経済を考える8-5

ちょっとお休みして、ぶつくさ独り言。(^^)

 

不生産階級による職人作業の機械化へ置き換えによるコスト削減を通じて、剰余を得て、その剰余で一方では機械化の高度化の為の機械生産へ、もう一方では、W-Gに要する商業経費増を通じて、職人生産物価格により近いが下回る価格販売を可能にして職人生産物の置き換えが急ピッチで進む。

一方で商業にも同じ流れを促し、製造業の発展分の発展が販売する生産物と同額の販売システムまで派生成長する。不生産階級の商人が商業資本に成長する。外国生産物の輸入により、商業資本の発達は止まらない。また、製造業も生産することで剰余が得られるから、国内市場が飽和したら、実質的に国外の職人生産がなくなるまで輸出が続く。その市場がなくなると、需要が固定化して生産回転数が定常になる。この間に機械化と回転数の向上がなくなるわけだ。それは剰余が固定資産を新たには形成されないことをも意味する。剰余価値が固定資産減耗で消し飛ばされる。要は補充だけの現状維持だ。需要が減退すると、そこから更に補充も部分的になる。固定資産減耗分の補充が減るから、そのぶんの賃金削減を頭数の削減含めて存続させる段階になるはずだ。

現代経済は、ここの研究が必要かもしれない。

 

生産階級の不生産階級化が進行しだすと、資本主義のシステムが機能不全になる。現代日本はここの段階にある?

戦争などで生産需要は一時的に増え、システムが機能するが、戦争は終わる。

勝った側には過剰生産設備が残され、失業が待つ。負けた側には、激しい生産需要が起こる。トータルではゼロサムで、ある意味労働者の悲劇の優生保護が機能するだけだ。

それならいっその事、ケネーののどかな範式の時代に戻った方がいいのかも知れないが、資本主義生産が勝るがゆえに、また、市場を求めるがゆえに、世界の資本主義が成熟するまでは止まれないで進むしかない。現代日本は先頭に立っている為、部分的にこの課題に直面している。今は茹でガエル状態で次なる方策を待っている時期なのだ。

 

経済学に価値があるのなら、マルクス後継者により新たな経済学批判=(新)資本論、を完成させなければ真価はない。

人の機能の外部化のうち、筋肉消費部分が初期には外部化され、人は機械の操作人となってきたが、今は頭脳の外部化が進み、そこに資本主義が機能する活動場所ができている。その操作人となって久しい。マルクスの時代に、職人労働が、機械により児童や婦人の労働に置き換えられた。初期は劣悪で長時間労働だったが、全社会的には失業者部分に賃金が払われ、職人生産に置き換えられ、職人が減る、がトータルでは生産量拡大で職人の単独よりもマクロ的には収益性はよい。日本人は職人で、生産基地が中国に移る現代と変わらないし、世界という枠では平均すると豊かになっているはずだ。

頭脳さえも機械の操作人になった後に待っている世界とは?

自動運転で採掘して自動大型トラックで地下資源を採掘輸送、輸送はGPSで中央制御盤で監視コントロールされている映像を見たことがあるが、作業員はごくわずかしかいないとすれば、金属需要があるかぎり剰余価値が生産されるものの、他の生産方式が一掃されれば定常化する。

イノベーションがなければ、単純再生産の近代的中世、の時代が、機械化前の長い封建的中世と同じに続くのだけではないか、また、その時代は、

快適空間の創造、が新たな需要となりそうな気がする。ここに労働が発生して効率化していくのでは?とも思う、芸術やスポーツなどの娯楽ニーズなのかも知れない。人に必要性と欲望があれば不均等でも発展は続くし、そこに最大の欲望、金、名誉欲があればシステムがなんであれ、不生産階級は生まれるのではないか。ケネー当時の不生産階級はすでに生産階級になった。現代の不生産階級にその芽は🌱

芽生えてるのかもしれない。

暇な話に付き合わせて申し訳ない。(^^)

 

 

経済を考える8-4

W-W'変換を深める。

目的は、資本主義システムの普遍的な表式を作ることである。偉大なマルクス表式の批判者ではなく、後継の一人でありたいから。

 

貨幣資本Gを商品Wに等価交換して生産資本を編成して、剰余価値を含んでアウトプットを等価交換で貨幣資本Gに戻す、と考える。

 

製造業の場合は、物の生産なら種類は問わない。

Pm1を投入し、G回収時にその価値分を回収する。

Aも投入し、Aを同じくG回収時に価値分を回収。

これだと、剰余価値はゼロだ。即ち不生産階級だ。

物を人が需要あるものに変化させるだけだ。ケネーの言通り。誰でもできるし差もない。

ここで、マルクスの方法で剰余価値を生産するには、Pm2がない、0とすると、上の状況で剰余価値生産するには、

Aを1.5倍働かせると、Pm1も、1.5倍必要になるから、Gの投入も丁度1.5倍に増やさないと生産が止まるだけだ。剰余価値は出ない。だから、賃金を1のまま、Pm1を1.5倍投入すると、1.5-1=0.5の剰余価値が生まれる。これは確かだ。残業代払えばなくなるが。残業代を支払わずにmを得るには、投入するGは1.5+1.5=3  3が完成品W'の価値ではあるが、これは3人でしかこの価値生産はできないのに、給料は二人分しか払ってないから、G-Wが不等価交換になる。

不等価交換は長続きしない。ここを等価交換にするのは困難だ。日本では通用するかも知れないが。で、W-W' を編み出したわけだ。

これは、機械Pm2のない職人集合型生産で、1つの原料で1人の職人生産で1の製品ができる環境で、3つの原料を手配して、2人の職人しか集めずに、1人あたり1.5倍の時間を働いてくれ、といっているようなものである。この考え方では資本主義のシステムの表式としては不完全である。

 

Pm2の減価償却分もPm1に加算して、更にAを投入している。Pm1、Pm2は確かに不変資本だから、価値はそのまま製品の価値に移行するから、更にAの賃金も移行するから、またぞろ長時間労働か過密労働で賃金を踏み倒すことでしかなく、Pm2は余計な費用でしかなく、Pm2が無い方が資本の多くをPm1とAに振り分けられることになり、矛盾する。

 

Pm2は不変資本ではあるが、それでもコストかかるPm2を導入する理由は何か、というと、Pm1と異なりAと結合することで、Pm2を導入しないでAを働かせるよりもPm2を導入してAを働かせた方がコスト的にまし、だからだ。

A1+Pm2 がAより小さいのだ。A1+Pm2<A

ここでA1は、Pm2導入に伴う労働力商品即ち労働者数の減少または、非職人レベルの賃金労働者、又はその両方だ。

この左辺と右辺Aとが同等になるには左辺にmを加算しなければならない。

 

Pm2は固定資産減耗費用だが、Pm2<A(労賃)でAを圧縮する。だから導入するのだが、

A1+Pm2+m=A

となるA1とmを発生したまま、Pm1からの目的変化物を等価交換で貨幣資本Gに戻せば剰余価値mは貨幣Gとして現れ、W段階ではPm1の変化物の物即ち商品として現れる。

だから

GーW[(Pm1+A=(A1+Pm2+m)]-G  

であり、Pm2のコストが低いほど、又は高くても性能が良いほどA1は小さくなりmは大きくなる。

尚、この表式だと、

マルクス主義経済学の最大の問題点、サービス労働は労働か、何も生産してないのに。

また、このことが、ソ連の崩壊の根源的欠陥システムの理論的裏付けであることが、未だに解明出来ておらず、論争がなおつづいている問題だ。

 

商業活動でも運輸活動でも説明できる。それは、W-G  を担っているということだ。製造業が資本主義化すれば、サービス業が同等に伸びないと製造業自体の回転が止まる。

 

サービス業でもW-G工程で、賃金を機械化に置き換えて剰余価値を捻出するから生産階級となり、納税も可能だ。が、商人1人で機械化なしにやれば、不生産階級の商人となる。

製造業だけではなく、製造業の発達は、資本化してまた製造で剰余mを得るために商業の発達が必要不可欠となる。生産後の商品を売って換金し、また原料、機械、人を金で雇わないと剰余がでないからだ。製造業で生み出された剰余は等価交換された当初のGに加算されるが、固定資産として蓄積し、要は更に機械化を進め、次回生産時のmを大きくする。

固定資産である機械の製造が、即ち生産材生産をマクロで描くには、再生産表式に頼っているが、ここも検証したい。

 

機械化は生産時間を短縮し回転率を上げて剰余額をあげることもできる。この回転率こそが、等価生産しかできない工業が農業に勝る剰余価値を生み出す原動力で、1回転での比較では農業の方が上である。一つの種から何倍のも種になるから。

このあたりは次以降に検討するが。

経済を考える8-3

WーW'変換を考察する。

貨幣資本Gは、生産資本Wに変換して商品資本W'にして、G'にする。

しかし、WーW'で価値が増殖するのだろうか?

 

GとW、G'と、W'とはマルクスは等価交換しているから

WとW'の間で価値が増殖していないと辻褄は合わない。が、サービス業は価値を実現する為の経費支出でしかなく、何も価値生産していないとするならば、マルクスのこの式では当てはまらない例外となり、しかも現代では、当てはまらない方が大きくなっていてこれが混迷の主因となっている。

例えば家政婦協会など、ほとんど人材派遣業に近く、これも規模を個人から会社組織にすると、固定資産である事務所や、機器などの小さくても資本形成ができる。Wは、労働力でしかなく何も増えてはいないのだ。

商業も個人で個店やってる範囲でも資本形成はできるが、また巨大資本になることもできるが、ここでも生産資本はPを経て商品資本にはなっていない。

何も製造はしてはいないから、産出商品が増えるのとは、また違うのではないか。資本主義は誰の目にもあきらかだが、GーWーW'-G'  は、資本主義の普遍的な表式にはなり得ない部分的な表式でしかないのではないか。

だから、ケネーの不生産階級が、生産階級になるプロセスの研究が大切だ。

とりあえず、製造業が資本蓄積する過程を見てみよう。

生産資本に貨幣を転換する場合、まず、原材料を動力エネルギーと機械を使って労働して生産する。

要は人の再生産費用と機械の固定資産減耗で、原材料を変化させた商品にする。商品の価値は

原材料、エネルギーをPm1

固定資産減耗を、Pm2

労働力をAとすると、

貨幣資本が生産資本に転換するとき、原材料とエネルギーは固定資産減耗と労働力の結合により、違う物質に変わるだけで、価値は増えも減りもしないで加工後の製品に移行するだけだ。だから製造業は

G-WーWーG  でしかないのでは?

例えば家具工場を考えよう。

原材料の木材を仕入れて、ノコギリや丸ノコ機で細かくして、カンナで削ってそれを更に部品にして、組み立てて、釘や接着剤の原料を付加してイスや机を作る。原料を多くして、労働者も多く雇えば、製品も多くできるから、高い売上としてGが回収される。がそれがなんだ、だ。もし、家具職人がほとんど自分の手と簡単な道具で全作業をやるという、職人生産が主流の生産市場であったとき、職人を一箇所に大量に集めて大工場としてやったら、何が変わるのだろうか、何も変わらないはずだ。通勤費が発生し、町工場が各地に必要なくなり、事務経費が節約されるだろうが。

ここに、機械を導入して、機械に労働の一部を肩代わりさせ、より多くの生産は可能になる。

例えば10日で100個のイスを100人の労働者が手作りでつくっていたものが、機械を導入して、1日で10人の労働者で機械化とエネルギーを原料にくわえて木材原料も多くして100個をつくれるようになったとするとどうだろう。10日で1000個を作れるようになる、だれが900個を増やしたのか、労働者なのか、だ。然も労働者は1/10に減っている。

Pmに固定資産減耗と原材料を合算したことでAと同列の価値としたことが間違いなのだ。マニュファクチュアレベルの発想だ。要はGがWになるときに、労働力を機械化で置き換えることで同じ生産力をローコストで得ることができ、それが市場がマニュファクチャ生産のコスト構造での価格でW'-G'が可能ならば、その差額が剰余価値をWに内在化させて生み出され、資本化するのだ。資本の発生はW内であり、製造後の商品からできるのではなく、機械化による労賃の削減に起因するのだ。

だから、GーW(Pm+A)、ではなく

GーW[Pm1+(Pm2+A)]ということになり、

Aが、A>固定資産減耗である機械化導入により置き換えられ、更に高速生産が可能になり、Aが極小化して、m(剰余価値)が発生する、これが資本になるのだ。もちろんA>固定資産減耗、で

Pm2+Aが可変資本なのだ。Pm2自体は減価償却上は不変資本ではあるが。

木材工場労働者は数多首になるが、固定資産の機械製造業労働者として雇用される。ここから先は、ケネーの経済表範式の応用編、マルクスの再生産表式、に発展するが。、

マルクスはマクロ的な視点を導入したものの、資本の運動自体の興味はさほど大きくはなく、この辺りで革命家マルクスの命は尽きたわけだ。

イギリスの産業革命直後の大工場を観察して資本論を書き上げたが、当時まだ主流だったマニュファクチャ、職人による不生産階級の実態から、意識はまだその分類の範囲を抜けきれなかった。

まさか労働者階級の職人生産から機械化生産の中での労賃の削減と節約の中に資本形成があるとは思いもよらず、労働者生産物からの収奪に根拠を求めたのは彼のヒューマニズムだったとしか思えない。

 

起用する労働者の節約が剰余価値、資本の源であるなら、サービス業の説明も可能になる。また、WーW'なる魔法も不要になる。

 

GーWーG  で、剰余価値はWに内在して生産されるのだ。これが正しい後継マルクス主義経済学だと思う。そしてGーWーGーWー…を繰り返しながら社会は格差を広げながら発展する。

W-GーW の労働者階級は生活費と豪奢な暮らしの為に働き、資本家階級は  GーWーG を組織編成してW段階での資本の増殖の為に働く、というわけだ。

 

 

 

 

 

経済を考える8-2

ロビンソンクルーソーの魚とりは、道具の高度化による生産性向上、即ち需要分の魚が取れる時間の短縮により彼の自由時間が拡大される。

彼の資源は個人的労働力のみなので労働時間減少が資本増加を促すからわかりやすい。

 

自由時間に道具を高度化するのに消費するか、自由な遊びで消費するかだが、前者は資本としての投資、後者は最終消費だ。

彼にとっての剰余価値は自由な労働時間の量とそこでの固定資産投資労働として現れる。

借りに、道具を高度化できたら、さらなる自由時間が後にえられるはずだ。彼の一人の暮らしには、交換に不可欠な貨幣は不要である。交換は時間と行動との交換だけだ。

 

たとえば、木の枝の先をナイフでささっと削って素潜りで魚とると、1時間で1匹の魚しかとれず1日で6匹の需要があった場合、6時間の労働でがんばったわけだが、やってられないので、

余剰時間で1時間かけて10日間で、タコ糸で漁網を作った。

網を使ってみたら1時間で3匹とれるようになった。

網が原前払い、固定資産になったわけだ。

 

彼の魚とり労働時間は、6時間から2時間に削減できたわけだ。とすると、漁網漁では、補修作業時間を無視すると、木の枝のモリでの素潜り漁の1時間で1匹から、投網漁で3匹なら、かれの労働価値は時給1匹が、時給3匹になるのだが、漁網という道具と組合わせて3匹だから、労働時間が半減したのは、漁網のおかげであり、彼の過去労働の影響だが、10日で漁網を作り直さねばならないとすると、1日で10×1/10で1労働時間の減価償却資産とともに作った成果だ。

したがって6時間労働で6匹が3時間労働で6匹になったわけだ。ここでかれの時間当たりの労働は同じ価値か、ということだ。過去労働のおかげで、3時間の剰余がでたわけだ。素潜り労働と投網労働の各々の1時間の労働は同一人がやっているが、価値が違わないと変だ。

6時間の素潜り漁労働=3時間の投網漁労働

同じ人の労働時間が異なるというのは、労働の価値が同一ではない、と見なければ辻褄が合わない。

素潜り漁労働は、投網漁労働の3/6=50%の価値しかない、ということだ。

 

ロビンソンでは、自分の過去労働だが、ケネーでは、長い農本社会の歴史ではもうすでに亡くなった祖先の労働成果物であったはずだ。この上に現在労働による余剰生産物や剰余価値生産物がある。

 

したがって、投網漁労働と投網製造の過去労働蓄積の現固定資産減耗が投網漁の原動力である。

 

では少し話を変えて、たこ糸から網を作って、市場で漁網を販売する製造業を考えてみよう。

糸は製糸業者から買入、漁網を職人のハンドメイドで完成させた場合と、パート雇用で、製造機械で完成させた場合の差は何か、ということだが、漁網を作っている原価は、誰のものが主かと言えば、現在労働者の労働で機械の過去労働の償却と、機械のエネルギー源の消費量や保守メンテナンス料だ。この場合の労働賃金は、単位時間当たりでは、同一ではない。たとえ、職人だと10時間、パートだと30分だとしても。

要は、労働が、固定資産の減耗や動力エネルギーに置き換えられると労働力の価値が下がる、ということだ。しかも、労働価値は、生産力が上がると、たとえば6時間の投網漁だと18匹取れるようになり、賃金は、1/2に下げても魚が9匹買えるわけ。

要は生産力が上がると、労賃を下げても労働力は再生産できるから、下げた労賃分が剰余価値生産となってきて、これが資本化するのではないか。

ただし、生産力の増加は、需要で止まるし、資本蓄積も率で低下する。機械化後は換金できないので恐慌の引き金を引く。

 

初めにGがあり、原料部分と固定資産減耗は生産後のGに移行する不変資本である。あとは、労賃と剰余が移行して、当初のGと交換できれば剰余価値はえられるのではないか。

交換は、尺度でしかないから、等価交換を前提にする。不等価の交換もあるし、これは強制的交換であり、長続きはしない。

マルクスは生産工程を入れて不等価交換を混ぜ込んだが、肝は生産工程の解析にあるのではないか。

生産工程で説明すると、非生産部門やサービス部門での資本形成が説明できないので、製造業労働者の理論に矮小化される弱点をもつ。

 

あとで修正する部分多いが投稿する。

 

WーW'工程の深掘りが必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

経済を考える8

いよいよ、本題?にせまりたい。

マルクス資本論の主要命題  (記号の定義は後述)

 

GーW(Pm+A)…p…W'ーG'    

 

即ち、GーWーG'   説に対置して

名付けてGーW-G仮説を8シリーズでは検討してみたい。

 

労働者は、労働力商品Wを賃金G貨幣と交換して、生産活動に参加し、得た賃金Gで生産消費材商品Wと交換して生活、再生産する。

W-GーW  

が労働者階級の図式で、蓄積即ち資本化できる剰余生産ができない働き蜂的な階級。

   現代でも消費を抑えれば貯金はできるが、それもいざの蓄え、老後の蓄え、豊かさ先送りの消費資金でしかない。貨幣が資本化するには、生産活動に資金投下しなければならないから、あと送り消費可能労働者階級でしかない。

 

 一方で資本家は、

GーW-G

貨幣資本を労働力商品含む商品に交換で変え、生産活動させて拡大貨幣資本にもどす。

しかしこれでは価値が増えないので、この交換ではあえて交換の王者的存在の貨幣を資本化するリスクをとる意味がない。だから

GーW-G′   

であることが必要。として貨幣増殖即ち資本の増殖としてマルクスは展開する。

資本としての貨幣Gを等価の商品資本と交換する、即ち不変資本Pmと可変資本Aとに交換入手して生産活動PをさせてW′なる増殖した生産後商品を得てG′価値増殖した商品を等価の貨幣資本に変える。

ここで、Aは労賃、Pmは、原材料と施設や機械等の固定資産減耗。

等価交換で、資本は形を変える。

生産工程で労働により価値が増殖される、というもの。したがって増殖は労働によって得られ、労働者階級に帰属するものと考えている。

マルクス主義経済学の根幹部分だ。

そして交換自体は価値を増やしも減らしもしないというものだ。

G-WーW'-G'

より細かく正確に表現すると、

GーW(Pm+A)…p…W′ーG′    

Pは生産工程。 

価値の増加は生産工程で作られ、交換は常に等価交換、労賃以上の生産をさせる生産工程で、生産工程前の価値が生産活動を通じて商品として現れるから商品資本として増え、その後の貨幣資本が増え、剰余価値が資本家所有所有の貨幣資本になる、というもの。

 

ケネーの範式での生産階級は、30のインプットで50のアウトプットを得る。これをマルクス資本論に当てはめると、不変資本Pmを10+5、可変資本Aを15とすると、というのは、原前払い100、の年間償却が10で、年前払い20が、種子や年間消耗する資材の原材料、と農民の食糧即ち賃金にあたる、の合計が表現されているので、それを便宜的に原材料5、と食糧15に分けてみた。Pmは10+5で15、Aも15になるわけ。

30Gー30W(15Pm+15A)…50W'-50G'

となる。30Gが、生産活動で50Gになるわけだ。

今のが剰余価値を生む生産階級だが、ちなみに不生産階級はどうなるのだろう。

10Gー10W(10Pm+10A)…[(20W'ー10A)=10W']ー10G'

になるのではないか。剰余価値分の生産増はA即ち食糧=賃金に吸収されて貨幣資本は生まれない。これは、資本家のいない生活するだけの為の自営業者的な単純再生産社会であり、没落して資本生産参加する労働者階級になるか、生産性上げて資本主義化して剰余即ち資本を生み出す資本家になるかの分岐点の幅の中に存在する将来分岐する前段階階級であると思う。現代では、社長も雇われ経営者で高級労働者でしかない。

 

話を進めると、たしかにPm+Aが生産過程に入る条件で、ここで剰余価値='  が生まれると、これまで触れて来なかった、ケネーの経済表範式ではない、もう一方のジグザグ表と呼ばれる「経済表」の意味が見えて来る。

余剰生産物が資本化して、それ自体が自己運動できて、半分の?資本を生み、またその運動が更に半分の資本を生みという現代の乗数理論そのものだ。

ケネーのジグザグで単純な図の意味が300年前の当時は本人の残されたメモとしてあり、誰もわからなかったが、100年程前のケインズの乗数理論そのものだったことがわかったようだ。資本とは何かを最も初めに理解していたケネーは天才であるが、その思考方法を理解できれば深い経済知識がえられるはずだ。

余談だが、ケネーは宮廷医になる前の学生時代、まずしくて40km?の彼方の図書館に通って何冊かの本を借り、読みながら帰ると全部読み終わって理解した、との逸話もある。好きなことは苦痛にならないようだ。

また脱線したが、要は剰余価値生産が貨幣であろうと現物であろうと、単純な消費で経済循環から外れずに、経済循環に資本化されとどまる。したがって資本の生産活動がどうなされるかを解明しなければならない。マルクスの図式に問題はないのだろうかをケネーの視点で分析したいが、直感では

GーWーG仮説だ。

資本主義の剰余(資本の前段階)を生み出すスタートは労働だが、労働だけなら単純再生産を繰り返すだけ。ロビンソンクルーソーがいくら頑張って熟練しても、手作りのモリすらなければ消費生活を繰り返すだけ。余剰時間でモリや網を生産できなければ、船を生産しなければ、魚群探知機を生産できなければ余剰時間がより多く生まれない。資本は余剰生産物が生まれて初めて形成されるし、その形成は原前払い、が拡大生産する資本を増殖する。

即ち、償却する有効な固定資産形成が資本の現象形態である。蓄積労働でもある。蓄積労働は、労働力商品そのものに分類統合され、Pmのうちの原材料とは区別されるべきではないか、が8-2での検討課題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

経済を考える7

6-9はまだ未完成で自信も少しない。税収増が不生産階級を育て科学技術も発展しそうである。100%ではないが、税金も役立ち、農業基盤整備など生産階級への依存は小さくなっていかざるを得ないようだ

が、先に行く。

 

不生産階級の利益がどう拡大して資本蓄積に至るか、要は、工場規模の生産ができる投資資金と投資原資を支える利益の源泉はどこからか、だ。

生産階級の場合、当時のフランスの農民に貯蓄がたまっていたわけではない。なのに余剰生産物があり、それは不等価交換?として支配階級に流れていた。

GーW-GのWは、固定資産減耗と協力してのW、だからWのうちの賃金部分と固定資産減耗が経費であり、固定資産減耗の回収分が賃金から引かれ、更に労働は可変資本なので、固定資産追加投資の分が賃金から差し引かれ、Gに変える、これが資本主義の本質ではないか、が仮説だ。これは8で検討したい。

 

私の根本的な疑問は、マルクス

貨幣Gー商品Wー貨幣Gダッシュ だ。

WーGーWは、労働者の単純再生産課程である。

資本家は、GーWーGの生産工程では、もともままで工程を行う意味がない、というものだ。

だからPの製造工程で価値増殖が行われ、

GーW-PーWダッシューGダッシュ

増殖価値が製造課程で付加され、労働者帰属のそれが剰余としてとして資本家に帰属され、これが投資原資となる、ということだったように思う。

だから交換課程では、価値は増殖価値しない、ということだ。ならなぜ交換に経費をかけるかというと、資本即ち貨幣資本に戻す作業しないと資本にならない単なる商品資本だ、ということだったようだ。

商業の発達や商業資本の巨大化を説明しにくい。

近代工業化の先駆けの時代、流通機構も未発達な時代の限界で普遍化しきれていない、まだ、生産力が未発達で流通機構が問題にならないほどお粗末な時代であるから、そのセクションの資本形成に至らない、丁度ケネーの不生産階級の生産階級化の萌芽の時代の限界があったからではないか。

私は、GーW-G、が正解だと思う。

もし、そうでないなら、商業や流通業、いや家政婦協会業などのサービス業という、物販製造業以外に資本主義がはまらなくなるから。

サービス業は、資本を蓄積したり、固定資産投資原資が得られないはずだが、実際には拡大再生産も固定資産投資も行われている。

これは、現代でもなおマルクス主義経済学の論争の種として生きているから。

この世に需要のある限り、需要とは、が難しいが。

 

ただ、ケネーの生産階級内で剰余生産物を得るためには、100の固定資産保有の段階に成長していて、この固定資産原資は農民への利益配分からの収奪によって蓄積していたのではないか、ということだ。スミスのように等価交換ではなかったということだ。

不等価交換が富の増殖分からではなく、労賃の権力による収奪、即ち不等価交換から得られたと考えるのがふさわしい。でないと、支配階級の収奪と同じ原理である。収奪し過ぎれば再生産が縮小するから、そのギリギリを知る能力が支配階級にはあるし、借地農経営者も同じであり、幾分かの利益は得ていたはずだ。

Wのうちの、原料は削りようがないが、見た目価値ある粗悪品で市場を、通過できれば可能だが、長続きはしないとすると、労賃の必要を超えた削減が、資本の原資となり、それは工場生産などの規模拡大で多量化できる。発展時の生産階級と不生産階級の関係が、需要とする種類の産業が流通業なり商業なり、召使い業だった、サービス業まで、需要あるところの規模拡大には常に労賃からの収奪の積み上げが行われるわけだ。従って、需要増がなければ、単純再生産になり、供給過多になれば縮小する、縮小すれば投資用の収益も減る関係にあると考えられる。ここで、需要が最も大切だが、不生産階級即ち労働者階級が増えれば、労働者階級独特の需要が大規模化する。需要は天まで届くほどあるが、賃金総額で優先順位化するしかない。賃金は限りがかるからだ。社会の生産水準が高まると、支配階級との格差はあるにしても、圧倒的には労働者が多いため、労働者にも貯蓄が可能になる。貯蓄は投資資金となり金融業者から金利をつけて投資資本として産業に再分配される。

収奪されて資本家に投資原資が集まる、というより、労働者に分配された収奪後の賃金からの貯蓄が融機関を通じて投資資金として再分配され、金利を得るわけだ。ところが、投資先がなく金が銀行に溢れているのが日本の現代だ。借入需要がないのだ。住宅需要も少子化で有り余っているのだ。

 

マルクス主義者は、普通は剰余生産物は農民のもので、支配階級を倒せば、ついでに借地農経営者もいなくなれば、少なくとも20の余剰生産物が農民に分配されて農民が豊かになれる、というようなものだろう。

しかし、その余剰生産物は10は生産階級に食糧消費されるが、10は不生産階級に消費されるものの、拡大はしないが固定資産減耗ぶんの補填として不生産階級の必要労働を導きで 、更には拡大再生産用に固定資産投資に回せる。

疲れたので後で書き換えること前提にアップする。

経済を考える6-9

ケネーの経済表範式に感激したマルクスが、資本論で再生産表式の理論に発展させたプロセスの再現になるかもですが。

範式の生産階級が、原前払100が生産資本として存在し、10年で償却するから、年前払には10が消費される。

別に20の年前払は、実は大きくは労働力を提供する農民の生活費と種子や年間に必要な消耗資材費、要は人件費と物件費にあたる。

資本は合計で30を消費するが、100も資本である。

 年度当初は、100の資産と20の費用を投じて、90の資産と50の生産物を得るが、20の翌年度の費用を取り置き、消耗した資産10を補填することで100の資産に戻して、20が純生産として残り、これを支配階級に納税するパターン。ケネーのメモには、一瞬の切断面だけでなく、経過もあったはず。

 

仮に、減税を嘆願し、支配階級に20の税を15にまけてもらえたとすると、支配階級は食糧を10のままにして、5を不生産階級からの消費財買取で我慢することになり、不生産階級は5の受注しかなく、これでは食糧不足となるため、生産階級から10の受注ではなく15の受注を受けて食料費5、仕入れ原料費10をまかなうことになる。今までは不生産階級の他階級への受注依存度は50%ずつ、だったのが支配階級25%、生産階級75%と変化する。もし、100%生産階級依存なら生産階級に組み入れられ、不生産階級は存在意義を失う。

生産階級の15の余剰部分は、拡大再生産の為の原前払即ち固定資産に補充10に5の追加が行われるか、年前払に5を投じるか、その組み合わせか、何れにせよ5は、借地農経営者により資源配分される資本増加となる。借地農経営者が内部留保して現金にしてタンス貯蓄にすれば、支配階級が細るだけになる。

105の原前払、固定資産の増加5となって翌年の生産に寄与する資本増加をやるのが一般的で、道具の拡大にあたるのが普通のはずだ。

支配階級の最終消費で消えるのは食費の10だが、いつもは、20のうちの残りの10は、不生産階級の食費というか食糧生活維持費の元手となり、不生産階級を維持することに貢献し、生産階級の10の原前払の財生産に寄与できるから意味がある。

もし、支配階級が10の食費だけで済むなら、不生産階級は年前払10で、10の原料を仕入れ、20の製造加工ができ、生産階級から20の生産物を受け取り、食費に10、翌年の前払に10を保管できて維持される。

これは既に生産階級の下請けであり、不生産階級は消滅し生産階級のみとなる。

 

現実はこの想定とは逆である。人のいい支配階級は、もともと収奪と最終消費がこの階級の存在意義であるから存在しない。増産分は慢性的な食糧不足にでもならない限り、20が、30になれば、不生産階級を増やして豪奢な暮らしを楽しむか、=最終消費、軍や徴税人を増やす。従って、不生産階級は年前払の確保から、徐々に原前払も確保できることで近代的工場経営ができる固定資産を前提とした生産階級に発展していくが、その利益の原資は支配階級からの受注による。農業生産は人の頭数を機械により置き換えながら、食糧生産は人口を超えた需要がないので、投資が細る。生産過剰となるから、輸出品に役立つ程度となる。一方で非食消費財需要に応える近代的工場生産は支配階級と拡大不生産階級の需要で広がるが、支配階級の食糧需要の相対的低下と同じく、加速した生産財生産の結果、早い時期に飽和する。消費財生産財の関係はマルクスの再生産表式を参照すればよいが、この無政府的な生産競争が、過剰生産財生産にブレーキをかけて恐慌が起こり、壊れてまた立ち直る10年周期の恐慌を繰り返したが、これを救ったのが戦争による需要増作りだったわけだ。

余談だが、今の日本は将来人口減予測から、国内投資を抑えて国外投資による投資収益が得られている為、政府による最終需要を将来の返済を前提とした国債発行にたよって将来の返済を担保に国債増発しているが、その額は1000兆円程度で、国内生産もしており、国富が3300兆円ある。

内訳は非金融資産が2800兆円、金融資産が対外債権として250兆円あり、国富の3300兆円が非金融資産の再投資ができるから、国債はここまでは安全資産であることができるはずだ。発展途上国じゃないけど、投資資金が非金融資産である工場や生産施設がないところは、対外借入、又は投資資金を受け入れて低賃金労働で競争力つくり、国内需要が乏しいので輸出で稼ぎ更に低賃金で資本蓄積する、その場合もまず自前の工場作らにゃ!だ。

だが、今の状態の日本が続き、国内需要減が続き非生産資本が償却しきると、国債外資頼りとなる。

今の私の話が正しければ、3300兆円までプラス国の資産500兆円あるから、3800兆円を超える国債になると、外資が入り、債務不履行になると、IMF世界銀行が来て、緊縮財政が強要された上に国の資産であるインフラ、例えば高速道路や空港、鉄道や上下水道などが民営化放出され外資が担保にとる。料金は外資に流れ更に経済が厳しくなる、というのがこの間の経済破綻した国の先例である。韓国も一部当てはまっているが。取り敢えず日本の経済収支は20兆円の年間黒字だから、まだまだ先のことでしかないけど。