MCT-2
○資本主義から金融資本主義への移行の必然性を考える。
GーW(pm+A)…P…W'ーG'
W'ーG' 、ここでは、流通資本が関与することが抜け落ちているのだ。生産資本と流通資本は一体不可分である。商品をつくればその価値で売れて貨幣が手に入るのではあるが、これでは流通資本なしに生産資本だけで行ける、との誤解を生む。
命がけの飛躍、のような文学的表現は不要である。
商品をつくれば剰余価値は生まれる、が実現するかどうかは流通資本に頼らなければ作りっぱなしの価値が潜在する商品、でしかない。
商品は売るために作られたのだから。
そして生産資本を拡大して再生産して剰余価値を増やすのが目的なのだから。
まず、範式簡素化の為に、pの生産工程でmの価値増殖をするので、
W(pm+A+m)を生産資本の稼働と書きかえる。
流通資本段階では、商品W'を換金する為の流通資本の稼働と考えれば、
W(pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'
が相応しいと考える。このことで、流通資本による商品の価値通りの貨幣資本との交換が可能になり、商品や貨幣に労働させずともできるし、生産資本に全剰余価値を配分せず、流通資本分の価値を流通資本に配分でき、価値と価格の二元的表現を価値だけで一本化表現できる。
この仕組み理解の為に貨幣資本を復活させて考えてみた。
確かに流通は価値を生産しない。
生産資本で作られた剰余価値を実現するだけだ。
しかし生産資本で増加した価値W'は、そのままG'になってくれれば良いが、商品が商品姿態のまま自らの意思で広域化した市場に出かけ、貨幣所持者と等価交換してW'ーG'即ち剰余価値を含む全価値を貨幣資本に等価で変えて、今度は貨幣資本が生産資本のもとにまで引き返して自らを差し出す、という商品と貨幣に無償労働させること認めることになってしまうのだ。これは労働価値説に反する。
マルクスは流通資本での労働を無価値であり、労働と認めていないようだ。
労働価値説がここだけはげ落ちていて、マルクスは流通は価値を生まない、という観念が先行しすぎて流通には労働が必要という現実を、しかも剰余価値の中から、流通資本の変態転化を伴うという現実を評価できないでいたのだ。
もともと、労働力が商品化していない、自営業や職人生産なら、剰余価値生産はない。
pmもAで生産労働価値評価されるものであり、Aは労働時間価値そのもの。故にこの合計の労働時間価値に見合う商品が生産されるから、W'のうちのW分の価値は閉鎖経済域内で飛躍せずとも消費されうる。=Gの回収は困難を伴わない。
しかし、A=A+mの価値増殖を行えば分離した分を資本家がその商品姿態m価値分を全消費せざるを得ないことになるが、彼が必要なのは、消費財商品ではなく生産財、即ち原料や機械が需要物であり、生産の持続による剰余価値増殖が目的である。そして労働力商品は継続雇用により得られる。
流通資本段階の作業を担うのはやはり人であり、労働にたよらざるを得ないのだ。
運ぶ、市場に分配する、販売手段を構築し、所有権を移転する、など。
価値増殖された商品を換金するには、労働を伴わざるを得ず、剰余価値を実現する労働、即ち商人の仕事が歴史的にもある、ということだ。
彼らは価値を生産するのではなく、価値を実現することで生産資本の活動を継続拡大する役割を担うのだ。
もともと商品は自家消費ではなく販売する為に生産されているもので、商品段階で終わりではない。
mが大きくなるほど、そのm分の換金には、国内市場の資本主義化では不足するので、市場を国外にまで求めた流通活動が求められ、それは国外生産資本との競合と淘汰を生み出し、場合により対立を生む。
さて、生産資本Wは生産活動により消滅し、商品資本W'に剰余価値分価値増殖を埋め込んで変態する。
すべてが商品姿態となったので、生産資本は、原材料が底をつき、また、減耗した機械には布がかけられ、賃金をもらって解雇された生産労働者達の生産工場、倉庫に商品がある状態であり、継続生産即ち次期生産開始の為にはW(pm+A)が貨幣を経由しようとなかろうと、戻し、もたらさなければならない。
貨幣で戻されるなら原料と労賃に変えなければならない。
(W'-W)=剰余価値の範囲内での流通資本変態分を控除して、W+控除額の価値で、生産資本に流通資本から貨幣提供されることで、生産資本は流通資本に商品姿態のW'を全て渡して拡大再生産を開始できる。
ただしその拡大の規模は剰余価値mではなく、そこから流通資本分を減じた価値分に減っている、のである。
流通資本は、W'の商品を市場でG'と交換できるのだが、仕入れ段階でのW+控除額の貨幣を、前払いすることとなる。
流通資本の投下量W2=(pm2+A2+m2)を控除した額を生産資本に支払って商品を預かるのだが、その仕入れ代金は売り終わってからはじめて支払えるものだ。
流通資本のW2=(pm2+A2+m2)は、生産資本と同じく自己資本として考えるのなら、流通資本額(pm2+A2+m2)をW'から差し引いた額を生産資本に支払うことで、商品姿態W'量のまま商品を入手し、市場で販売して、G'を流通資本が得ることで帳尻は合う。前払い版と流通資本の充当補充分だ。
要はG'換金までの流通期間があるにもかかわらず、前払いとしての仕入れ資金、G'-W2(pm2+A2+m2)の貨幣資本が流通資本には追加で必要なのだ。G'に換金できるまでの間、信用で借りる必要があるのだ。
[G'-W2(pm2+A2+m2)]>Gならば、生産資本は次期の拡大再生産を継続できるのだ。
mは、全ては生産資本が生み出した剰余価値ではあるが、流通資本の活動の価値分減額されるのだ。
それが嫌なら生産資本自らが、流通資本の機能を担えばわかるはずだし、そうすることも可能であるが、その流通期間内の生産資本は停止することになる。剰余価値生産は、流通資本の稼働期間に流通資本からのm2としてのみ移転して発生しうることになる。mは移行して。
この間生産資本は停止しているので、過去生産した剰余価値は、流通資本の剰余価値としてのみ実現されるから、あたかも流通資本が剰余価値生産しているように見える、が過去の生産資本剰余価値の全てが価値移転したに過ぎない。
その時得るG'も貨幣蓄蔵を目的としないので、貨幣である必要はない。蓄蔵貨幣は何も生まないからだ。
貨幣を蓄蔵しても全く増えないが、生産資本組成すれば第二次生産での拡大剰余価値が得られるから、生産資本化をより早く求めるのが正当である。
以上から、流通資本は、自己資本W2(pm2+A2+m2)のほかに前払いの商品仕入れ代金、即ち
G'-W2(pm2+A2+m2)
なる前払いの追加(貨幣)資本を求められる。
流通資本に、信用資本とでも呼ぶべき(貨幣)資本が求められるのだ。
信用(貨幣)資本の流通資本側の創出、が発生するし、これを貨幣資本で賄うのはバカげている、蓄蔵貨幣で遊ばせることにしかならないのだ。
要は、信用ある債務証書で、しかも流通期間後の価値での前払いなので、期日を標準的平均的な流通期間に決済する約束手形による、しかもその期間前に決済したければ、割引く、そういう操作を可能とする第三者的金融機関の制度を求めることになる。
流通資本の追加資本分の信用供与、ここから流通資本の機能の一部が、金融資本として経済規模の成長に合わせて独立、拡大するのだ。
流通資本の存在が金融資本を求めるのだ。
もし、その手形、即ち期限付き債務証書が、生産資本間で流通できて、それにより生産資本組成できれば、貨幣など不要である。
生産資本は、拡大生産資本の再生産を求めているのだ。担保は剰余価値と組成商品現物があるので、信用は成立する。いかばかりの利子も剰余価値からもらうことになるが。
こうした信用による制度が安定して確立すれば、貨幣が価値をもつ必要は全くない。
しかし、社会的問題としての生産過剰や、流通域拡大の失敗によりG'転換が不調となると、信用による貨幣は、その価値を毀損するので換金、実物資本への着地を求めるので、信用収縮から恐慌を引き起こすことになることもある。W'がG'に帰結し続けるとは限らないからだ。
現代の資本主義は、こうした信用の上に立つ金融資本主義を基盤としている。
しかも、その信用供与という形で、不換紙幣を民間銀行により発行させていて、連鎖的信用恐慌に対応するために中央銀行を用意し、更に通貨を発行できる国家権力でそれを防衛していて、取り付き騒ぎには、不換紙幣の大量発行による恐慌回避を可能にしている仕組みを取っているのだ。
これが金本位制による、価値ある貨幣で信用ではなく交換で発行すれば、又は現物の物々交換であれば成長は鈍化するが、恐慌にはならない筈だ。借金による貨幣発行ではなく、交換によるものなので、等価の現物担保が常にある状態だから。
そして金融資本の成長も限られ、GーG'は、国家を相手とする高利貸し、などに限定されるはずだ。これも重税の根源とはなるのだが。
更に、生産資本も流通資本も、両資本間の信用決済だけでなく、それぞれを自己資本のみに頼るのではなく、剰余価値からの配当として、金融資本により両資本の生産、流通資本の組成に資本投入することで、剰余価値を拡大することができる。
GーG'が可能なように見えるが、全ては生産資本の拡大可能範囲と、それを循環再生産に導く流通資本とその拡大が、全ては労働価値増殖がこの根底に潜んでいるのだ。
こうして、剰余価値は、拡大しながらもそこに所有権を主張できる金融資本が剰余価値収奪の頂点に立つことになる。金融資本の不労所得者への剰余価値からの配当=所得移転=合法的収奪がその本質であり、このウエイトは益々高くなり、資本主義に寄生していつしか金融資本が頂点に立ち君臨する。
生産資本も流通資本も、拡大こそできるものの、金融資本への剰余価値からの価値移転は、階級制度が維持されれば、剰余価値収奪でき、その剰余価値に寄生して金融資本がその大半をものにすることができる金融資本を頂点とする金融資本主義が成立君臨することになる。
こうしてみると、生産労働者、流通労働者は、いつしか利子負担分までの剰余価値生産負担を負って、利子負担の為に働かされる状況になる。
要は格差拡大マシーンに労働者は投入されるのだ。
しかしながら、それを拒否するなら失業者となる道しかないのである。受け取るのは不労所得者であり、これが現代資本主義の社会、金融資本主義社会である。
しかも、ここでの最大の問題は、信用創造が「無」から生じさせることができることである。マルクス時代の金本位制による交換、によってではなく、剰余価値成長が見込めるなら、貸すよ!とした万年筆マネー、現代なら銀行通帳への数字記入、だけで金利を押し付け、剰余価値から収奪する不換紙幣の発行又は債務証書の発行において行われているのである。詐欺による収奪と何ら変わらない。
しかもここまでくると、生産資本は、市場を国外含む規模に拡大しなければ衰退するので、信用供与を受けて拡大し続け、生産、流通労働者は剰余価値生産のために労働し、その剰余価値の多くを金融資本に吸い上げられ続けることになる。
それを不労所得者への所得に分配することで、強い格差を生じ、不労所得者は、労働所得では得られないほどの膨大な所得移転を可能にして、所得格差を拡大し続ける、歪んだ社会を生み出すことになる。
資本主義は、金融資本主義に発展せざるを得ず、その結果は、ピケティの論を待たずとも、格差拡大主義社会へと変質していくのだ。
更にどう猛な拝金主義者達は、剰余価値率向上に向けて、労働者階級の非正規化などの多様な収奪方法を採用し続けるので、格差拡大は絶対的加速度的に進行する。
マルクスの資本論では、生産資本家を工場所有者に見立て、太って葉巻をくわえ、シルクハットを被った浪費家、にシンボライズした風刺絵とともに描かれることが多かった。勿論本人がではないが。
現代資本論では、産業資本家は、所詮は寅さん映画のタコ社長に過ぎず、被搾取者の階層の1つでしかない奴隷頭に過ぎない、ということだ。
流通資本でも同じである。
この資本主義システムを利用し、不換紙幣発行による金融資本家の利子付き信用供与による収奪機構が諸悪の根源である。
金融資本主義は、格差拡大が目的である為、腐った、健全性を失った資本主義であり、それを終焉させなければならないのだが、全ての根源は階級制度の存在にあり、剰余価値の占有競争を行う金融資本にある段階でその意味ではマルクスの根幹思想は全く正しいまま、なのである。
金融資本主義の横行を許さない、不労所得を排除して階級制度を破壊する、又は緩和して先延ばしする方策は国民にとって必要となる。
当面は、金利に強い課税をかけなければならない。
実体経済は有限であり、経済成長はいずれは資源の不足となって現れるし、そもそも販売によるW'ーG'
変換は可能性に過ぎず、実現には域外市場の拡大が前提となる為、そこに摩擦が生じればそれがネックになる。貿易摩擦や植民地需要だ。
もしG'回収に失敗すると、流通資本は毀損し、信用供与が履行出来ずにショートし、生産資本に供与された手形は、その信用を失う。
こうして恐慌は、流通資本、生産資本の倒産と共に金融恐慌が発生することになるのが現代である。
自己資本が少なく、信用創造による他人資本部分が大きいほどレバレッジがかかる。
金融恐慌の規模はより大きい形で発生し、実体経済水準までの収縮が起こる。
この恐慌は、新たな追加信用供与で収まるが、その債務は現代では、信用通貨発行元の金融機関の貨幣収縮としておこるので、それを政府が債務保証することになる。生産過剰、流通資本過剰はレバレッジ分収縮する。バブルの崩壊という形で。
資本主義は、金融資本主義段階になると、社会進歩と豊かさの実現という使命を失い、非人道的で邪悪な格差拡大マシーンとしての機能となり、人類の精神性の喪失をも伴う悪の帝国となる。
もはや工場の資本家や、流通の勝利者が敵なのではない。
金融資本が歪みを作る根源であり、剰余価値の移行先となることで、資本主義生産システムは、金融資本に吸収されていることから、しかもその根拠が信用創造からの貨幣創造によるものであるのならば、生産流通労働は、収奪のための方便でしかなく、資本主義の健全性を阻害する。
資本主義でも剰余価値が、国家により吸収され、国民的な投資課題や、福祉的内容を持って還元されるならば、資本主義の健全性は、逆に維持すべきシステムである。
この課題は、国政や財政の場においての、実質的な労使対決が、産業資本段階での直接の労使対決に変わりうる、代行されるものであることがわかる。
労働者階級に多数の犠牲者をもたらすなら、先に国体変革を必要とするのではないか。