資本論の考察-7

再度生産資本循環による拡大再生産の範式の精度を上げて考察を進めよう。

 

W(pm+A +m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーW'(pm'+A'+m')

なる生産資本循環が本質である。

生産資本→商品・流通資本→拡大生産資本 である。

 

ここに、貨幣Gは捨象できる。この循環を円滑に進めるための信用、の状態で構わない程度の存在である。

貨幣と資本は別であり、実体経済においてもっとも重要な資本は生産資本であるpmとAであり、

過去労働の結晶化された原料や燃料や工場やオフィス、機械等の生産手段と、労働力商品、となる実体経済物である。

拡大再生産は、生産資本の拡大をもたらさなければならないが、マルクスが分析不十分だった、商品・流通資本、以降の流れを考察してみよう。

その為に捨象していたGに登場願いながら。

 

まず流通資本に頼らずに生産資本自らが流通資本として機能するとする。

W'商品とは、生産資本が消えて

商品*流通資本形態として登場している。商品資本としてW'が存在しているが、循環しないで溜まった商品在庫として存在していて、流通資本と結合しなければならないが、その流通資本分は、W'の'以内である必要がある。' とは剰余価値部分である。

仮に生産資本の剰余価値を全て流通資本投下に要するとすれば、確かにW'ーG'の等価交換は可能だが、単純再生産となる。働いた分が補充される。

資本主義の動機は、m増殖である。

したがって、[mー(pm2+A2+m2)] > 0 であれば、この販売工程を含む生産資本にm2の形で剰余価値が発生するのである。生産資本部分の取り分のmはゼロでもm2の形で剰余価値は得られ、次期生産資本投下は拡大できる。m2の分は、拡大再生産投下の根拠ではあるが、資本家部分の消費投資により拡大する。

1. 蓄蔵すれば、単純再生産になる。

2. m2保持者が資本家自家消費を増やせば、生活格差となる。

3. m2保持者が生産資本、流通資本投下すれば拡大再  

    生産となる。

 

資本主義初期は、商品生産量増加即ち、商品資本増として現れるが、それは商人活動の活発化を要請するので流通規模拡大が必要であり流通資本増を求める。流通資本とは、pm2とA2であり、Aの生産性を上げるpm2投下によりA2を置き換えることで、m2が得られるのだ。

 

結果として、上記の場合はm2だけで剰余価値を実現するが、生産資本は使用価値の単品生産となるが、流通資本が単品生産集合の同一運輸販売を可能にすることで、流通資本依存分がより少ない形で、早い話が流通資本投下を最小にして依存し、mの受け取りを減らして、生産資本の消失を埋める再生産として得ることがより有利な判断となる。

流通資本との機能分離が有効である。

として分離すると、生産資本のmの分配は、

m-(pm2+A2+m2)に縮小して、m2が流通資本の剰余価値に移行し、トータルでの剰余価値は変わらないのである。

生産資本の増加は、単に再生産資金を割引いて受け取り、微量の再生産を可能にするだけでなく、m2による生産増要請があり、成長が保証される点で、大きくは流通資本の傘下に組み入れられる構造となる。しかし、より大きな問題は、Gの機能が信用貨幣として、負債であれば代行できる、変態間の機能でしかないので、まずは生産資本が、信用において貨幣を使用しないで生産資本を担保として生産活動する規模となり、商品・流通資本結合時も商品を担保とした信用仮りで生産資本に割引支払いをして活動でき、流通資本も流通資本を担保として信用仮りして、…信用が実体経済の規模で、生産資本も流通資本も包含して拡大することになる。

本来なら生産資本で生成する剰余価値は、金融資本の肥大化を生むことで、金利として剰余価値が回収されていくのである。

さりとて、生産資本、流通資本も剰余価値の一部は受け取りうるが、金融資本が生産資本、流通資本に変わって資本の頂点に立つことになる。

これが現代の資本主義、金融資本主義である。

 

 

 

 

 

 

 

 

資本論の考察-6

GーW (pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'

 

で、貨幣資本Gを生産資本Wへ、そして商品資本W'へ変態させると、生産資本W段階で剰余価値mを生み出すことができる。A労働力商品が介在するからだ。

 

しかし、それは商品資本W'へのm='分の価値増殖したものであるが、商品としてあり、需要者はA労働者の賃金と交換する消費財とm資本家と交換する生産財である。この関係は後で考察する。

 

いずれにせよ商品資本状態の資本を生産資本にまで再変態させないと、拡大再生産エンジンによる価値増殖が持続できないガス欠状態になり生産が止まる。

 

増加W'商品資本を生産資本に転化するには、商品を作るだけでは商品在庫となり、劣化価値減少するだけだ。

需要者の元に輸送し、需要者を探し分配交換しなければならない。

もっとも早く効率的なのは、生産資本生産物との直接交換である。(貨幣がここでも不要になる。)

流通資本が移動を介助する運輸だけで済むからである。

 

要は、商品資本段階では途中段階にすぎず、生産資本段階で作られた価値は、買ってくれる相手を見つけなければならない。商品は意思もなく自分で歩いて買う相手を見つけることはできないのだ。

そこには労働が必要で、生産資本が存在する場合は、一体不可分の流通労働の関与が必要なのだ。

最終消費されねばならず、最終消費とは商品資本が別の資本に変態しスタートすることでもある。

万物は流転するのだ。

 

生産資本は生産を止めて、新たに輸送手段を使い、生産雇用労働者に新たに賃金を払いながら市場に持っていき買い手見つけて貨幣資本と一旦交換し、その貨幣資本で生産資本である原料調達や何年に一度の機械を購入する積立金に内部留保してから、はじめて生産労働者として戻り生産を再開する、ということになる。

この一連の流れでわかるように流通資本の機能が必要である。生産資本は生産を起点とした資本循環、即ち生産資本に始まり、商品・流通資本、貨幣資本、生産資本組成への流れの循環を継続しながら生産資本段階で価値増殖を行うシステムである。

価値増殖は、流通資本段階でも可能だが、生産資本での価値増殖からの移転の範囲に限られるだけだ。

 

さて生産資本による生産継続のために、商品資本段階以降を流通資本に委ねる場合は、生産資本がmの範囲内でやらねばならない追加資本分

(pm+A)を、流通資本に委ねてその追加資本分をmから減額してW'δ▼、(ただし '  >δ▼)で貨幣資本化する。流通資本から、割引いた商品資本+要した流通資本の合計をもって、元の商品資本の価値W'と等価の貨幣資本G'を受け取り再生産する。

→原料調達による生産資本稼働の継続による剰余価値生産の継続、となる。

 

生産資本は、W'の価値から流通資本の平均必要額を減じた価値で流通資本に商品化した資本w'を売り渡し、流通資本は、市場でW'δ▼ーG'で販売して投資額を回収する。できればG'は掛売りでもよく、その証文でpmを調達して生産資本に届ければなお良い。

 

流通資本は主に輸送と商業資本であり、自営的な商人の規模では賄えなくなり、雇用による場合は、そこからも剰余価値mを発生できる。

しかし、それは元々は生産資本の剰余価値の一部でしかない、それが移転したものだ。マルクスの時代は、ここがとても小さかった、というだけのことだが、この発展が見れないと現代資本主義社会をマクロで捉えきれない。

また、貨幣についての重金主義的な商品貨幣の時代であった制約と本人寿命から、金融資本主義段階に進むことが予測できていない。

この間の変態移行は、全てWーWあり、それもWーGの媒介は必須ではない。信用でつなぐことができるのだ。経済成長はW内でのみ可能だ。

WーW'は生産資本段階内でのみ可能で、労働価値による価値増殖が根幹にある。

金属貨幣としての金は、希少装飾品等の使用価値としてのみ機能し、交換価値の機能は信用で100%代行しうる、ということになる。

金に意味はないのだ。交換媒体信用代行、でしかない。

現代資本主義社会は、信用貸借社会である。金融資本主義段階である。

 

 

重要なことは、W'なる商品資本に移行していた価値の内容は、Wの価値は労働力価値に再分配されうる価値であり、' 部分の価値は、労働力価値によって生ずるも、' 支配者たる資本家機能を有する者により消費されることが可能となるが、資本家と言う機能が労働者階級の外にあれば、自家消費が増えるが、中にあれば、国民内格差として現れる。

 

 

 

 

 

 

 

資本論の考察-5

GーW (pm+A+m)ーW'・(pm2+A2+m2)ーG'

 

価値論で一貫して展開してみる。

また、Gは目的ではなく経過点として捉え、できる限り捨象し、確立後に明らかにする。

まずは土台から固める。

 

資本主義は、まずW(pm+A)で生産資本を組成する。

pmは、天然資源、原料などの「労働対象」、

機械や道具などの「労働手段」これらをcともいう。

Aは、「生産労働」である。これをvともいう。

pmもAも商品である。pmは、他の生産資本から生まれ、Aの加算により測られる労働価値物であり、分業により商品間交換で調達されるし、労働力商品Aも労働市場から交換で調達される。交換価値は、平均的労働力再生産費用=賃金との後付け交換による。G交換でなく、給料日までの債権債務であり、ここも金貨幣との物々交換ではない。

 

この生産資本の稼働段階で剰余価値mが生まれる。

「絶対的」、「相対的」、「特別」剰余価値があり、それぞれ長時間労働化、生活費が下がる経済環境変化、新しい生産手段導入、だが真似されて普及すると消滅する、という3パターンがある。

従って、pm+A+m、が生産資本稼働による、WーW'

変態で、全て商品として存在し、mはその一部である。

この商品を販売してW'ーG'にしなければただの不良在庫であり、剰余価値は潜在価値としてあっても実現しない。

ここからが肝である。

マルクスは、「商品の命がけの飛躍」と呼び、リネン20エレが2ポンドで売れる保証はない、お金を持っていてその人に使用価値がないと売れないのだ。

そういううまい人を市場で見つけて物々交換しようとしているのだ。彼には金を金として待つ人が頂点に立っていて、金の形が最高位にある、重金主義となっている。しかし、商品生産は多種あり、実際は金との物々交換ではないので、掛売りも含む信用貨幣により、交換時間の誤差の調整は可能。

ただし、もっとも深刻なのは、生産時のpmもAの集積であり、Aが加算されるのに、mの購買力は、マクロ的には生産資本の枠内にないため、より早い販売、敗れれば倒産、となるか、既存流通エリアの中での自給自足者への市場参入による掛売り、か既存流通エリア外への掛売り、国外への、ただしここは掛売りの信用がないため、商品貨幣である金との等価交換での販売先を探すことになるしかない。

国内が金本位制なら、金属貨幣不足をきたすため、商品形態の剰余価値の実現は困難となる。

そもそも生産力が大きくなり、商品生産量が増えると、流通エリアは広がるので、運輸・商業の流通資本が必要になり拡大せざるを得ないのだ。

商品はそこを自分で歩いて交換W'ーW'又はW'ーG'することができない。

その機能は、流通資本を形成せずとも、生産資本稼働を停止して、生産資本内の物的投資や増員で流通資本の機能を果たしてもよいが、それ位なら分業して流通資本にその機能を剰余価値商品資本から割引いて割引き貨幣資本を得るか、流通資本にpm'として納品させるのが妥当である。生産資本は金=Gが欲しいのではなく、割引き剰余価値生産のpm'を調達して剰余価値mを拡大し続けたいのである。

続く。

 

 

 

 

 

 

 

資本論の考察-4

GーW (pm+A+m)ーW'・(pm2+A2+m2)ーG'

を考えてみよう。

前のWは生産資本段階、WーW'  のW'は商品資本にm分の価値増加が内在しているもの。

この商品資本は、市場で次期生産資本との交換をする為に、W'ーW'  即ち商品資本、生産資本交換を必要とする。それは生産資本でのW'ーW''増殖を継続拡大する為に。

Gは出来るだけ捨象して考えてみる。Gが本質ではなく労働が本質だから。Gも自分の意思はないし移動もしない。そうさせるのは労働の介在であるAとその機能分離、階級形成して代表意思を持つ資本家と呼ばれる階級の力による。

 

商品資本、W'  が、そのままG'に変態すれば楽な話だが、マルクスのように飛躍が大変だ、と文学的に表現するのはらしく無い。

生産資本が拡大すると、半端ない量の商品がミクロ的にはできるから、これを資本増殖の為に次期生産資本に変えるには、市場で不特定の需要者と交換する、また市場が既存の市場の外の市場をも対象とする作業を強制される。

輸送距離も伸びる、場合により国外販売へも拡大する。販売は製造より厳しく困難となる。

理由は、後ほどマクロ表現で説明するが、剰余価値生産することで、この価値を需要するはずの生産資本雇用労働者と流通資本雇用労働者の賃金では、価値分の商品購買力が不足することで、その価値を維持して生産資本に還元するには、資本家が消費するか、経済圏外の国内自給自足者や国外の需要者との間での交換が行われる必要がある、新たな市場で売りさばかなくてはならない、ということである。

 

商品はそれ自体では意思を持たないし、需要者への移動すらできないから、生産資本が自ら流通資本機能を果たすか、流通資本にかかる経費分を控除して流通資本に委ねるか、だが、価値を割り引いて流通資本に委ねる方が良いことは明らかだ。

G'δ▲の貨幣資本で流通資本に売却して、その貨幣資本で即生産資本に転換すれば剰余価値生産が継続できる。

 

W'ーG' 、この為の必要経費は、剰余価値額以内で行い得るまでしか生産資本の生産は維持できないのだ。

しかも生産資本が、この間の商品・流通資本結合をやろうとすると、その間生産操業が停止する。

だから、剰余価値額から、かかる商品・流通資本結合によるG'の実現の為に要する費用平均額を差し引いた減額剰余価値をG'δ▼のδ▼<'  の形で流通資本からGを受け取り、生産資本に再投資するのだ。

この場合、流通資本は商品を預かる代わりに手形や借用書でもよく、信用流通さえすれば良い。商品貨幣の金は必要はない。ただし、信用貨幣はローカル貨幣であり、裏付けが信用でしかない為、国外での販売の代償は金であることが好ましいが、貿易に信用が継続すれば、国債などの紙切れでも問題なくなってはいくが、恐慌時に不良債権化する覚悟が必要である。金で交換すれば債権債務の発生はない。

 

また、流通資本は商品を預かっているわけで、いざとなれば商品資本の所有権を行使して取り戻せば済む話でもあるし、市場での換金=商品資本→貨幣資本への蛹としての担保力はあるのだ。

 

流通資本は、先に生産資本に減額したG'を払い、市場で価値分=G'を回収することで、商人の場合はA、流通資本の場合はA+mを回収するから、剰余価値が元は生産資本の剰余価値なのだが、流通資本から得られるように移行することで資本増殖ができる。

 

資本主義の規模の問題で、バカならぬ量の商品生産は、バカならぬ量の流通資本を必要とすることになり、無視できない。

しかしながら、このことはマクロ的には、流通資本内のA部分については、内需となり、外需依存を減らす効果となる。

高度成長期の日本や、昨今の中国は、初期の内需が生産労働者しかない為に、内需が弱く輸出主導で外需に頼った商品、生産資本転換しか方法がなかったが、いずれ成熟して国内への分配を流通資本の成長で外需依存から脱却できるようになる。

外需依存は、発展途上国の証でもある。

 

因みに日本は、生産資本、これは財、サービスを合わせて4とすると流通資本は約1、GDPの20%もあるが、これが内需として外需依存を緩和してくれることになる。

 

WーW'が剰余価値生産できるので、生産資本の稼働で、商品資本が増加してできる、WーW'  が最重要である為、商品資本に変態したW' を生産資本W'に、スタート段階に戻す状態を図式化してみる。

1.     W(pm1+A1+m1)ーW'・(pm2+A 2+m2)

2.    ーG'に変態する前に

        G'-(pm2+A2+m2)ーW'(pm1'+A1'+m')  へ。

 

ここで言えることは、生産資本から商品資本に変態する過程で生ずる剰余価値は、全てが労働価値説で言うところの雇用労働者のもの、では無いと言うことでもある。

もし、そうしたければ生産資本雇用労働者は、追加労働で商品販売までやって、追加生産資本に戻すところまでやらねばならないが、それでは分業効果が得られない。その間操業停止となるからである。

 

そう、生産資本における剰余価値は、全てが生産労働者に帰属するわけではなく、流通経費分を減額された額が帰属することになる。

 

 

 

 

資本論の考察-3

・W'  の換金活動を担う商業は、生産であり消費である。もし、' を超える支出で商業活動を行うなら、生産資本段階での剰余価値生産の意味は失われることになる。したがって生産資本との関係での商業活動はその範囲以内の発展にとどまる。本来なら生産資本で変態させた商品は生産資本所有者自身が販売することも可能だ。

 

商業には、GーG' のような高利貸し的な発展もあるのだがこれもあとで検討する。

 

商業を考察すると、輸送と商品販売による換金が主な仕事となる。要は商品資本となった商品の分配を担うのだ。

その目的は、生産資本は一旦失われて増加した商品資本に変態したのだが、それは可変資本の稼働増による価値増殖を伴うWーW' である。

ここで商業活動は、

W'  をG'δ-と交換してpm+Aを付加して輸送し販売してG'を得る。

ここで、W'+pm+A(+m)=G' となる。

 

資本論の定式

GーW (pm+A)...p...W' ーG'

は、実は

GーW (pm+A+m)ーW'・(pm+A+m)ーG'

が正解ではないか?

 

ここでは、商業活動が雇用を伴えば=労働力が商品となれば、ここでも剰余価値が発生することになる。

これは運輸資本や商業資本としても増殖拡大できることになる、ということである。

 

今回は資本論貨幣論との関連で変態をG貨幣の雑念を捨象することで考察を試みた。

 

マルクスの時代は、3巻でマルクスのメモ原稿を元にエンゲルスが寄稿し信用にも踏み込んではいるものの資本主義的生産の規模があまりに小さく体系化は未完成。

資本主義システムにおける貨幣は、瞬時に持ち手を変えるので、貨幣としての存在意義は低い。

信用による手形のような借用書、口約束で足りるレベルで変態により生産資本、商品資本、に移転して止まらない範囲であれば貨幣資本の独立の意味はない。

 

商業資本は、生産資本に対して、流通段階で商品から貨幣に転換するに必要な資本=pm+Aを減じた手形を発行して商品生産物を受け取り、販売してG'を得る。差額が利益となり、pm+Aを減じて尚利潤が得られるのは商人のスタイル。商業資本は生産資本稼働時と同じくAをA+m、と増殖できるのだ。

要はW'  で終わり、ということではない。

商品は、自ら歩いて遠い等価交換市場に行って自らが貨幣と等価交換して生産資本の所まで持ち帰ってくれれば別だが。

増加した生産資本の剰余価値は商品資本段階で、まだ価値として実現してはいないのだ。

 

W'  は価値増殖しているものの、生産資本としては作りっぱなしの工場搬出口の商品と生産資本不足による次期生産の停止でしかなく、貨幣資本を経由して増加生産資本に戻さなくては剰余価値増殖が止まる。

商品資本としては価値増殖されてはいるが、=商品量としては労働力商品の特殊性により増加した商品ではあるが、価値はまだ実現できていない。価値の実現には輸送や商業活動分の減額が必須なのである。

自らが生産資本の活動停止させながら、商品は自ら歩いてとりあえず貨幣資本との交換に旅立ってくれないことで、輸送や店での販売等に費用がかかるのだが、その費用分を商人に任せて、それを減じた額の貨幣資本に転換して生産資本転換させ生産を再開継続することで剰余価値生産の持続が可能となる。

 

マルクス資本論は、作りっぱなしの商品資本としての価値増をもって止まっているのだ。商品自体に価値の実現を委ねて剰余価値分を100%実現=貨幣資本回収させる、という根本的矛盾をもち、ここでは労働が必要にもかかわらず労働価値説から逃避しているのだ。

 

マルクス資本論を否定する必要は全くない。労働力が商品として提供されることで、剰余価値を生み出し得るし、階級が形成される。しかしそれは生産点だけではなく販売点でも、ということだ。

 

資本と労働との階級分離は発展拡大する。それを生産点のみに矮小化して解釈することは、現代社会の資本主義システムの分析を矮小化することになり、これはマルクスに責任を求めるのではなく、現代資本論研究者に求めるべきで、マルクス階級闘争の必要性は立派に生き続けているのだ。格差拡大の更なる発展という形で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本論の考察-2

・流通は価値を生まない、が資本論、の謎である。

流通労働というものがあり、商業という業種が歴史的にしかも資本主義成立のずっと前から存在しているのに、価値を生まない、というからである。

 

私の問題意識は、GーW ーG、でもWーGーW  でもGの問題、即ち貨幣論に問題があるのではないか、ということだ。マルクスは、正しいのに全体を解き明かす普遍性までに至る前に命が尽きた、ということである。

 

さて、WーW  が商品資本どおしで流通段階にあるときは、等価で交換されるから、勿論価格のつり上げや、安値販売などはあるのだが、長期には等価交換が守られるのはマルクスの説明のとおりであり、交換に本質的な価値増殖はない。

ここで、左右のWは異なる商品であり同一の商品ではない。交換の意味がないからである。

 

WーWは、商品資本どおしの交換だけではない。

Wが生産資本として存在する場合は、価値を増加させうる。WーW' が可能だ。

だがこの前に商品資本を生産資本とを等価で交換する、WーWがなければならない。

この交換は、使用価値を得る為の交換即ち消費のための交換ではない。生産増=商品増のための交換でしかない。また機械などの生産財との交換も消費の為の交換ではない。機械の使用価値とは生産資本としての使用価値でしかないのだから。

 

前者のWに労働力商品との交換が含まれるなら、これを時間買いしていて契約時間より長時間働かせるとか、機械導入の減耗費<削減労働力商品で生産させれば、出来上がる商品量は増大する。

価値の増殖、WはW'  に化けることが可能となる。

商品増加分が労働者のものであればW'ーW'  となるのだが、労働者はすでに自分を商品として期間売り契約している。

従って商品増加分は労働力商品を買った人にその所有権も移転している、ということになる。

生きていくのがやっとの労働者階級は、生産財や労働力商品の買い手にはなれず、労働力商品の売り手として自らを販売するしかない。経済的にも余裕あり頭のいいものでなければ生産資本を買うことなど出来ない。

経済格差の存在、が生産財購入の規模を左右する。

余談だが仮に資本家という個人ではなく、生産組合法人が労働力商品を買って、同様の生産資本組成して稼働させれば、W'  が得られるが、'部分を後払いすれば、労働者が豊かになる為の生産増だっただけである。

 

WーW 即ち、商品ー生産資本、の場合にも価値増殖はありえない。WーW' で' をかすみ取れるなら商品価値を生産資本化することに血道をあげるべきとなるのだが、生産資本は、既に商品資本に変態している。商品資本→生産資本の変態を早くもたらさないと、商品資本として退蔵劣化し減価してしまう。その為に商業という分野がある。

労働者階級は、生産物の賃金は得ているのだが、生産増分を市場で買えないのだ。

とすれば、交換領域を広げる、即ち同一経済圏の外側の商品需要に頼るしかなく、ここでの交換を通じて価値物を得て生産財=原料、機械、労働力に変えるのだ。その為には商人が必要となる。

 

地元経済圏で消化可能な製造工場の生産商品の剰余価値率mを上げるなら、経済圏を拡大するしかない、その為にはその商品資本を運び出して分配交換する労働が求められ、また経済圏内でも生産過剰となっているのでより早くローコストで販売するしかない。

マルクスも、「商品が発生するのは、共同体が他の共同体又は他の共同体の成員と接触する点」という有名な言葉を残している。

ということは、域内の交換に必ずしもGは必要がないことの裏返しでしかない。

 

その為のWーGを進める関与労働が求められるのである。ここで初めてGが登場せざるを得ない。

商業の本質は、経済圏内でのより早い換金と経済圏外での換金、ということになる。換金の必要性は、勿論商品変態してしまった生産資本の穴を補充する生産資本商品購入の為、GーWである。

 

この業務活動は、生産資本からの要請である以上、商業として独立しなくても、生産資本の側で担うことも可能である。

Gから生産資本Wとの等価交換は、ある意味たやすいものである。

より多い剰余価値生産物は、比例したより多い商業労働を求めるのだ。

 

 

 

 

 

資本論の考察-1

資本論は現代も尚光り輝いている。

しかし、資本主義の発達と共に、その経済学批判の対象物が拡大し、現在では光を照らす部分は相対的に小さくなり、古典として扱われる始末だ。

結論は、生産資本による労働価値増である剰余価値は、大半が流通資本に移転し、両者の大半が金融資本に移転し、また、各資本からの収奪が税として国家に移転して不労所得者に移転し債権蓄蔵する格差拡大システムのエンジンと化してしまった。

このエンジンの使命が終わりつつある、ということだ。どこをどう変えるのか?が問題となっている。

 

資本論の要諦は、生産資本段階における労働価値増殖即ち剰余価値の発生強制とその収奪支配である。

 

この本質は何ら変わらないが、現段階の資本主義に対応する現代資本論を検討することはできるはずだし、もしマルクスが現代まで生きていたと仮定して、その精神を受け継ぎ、資本論の現代版を作ることは労働者階級にとって意味あるものになるはずだ。それは、何が真の敵、変えるべき問題点なのかを明らかにする為だ。

葉巻をくわえ、シルクハットをかぶり、太った贅沢な資本家像から、寅さんのタコ社長に資本家のイメージを変えなければならないのかもしれない。

もし、生産資本に資本家は、単に雇われ資本家でしかないのかもしれない。ただの奴隷頭としての地位かもかもしれないのだ。

もし、昔イメージの資本家が剰余価値の全て自家消費し贅沢三昧すれば、資本は浪費され、拡張主義的な販売競争は結果として起きず、ある意味中世の時代のような平和な単純再生産経済となる。

剰余価値は、資本として投下され更なる拡大生産資本を組成するからこその資本主義現代なのだ。

 

そこでまず、資本論の基本範式における、貨幣資本Gは金貨幣などの商品貨幣であることによる貨幣論の現代との決定的な違いにメスを入れ始めることにする。

 

・WーW

これは物々交換を示す。

お互いに違う過剰生産所有物を流通させて等価で交換することで、自家生産消費を超えた余剰生産物どおしの交換によってよりましな消費生活が得られる、というもの。これは生産分業を肯定するだけのことだ。

 

ロビンソンクルーソーRは、全ての需要物を自らの労働により得て生存するしかない=全てが自家生産消費=流通はゼロ、だが、フライデーFが登場すると分業が可能となる。

 

Rが野イチゴをFが魚を捕ることを得意としていて、そして余剰分を等価に交換することができれば、win-winである。

この程度の社会に貨幣は不要であり意味をなさない。交換尺度も話合いだけでもオーケーだ。信用さえあれば。

ただし、収穫期が異なるなど交換に時差が生じる場合は、Rは夏に野イチゴをとりFに信用貸しして与え、Fは負債を負う。この負債は秋に魚でRに等価分返済すれば解消される。消えて無くなるのだ。

貨幣ならどちらかの手に残るのだが。

等価分とは勿論抽象的人間労働時間尺度であるが。

丁寧にも、FはRに借用書、内容は「秋に魚を払う」というもの、を渡したとする。

 

さて、この島に更に火打ち石を余分に持つサンデーS、干し肉を余分にもつマンデーMが増えて、RはSに借用書を渡して火打ち石を得て、Sはその借用書で干し肉をMから得たとして、Mは、Fから秋に魚を受け取る債権を承認すれば、この借用書はすでに貨幣である。しかもその借用書は債権債務が履行されれば破り捨ててこの世から消えてなくなるのだ。

この貨幣は、金属貨幣などの商品貨幣である必要は全くない。

このロビンソン事例は、中野剛志氏による説明のままの引用である。

 

物々交換には、その連鎖に対しても金や銀などの商品貨幣は必ずしも必要ではないことがわかる。

故に貨幣の説明に、物々交換による必要性を充てるのは必ずしもふさわしいとは言えない。

 

物々交換が時間差で行われる場合、交換が終われば借用書としての貨幣はこの世から破棄され、消滅するのだ。貨幣は消えるのだ。ここが商品貨幣とは異なる。商品貨幣論では、交換用の金属貨幣の生産が必要条件となる。

債権債務の観点から資本論を再構成する必要がある。でないと資本論は、労働価値説が重金主義に誘引され歪められる。

金の価値は採掘精製等の生産労働価値に等しくそれ以上でも以下でもなく労働時間量により変動するものである。

変動する商品貨幣でしか貨幣不要の交換(変態の為の)が出来ないのであれば、貨幣は経済成長の障害とさえなりうる。

 

・WーGーW

労働して金をもらい分業による他者の生産した商品を買って消費して労働力商品を再生産する循環図式である。

この場合も、本質はWーWであり、AーWである。

 

労働力商品を稼働させる生産工程Pで、価値物Wを生み、他の生産物のWと等価交換するのである。

それを労働力商品の使用価値消費財入手=労働力の消費分を補填再生する、という持続的な循環を形成する。

 

ところが、労働力商品の特殊性を、階級支配の道具とした時、生産手段pmとの結合労働により、少生産労働時間化が可能になるも、同時間労働させることで生産物増をもたらすことで、かつその価値物を資本家という機能をもつ階級が占有する剰余価値生産が可能になる。=資本増殖。そこが問題なのだ。

マルクスの資本主義分析である資本論は、階級社会経済と階級闘争の必要性を資本主義経済システムからあばきだしたことである。

 

資本主義的生産システムが問題なのではなく、生産資本の専有権を主張する階級が、剰余価値生産物を占有することが問題であり、利子の形や地代の形でも剰余価値分を占有又は収奪するシステムとして利用されることが問題なのだ。その点ではマルクスの資本主義解明の努力は賞賛されるべきであり、階級闘争が必要であり、その根拠となるし、今もその価値を失わない。

いずれにせよ労働価値説に依拠する限り以下が可能となる。

 

W(pm+A)…P…W'  

WーW'   が成立してしまうのだ。

ここで貨幣は単なる負債媒体でしかなくても可能である。

もし、資本主義的生産が、機械使用による大量生産のシステムを指すのであれば、これが悪いわけではない。Pで付加される過剰労働分=剰余価値分が等価で賃金増となれば何の問題はない。

ただ、その発展のためには、賃金の一部を省力化の為の機械生産に人物金を移動させることが必要だが。それがA、労働者階級の意思で行われればよい。

資本家、経営者がその機能を持てば、分配問題で私利私欲を律せられる知的人道的な人がそのポジションにいるのなら、階級闘争はする意味はない。したがって、資本家、経営者にあたる人の倫理観が卑しくなりがちな人間というより動物の本性をむき出しにすると本来的な階級闘争が必要になる。

自立は必要だが、個人主義は民主主義とセットにしないと暴走し、路線を逸脱する。この辺りは徐々に深めるが、話を戻すと、

 

GーW(pm+A)…P…W'ーG'

なる表式においても、問題視されるGの初期の資本は、GーW ーG での  

GーW ーW'ーG' が目的ではあるが、

生産資本ー商品資本 変態による剰余価値生産が目的であり、この

生産資本段階でのWーW'が生産資本稼働のなかで得られ、流通段階では、W'ーW'が交換されるのである。

無限に近い連鎖の中でのG、貨幣は増えつつ消滅するわけだ。

WーW'  が本質であり、貨幣は交換媒体の意味しかなさない。資本論では、貨幣が商品資本の頂点に立ってしまっているのだ。

 

生産資本段階での増分価値即ち剰余価値は、労働量増により、流通用増加商品として現れるが、勿論商品貨幣Gを媒介としてでも、単なる負債によってでも追加労働支出=商業、運輸、所有権移転の労働が必要である。

何故ならここで立ち止まるなら、商品資本段階で停止したままなら、そのことで生産資本化への変態が得られないからだ。

工場の出口に商品の山ができた状態で、この商品をより増加した生産資本に変えてこそ、ここから剰余価値生産が再度可能となる。

この流通労働問題、商業価値論問題は、その評価が資本論の最も難解かつ謎であった。

マルクスも数式化できていないのだ。

そしてそれを教条主義として受け止めると、ソ連経済となる。戦時中のナチスの侵略から守る戦車を作り続けた、作っても作っても消費する戦車、必要なのは工場から戦地への輸送だけが必要であったから、運輸だけで、分配、交換を媒体する流通商業労働は育つはずもなかった。

戦後経済では、大量の農産物は計画生産できても分配機能がなく、大量の減耗や、山積みで駅で腐った野菜、結果として食糧不足、貧困が継続することになる。ソ連の失敗はここにある。生産資本の強大化偏重である。W'ーG'のまま、ということである。