことで実現した。(もし「階級制生産経済」の支配階級下の商人、職人のままなら商工業の自由はなく「職人ギルド」秩序による親方による生産技術支配を破壊するので、国体秩序の根底を揺るがしかねない。この生産方式の導入実験はできても、定着までには困難を伴う)。

・事実、歴史的には「羊毛原料及び毛織物の産地」としては、二大産地としての「スペイン」もあり、実はここで毛織物のマニュファクチュア生産化が世界で初めて試みられた。しかし、当時のスペインは「絶対主義階級制生産経済」のカトリック原理主義的な国王支配下だったので、大航海時代の金銀の略奪獲得による成功によって「交換経済」領域を大いに拡大して経済的繁栄していたが、交換経済を担っていたユダヤ人やカルバン派商人や職人達を狙いうちにした「異端審問」で宗教弾圧して殺害し始めた為、彼らの多くは本国スペインから、植民地のフランドルやオランダに亡命移転していた。

その後スペインの毛織物産業は衰退し「フランドル商業自治都市」に脱出した彼らによって毛織物の「マニュファクチュア生産」が伝統的職人生産と並行して営まれてきた経緯がある。

スペインでは、カトリック教徒の都市の職人ギルドからの反発があった、と推察できる。貧しかったスペインは金銀資源を獲得して豊かになり、自国で生産しなくても金銀で輸入すればよくなり、自国生産の意欲は減退した。

・更に、そもそもスペインの「(問屋制)マニュファクチュア生産」を試みた商人も、その元をたどれば、モンゴル帝国の崩壊後、シルクロード交易で日本から金をガラス製品と交換獲得して蓄積していた「(イスラムの)オスマン帝国の膨張」が、モンゴル帝国のペストによる恐慌で財政を支えていた「(信用紙幣の)交鈔紙幣」発行による通貨発行益を失って財政破綻して「交鈔紙幣」が信用喪失して紙屑化し、金による実貨幣を復活させて(東西遠隔地間交易での地中海中継交易を広域支配して「通行税」「関税」を大幅引き上げたことによってイタリア地中海経由の交易は衰退したので)、国際商人達は「航海技術」「造船技術」「蓄積貨幣」と共にレコンキスタによりイベリア半島全域支配に成功したスペイン、ポルトガルに移住して大西洋ルートを開拓し、大航海時代を遂行して両国、特にスペインに黄金時代をもたらした。

それらを主導したのは、イタリアの「ヴェネツィアジェノバ」の「ユダヤ人やカルバン派プロテスタント」であり、この過程で、マニュファクチュア生産様式は「商人資本主義の生産様式」として発明されたものであった。

・当時の英国は、仏国王下の(ノルマン人の)一諸侯(貴族)が英国を支配した「制服王朝」であり、その為、英国はスペイン同様に例外的な「絶対主義的王朝」で、仏式の「階級制生産経済」を徹底定着させたものの、農業生産力での生産飽和もいち早く訪れてしまい、副産物の「(羊毛原料輸出)による関税収入」で財政不足を補い、島国の地政学的軍事的優位性を生かして、既に「獲得経済圏」型国体としての領土拡張を欧州大陸に求め、武力と姻戚外交とで仏国のほぼ西半分を「英国領」としてアンジュ―帝国を築いていた。

仏国王にとっては、配下の一諸侯(ノルマン人諸侯)が侵略して英国王にもなり、更に仏国内の西半分をも支配して帝国を築いたことで国王としての権威は失われていた。

・このパリとその周辺だけの小領地しかなかった弱小一諸侯としての仏国王は「十字軍派兵」の際に英国王と現地で対立し、英国王を残して母国に引き上げ、他の諸侯と共に仏国内英国領を奪還した。英国は大陸内領土をほぼ失い、元の島国となり、領地が収縮してしまった。

十字軍遠征とその後の英仏100年戦争で、英仏両国の諸侯貴族は疲弊し貴族間の内戦を経て没落し、領地を国王に返上して廷臣化し、権力を国王に集中させ「絶対主義国化」が強まり、結果「封建制」時代は幕を閉じた。

仏国は「王権神授説」と「自然国境説」を楯に「領土拡大戦争」を大陸内の各方面で繰り広げ、カトリック化を徹底しようと自国内でのユグノー戦争(プロテスタントで彼らは弾圧を受け、英国に逃れた国際商人がこの後に「イングランド中央銀行」を設立したが)「フランドル商業自治都市」をも直接支配下にしようとした為、自治都市側は抵抗して英国に助けを求めたが、結局、支援国で羊毛原料供給国の英国に亡命移住していった。

・移民の多くは自治都市内で「マニュファクチュア商人資本主義生産」をしていた、スペインから亡命移転した(ユダヤやカルバン派の)商人職人達で、当時英国は「ユダヤ人追放令」が継続中だったのでユダヤを隠し、英国の大都市の職人ギルドとの摩擦も避け、良質な羊毛産地の「中部農村地域」に定着して拡散し拡大していった。

一方でフランドルに残ったカトリック系の羊毛職人達は、英国で「毛織物製品生産が移民により内生生産化」したことで「羊毛原料」輸出が激減し、衰退していく。

1350年頃(ペスト大流行の時代)にはマニュファクチュア生産が英国中部で始まり、1400年頃、英国の羊毛原料と製品の輸出額が逆転し、1500年には製品輸出だけになる。

・彼らの英国移住によって、海峡をまたいで形成されていた「毛織物の商人資本主義経済圏」は、英国内で内製化自己完結して拡大したことで、英国は「羊毛原料」輸出もする(生産経済国+獲得経済的資源国)の姿から「毛織物製品」を「商人資本主義生産」(して輸出し「輸出関税」に)依存した「商業国」でかつ「生産経済」にも依存する国、として下部構造の主従を逆転し「交換経済」依存国化した。

 こうして英国は、毛織物製品輸出(関税収入所得)と、農業生産(農産物移転所得)とを国家財源とする(「国際商業自治都市」ならぬ)「国際商業国」に実質転換して「絶対主義階級制生産経済」としての地主階級支配国体のままで、既存の「生産階級」と商工階級の国内「交換経済」領域を残したままで、国際商人によるマニュファクチュア資本主義生産依存の「商業国」に転換した。

・その後、英国内の国際商人達はプロト工業化 (=英国中部農村地帯での(国際)商人資本による「農村家内制手工業制」での輸出品の内職的副業生産、としての農村工業)即ち「商人資本主義生産」を「毛織物製品生産」以外の品目にも拡張して「毛織物輸出の交易ルート」に乗せて拡大その拡大に挑み、この地域の所得増と人口増をもたらし、更にこのプロト農村工業の生産様式は大陸にも伝わって(フランドルではリネンの生産による復活も果たしたが)毛織物と比べ、それ以外の各種製品の取引規模は小さく資本主義生産様式の原型のままの状態が続いただけ、であった。

・たとえ原理的に「資本主義生産」であっても「マニュファクチュア生産」「家内制手工業的内職生産」の域を出ない手工業生産で、都市の「職人生産」と比べて、商人への所得移転による資本蓄積はできても、輸送コストも嵩み、職人生産との優位差は小さかった。

 それは「交易範囲」が欧州大陸のままで、国際交易市場依存の生産であるにもかかわらず、市場拡大ができず、生産資本も商人資本で十分だったことによる。

この後の「綿織物の本格的な(信用)資本による生産資本投資での産業革命型の工業的機械動力生産化」(=1780年以降の「産業革命」)までの約400年間もの長い期間「商人資本主義生産(マニュファクチュア)」、「プロト農村工業生産」のままでの「国際的交易品の生産販売」が繰り返された。商人資本主義では、資本の本源的蓄積はなしえなかった。

しかし、「国際交換市場」の拡大による生産拡大需要が発生し、その為の貨幣不足を、中央銀行による「信用資本 (=信用紙幣発行による借金)によって生産資本の形成蓄積が実現して産業革命型の機械化動力化による工業生産が実現した。それは、マニュファクチュア生産の延長上ではなく同じ資本主義生産でも不連続である。

・「原理的な資本主義生産様式」が「商人資本主義生産」から「産業革命型の本格的な(信用)金融資本主義生産」に自然成長する、移行するには「国際市場需要の拡大」と、それを背景とした「信用資本(=借金貨幣)」とが必要条件であった、ことをも証明した。

「国際交換市場需要」の拡大条件が得られ、その為の信用貨幣発行による「借金」による貨幣不足を克服して「生産資本投資拡大」することによって「手工業生産」を「動力機械による工業生産」に変えることで、職人手工業生産との有意差を実現したことになる。

・「本格的な資本主義生産」に移行転換するには、生産資本への投資規模が「信用資本(=銀行での信用創造による信用紙幣の発行、即ち利付借金)」依存による貨幣生産を「金銀実貨幣」の本源的蓄積などに頼らず、待たずに、可能にし、それを実現した、のである。

要は、綿織物の金融資本主義生産化後も「毛織物は商人資本主義や職人生産」も持続したのである。

「国際市場での貨幣との交換需要」と「信用金融資本」の「2つの必要条件」が得られないことには、いつまでたっても「商人資本主義生産」や「職人ギルド生産」が継続するだけでしかない、ことが証明されたことになる。

・しかし、その産業革命もロンドンの近郊、とかではなく、英国中部農村地帯で発生したことは、「商人資本主義生産」「プロト工業化生産」と同様に都市部の(内需用の)「職人ギルド生産」との対立を避け「商人資本主義生産様式」の外形での延長線上で「産業革命型の資本主義生産」が形成できた、即ち、都市の職人ギルドの延長線上での進化による転換ではなかった、ということなので「マニュファクチュア商人資本主義生産」に「生産様式の原理」としての価値がなかったことにはならない。原理的には必要条件満たしていたことにはなる。

「信用紙幣による信用貨幣資本増」が「資本主義生産」での転換をもたらす最大の決定的要件である。

(本源的蓄積資本がなかった貧しい中国の資本主義経済発展は、国外金融資本からの借り入れで生産手段の動力機械投資により巨大生産が実現し、奴隷的な被抑圧少数民族農民工の雇用で最低限の人件費で、圧倒的低コスト生産を実現して世界の国際交換経済需要から既存資本主義生産を排斥して交換実現して労働所得も低いながら実現して世界市場での独占的地位を得た。先進国は国内「資本主義生産」を失い、捨てて、代わりに金融投資によって金融資本増する「金融資本生産」に移行した。)

・1694年の「イングランド中央銀行」設立により、英国は世界各地での英仏間の最終「世界市場覇権獲得戦争」を続け1763年の「七年戦争」の終結により、仏国は敗退「国際市場」と「原料供給植民地」の覇権的支配を英国が獲得したことで (英国の産業革命(1760~1830)型「資本主義生産化」拡大をその国際交換市場拡大を背景に実現した。

 尚、英国と世界覇権を巡って戦い、敗れた仏国は(財政破綻して国民全階層に重課税提案してフランス革命が発生、ルイ王朝は殺害されて共和政化したが、各国の反革命干渉戦争に革命軍が国民皆兵化できてナショナリズムが勃興し、ナポレオンが皇帝となりはねかえすことができたが)、このナポレオン時代の1800年に、英国に100年遅れで「仏中央銀行」が設立され、1830年代に産業革命が始まった。

・この経過からも「中央銀行」設立が、国際市場の支配権獲得戦争を勝利させ、かつ、この交換需要の拡大に対応する為の産業革命による金融資本主義生産による高度化転換が実現した、という流れ、なのである。この豊だった大国であった仏国の遅れは、多分に「カトリック原理主義王制」による商業軽視にあり、スペインと似ている。

・それでも英国でも「上部構造」は相変わらずの農業余剰所得の移転依存の「絶対主義階級制生産経済」王制国体のままなので、上部、下部構造間での「ねじれ国体」ではあったが、この「ねじれ」は16世紀の「市民革命」を経て議会を制定し、内閣が国王の行政執行権を代行して「(国際)交換経済国」化を旧農業国体の形骸化王制下で実現していた。

その過程で、王を殺害して共和制化を実行もしたが、既存の農業からの財源調達の統制秩序を不安定化させて混乱し、結局はドイツから英語もできず政治参加もしない外戚関係者を国王に迎えて「王政復古」し安定化した。

・英国は、領地増による農業生産増依存ではなく「国際交易」拡大に依存して更なる関税収入増を拡大した為に、「国際交易」による商業的所得移転依存での拡大路線を選び、欧州大陸での領土拡大戦争依存より「造船力」「海軍力」強化で国際交換市場の支配拡大をめざした。

西欧各国は「絶対主義階級制生産経済」国が大陸内領土の拡大戦争に明け暮れ、国際商人からの借款増で「金貸し」に「蓄積増」をもたらし続けていたのとは対照的であった英国は、国際市場覇権拡大での戦費増を伴ったので、英国も同様かそれ以上に借金に依存し続けていた。

 

  • 産業革命型(信用)金融資本主義」誕生の経緯

 

大航海時代後に遡って、英国の「国際的交換経済」の覇権獲得と、「産業革命型信用金融資本主義生産(綿織物での)」誕生の経緯も再確認しておく。

英国は、国際交易市場の獲得と支配、その為の海上覇権の獲得を得ようとしたが、大航海時代をイタリアからのユダヤ系の「国際商人」の支援を受けて先行した、ポルトガルとスペインが(英国の前に)立ちはだかっていた。

・彼らは英国の商業的「交易市場拡大」目的ではなく「暴力的な植民地支配」と「奴隷獲得」による「金銀の略奪」と「プランテーション生産」によって黄金時代を既に迎えてはいたが、商業、交易主体の「商業国体化」転換を望まず「階級制生産経済」秩序の維持に傾倒し国王は絶対主義かして「カトリック原理主義」による「異端審問」で既得権益を守り、大航海時代により発達しかけた「国際商人による国際交換経済領域」の拡大を求めたイタリアから移転してきたユダヤ人、カルバン派の商人や富豪を弾圧して商業国化転換の芽を自らの意志で摘んだ。

これにより、彼らはスペインから脱出し、植民地のオランダやフランドルに「国際交易拠点」と「蓄積金融資本」を移行して経済発展地域化させ独立運動も起きてしまう。

英国は、まずスペイン、ポルトガルの商船を海賊に襲わせて積み荷の銀を略奪し、更にスペインから独立しようとしたオランダに加勢して海上覇権獲得に注力した。

ポルトガルは先行してアフリカ西岸の交易拠点づくりから始め、銃を拠点で売りさばき、内戦を誘発させては戦争捕虜を奴隷として獲得して「奴隷貿易を国際的に専売化」させて儲け、海上ルートの喜望峰経由(=東回り)でのアジア各国際市場への直接アクセスに成功、日本にも到達して同様に銃を売り、戦国時代を加速化誘導して敗残兵を奴隷として買い、他国に売り捌いた。またブラジルを発見し植民地化してプランテーションを根付かせた。

他方で、スペインは、出遅れたことで、西回りでアジアを目指して航路開発し、新大陸(南北アメリカ)を発見してこれを開拓制服して植民地支配し、奴隷を使ったプランテーションと鉱山開発で、金や銀を採掘させて略奪し「金銀資源国」化して黄金時代を築いた。

・更に後れをとり、大西洋航路の開発と植民地支配の後発国となった「英国」は、1561年に初めて西アフリカで奴隷狩りを始め、セネガルザンビアから奴隷と胡椒を持ち帰り、翌年には英国から織物を積んで西アフリカで黒人奴隷と交換し、サントドミンゴに運んでスペイン人プランターに売却して砂糖、皮革、銀、等と交換して本国に帰還、莫大な利益を手にし、三角交易で商業利得を獲得しつつ、その陰で、密約を交わした海賊にスペイン商船を襲わせて銀貨を強奪させて、そこからの利益で自国の軍艦や大砲を生産して海軍を強化育成して海上覇権をスペインから奪取しようとしていた。

・1568年、オランダは国際交易により富を蓄積してスペインと独立戦争を始め、英国はオランダに加勢して「1588年のアルマダ海戦」でスペイン、ポルトガル連合艦隊(無敵艦隊)を破り、英国は遂に海上覇権を奪取できた。

(そもそも海戦のスタイルが、船をぶつけ乗り移って奪う旧来方式のままのスペインに対し、大砲で砲撃破壊してから乗り移る英蘭の戦法、戦闘艦の性能が勝ったが、「海賊」が「提督」となって海戦を勝利に導いた面も。

スペインの船舶技術はユダヤ人から教えられたままで進化しておらず彼らを追放したことで技術革新が遅れた)

1648年、オランダは遂にスペインから独立したが、南部のフランドルはカトリックで独立せずオランダと別れた。

 ・オランダはスペインから逃れたイタリアを源流とするユダヤの富豪達の資金や、各種の生産技術開発により、またカトリック的規制から解放されて国外の有力、優秀なカルバン派やユダヤ人達もまり、干拓、造船、海運、貿易、金融、銀行、株式会社、教育、医療と総合的経済発展が得られ、最盛期には英国の3倍もの船舶を保有して、世界に拡散していたスペイン、ポルトガルの交易拠点を次々と奪い、世界貿易全体の半分を占める程に成長して海上覇権、国際市場覇権、金融覇権を獲得して小国ながら「覇権国家」となった。

・英国は独立直後のオランダと1652年には英蘭戦争を仕掛けて「航海法」を成立させ、オランダ船籍での交易を主要国際市場港から締め出すことに成功し、第4次までの英蘭戦争が海戦だけで行われ、その全てで英国が勝利した(1784年)ことで、オランダの世界覇権は翳り、金融資本家達もオランダでの事業を整理しはじめてロンドンの「シティ」に移転していった。

・英国はオランダの支配していた世界の交易拠点を次々に奪うが、それにフランスも参加して、インドやインドシナアメリカ南北大陸、と、世界各地で植民地支配覇権を争い(第二次英仏100年戦争)、英国は「中央銀行(1694年)」を設立したことで戦費をまかない続けることに成功し、更にその信用貨幣発行による金利獲得目的の為に民間にも貸付けを拡張して、産業革命型の「信用金融資本主義生産化」を実現して、工業生産力と軍事力を拡大できて世界各地から仏国勢力を駆逐して世界覇権を確立した。

・この対仏戦争で債務増であえいでいた英国を「イングランド中央銀行」設立で救ったのは、何と仏国内でのカトリック原理主義国王によって弾圧され、ロンドンのシティに逃れて「金融業」を営んでいた反カトリックカルバン派の「ユグノー」達がその資金を出して株式会社として設立したもの。戦費を銀行発行の信用紙幣との交換で「利付国債」発行を賄い続けて世界覇権を獲得できた。

更に産業革命型の「信用金融資本主義生産」化を「綿織物工業」で成功させ、それを他の軍需品や消費財製品生産、更には生産財としての機械生産(重工業生産)にも拡張して、英国を「世界の工場」に押し上げたが、銀行は、その「貸付利子」の対象を拡大して貨幣生産増によって蓄積増できて「金融資本」を急速に成長拡大できた。

(これが「資本の本源的蓄積」による拡大再生産であり、国際交易拡大による輸出(国際的交換経済)の為の「生産様式の金融資本化」転換を信用紙幣発行で行って資本蓄積増した、のである。)

 

  • 綿織物「産業革命型資本主義生産」開始の経緯

 

・遡ること17世紀には、英国東インド会社の目的であった「香辛料」と「インド産の綿布」をオランダ、フランスの各東インド会社と輸入競争していたが、それにより「綿製品」需要が世界的に高まり、アメリカ新大陸からの金銀供給は続いていたので、金銀実物貨幣で買い付け継続は可能だったが、例えばインドネシアモルッカ諸島で「香辛料」を仕入れる際、現地商人は金銀より「インドのコロマンデル産綿布」との交換を迫ってきたほど綿織物製品人気は世界市場で高まっていた。

アフリカ人奴隷の仕入れにもインド産綿布が求められ、これまでの銃やラム酒の需要も既に低下していた。

こうして「インド産綿製品」は、金銀と並ぶ世界共通通貨の役割さえ果たしだし、インド綿織物産業は世界の衣服市場を席捲して、生産衣服の2/3を輸出することでインド経済は潤っていた。

 ・英国も競って「綿織物と香辛料」を買い付けて西欧に運んだ為、英国も輸入超過による貿易赤字に転落し、金が流出し続けただけではなく、英国内市場に綿布が浸透しだすことで、自国の「毛織物生産業者」達の暴動にまで発展したので、英国政府は1700年「インド産綿布を輸入禁止」にした。

その後、英国はインドの植民地支配を強めて「徴税」を強化拡大して輸入超過は克服し、更に「綿製品の国内生産」に挑戦した。

綿織物製品は作ればすぐ売れることから18世紀後半には「信用貨幣資本を生産資本に投下」して「動力機械工業生産」化が実現し世界市場に大量輸出できた。

・英国は、もともと毛織物での繊維生産技術はあり、これを応用して100年後に「信用貨幣資本」を生産資本に投入して「手工業の道具使用での人力消費生産」から「機械による動力消費生産」に切り替えて大量生産化(職人的生産から「資本主義的生産」化)に成功した。

いかに「綿製品」の国際需要が(少なくとも毛織物製品に比べても)大きかったかを物語っている。

英国での「綿織物の信用金融資本主義による内製化生産」での大量輸出が始まると、インドの綿織物輸出は1800年以降急減し、1830年代には、インドは「綿織物輸入国」に転落、英国からの輸入で賄うまでに追い込まれた。

 ・当時のインドの綿工業生産は、国内で原料綿花を生産して家内制手工業で製品化して世界市場で売れた世界初の工業製品であり18世紀末迄インドが独占状態であった。

英国は、産業革命による綿製品の工業化大量生産販売をインドに代わって実現する為に(即ちインド国内での農民や職人の労働所得を英国に移転させ、英国内労働所得を増やしつつ金融資本蓄積する為に、機械化生産し、原料綿花もアフリカ奴隷を仕入れて北米の植民地に輸送して「プランテーション生産」で安価に大量生産させ、それを国内工業生産物と現地で交換して英国に持ち帰り、金融資本からの借金で「動力機械設備」を導入して大量生産して、国内労働所得増を最低限に抑えて機械で余剰生産させて金融資本蓄積しつつインド産綿布を下回る生産コストを実現してインド産製品のシェアを奪った。

・「信用金融資本主義による動力機械大量生産」化、はインド綿工業生産を破壊して国際市場で独占販売する目的で導入されたのだが、銀行券による生産手段の機械化動力化設備投資資金での「信用貨幣」による「貸付利子」の獲得、を主目的としていた。

この成功で「綿製品以外」の商品生産にも拡張適用(生産機械、運輸機械輸出)して世界の工場となり「国際交換市場」に持ち込んで商業利得の国際商人への貨幣資本蓄積増に貢献し、更にその貨幣増分から銀行の利子蓄積増に分配させつつ国際交易市場での占有率を拡大した。

・「信用貨幣」の原理は、巷の「ゴールドスミス(金匠)」での「預かり証」の過剰利付発行による「金融業(金貸し)」の「闇経営」を、国家の「金融制度」として採用して銀行制度を合法化したものである。

これが「金融技術」の進化として英国に「信用金融資本主義国化」転換をもたらしたことになる。

国際市場拡大に対応する為の「利付借金」による生産資本の機械化投資による生産革命をもたらしたことになる。

・英国は、こうして単なる(毛織物のローカル国際市場としての寒冷地域、又は冬季対応用の国際市場)対応のマニュファクチュア「商人資本主義商業国」依存の姿から(「綿織物のグローバル国際市場」対応)の為の銀行による「信用貨幣(銀行券)」による銀行の「利子蓄積増」の為の借金による「信用金融資本」に依存する生産様式への転換による「信用金融資本主義国」に大転換した。

 それは「商業国」化を経て「金融資本主義国」化して「資本主義生産」の高度化と、「国際交換経済」での国際基軸通貨発行化での「信用資本輸出」による金利獲得目的に依存する「信用金融資本国」化をもたらしていく。

 

  • 「(信用金融)資本主義生産化」の国内飽和

 

・英国を金融支配した「国際商人に由来する金融資本 (銀行)」は、英国での信用紙幣発行による貸付拡大での経済発展が飽和に達すると、借り手が国内で飽和してしまい更なる貸付拡大による利子所得の移転獲得先を国外に求めることになる。もともと国内需要用生産は「国内交換経済」領域での「職人ギルド生産」で賄われており、「国内に資本主義生産」をわざわざ持ち込んで国内総需要に対して過剰生産する必要はなく、国際需要用に国内資本主義生産を拡張して商業利得を獲得してきたが「国内資本主義生産」で当面の「国際市場需要」が満たされてしまったので、貨幣生産増需要が作れなくなり停滞した。国外市場で、国内市場の場合と同様に「ポンド銀行券」としての「信用紙幣(ただの印刷紙)」の発行で「国際交易市場」の拡大で「金銀実貨幣」不足を補う信用紙幣発行することで貨幣生産増できることで、国際市場の拡大(信用紙幣ポンドによる)に対応をしようとした。一挙両得である。

・それは国内で飽和した「信用紙幣発行増」を国内での発行増での貸付のできる国外にも適用して、しかも国内の場合と同じく「信用紙幣のポンド発行貸付」による「国際交換経済」での決済に必要だった「金銀実商品貨幣」に代えて交換市場化する、国外市場の国内市場化化の為に、国外需要の大きかった「資本主義生産化」の為の機械設備や動力機械等の生産資本と技術ノウハウを丸ごと「ポンド紙幣発行による借款で」国外売却することにした。国外から金利所得を移転蓄積できるが、これまで拡大した「国内資本主義生産」は、売却のたびに既存の国際市場に対して過剰生産化して停滞し収縮し、金融資本拡大だけが拡大する、資本主義生産過剰を誘発した。

・英国中央銀行発行のポンド信用紙幣を一旦、金本位制による金との兌換を付けて、金銀と入れ替えて交換市場では使用せずに担保用に銀行保管して、貨幣需要増に対しては「信用紙幣」を有利子で貸し付けて発行増して利子収入を得る国際的な所得移転を実現して拡大した。

 またその為に、国際的貸付を可能にする為に、各国に「中央銀行」を設置させ、ポンドとの為替取引を可能にさせ、「資本主義生産化」を拡大していった。

開国国も、英国ポンドを元手に軍事的、産業的拡大が実現できたが、国際交換市場需要は既に飽和到達していて新規参入余地はなく、市場の獲得闘争が続き、その為の軍需品生産需要が拡大して「信用資本の利付貸付」だけは拡大し蓄積増できた。

・こうして「信用金融資本」は国境障壁を超え「国際交易市場」を「英国内市場」化転換していった。

結果として「国際交換経済」を銀行発行のポンド紙幣で拡大でき、ただの印刷紙の「ポンド銀行券」で「利付貸付」を実現して「金利による所得移転」を蓄積増した。

こうして「綿織物」「機械」「軍需品」等の輸出の為の「世界の工場」だった英国は、その資本主義工場が世界的に分散して「金利を獲得増する金貸し国」即ち「信用金融資本国」に「商業国(商業用生産国)」から移行し、国内での工業生産は各国に拡散し、国内生産は空洞化していった。

・国外への国際交換市場の貨幣需要増を背景に「利付貸付」して発行銀行券分の貸付総額を拡大して利子分を英国中央銀行を通じて「国際商人」に貨幣蓄積増したことで「国際金融資本」として成長して、完済されるまでは利子所得の移転蓄積をただの紙でし続け、更に「貸付増」し続けないと利子収入を拡大できないので完済されると収入増が減りだす。それ故に、「国際交換経済」実体を拡大し続け「貨幣需要」を増やし続けて貨幣不足をもたらすと貨幣発行増が継続でき銀行を存続できて「利子による所得移転」が継続できる。

 ・こうして「国際交易」増による「商業利得の蓄積貨幣」増とは別建てで「国家や生産者への利付での信用貨幣発行による貸付」が新たな「貨幣生産増」ビジネスとして確立されて成長する。

この時点で(国際的交換経済を除き)「貨幣」の現物「金銀商品貨幣」依存の時代が歴史的に終了し、国家は「中央銀行」の管理下の多重債務者の一つ、となる。

金銀貨幣でなくとも「銀行」の金銀換算できる「資産」を担保として、銀行による10~100倍規模の「信用貨幣」生産発行によって信用貨幣が「金銀商品貨幣」に代わる時代に本質的に転換したことになる。

貨幣を生産コストのない状態で発行できるので、貨幣不足は今後起きずに済む時代に移行した。逆に、発行過剰による競争激化、淘汰による衰退の道を歩みだす。

・しかし、信用貨幣は「交換経済」の裏付けの存在によってしか、その必要性も価値もない「ただの印刷紙」なので、いつでもモンゴル帝国での「交鈔」の運命にさらされる不確実性はあり、金銀商品貨幣とは異なる。

「信用貨幣」の発行増での軍資金調達力によって戦争の勝敗は左右されるので生産増と爆発的消費増を維持し続けることができた英国は戦勝し、国際覇権を獲得できたのであり、「信用貨幣」で戦勝と、国際市場での基軸通貨化をも実現した、ことになる。

・英国は銀行の国外への「貸付金」が踏み倒されない為に(実は印刷紙でしかないポンド紙幣にすぎないので踏み倒されても実損は印刷代でしかなく、モンゴル帝国の「交鈔」と同じ類なのだが)、国外の債権を暴力で回収できるように「英国軍」を必要に応じて派遣して「国際交易市場」を英国支配下で管理し支配して債権回収した。

それは「国際交易市場の国内市場化」であり、ポンドを基軸通貨とすることで英国内の銀行金融資本の利子獲得による貨幣蓄積増をもたらし、英国軍に対外債権を守らせて利子の獲得を実行した。

 

  • 「信用紙幣発行」による「金融資本国」化

 

・「交換市場」での「物々交換」は、

「過剰生産物」→「貨幣」→「欠乏物」の間接的交換に依存し、「過剰生産物」→「欠乏物」、の直接的交換は不可能で交換が成立せず(=物々交換が市場でできない為)商人が、「過剰生産物」→「貨幣」、の段階、即ち「貨幣」→「欠乏物」の前段の交換を「貨幣」によって代行することで「貨幣」→「欠乏物」は進みそこで「商人」は貨幣を回収し「貨幣を市場に投入して回収する役割を果たす人」であり、その過程で2⊿G’分の貨幣生産増を実現して「交換市場」をも拡大する人なのである。

更に言えば「市場の拡大(交換用生産物の拡大)」需要に合わせて、貨幣を貸し付けて拡大するする人でもある。

・結局、この時代に「貨幣資本」を「蓄積」できるのは、「階級制生産経済での派手な消費、戦争による消費をしない支配階級(余剰所得の移転支配)」分、と「交換経済」領域で「もちこまれた過剰生産物」の一部を「+⊿G’分移転」できる「(国際)商人」(一部国内商人も可)となる。

ここで先進国(農業)「生産経済」が飽和限界に達してしまうと、余剰生産物(穀物)の生産増による「残所得増」は停滞し前年並みの「残所得」しか得られず「国際交換経済」は拡大せず「商人」の元には前年並みの「+⊿G’分の貨幣蓄積」が死蔵蓄積として継続して積み上がるだけで「交換市場」は拡大せず、貨幣の活用機会を失う。

・しかし、いずれ必ず「階級制生産経済」国の農業生産力は、既存領土 (耕作地面積)に規定されて、可能な耕作地を開墾し尽くしてしまうと(まれにしか発生しない農業革命的な生産性増でもおきない限り)生産力が飽和限界に達して頭打ちとなり経済停滞しはじめ、交換経済にも停滞を波及させるが、「階級制生産経済」国は戦争国体化して「死蔵蓄積増」していた「貨幣」を吐き出しても不足して「利付で商人から借金してくれる」のである。

しかし「商人」は自らが「階級制生産経済」での交易未参加国を参加国化して拡大できれば「交換市場」で「経済圏間交易」での「獲得経済」圏からの「資源や特産物」の交換用余剰生産を相変わらず拡大でき、「獲得経済」圏も停滞のあおりを受けないで済む。

「国際商人」には、貨幣蓄積増の拡大余地、と共に活用用途のも残されていたことになる。

・「商人」の貨幣蓄積増は、「国際交換市場」が拡大すると国際市場での金銀実貨幣が「交換経済」に必要なことで貨幣不足をきたすし、一方で戦争国体化国の商人からの「利付借金」の需要は高まる一方なので「金銀実貨幣(商品貨幣)」は国内で不足欠乏し、増加し続ける戦争国体の「利付借金」は「金銀実貨幣」に代えて法定通貨化させた兌換「銀行券」の発券で代用することを思いつく。

 「イングランド中央銀行」の設立である。

 これにより「不足する金銀貨幣」に代えて印刷するだけの「銀行券」という銀行の「債務証書」を印刷するだけで、貨幣を産み出せて「金銀商品貨幣」の不足による弊害を解消でき、時代は「商品貨幣」による「交換経済」の時代から「擬制金融資本の時代」に転換した。

・更に、「信用貨幣」は国際交換経済では全く通用しないただの印刷紙でしかないので、「信用貨幣」が通用する「国際交換市場」、即ち「国際交換市場」の覇権支配による基軸通貨化を実現して、あたかも一国経済圏(国際交換経済の国内交換経済化)として機能させ、国内での「産業革命型生産資本主義生産化投資」に対する「利付貸付」拡大=資本主義生産化と共に国外の「国際市場参加国」への銀行での「利付貸付」と「産業革命型生産資本主義生産化投資」への「利付貸付」の拡大=資本主義生産化を国際通貨の基軸通貨化で拡大して利子拡大分の貨幣蓄積の爆発的蓄積増を実現していった。

・また、未開の遠隔地での新たな国際交易拠点の拡大開発には、費用もかかり「軍事的外交的リスク」も大きく、現実には海軍力、外交実務力等も要求されるので、「大型商業自治都市」規模の(オランダ)は、民間で海軍と外交権をもって対応したこともあった(VOC)が、荷が重く限界もあり「銀行」が債権者として国を支配して、国体財政で海軍と外交力を「交易圏の拡大」に利用して、国家に自ら「国際市場を拡大」し治安維持をさせる方が安全で格安なので、「国際金融資本(=貨幣蓄積した国際商人)」は、戦時国体化国への「金貸し」即ち「金融業」を強め、国家に「国際交易市場」を拡大支配させた。

・1602年のオランダの東インド会社(VOC)のように「民間の貿易会社」が軍隊を持ち、条約締結権さえももつことを国家承認した民間依存の場合もあったが、英国は「国家」として「商業国化」して、自国で海軍力を強化し、国際交易都市を占領拡大して「国際交易市場」を拡大させた。こちらの方がより強力でより効率的であり、その為には他国との交易拠点の獲得戦争を国家として実行して勝たせなくてはならない。

そして基軸通貨の通用する「国際交換市場」を拡大する。

・いざ国際商人の側に立って考えると、金銀等での蓄積貨幣は(期首には)確かに商人の「蔵」に蓄積保管されており、それだけを見るとあたかも「商人」は大金持ちで「蔵」には金銀がうなる程あり、それから国体は借りられるはず、と単純に考えられがちだが、それもあながち間違いではないが、その金銀は期末まで全部が「蔵」に金銀貨幣として存在し続けてはいない。

「G―W―G’」即ち交換期間は「貨幣→余剰生産交換物→貨幣増」の不等価交換の連鎖循環に投下されるので、価値形態は常に転換し続けており、「蔵」には金銀貨幣が全くなく、「交換物」だけになっている時期もある。

国家への「借款」用に固定的安定的に金銀が運用できるのは、せいぜい「G’」のうちの「 ’」部分、即ち「期末の貨幣増での増分部分」か、「死蔵蓄積」させて将来の交換に備えた分、しか貸せないはずである。

・もし、期首「G」の金銀貨幣蓄積資本の全額を「戦争依存国体」への「借款用」に国に貸し出してしまえば、期中の「蔵」の中身は国家の「借用証書」としての「利付国債証書」があるまま、であり、国からの「借款」完済時までの期間に得られるはずの「商業利得の蓄積増分」即ち「 ’」部分を下回らない利子をつけてくれなければ、国家に全額を貸し付けることはできない。

しかし、それで全額貸し出せば、その期間は本業の商業活動が停止してしまい、商業利得による予定した貨幣蓄積増が得られないばかりが、それは貸付金利で立替られるとしても、問題は国際交換市場での商業活動を放棄させられ、国際市場に持ち込まれた交換用余剰物の交換を滞留させて機能不全を起こさせ、やむなく新規の国際商人を入れて「国際交易市場」を機能させることになり、交易市場での「国際商人の既得権益を失う」ことになり、交換市場を混乱させて復帰できなくなる。

・それ故、期首保有貨幣の全額を「借款」にあてるなら「商人を実質廃業」することになり、その資金で「金融業」に転業する他はない。

更に、「借款」が一度きりで、返済完了してしまうと再度新たに同額以上の「借款」を保証してくれなければ、また、期中に国家が戦勝して敗戦国から賠償獲得するなどして「国債証書の返還」を求めて借りた金銀を返済して完済すれば、金融業者の保有の「利付国債」は減り、又は失い、それは金利を得る目的の「金融業」の縮小又は廃業を迫られることにもなる。

・商人は「商業」から「金融業」に全面転換して業種変えするにはリスクが大きすぎるので、国家の徴税権を担保に取ってリスクヘッジし、徴税債権を割り引いて国家から買い取って徴税人を雇って国家に代わって国民から徴税して国民に嫌われた歴史もあったが。

・商業活動中は「G―W―G’」即ち「貨幣→余剰交換物→貨幣増」と価値形態を常に転換して循環し続けるものの、価値形態を問わなければ、何らかの価値物は「国際商人」の元に存在し続けてはいるので、これを「担保」として、金銀現物を貸すと国際商業活動がその分阻害され縮小するので「金銀貨幣との交換を約定した兌換銀行券を発券」し、金銀を直接貸さずに(国際取引には金銀が貨幣として必要なので)、銀行券を国家に法定貨幣として承認してもらえるのなら、国際商人の出先機関としての「銀行」に「利付国債」と発券「銀行券」とを交換できるようにする。

・国家は金銀現物代わりに受け取った担保分を上限として発行される「金銀との兌換を約定した」「銀行券」を受取り、同額の「利付国債証書」を銀行に渡して、銀行に利付返済債務を負い、「銀行券」を「法定通貨」として「国内交換市場」での「貨幣」として現実の「国内交換市場」で通用させることができれば、また「法定通貨」での納税を認めれば、通過として流通し、軍需品を市場から調達して労働市場で傭兵を雇い、市場で戦争の為の軍需品調達が「銀行券」による「借金」で可能になる。

・「国際金融資本の中の金融事業子会社(=銀行)」の「蔵」には兌換発行銀行券分の金銀があり、何時でも金銀との交換は可能という設定だが、事実は先ほどのように、期首か期末でもないとあるはずの金銀現物はないが、国家には通貨として通用させた「銀行券」を「銀行内の蔵にあるはずの」金銀と交換するニーズは全くなく、戦争遂行の為の過剰消費に充てるので、担保にしていたはずの金銀は「国際商人」の国際取引に使用できて交換市場を拡大でき「利付国債」が「蔵」に眠るだけで問題はおきないばかりか、「国家への貸付」が可能で市場で「通貨流通」できる「信用紙幣」は、担保を超えた発券も、対国家に対して可能になり、その信用は民間製造業にたいしても同様に可能なので、担保を超えた貸付増による金利蓄積拡大の手段として「資本主義生産化」を拡大した。

・この「利付国債」の国の債務を消すには、戦勝後に得た相手国からの莫大な金銀で返済して国債を回収し債務を消す。しかし、新たに国家が借金してくれないと銀行は利子が得られなくなり「金融業」としては店じまいを迫られることにもなるので、一旦銀行を設立すると、国家への発券「銀行券」による「利付国債」との交換による「貸出」し、だけでなく、国家の爆発的消費増の為の「生産急増」需要の為に、(貸し出す発券銀行券分と何時でも交換できる金銀が銀行の「蔵」にはあるはず、との信用が国家への貸し出しで既に得られているので)「信用創造」による銀行の自己資金(担保分)を超えた数倍、数十倍、百倍近い「信用貨幣」(=発券「銀行券」)の発行が可能となり、「金利は発行総額分」に対してかけられるので、「金融資本の利子分の蓄積」を対民間貸付からも得られて爆発的消費増の生産増を可能にできる。

・信用面で正規に銀行券を発券するには、その発券量は本来なら保有担保以内に制限されていなければならないが、銀行から借金して受け取った兌換銀行券をわざわざ銀行で金銀と交換する需要があるとすれば、金銀を装飾品原料とする金細工師や銀食器の職人、又は国際交易で貨幣として使用する「国際商人」くらいで、あとは爆発的消費増の為の「交換市場」拡大の為の生産力増拡大目的の資金として交換に使用され、「交換市場」参加者の生産手段の機械化動力化に投資され、貨幣は持ち手を変えて所有者の手に残り続けて市場内を循環するだけなので、金銀貨幣を貸したのと全く同じ作用をもたらす。

 ・また、戦争が継続し続ける時代は、国家の借金による過剰消費が続き、財政が不足しつづけて雪だるま式に借金が膨れ「借金」の完済前に、即ち銀行の担保増以前に追加融資の需要が起きて、国家に対して担保割れしたままで「信用創造」による過剰な発券「銀行券」で追加融資分の「利付国債」と交換されることになる。

国家は市中で法的に通用する銀行券で戦時消費を賄って戦争を継続し続けられるので戦勝確率は高まり、銀行は紙幣の印刷コストだけで、担保のない銀行券で「利付国債の償還債務」を国家に負わせることができて利子を稼ぎ続けられる。

・金銀と国債との「交換」による貸付、ではなく、発券「銀行券」と「国債」との「交換」即ち、国債をほとんど無料の銀行券と交換、ただの紙で「利付国債」を銀行が得られるので、銀行は金利を獲得できるが、国は銀行の担保不足をたとえ知っていても承認せざるを得ない。実際には戦勝して生き残ることしか頭にないので国際商人の底なしの資金力に驚いていたレベルかもしれないが。

・このことで銀行は利子を稼ぎ続けられるが、この仕組みは、国内で密かに発生していた「ゴールドスミス(金匠)」による「金融技術」のパクリであり、この制度化でしかないが、これが「金貸し金融業」の「金融技術」進化そのものであった。

また「生産資本」を「借金による固定資本化(機械化動力生産化)投資」によって利子を得て、余剰生産させてその余剰分の交換後の販売後貨幣を貨幣形態で蓄積増する「資本主義生産」を「商人資本主義生産」に替えて「信用金融資本主義生産」化転換した、のであり、この貸付による利子も銀行が蓄積増できた。

こうして担保実体のない「信用貨幣(銀行券=偽札製造)貸し」で「期間金利」を貸付先の国や生産企業から得て貨幣蓄蔵増できる、という金融事業モデルを確立し「銀行業」という「金融技術」で金融資本から自立させた。

・「国際金融資本」による「商業利得による蓄積貨幣」から、ではなく、担保実体のない銀行の「信用創造」による発行貨幣(信用銀行券)により国家の借款が成立し、信用創造による「銀行券」発券、だけで利子増分の貨幣資本蓄積ができる「信用金融資本主義」国化が、「中央銀行設立」で実現したことになる。国家の「通貨発行権」の「金融業」による奪取、を成功させた。

 国家という事業体の株式を金融資本が握り、拡大して、国家の筆頭株主になった、に等しい。国家の富国強兵に対して利付投資が金融資本によってなされ続け、それは現代まで続いている。

・金融業としての銀行は、原価ゼロでの「金の成る木」で貨幣生産でき、国家にとっては「打ち出の小槌」になる。

したがって「銀行」設立の提案は金融業者から間接的に国に持ち込まれ、金策に悩んでいた国がこれを受入れた。

  こうして「国家」(企業も)は「中央銀行」設立で「金融資本」の信用創造による利子の貨幣蓄積増の道具とされ、国民は過剰消費に伴う借金返済の為の道具とされた。

・しかし英国はこれにより第二次英仏100年戦争に勝利できて世界的な交換市場の覇権、植民地を獲得し、英国シティに集結した国際金融資本によって拡大できた世界の英国覇権の市場をポンド市場圏とした。

信用創造」の銀行券は国外との取引では相手が受け取らない。そこで金との兌換紙幣化により「国際交換経済」でのポンド通貨の国際通貨化、「基軸通貨」化して、国外にも「信用貨幣での金貸し」の原理を「拡張」して利子による金融蓄積増を拡張することになる。

この画策はオランダにいたロスチャイルドのネイサンが「イングランド中央銀行」の役員になってから本格化して国際金融資本を更に拡大した。

そして、英国以外の国家への金貸し需要による拡散は、英国の通ってきた道と同様、「戦時国体化による軍需品調達」及び「資本主義生産化」の為の「金貸し」であり、また国際交換市場での他国の「資本主義生産化」の為の生産手段導入用の資金需要用の金貸し(ポンド貸し)によって利子分の貨幣の所得移転蓄積ができたが、その為に他国への「銀行」の「支店」の配置と、何よりも切実さを演出させる「戦争」や「世界大戦」による貨幣需要の拡大に依拠していた。

この世界の経済史を根底から変えた「イングランド中央銀行」(スウェーデンに次ぐ世界最古)の設立 (1694年)の経緯を一応見て共有しておく。 

  海外戦争に次ぐ戦争で英王室の財政は窮乏し、1672年から1697年の25年間で、負債が225万ポンドから2000万ポンドに膨らみ、この解決策として、英国は以下の3つの財政政策を決定した。

イングランド銀行の設立」

「国庫証券の発行」

「利付永久公債の発行」、の3つである。

この提案は、スコットランド人のウィリアムパターソンによって起案され (巷で密かに広がっていたゴールドスミスによる錬金術の原理を国家で採用する提案でしかないが)、財務長官のチャールズモンタギューが採用を内定し、ウィリアム3世の「勅令」を得て認可された。

・それはロンドン、シティの金融業者団(フランスのカトリック支配で弾圧され追われたカルバン派ユグノーのシンジゲートが中心となり)この提案を受け、条件として10万ポンドの利息と4000ポンドの維持費の恒久的支払を条件に120万ポンドを集めて政府に貸し付け、株式会社として設立されたもの。

この時点で英国政府は、財政的には「イングランド中央銀行」の株式会社の傘下になる。

  政府は120万ポンド以内での署印手形の発行を認めただけだったが、結局は署印のない現金手形も発行しだした。

1697年、「銀行通貨発行権」での独占権を獲得した。

18世紀後半アムステルダムにいたネイサンロスチャイルドがオランダでの事業整理を終えて英国に渡り、イングランド銀行の理事を務め、

1816年には金本位制を確立して、ポンドを世界交易での基軸通貨とすることに成功した。(=国際金融資本銀行化)がここで世界初で実現した。

シティは世界の国際金融センターとなり兌換を維持して為替を調整した。第一次大戦金本位制は廃止せざるを得なかったが、戦後に復活させ、世界大恐慌を経て弱体化し、ウォール街に地位を譲り1946年に国有化された。 

・当時の英国はGNP比で280%近い公債を発行していたが、それで経済が揺らぐこともなく、第二次英仏100年戦争を戦勝できて国際交易市場覇権を確立し、ポンドを国際的基軸通貨として国際交易市場に強制でき、それは英国内での信用創造による「発券銀行券」を「国際交易での決済(=貨幣)」に使用できることで、交易国は印刷しただけのポンド紙幣を有利子で競って借り入れてくれた。

英国は国際交易による「商業利得」と「交易用生産物の「信用金融資本主義生産」による余剰生産分の利得、更に植民地からの税徴収によって借金の返済が順調にでき信用不安をもたらさずにすんだが、それは金融資本にとっては利子収入減をもたらすだけなので大戦化による貸付金需要増を目論んだ。

・銀行券を刷って貸し付けるだけで金利を得られる「信用金融資本主義」は英国と共に成長したが、彼らにとっての障害物は、借金をしたがらない国(=内戦や戦争を回避する自立型の平和国家)、国際交易依存度の低い鎖国的自立的な途上独立国、そしてまた借金を返済して金利獲得を減衰してくれる英国もその中に入るようになっていくと「借金による過剰消費の為の過剰生産」即ち「バブル経済の形成」や「戦争依存国による戦争経済の形成」で「国際金融資本」に依存して飛躍的蓄積増をもたらす。

たとえそれらが破綻して債務不履行になっても、貸付段階の発行銀行券は只同然なので、貸付金からの利子回収ができなくなるだけで、それまでの金利返済を蓄積でき更に銀行に実害はなく、儲け損なっただけ、只で発行した紙幣が金利を生みそこなっただけ、でしかない。

こうして国家の上部構造は「通貨発行権」の実質支配者、「国家株式の所有者」たる「信用金融資本」を支配する「信用金融資本国」に転換していったのである。

 

  •   英国資本主義のグローバル拡散

 

・1760年、世界初の「綿織物工業生産」で「産業革命」を成立させた英国は、先進工業国として世界各地から原料を集め機械を動力(石炭燃焼による蒸気機関)で工業製品を安価に大量生産して、世界各地に輸出して貨幣を交換獲得して「世界の工場」となって貨幣資本を蓄積増した。

 その後に重工業化して、世界に機械や動力装置をも輸出したことで、輸出先各国での資本主義生産化による国際市場の飽和による生産減、販売減を防止する為に、1774年には「機械輸出禁止令」を決めたが、国際的な需要の高まりを受けて1825年にその一部を、1843年には 全面的に禁止令を解除して、1851年には「世界万博」で先進各国に工業化の優位性を世界に見せつけて積極的に拡販したが、それまでの約80年間の「信用金融資本主義生産」物輸出による「資本蓄積増」は英国の独壇場であったことになる。

産業革命時には、世界の主要な「国際金融資本」はロンドンのシティに集中し、英国の「信用金融資本主義工業生産」による世界の工場化をもたらしたが、「禁止令」の解除後は、先進各国に技術と共に「機械製品」を輸出することで更に「金融資本」を蓄積増して、英国は「消費財の金融資本主義工業生産」から「生産用機械(=生産財)の金融資本主義生産」としての「重工業生産」にシフトし、「金融資本」は、生産財生産財投資にシフトし、更に「機械を輸入する各国」には、「シティの国際金融資本からのポンド信用紙幣の借款」をさせて金融蓄積増拡大し、ポンドの国際通貨化化が進んでポンド経済圏を作り、世界に信用貨幣で負債を負わせて基軸通貨化させて金融蓄積を持続したが、世界の工場を拡散させて国内空洞化しつつ国際市場を飽和させていった。

これにより各国の市場と原料資源の獲得支配の再分配を巡る戦争国体化転換が進み、国際需要は兵器生産競争としての重工業生産化し、世界大戦化して「国際金融資本」からの「借款」増を招き国際金融資本は蓄積継続した。

・こうして「機械輸出禁止令」解除後は、後発先進国に産業革命の「技術」と「機械製品」を商品として輸出した英国はその機械生産の為に重工業化転換して「金融資本蓄積増」は更に継続し拡大できた。

1830年に、ベルギー(フランドル)、30年代に仏、米、1840年代に独、19世紀後半(=1850年代以降)になると伊、露、日へと拡散した。

・ただし、英国の民間の産業革命への金融資本活用の場合とは異なり、ほとんどの国は、国営工場への(英国シティの)国際金融資本からの借款による機械、設備と技術の輸入による導入であり、軍事的強化目的であった。

後発先進国にとっては「産業革命」の輸入は「階級制生産経済国」の「工業化」による軍事強国化目的での「消費」としての要素が強く商売目的ではないので「資本主義化」でなく「単なる工業化」による帝国主義化の域を出ない。

消費財を剰余生産して金融資本を個別に蓄積増するには交換市場が必要で、市場はほぼ英国の支配下にあり、英国での世界の工場化だけで既に飽和しかかっていた。

負債を負って資本主義生産を後発導入した国は、英国覇権に挑戦して軍事的に交換市場を再分配させるしかない。

・結局は「絶対主義階級制生産経済」国間の「共食い的」

な「領土拡大」戦争での武器の高度化、量産化には寄与したが、戦勝による農地用領土、資源用領土の拡大と賠償金獲得でしか負債清算ができず、目的を農地だけでなく工業化用の原料や燃料資源の獲得とする領土拡大が戦争の目的に加わっただけ、であった。

工業化はできても資本主義生産化はできず、自国国際商人による商業利得の蓄積も、したがって金融蓄積もできないので、上部構造の国際商人や国内金融資本による「ブルジョア革命」も起こせず、アジアの中国やインドは英国との戦争で「産業革命」による「工業化」すらえられず「階級制生産経済」国体骨格が維持されたままで植民地化させられるにとどまった。

・英国の1830年以降は、資本主義的生産物の輸出は、対先進国には「綿製品」だけでなく「機械、技術」そして「金融資本」を輸出することで更なる「金融資本蓄積増」を獲得できたが、国家で資本主義生産化した先進国は、英国との国際市場での需要の獲得競争となり、英国資本主義生産自体を衰退させた。即ち、英国の支配していた国際市場と植民地支配に参入しようとして覇権の争奪戦となる。後発資本主義生産国により既存の国際市場需要に対する総資本主義生産量が飽和していくことになる。

英国開発市場とは異なる新たな市場開拓も進めるが、需要総体を拡大はできず、資本主義生産自体の拡大が早く、市場が飽和していた。

・英国は先行開発市場を独占しようとブロック経済化し、独の関税同盟に対抗した。そして英独の資本主義生産の覇権闘争を軸とした世界大戦に拡大し、国際需要は武器、兵器需要が最大需要化し、国内開発での需要を対象に資本主義化を急速に進めることができた米国に、その国際的軍事需要が加わり、信用金融資本主義生産化を加速した米国に、即ち国際金融資本が本家のシティからウォール街へと移動して対応し拡大した。

・米国のみは国内市場の拡大が継続でき、世界大戦での覇権獲得戦争には直接参加せず、最大消費、最大需要である武器や装備を商品生産して輸出で資本蓄積する本来の「資本主義」としての工業化を唯一できて資本蓄積でき、金融資本増に成功した。

・「農業生産の飽和」の場合と同様に、「絶対主義階級制生産経済」国のうちでの産業革命の後発導入国での資本主義化は、国際金融資本からの借款によって国家としての軍事体制を拡大したのと同様に、英国を真似て重商主義的に資本主義化したが、英国が既に開発し支配していた国際市場需要を拡大できずに国際市場が飽和して、資本主義生産の拡大は対市場で飽和停滞して戦争による市場の覇権獲得再分配戦争を誘発して世界大戦に至り、ここでの需要は相変わらず「国際金融資本」からの「借款」に依存した軍事的な兵器や装備の獲得が優先される軍事的専制的国体化が再来して、英国の場合と異なり国体は「絶対主義階級制生産経済」国体のまま国家資本主義化してブルジョア革命を経ないので「商業国化」せず、この国体のまま戦争経済化を工業化としてエスカレートさせただけであり「本格的資本主義国化」は世界大戦後の戦禍の罹災国の復興需要による国際需要の拡大と「ブルジョア革命」による政体転換により米国覇権の国際市場でのみ拡大でき、実質的には第二次世界大戦後に「信用金融資本主義生産化」した、ことになる。

・大戦後、冷戦によって「社会主義国」が登場し拡大して「国際交換市場」から分離離脱し、それ以外での米国を盟主とした国際市場での資本主義化国の復興需要市場での欧州、日本で資本主義経済化を拡大でき、資本主義経済圏内での飽和が明らかになり「共食い」的経済戦争が始まったときに、冷戦が崩壊して新たに巨大な敗戦国(=旧社会主義国)での経済「復興需要」が発生し、中露に対する「国際金融資本」の集中と、それによる中露の資本主義化の急拡大による巨大な経済復興が起こり、今またそれが飽和して「金融資本」の拡大市場を失った。

・この「国際金融資本」の冷戦敗戦国復興への資本の集中投下により、先進各国には既に「資本主義化増」の為の投下は行われず、「金融資本増」の最大化を目的とするので、資本集中できように金融資本投資をグローバル化自由化させて国家障壁を取り払い、特に中露に金融資本投資が集中して自国投資が収縮基調となる。

 その結果、中露やブリックスへの投資拡大も飽和し始めた。この間先進国の労働所得はそれによって伸び悩んだが、金融資本所得は拡大できていたので、「国際金融資本」はだぶついて投下先を失い、低金利を状態化させ「資本主義生産」化への有効な「金融資本」投資先のない時代に移行し、戦争での罹災による新たな復興需要でも起きなければ、資本主義化投資は成立しえない。

 こうして過剰な金融資本が徘徊し始めて投機に向かう。

・本格的な産業革命型の「金融資本主義生産」化は、国際交易市場での交換需要増の枠内で「金融資本=銀行資本」と「産業資本」が結合して金融資本蓄積増が得られるが、本質的には国際交換市場増での有限の需要に制約されるので、いずれは過剰投資となり、蓄積金融資本が投資先を失い飽和限界を迎える。そしてその後に市場の拡大、又は再拡大の環境変化が新たにもたらされると、交換需要増変化によって資本主義化への金融資本の結合増が復活再生して、また飽和してそれを繰り返す。

それはあたかも「農業生産力」の飽和と領土戦争による生産規模の縮小、と戦災復興による生産規模増による再飽和の反復、と類似した現象でもある。

「金融資本」の「産業資本」との新たな結合が得られずに貸借関係としての「金融資本」を残したまま「終焉期」としての飽和段階を迎えた、のである。

 

  • 産業革命型信用金融資本主義」構造の「範式」化

 

・世にいう「資本主義生産化」とは資本の増殖目的の生産様式のことであり、「G -W- W’- G’」として、より正確には「資本論」では「G-W(pm+A)…P…W’-G’」として範式表現されている。

ここで、G=貨幣資本、W=生産資本、Pm=不変資本(原料や道具減耗)、P=生産過程、W’=増殖後商品、G’=増殖後貨幣、である。

・「信用金融資本主義生産様式」は、これまで述べてきたように「金銀実貨幣G」ではなく「イングランド中央銀行」設立後の発行「信用紙幣」によるものであり、本源的蓄積により貯めこまれていた「金銀実貨幣G」によるものではない。利付の発行「信用紙幣」によって発生できた生産システムである。解り難いのは、本源的蓄積による「金銀実貨幣G」でもこの「資本主義生産化」は可能であり健全でもある。

しかし英国で「産業革命型資本主義生産様式」の導入は「中央銀行設立」直後の、政府が「信用貨幣」としての発行制限付きの「銀行券」で市場から消費財を「交換」調達し、紙幣が貨幣として市場流通され、実質的に発行制限が解除されて、民間生産部門への無制限に近い銀行券の発行による「有利子貸付」も実現して、それは「綿織物での産業革命型資本主義生産様式」の導入に始まり、英国内での世界の工場化、「機械等の重工業部門での資本主義生産様式化」に発展した事実からも、その初めから本源的蓄積による「金銀実貨幣G」によるものではなく「擬制資本(株式資本等の他人資本)」をも含む「利付で発行される信用貨幣資本」による「生産手段」の「機械化動力化転換」の実現が本質である。

・「金銀実貨幣G」だけでは、この「生産手段」への拡大投資は実現し得ないので、英国のマニュファクチュア生産も400年続いたままになった。

 「貨幣資本」はGではなく、Gz(=信用貨幣資本や擬制資本)であり、この拡大資本でW(生産資本)を拡大して「手工業生産」を「機械生産化」して、商品を量産し、等価交換販売して「商品化したW 」で等価の「貨幣資本G」と国際市場で (W-G)等価交換でGを獲得して貨幣資本を回収するだけである。

・「生産資本W 」の中身は、W=(Pm+A)で、それを分類整理すると、Pm=(原料費m+道具減耗費W)の「不変資本」であり、A=労働力再生産費、の「可変資本」である。

マルクスの範式「G-W(pm+A)…P…W’-G’」は、問屋制マニュファクチュア「資本主義生産」の原理を、確かに正確に記述してはいるが、400年かかって本源的蓄積ができていたはずにもかかわらず「産業革命型資本主義生産様式」に転換移行ができなかったのであり、範式上での進化形態に反映されてしかるべきである。

・ここで「可変資本」の「労働力再生産費A」を「腑分け」してみると、「筋肉労働(手工業)」による生産、余剰生産を問題としたが、「筋肉」を「機械」で、労働エネルギー支出を「石炭や石油の動力エネルギー消費」で代替でき、それを合算したのがA(=労働力再生産費)にあたり、

 Aの可変資本機能は「動力エネルギー燃料消費」と「機械の固定資産減耗費」の合算で代替することになるが、両者共に「不変資本」に分類されてしまうことになる。

・もし、Aの全てをゼロにできるのなら、全てを機械と燃料だけで機械生産できるのなら「G-W(Pm)…P…W-G」となり、W’の⊿W=(‘)分の商品増殖もできず、-G’での

 ⊿G=(‘)分の貨幣増殖もできないことになる。ただのG-W-G、でしかない。

商人の基本構造である。商人は、確かに「(G-⊿G)-W-G」として等価交換していたが、

実体は「(G-⊿G-⊿G’)-W-G」として、⊿G’を貨幣生産増していたことは既に述べた通りである。

 ・ここで、前半のG-W(Pm+A)段階、即ち生産工程P以前の段階で、もしGを縮小代替できれば、即ち「金銀実貨幣G」を実価値担保力のない非価値物の「信用紙幣Gz」に置き換えて、Gz-W(Pm)、の交換を成立させると、生産工程Pを経由してW商品ができ上がり、貨幣Gと等価交換でき貨幣回収できる。(G-Gz)>0、ならば、(G-Gz)分の貨幣を回収でき、貨幣生産(G-Gz)ができ、それはGz保有者のものとなる。Gz保有者による、ある意味「偽札」の印刷代だけで原料と機械と動力原料を買い、自動生産させて商品を作り、その商品が貨幣Gと等価交換できれば、差引貨幣Gの儲けであり貨幣Gzの紙幣印刷代+紙幣発行手数料を銀行に金利として支払えば、この範式モデルでの貨幣生産=資本主義生産は(W-G)交換需要が市場にありA>W(Pm)、の関係が持続できる限り成立し持続する。

 ・範式は、「Gz-W(Pm)…P…W-G」となり(G-Gz)の貨幣資本資本増がA>W(Pm)の成立と「交換市場」の継続を停止条件として「産業革命型信用金融資本主義生産様式」は持続する、との結論に至る。

  ということは、この条件が満たされなくなる環境変化がおきることで「資本主義生産」は停滞し衰退することになる。即ち、国際交換市場の収縮、とA>W(Pm)の成立を脅かす、原料や機械原料、動力燃料の減少や枯渇である。

 

 

マルクスエンゲルスよる当時の「史的唯物論」、即ち

原始共産制」→「奴隷制」→「封建制」→「資本主義」→「社会主義」→「共産主義」は、これまでの経緯から、

以下のように改めるのが適切かつ妥当、と考えられる。

 「獲得経済」→「生産経済」→「(貨幣との)交換経済」→

 「(信用)金融経済」→「?」

 と「弁証法的進化」を遂げてきた、ことになる。

 この「唯物史観」に立ちかえる必要性がまずある。階級闘争至上主義としての社会科学、哲学宗教による意識改革とかとしてではなく、弁証法的進化としての自然科学的、社会学的必然性に依拠して、先回りすることが必要である。

 

  • 「資本主義」の衰退、停滞とポスト資本主義世界

 

 ・「?」に何が入るか、だが、前章から、筆者のレベルで推測できることは、非交換の「新生産経済」領域の拡大移行ではないか、現代のような「共食い的な獲得経済型金融資本主義社会」は「経済安全保障生産の拡大」による「国際交換経済依存の縮小移行」ではないか。国内でできることは国内でやること。

 ・「停止条件」への弁証法的飽和到達、原料や機械原料、燃料エネルギーの減少や枯渇、人件費高騰による生産様式適用範囲の収縮により、いずれ「資本主義生産様式」を信用貨幣で生産増できなくなり飽和停滞し収縮し、マニュファクチュア生産資本主義と自営業的商工業生産による「新中世」に収斂していくことになりそうである。

  そこに到達するまでは市場と生産の飽和による人類間の「共食い競争」が続き、それを乗り越えるまでには、まだまだ時間を要することになりそうなので、共食いを宗教的哲学的に排除しようとする平和依存の人類を増やすことしかないのだろう。

・個人的には「獲得経済化」した「金融経済」としての「金融資本主義生産経済」依存から「共食いの最小化」の為の、エネルギー資源の獲得としての、例えば「核融合エネルギーの開発」が最も効果的だと考えるが。

 以上