経済を考える7

6-9はまだ未完成で自信も少しない。税収増が不生産階級を育て科学技術も発展しそうである。100%ではないが、税金も役立ち、農業基盤整備など生産階級への依存は小さくなっていかざるを得ないようだ

が、先に行く。

 

不生産階級の利益がどう拡大して資本蓄積に至るか、要は、工場規模の生産ができる投資資金と投資原資を支える利益の源泉はどこからか、だ。

生産階級の場合、当時のフランスの農民に貯蓄がたまっていたわけではない。なのに余剰生産物があり、それは不等価交換?として支配階級に流れていた。

GーW-GのWは、固定資産減耗と協力してのW、だからWのうちの賃金部分と固定資産減耗が経費であり、固定資産減耗の回収分が賃金から引かれ、更に労働は可変資本なので、固定資産追加投資の分が賃金から差し引かれ、Gに変える、これが資本主義の本質ではないか、が仮説だ。これは8で検討したい。

 

私の根本的な疑問は、マルクス

貨幣Gー商品Wー貨幣Gダッシュ だ。

WーGーWは、労働者の単純再生産課程である。

資本家は、GーWーGの生産工程では、もともままで工程を行う意味がない、というものだ。

だからPの製造工程で価値増殖が行われ、

GーW-PーWダッシューGダッシュ

増殖価値が製造課程で付加され、労働者帰属のそれが剰余としてとして資本家に帰属され、これが投資原資となる、ということだったように思う。

だから交換課程では、価値は増殖価値しない、ということだ。ならなぜ交換に経費をかけるかというと、資本即ち貨幣資本に戻す作業しないと資本にならない単なる商品資本だ、ということだったようだ。

商業の発達や商業資本の巨大化を説明しにくい。

近代工業化の先駆けの時代、流通機構も未発達な時代の限界で普遍化しきれていない、まだ、生産力が未発達で流通機構が問題にならないほどお粗末な時代であるから、そのセクションの資本形成に至らない、丁度ケネーの不生産階級の生産階級化の萌芽の時代の限界があったからではないか。

私は、GーW-G、が正解だと思う。

もし、そうでないなら、商業や流通業、いや家政婦協会業などのサービス業という、物販製造業以外に資本主義がはまらなくなるから。

サービス業は、資本を蓄積したり、固定資産投資原資が得られないはずだが、実際には拡大再生産も固定資産投資も行われている。

これは、現代でもなおマルクス主義経済学の論争の種として生きているから。

この世に需要のある限り、需要とは、が難しいが。

 

ただ、ケネーの生産階級内で剰余生産物を得るためには、100の固定資産保有の段階に成長していて、この固定資産原資は農民への利益配分からの収奪によって蓄積していたのではないか、ということだ。スミスのように等価交換ではなかったということだ。

不等価交換が富の増殖分からではなく、労賃の権力による収奪、即ち不等価交換から得られたと考えるのがふさわしい。でないと、支配階級の収奪と同じ原理である。収奪し過ぎれば再生産が縮小するから、そのギリギリを知る能力が支配階級にはあるし、借地農経営者も同じであり、幾分かの利益は得ていたはずだ。

Wのうちの、原料は削りようがないが、見た目価値ある粗悪品で市場を、通過できれば可能だが、長続きはしないとすると、労賃の必要を超えた削減が、資本の原資となり、それは工場生産などの規模拡大で多量化できる。発展時の生産階級と不生産階級の関係が、需要とする種類の産業が流通業なり商業なり、召使い業だった、サービス業まで、需要あるところの規模拡大には常に労賃からの収奪の積み上げが行われるわけだ。従って、需要増がなければ、単純再生産になり、供給過多になれば縮小する、縮小すれば投資用の収益も減る関係にあると考えられる。ここで、需要が最も大切だが、不生産階級即ち労働者階級が増えれば、労働者階級独特の需要が大規模化する。需要は天まで届くほどあるが、賃金総額で優先順位化するしかない。賃金は限りがかるからだ。社会の生産水準が高まると、支配階級との格差はあるにしても、圧倒的には労働者が多いため、労働者にも貯蓄が可能になる。貯蓄は投資資金となり金融業者から金利をつけて投資資本として産業に再分配される。

収奪されて資本家に投資原資が集まる、というより、労働者に分配された収奪後の賃金からの貯蓄が融機関を通じて投資資金として再分配され、金利を得るわけだ。ところが、投資先がなく金が銀行に溢れているのが日本の現代だ。借入需要がないのだ。住宅需要も少子化で有り余っているのだ。

 

マルクス主義者は、普通は剰余生産物は農民のもので、支配階級を倒せば、ついでに借地農経営者もいなくなれば、少なくとも20の余剰生産物が農民に分配されて農民が豊かになれる、というようなものだろう。

しかし、その余剰生産物は10は生産階級に食糧消費されるが、10は不生産階級に消費されるものの、拡大はしないが固定資産減耗ぶんの補填として不生産階級の必要労働を導きで 、更には拡大再生産用に固定資産投資に回せる。

疲れたので後で書き換えること前提にアップする。

経済を考える6-9

ケネーの経済表範式に感激したマルクスが、資本論で再生産表式の理論に発展させたプロセスの再現になるかもですが。

範式の生産階級が、原前払100が生産資本として存在し、10年で償却するから、年前払には10が消費される。

別に20の年前払は、実は大きくは労働力を提供する農民の生活費と種子や年間に必要な消耗資材費、要は人件費と物件費にあたる。

資本は合計で30を消費するが、100も資本である。

 年度当初は、100の資産と20の費用を投じて、90の資産と50の生産物を得るが、20の翌年度の費用を取り置き、消耗した資産10を補填することで100の資産に戻して、20が純生産として残り、これを支配階級に納税するパターン。ケネーのメモには、一瞬の切断面だけでなく、経過もあったはず。

 

仮に、減税を嘆願し、支配階級に20の税を15にまけてもらえたとすると、支配階級は食糧を10のままにして、5を不生産階級からの消費財買取で我慢することになり、不生産階級は5の受注しかなく、これでは食糧不足となるため、生産階級から10の受注ではなく15の受注を受けて食料費5、仕入れ原料費10をまかなうことになる。今までは不生産階級の他階級への受注依存度は50%ずつ、だったのが支配階級25%、生産階級75%と変化する。もし、100%生産階級依存なら生産階級に組み入れられ、不生産階級は存在意義を失う。

生産階級の15の余剰部分は、拡大再生産の為の原前払即ち固定資産に補充10に5の追加が行われるか、年前払に5を投じるか、その組み合わせか、何れにせよ5は、借地農経営者により資源配分される資本増加となる。借地農経営者が内部留保して現金にしてタンス貯蓄にすれば、支配階級が細るだけになる。

105の原前払、固定資産の増加5となって翌年の生産に寄与する資本増加をやるのが一般的で、道具の拡大にあたるのが普通のはずだ。

支配階級の最終消費で消えるのは食費の10だが、いつもは、20のうちの残りの10は、不生産階級の食費というか食糧生活維持費の元手となり、不生産階級を維持することに貢献し、生産階級の10の原前払の財生産に寄与できるから意味がある。

もし、支配階級が10の食費だけで済むなら、不生産階級は年前払10で、10の原料を仕入れ、20の製造加工ができ、生産階級から20の生産物を受け取り、食費に10、翌年の前払に10を保管できて維持される。

これは既に生産階級の下請けであり、不生産階級は消滅し生産階級のみとなる。

 

現実はこの想定とは逆である。人のいい支配階級は、もともと収奪と最終消費がこの階級の存在意義であるから存在しない。増産分は慢性的な食糧不足にでもならない限り、20が、30になれば、不生産階級を増やして豪奢な暮らしを楽しむか、=最終消費、軍や徴税人を増やす。従って、不生産階級は年前払の確保から、徐々に原前払も確保できることで近代的工場経営ができる固定資産を前提とした生産階級に発展していくが、その利益の原資は支配階級からの受注による。農業生産は人の頭数を機械により置き換えながら、食糧生産は人口を超えた需要がないので、投資が細る。生産過剰となるから、輸出品に役立つ程度となる。一方で非食消費財需要に応える近代的工場生産は支配階級と拡大不生産階級の需要で広がるが、支配階級の食糧需要の相対的低下と同じく、加速した生産財生産の結果、早い時期に飽和する。消費財生産財の関係はマルクスの再生産表式を参照すればよいが、この無政府的な生産競争が、過剰生産財生産にブレーキをかけて恐慌が起こり、壊れてまた立ち直る10年周期の恐慌を繰り返したが、これを救ったのが戦争による需要増作りだったわけだ。

余談だが、今の日本は将来人口減予測から、国内投資を抑えて国外投資による投資収益が得られている為、政府による最終需要を将来の返済を前提とした国債発行にたよって将来の返済を担保に国債増発しているが、その額は1000兆円程度で、国内生産もしており、国富が3300兆円ある。

内訳は非金融資産が2800兆円、金融資産が対外債権として250兆円あり、国富の3300兆円が非金融資産の再投資ができるから、国債はここまでは安全資産であることができるはずだ。発展途上国じゃないけど、投資資金が非金融資産である工場や生産施設がないところは、対外借入、又は投資資金を受け入れて低賃金労働で競争力つくり、国内需要が乏しいので輸出で稼ぎ更に低賃金で資本蓄積する、その場合もまず自前の工場作らにゃ!だ。

だが、今の状態の日本が続き、国内需要減が続き非生産資本が償却しきると、国債外資頼りとなる。

今の私の話が正しければ、3300兆円までプラス国の資産500兆円あるから、3800兆円を超える国債になると、外資が入り、債務不履行になると、IMF世界銀行が来て、緊縮財政が強要された上に国の資産であるインフラ、例えば高速道路や空港、鉄道や上下水道などが民営化放出され外資が担保にとる。料金は外資に流れ更に経済が厳しくなる、というのがこの間の経済破綻した国の先例である。韓国も一部当てはまっているが。取り敢えず日本の経済収支は20兆円の年間黒字だから、まだまだ先のことでしかないけど。

 

 

 

 

経済を考える6-7

原前払い、年前払い、資本について考えよう。

 

ロビンソンクルーソーは、食糧の魚をとるのに泳いで、木を削ったモリでとっていたが、熟練して最低限の確保ができ、時間の余裕ができたので、網を使ったり船を作ったりしてより短時間で同量以上の魚をとることができるようになる。労働の成果として、又は目的の為の直接労働以外の有効労働が、資本財を生み、生産力を飛躍的に伸ばし、更に別の有効労働の労働時間を生み出す。これが豊かになる工程である。

 

ケネーの生産階級も、もとは不生産階級だったはずで、その時期は循環経済が成立するまで人口減となり、ある水準までそれが続くが、その時代は本来的には支配階級は存在し得ないはず。

しかし現実は支配階級がいて、人口減が加速されながら、採取経済や略奪型の戦争に依存して人口減を食い止めようとしたのではないか。そもそも食い止めようとしていたかどうか自体が疑問だが。そのような村は壊滅し、ゼロサム世界とはいえ、生き残った村が生産階級化に挑戦する権利を獲得したと考えた方が自然だ。

 

話を戻して、生産階級労働が農場の生産労働だけでなく、余剰時間で農地改良したり、開墾したり、水利環境を改善する土木工事をやったり、凶作時備蓄食糧倉庫を作ったり、そこに備蓄食糧をためたり、農機具を改良したりと原前払即ち固定資本というか、償却資産を直接にか、余剰生産物の交換の為の外部委託でか、得る。

これらは、年前払いのような生産時に失われて新たなものが生産される種もみなどの原料や、新生産物に変化させる為の労働を裏付けるエネルギー源の食糧などの中間消費資本とは区別される減価償却する資本財である。

豊作時に年前払や原前払に余剰生産物を投資しておけば、長期の生産増が期待でき、この生産増の恵みを前払に活用できるか否かがポイントとなる。

余談だが、日本は公共性、戦略性がなく、バブルでチャンスを一旦消し去ったが。

 

人間に有用な需要物を、固定資本を減耗させながら原料を商品に変える労働を賃金で労働者にやらせるのが資本主義だが、一方で経営からミクロに見れば、労賃部分を償却資産の固定資本に置き換えて生産性が上がるなら、首を切り、単純労働を人に担わせて固定資産の減耗が賃金より低いならば、置き換えることになる。一方で機械などの償却資産自体が人間労働と機械と原料で生産されるので、その人間の再生産費用を含む製造経費がローコストでなくてはならない。その機械を生み出す労働にも再生産費用が必要である。

ここで、資本とは何か、だ。資本とは、再生産循環経済を可能にし、拡大する資源であり、余剰生産物から発生する、ということだ。余剰生産物は、偶然の気候変動による豊作や、労働によって得た生産物の消費節約により捻出される。偶然はプラスもあればマイナスもあるから、熟練による労働時間の短縮による余剰労働時間の捻出か、長続きしないが苦痛伴なう労働強度を上げて時間を捻出するか、労働時間を伸ばして捻出するか、何れにせよ労働で余剰労働時間が捻出できれば、年前払や原前払が得られて加速できる。生産階級にあっては、生産道具としての償却資産としての固定資産、労働力、原材料であり、固定資産を10償却しながら、生産物を食べさせて消費しながら労働させて、種や一年分の収穫に必要で消費する(中間消費)20で、計30を中間消費して50の生産物を得ている。

資本Gが貨幣なら、一旦、商品Wにして、すなわち原材料と労賃の20と固定資産減耗10にして、50の生産物を得る。ここで気になるのは労賃と固定資産減耗、すなわち何年も使える道具と人間労働との関係性だ。

マルクスは、商品Wを可変資本Aと不変資本Pmとに分類して生産工程Pにより、Wダッシュを得るが、生産物のダッシュ部分が剰余価値であり、拡大した資本Gダッシュのダッシュ部分としている。

人間労働を機械労働に置き換えて生産性は上がるが、平く言えば、生産に直接かかわる労働者を間接的な機械生産労働者に解雇採用することで、マクロ的な社会全体としては、より生産力が上がる。

大型機械を1時間操作して得られる生産物量と、手作業だけに依存して1時間かけて得られる生産物量は自ずと異なる。パワーショベルを1時間操作するのと、シャベルで1時間穴掘り作業するのとの差だ。

労働単独とシャベルの減価償却が費用であり、投下資本Gである。大型機械の減価償却と労働が前者の費用である。労働力や原料が20という年前払に統合され、大型機械にあたる100のうちの減価償却が10として組み合わせて生産しているのがケネーの範式だ。

ここで、資本とは、年前払の原材料と労働力、原前払は生産に関わる減耗する固定資産、この総和が貨幣のかたちであろうと、商品材料の形をとろうと資本である。貨幣資本、商品資本と使い分けできるが。いづれも、起源は労働の余剰生産物により得られたものの変形である。

仮に20の年前払の構成を5の原料と15の農民の人件費、とした場合や、その逆や、原前払を20、年前払を10とした場合などの組合せを6-9で検討してみたい。

経済を考える6-8

今回は話の流れを外して、利益率の問題に踏み込んでみたい。

生産階級の利益率が高く、利益すなわち余剰生産物ができたことが、生産階級と呼ばれる所以である。

農業を主として、漁業、林業、鉱業なども範疇にふくまれるはずだ。

生産に必要な労働力の再生産、即ち食糧プラスアルファを労働力特有の60年程度で減価償却する特徴がある生産資源であることによる世代交代の分も含める再生産費、種や肥料や農業資材の投入消費分も生産過程で再準備しなければならない。勿論借地農経営者の年間の年間再生産費経費も含まれるのが、年前払の20、である。

これ以外に、10年で償却する農業倉庫や耕運機や運搬具、それに土地改良や、橋や道路の整備、場合により、何年に一回起こる凶作時の食糧備蓄などの100の資本が原前払として内部留保されている資本にあたる。そして尚、30の余剰生産物を生産供出していて、外注している固定資産減耗補充10を不生産階級に依拠して現在の生産レベルを再確保するので、20の自由消費できる余剰生産物を他階級に放出できるが、支配階級が占有して消費している構造だ。

不生産階級は、利益率は低い?、ケネーの範式段階では、労働力の再生産のみの生産性である。

その為の年前払の確保がやっと、である。しかし、労働力の再生産は確保てきているわけだから、世代交代、家などの原前払分は確保できている。要は余剰生産物を他階級に放出できる水準ではないだけ、ということだ。

ケネーはその理由を、不生産階級の仕事が、単にものを変化させるだけの仕事だから、農業のように種が何倍もの収穫農産物となることはないと考えた節がある。確かに不生産階級の仕事は生産階級と生産階級の余剰生産物を消費する支配階級の需要の為の外注サービスを自身を再生産する費用で担う仕事人召使いでしかない。

これで循環即ち単純再生産が維持されている。

拡大再生産に転換し社会経済を発展させるには、生産階級の生産力を上げることであり、この事に貢献する手段を優先順位から満たすことである。

資本の投下だが、農業生産性向上の研究により限りある資源の配分効果の優先順位がわかるが、この研究のヒトモノカネは、不生産階級同様に直接の利益を生まない投資活動でもある。開墾による平和的な生産基盤拡大、伴なう農業労働者増、肥料作り、道具の高度化、家畜エネルギー利用、などを拡大することで得られるとする。農業用道路や橋や水路の整備なども実質の農業作業時間を増やすために有効である。生産性階級は、100の資本を年間償却10として原前払として既に投入しているが、あと100を追加投入し、年間償却を20として、60以上の年間生産が得られれば成功であり、循環する。が、その為には農民増や種子増も伴うから年前払も増やさざるを得ない。この投資は生産階級の内部経済でやるなら、減税してもらった内部留保分を使うか、支配階級に流れた余剰生産物の中から、支配階級の高い知性と政治経済行政力で、不生産階級の仕事の一つとしてやらせるか、しかない。平く言えば、善政を行う価値がわかる支配階級に期待することだが、期待できるかどうかだ。王妃の欲望に沿った豪奢な消費や、支配階級の拡大再生産の為の消費や投資を極力抑えられるかだ。抑えられるだけではなく、投資資金捻出と、余剰生産物を最終消費を抑え、中間消費となる年前払増や原前払増に振り向けることになると拡大再生産として花開くはずだ。

資本といっても、年前払と原前払があるが、年前払いは単純再生産の継続に必要な資本形成条件であり、生産階級の努力で多少得られるが、原前払は投資活動なので、支配階級の原資の消費として発生するので、オーナーに当たり、黙って不生産階級に委託するのがよく、その意味では、資本の乏しい段階では民間自由市場に任せたのでは利益を直接生まないから限界があり、遅々として進まない。だから資本主義初期は、国家が関与する国家資本主義が有効だが、得てして富国より強兵に流される危険があり、これが止まらないリスクが高いから難しい。

余談だが、今の日本は投資資金を海外に持ち出し利益を上げていて、国内投資分は消費に変えている。

具体的には、老人福祉や医療、で投資分類は子供への消費含む投資、研究や教育に投資資金を振り向ける政治判断が求められるが、多数の高齢世代の票に依拠した政治が、民主主義の衆愚政治ポピュリズムに流されている諦めの時代。高齢世代の資本を現、未来への投資に振り向ける英断がもとめられているのではないか。

 

経済を考える6-6

6-5で、イギリスの地政学的優位性とユダヤ人の流入が、近代資本主義の爆発的発展をもたらしたとは考えているが、話の組み立てがやや乱暴なので、その前段階を丁寧に深めたい。

自然な流れとしての、農本社会に内包する要素の中からの成長による小規模な資本主義化のことだ。

循環経済、単純再生産経済から拡大再生産への変化の中に資本主義の成長がどう関わるかの考察だ。農業生産力は、開墾や農機具などの発達で高まるが、すると何が起こるのか、だ。

 

不生産階級を深掘りして考えよう。彼らは農地周辺ではなく、城下に都市を形成する階層である。

都市の市民には自給自足の生活はできないから、自らの労働を通じて、発注者からの支払いを受けて生活している。城下町になるのは、主な発注者が支配階級だからで、城造りや補修の大工、貴金属加工や、美術品関係、行政面では、軍、警察、裁判所、徴税人、生活面では、雇用教育者、仕立て屋、料理人、庭師、洗濯屋、靴屋、などなど。

もともと、余剰生産物は支配階級を経て直接消費され、また派生してその労働者達都市市民の為の間接的消費がある。その意味では支配階級の存在意義は、余剰生産物を消費しつつ、残りの余剰生産物を不生産階級の中間消費財原料と食糧に利用しつつ支配体制を充実させる。

農産物の余剰生産物は、支配階級と、不生産階級の食糧と中間消費財を賄うのだから、この2階級の発展を促す。結果、都市の不生産階級の人口増、軍を始め支配階級の人口増、不生産階級の原料増となる。生産階級はというと、これに対応するために人口増があるが、一方で不生産階級製造による機械化のような生産性向上手段の導入で人口過多となり、不生産階級への人口移動の人口供給源となる。

ロビンソンクルーソーが、泳いで魚を突いていたのが、熟練度が上がると余剰時間が生まれ、釣竿や漁網、船を作り、更に余剰時間が増す、というのと同じである。

また。例えば、縫製工房からの服であろうと、仕立て屋からの服であろうと、労働の中身が分業化のレベルが異なるが、城主が仕立て屋を呼びつけてオーダーメードするか、この仕事を都市住民に広げ、縫製工房で既製服プレタポルテで作るかは、発注者、需要者の違いによる。都市人口が増えればプレタポルテが大きな工場生産となり、都市の外周に工場ができることに。支配階級の非食品分野の消費余力が増えると、不生産階級が増えていく。

 

要は、生産階級の農業生産力が増せば、ケネー範式の図式で、20の税金が、30に増えたとして、食糧は、支配階級の自家消費に限界があり、振り分けが10から増して、20以下が非食品で消費される。この需要の担い手は不生産階級であり、不生産階級の人口が増えても、食糧に事欠かない。不生産階級の人口増加の供給源は機械化農業により溢れた農村人口からの流入、現代中国の農民工や戦後日本の出稼ぎ労働者である。または、域外から流入する。

個人営業のサービス業、要は支配階級の召使い業なら、剰余は産まれず、食糧プラスアルファの生活費と引換に支配階級の発注で仕事が生まれるだけだが、都市の人口増加により、発注者が都市及び農民の需要を工場生産でまかなうようになるなら、労働者と経営者に分離した生産体制で、労働者には最低生活を保障する賃金の支払いで済ませれば、剰余、即ち資本が経営者に生まれる。が、工場の規模を拡大して剰余を目的に工場生産すると、いずれ需要は限られるから、限界に達する。原前払い即ち固定資産減耗で労働者の雇用に伴う賃金が抑えられば、利潤はさらに上がるが、マクロ的には発注者が減る。

階級問わず人口増加と、輸出による発注者需要が必要になり続けるから、市場の拡大が求められ続けることになるが、いずれは拡大再生産は単純再生産へと移動する。

範式では、生産階級の原前払い10、支配階級の非食品消費10、と同等のサポートを不生産階級は行なっていて、静止状態にあるが、どちらがメインなのか、どうバランスが変化するのか否かを考察しなければならない。

支配階級の非食品消費増加が、不生産階級を育てるが、この増加は生産階級の余剰生産物増加によるものなので、主は生産階級の原前払い増加による生産増からの税収増である。

余剰生産物が少ない時は、支配階級は食糧収奪が所得のほとんどで、それを超えたぶんのの食糧で召使いを賄った。食糧生産がある程度増産されて範式段階に至り、更に増産されれば生産階級から不生産階級への人口移動を促し、不生産階級が年前払いだけでなく原前払いまで資本を蓄積できた時が自営業又はギルドから工場生産となり、資本主義生産循環が得られると、生産階級並みのシステムとなり、不生産階級は生産階級となり納税も可能となる。最終消費の対象も支配階級を含む生産階級、不生産階級自身の需要を対象とする生産を行えることになる。

範式は、それ自体農業国で資本主義生産が行われる前段階の断面図、ということになる。

 

経済を考える6-5

ケネーの範式の不生産階級の成長の考察が、資本主義化への洞察を生み、資本主義発展後の社会を模索する上でも手法は同じ気がする。

 

不生産階級の質と量の拡大の前に、農本社会の価値観を考えよう。それは余剰生産物を増やしたい支配階級の思いであり、安定して豊かになりたいのである。いつの時代も同じですね。

その解決の道は、開墾と戦争による生産基盤即ち領地の拡大と擁護。水産資源がないなら農地は絶対的で国境を内陸で接するならば、紛争を作るのは簡単。農民にとっては税金が安ければ誰が支配階級でも良い。この領地戦争は、世界マクロではゼロサムでしかないが、支配階級にとってはオールオアナッシング。死活をかけた戦いに、常設の軍と内政を抑える官僚機構の維持は絶対的。

戦争は総力戦となり、人口は農民が圧倒的に多いから、兵士は農民の力を借りなければならない。農民のほとんどを徴兵すると、農業生産が落ちてしまう。したがって内職労働時間分を農業専業労働時間に絞らせ、また農閑期の農民から徴兵する。

また、大量な武装、刀、やり、盾、弓、馬具、場合によって、食料から戦場携行必需品の需要が生まれ、かつ農家での兼業的内職的作業は専業化される。そして、短期の利益率とは無関係な需要が生まれるのだ。生活物資や支配階級の贅沢需要も劣後となる。このことは、農業を維持しながら戦争し、戦勝すれば回収できる信用での負債による不生産階級の発展をもたらす。銀行もその一つ。そしてその後は重税が待っているが。

要は富国強兵、がキーワード。

しかし、国境を内陸に接した領地戦争は激しい破壊と農民人口減をもたらす。その意味では海洋国は、戦火から守られ、海に隔てられた補給廠、生産補充基地としての地の利があり、また、後進国に市場や資源原料、奴隷の補充を求めることになるから、勢い造船業や鉄鋼業発展の地政学的優位性が備わる。

こうして、農業生産力が乏しくても、不生産階級を国策として育成し、地の利を生かして工業生産力を育成し、造船と軍艦による制海権を確保して通商を活発化させ、大量の原料輸入で大量生産し、戦時は補給廠として、平時は交易として、貿易に足る生産工場が需要の独り占めででき、そこで資本主義が花開くのではないだろうか。これが、資本主義の最先端を行ったイギリスの推察だ。

 

 

 

経済を考える6-4

ケネーの範式で思うことは、見事な封建主義循環システムを表現していると同時に、この時代の不生産階級である商工業者の位置が、支配階級の為の服の仕立てや豪奢な家具や美術品、庭師や建築物作り、装飾品作り等宮廷でのお抱えの召使いとしての機能と、もう一方では鍛冶屋や運送資材、土木工事等、ある意味生産階級の外注下請として農本社会システムにあっては余剰生産物を産出しない付属物でしかない階級でしかなく、不生産階級を除く2階級に分割して吸収包含する範式案も範式作成過程であったとしてもおかしくはないと考える。

すると租税収入を得て消費するだけの支配階級と、経済活動を行い不生産階級の生産階級の為の生産部分を内包する生産階級代表としての借地農経営者を通じた納税、という構図も描けなくもない。

範式で描かれる主要部分は拡大された生産階級内部の経済活動が主でその中の市場が、自由市場ではなく納税確保の為の管理貨幣を商人に強制する社会であることも明らかにしてしまい、支配階級の存在意義めぐり、ケネーの立場上、国体変革へと話がそれるのを恐れたのでは?といううがった見方もできなくもない。ここではこの程度に止める。

不生産階級の分離を好意的に見るなら、農家の副業、農業ができなくなった農民、農閑期の内職、など生産階級の内的作業が内職が合理的な小さい規模だったはずだが、それでは専門化や需要の増加により内包しきれなくなって、下請として分業化した、とか

また、一歩前に出て、自営化して分離独立専門化した商工職人が農業生産地から離れて支配階級のお抱え職人などと同居して都市を形成した、または、お抱え召使いの専業技能を生産階級用に副業的に広げた、なども考えられるが、農業の生産性向上に農機具や機械などの道具が決め手だったことで、鍛冶屋など小規模な製鉄加工専業化の需要もあったはずだ。宮大工の仕事も金属加工品や木材の集積加工所も必要だが、生産階級の農地拡大に必要な開墾や領土拡大戦争が頻発していて製鉄機能も求められたはずで農家の副業の域を超えて専業化した階級形成がなされた、と考えるのも自然ではないか。

規模が職人の水準で、仕事の受注はローカルな支配階級と生産階級からのものでしかなく、生産階級並みの安定した需要がなく、経済的には実質2階級での経過的な位置にあった、と考えられなくもない。

しかしながら、総じて言えることは、支配階級の需要増加と生産階級の需要増加が求められたということである。

不生産階級が納税システムに関わらないなら、余剰生産物はなく、下請の機能分離でしかない。

ならば、不生産階級のまま存在するのではなく、第2生産階級になる前の準備的段階、と考えられる。不生産階級が第2生産階級に移行することが資本主義化を意味し、経営は借地農経営者から転じた資本家により経営された。利潤を生み、不生産階級が生産階級人口を超えると、この階級区分は対象とする産業別区分でしかなくなり、生産階級として一本化される。資本主義国家の誕生である。

国家運営は資本主義経済構造の規制を受けることになる。国体は変わるのだ。

しかし、この為には解決しなければ納得できないことがある。不生産階級はどうして、何により新生産階級に昇格できる利潤を得られたのか、農機具や鍋釜、大八車、一方で支配階級の為の贅沢品や奢侈品や芸術美術品作りや貴金属加工の需要が高まったからなのか、需要が生産体制を生む、不生産階級の成長を導く需要が次回のテーマだ。6-5に続く。