市場経済システム-5

マルクス主義を政治的に利用し、後進国革命が20世紀に発生し滅亡した。その多くはマルクス資本論の解釈に問題がある。マルクスは市場による交換を否定していないどころか、商品からスタートして交換価値と使用価値の矛盾について述べている。

交換価値とは、分業による市場経済そのものである。要は需要と供給における供給サイドの生産様式において、資本増殖の為に労働所得即ち賃労働に置いて、搾取収奪がシステムとして組み込まれていることを暴き、生産手段を労働者階級の手に!と叫んでいるに過ぎない。

しかし、この革命性を、専制君主制打倒に利用して自らがその専制君主に成り下がったことへの矛盾である。

市場経済を支える、圧倒的な生産手段による生産力は、当時はイギリスのみで普及して、しかもエンゲルスのイギリスにおける労働者階級の状態、に見られるように、過酷な婦女子による奴隷に近い長時間労働により、資本蓄積された。まだ生産手段の発達もなく、ましてやその所得や生産物によって形成される市場は自ずとしれていた。ましてや他国は、資本主義的生産力もなく、市場経済も未発達で村の定期市レベルから、さほど遠くない存在。

更に君主をいただいての対戦が行われれば、軍需生産第一主義の統制経済が有効になり、ソ連もどれだけ戦車を作り続けるか、石油生産力を上げるかなどの生産力を目指さざるを得ず、市場経済からは程遠く消費財生産は、農産物のみでありそれこそ、農本社会が重化学工業を極貧レベルてわやったに過ぎないから、自由もへったくれもないレベルだ。

レーニンの死後、このままエスカレートしたに過ぎない。この間に戦争の蚊帳の外で、輸出主導の生産力の向上を図れたアメリカにより次世代が担われた。ここには市場経済の発達もあったが、2つの大戦で死の商人とした戦争特需経済ができ、一次大戦後の平和時に大恐慌となり、二次大戦後も冷戦の継続と局地戦の継続により生産力を維持せざるを得なかった。朝鮮戦争ベトナム戦争キューバ危機などだ。

そして市場経済を崩壊前の社会主義国以外に定着させてきた。市場経済を発展させない生産経済力レベルの旧社会主義国は、その中世的な、統制経済によりみるみる生産力を失い滅びるのだが、中世的支配構造を残したまま、奴隷的生産を取り入れた市場経済により、中国の共産党権力による、復興が成功し、覇権求める帝国主義に成長するという、まさに歴史の皮肉が起きてしまった。

この戦略爆撃機型の他国生産拠点破壊爆撃活動は、許してはならない。少なくとも共産主義者は、共産主義精神のもとに、たとえ民族資本との歴史的妥協、提携をもってしても、打倒放逐して、奴隷労働に動員されている農民工や被抑圧少数民族の労働者階級の為にも、打倒し破壊すべきである。そしてマルクスに投げかけられた汚名を晴らすべきである。

そして国レベル、国の国民レベルで市場経済システムを円滑に使う、各国の国民主権による共産主義的な市場経済システムの復活による民主的で豊かな経済国家を他国との協調により建設すべきである。

 

それは、中国マイナス共産党、プラス民主政治ならば、資本主義から共産主義への理想的な経済モデルが出来上がるのだが、中国は国民の思想が封建主義、全体主義を引きずっており、容易ではない。

市場経済システム-4

・市場流通経済が機能している社会にあっても、安全保障上の危険性がある場合に、利敵行為となる生産サイドの生産拠点を国外に投資して作ることは利敵行為となる。明らかに現中国は、スパイ活動も含め、自国利益のみを最大化する片務的半閉鎖的な国家生産活動を行なっている。他国の生産拠点をも破壊する規模の投資による過剰生産と知的生産物の盗用、奴隷労働、覇権を目指す国家であり、帝国主義段階にある。

 

日本も労働所得の分配制限による資金を国内投資するのではなく、さりとて労働所得に分配せずに企業収益を出して、それを国内投資するのであれば生産財生産労働所得、その加算所得による消費財消費の拡大と、国内生産性向上による次期所得の拡大、と市場経済流通が機能するのだが、投資を国外に回すことから、労働所得が増えずに金貸業として国外生産拠点を強化している。

そこには、国内労働者階級の実質賃下げしかなく、更に移民を入れる方向だ。

要は、移民に安く生産させて資本を増やして国外に金貸業をやり敵国に生産拠点を渡す亡国活動を行なっている。これは国と財界の国策であり、いざとなれば労働者を戦争による債権確保に導くものである。

やはり、国内投資を上回る国外への資本流出については、制限をもたらすべきだし、そのことで国内の生産拠点を失うべきではない。

 

日本の消費を支える所得を増やす為の経済政策を組むべきで、徴兵で処理すべきではない。

経済システムを国内消費を増して、たとえ日系企業による生産品であっても、輸入制限して国内労働所得を拡大すべきである。

できれば革新勢力がもし国内にあるのなら、外国人消費に頼る国内消費レベルを克服しなければ、亡国である。

市場経済システム-3

市場経済システムが、円滑に回っている間は、螺旋を描きながら経済成長できる。後付けながらGDP結果でそれは簡単に観測できる。

総賃金分の消費財生産需要分を競争生産しながら生産できるが、それ以上の生産は不良在庫となる。生産基地は、次第に淘汰され競争も新規参入も減り、ドンドン活力を失い投資規模も縮小して退廃する。

 

また、本来なら競争生産のための技術開発や生産財生産のための資金投下がなされ、これも中長期的には、賃金からの分配分であり、健全には家計の貯蓄からの利潤伴う運用である。先程の生産財生産にも当然に賃金が支払われるから、消費財生産の需要枠は広がるのだ。次期生産は更に少ない雇用でまかなえるので、それが家計であろうと企業の内部留保であろうと投資枠はさらに健全に拡大できる。

 

しかし、ことはそう簡単ではないのだ。競争が国内だけの鎖国的閉鎖経済なら自然増は可能だが、国外からの低価格商品攻勢を受けて、国際分業が迫られる。そのプロセスで前章の巨大な奴隷的労働による高度技術、大量生産国からの怒涛の輸入にさらされるのだが、国内では、消費者的には安価な商品を買えてハッピーなのだが、生産労働者的には総賃金が減るような状況に晒されるのだ。すると生産基地が失われて絞り込まれて、輸出入バランスが崩れて、あるべき労働所得が国外流出することで、消費力を縮めざるを得ないのである。

これは、戦時中に生産基地を爆撃破壊されるに等しいのだ。就労場所が衰退し、賃金が減り、消費が減るから貧しくなるのだ。

生産基地が破壊されてるのを喜んで見ている自由があるのだ。それも安価な商品が出回ることによって。では、それを輸出した側は、というと奴隷的な低賃金労働による収奪が行われての話なのだ。例えば現実の例として、中国での生産労働者の労働所得は党の役職者に移転しているのだ。中国の場合は、共産党が悪徳資本家となって機能してしまっている。手段を選ばないのだ。

その影で、国内の生産基地は破壊され、一部の生産財の輸出基地に縛られた生産がなされ、輸出によってしのいではいるものの、大半の国内の賃金の移転所得は、国外に投資され、そこからの投資収益による経常収支が黒字ではあるものの、再投資資産は国外にあり、これを売却持ち帰りができなくなる事態も予想され、その場合は、国外に作った生産拠点の破壊、の形になる。いやなら戦争も辞さずに債権を守る軍事力と意思が必要となる。

世界水準の世界需要用の投資を行った中国により、消費財は溢れており、生産財もはるかに国内需要を超えて、国内投資先もないことから国外に無理やり需要を押し付け、支払い能力のない途上国の支配階級に賄賂を送りつけて売りつけて失業者を送り込んで高利貸し外交を実行するしかない状況に至っている。

 

実質的には、受給バランスとる市場流通経済による生産供給サイドの持続的競争発展、などという経済は既に絵に描いた餅であり、国内のあちこちに爆撃された生産拠点の残骸が増えているのである。

輸入依存度にもよるが、ここで自由経済論やそれに基づく自由貿易論は、カモがネギを背負って鍋を下げて歩いているに等しい。

 

そうは言っても国際的分業は全面否定すると、そこには不向きな生産性低い産業の育成規制など、国家の関与する貧困化がより強く襲うことになる。

したがって、輸出入は持続性の為に、バランスの範囲を決めて、激しい輸入超過にならないように、ガードがかかる国際的な条約が必要となると思われる。ルールを決めることである。国家間の輸出入バランスをとり、劣後の生産性であっても国内生産の優位産業を保護育成して生産基地の破壊戦争を休戦保護することは、平和維持=安全保障上必要な措置ではないか。勿論相対の保護主義ではなく、総量規制とすべきである。

根源的には、輸入は債務を発生させ、一方的な輸入拡大は、無限の債務を背負い込むことでいずれ経済破綻するので、輸出債権分に輸入制限する経済的な制限は必要である。

 

・貿易戦争的な、戦略的な輸出は、国際協調の立場からは戦略爆撃機の生産拠点破壊活動として、軍縮的立場から制限を加えるべきである。

ウィンウィンの、リカード的な最適化は図るべきであり、それは否定できないしすべきではない。

しかし、対外債務を最大化して得たものであれば、いずれは債務返済による縮小を迫られるから同じことだ。将来を失うべきでない。

 

市場経済システム-2

市場経済システムが経済システムの主流となると、その合理性により、受給バランスが素早くとれることで大量に交換流通されるが、その為には生産物量が多種で大量にある事が前提となる。

大量交換を支える大量生産が前提となり、発展して規模も拡大して、分業の成果を著しく高めるのだが、商品貨幣量が相対的に不足しだす。

商品の生産と商品貨幣の生産量がおいつかなくなるのだ。このことで市場流通や市場に持ち込まれる生産物生産が遅滞し始めるのだ。初期のデフレである。

 

これを解決するには、貨幣を商品貨幣、即ち商品から債務証書に置き換え、債務の最終決済を国家が保証し、貨幣として受け取ることを拒否出来ない価値ある商品貨幣の代用証書として国家が保証する法定貨幣とすることで解決される。

担保は徴税権であるはずだ。

しかし、国家に貨幣発行権がある場合は、通貨の発行過多、の問題を起こしがちである。

徴税範囲を超えた通貨の発行使用が起こり、貨幣が増えて価値を下げてしまうのだ。その意味で、担保である税収を超えた生産交換を超えた通貨が出回りインフレを起こすことは平均的に起こる現象となる。これはこの後に。だが、インフレは貨幣価値の低下であり、これは交換価値の低下であり、交換できるはずの商品の減少であるのだから、賃金の低下を意味することだけは確かだ。

 

さて、需要と供給の市場流通の話になるのだが、市場が適正に運営されるのであれば、分業による生産労働が順調に行われて、社会的には最大の生産力が維持される。そして、生産供給サイドは、競争により最低価格での生産が行われ、そこには労働力が投入され賃金を受け取るのだが、受け取った賃金の総和が、総需要の最大値となる。賃金以上の総需要は起きようがないのだ。それは市場流通だからだ。

 

また、生産力競争が行われるから、勝者は生産手段の高度化への投資で勝った側、又は低賃金構造を可能にした側だ。後者は長期的には敗退するが。

そして忘れてならない視点は、高い需要を前提とできて、高い投資が可能となる資金供給を受けられて、とてつもない低賃金が可能となる大規模生産が可能な場合であり、これは多民族大国であり、アメリカのような黒人労働、差別的賃金体系の持ち込みが可能な地域だったり、中国のように無尽蔵な労働力が少数民族抑圧又は帰属戸籍差別の可能な場合に優位に立てるだけではなく、他の既存生産の場を破壊しながら成長できる凶器としての生産システムが可能となる。残念ながら、奴隷抑圧的な賃金による労働力の確保が可能な地域は優位に立てるのだ。

 

経済圏外、即ち他国の需要を取り込んでいたのなら、またそれが拡大する見通しがあるのなら、需要増となり、生産力を更に高められる。

戦争は、消耗兵器の追加生産と、生産構造での消耗品や日常品などの生活物資生産への生産配分にまて手が回らないことになり、直接の戦争当事国は、他国に債務を負った輸入が拡大する。戦争特需は、それへの輸出国が需要拡大でき、債権を伴う輸出が可能となり、その所得を含む生産増が得られる。

供給力が需要増大により拡大できるのだ。

 

平時の輸出も同じだが、平時同士の競争力戦となるので、さほどの収益は見込めないだけだが。

 

それが、終戦になると一気に需要不足=供給力過剰となる。生産力を拡大しすぎたのだ。また保護貿易の拡大を行うことで、凶器と化した生産システムの破壊戦争が起こらざるを得ないのだ。

グローバリズムは、世界総市場化であり、供給側の一極化を生み出す。他極の生産点はことごとく破れるか、一極化した供給点への下請に入り生きながらえるしかない供給サイドの生産システムに組み入れられる。これが覇権的利益の格差を生み出すのだ。供給サイドの系列化に組するのとそうでないのとの間に賃金格差が生じて、供給サイドの生産賃金の総和の需要が満たされるだけ、になる。

 

市場経済システム-1

・自然人は、ロビンソンをみればわかる。

自らが労働し、労働分の有用物を手に入れ、それを消費して暮らすだけだ。

勿論消費財だけでなく生産財=道具類も労働で得て、労働生産性を高めるから、より短時間でより多い消費財を生産できるようにはなる。

自営業者レベルではあるが、頑張れば最高レベルも夢ではない。その範囲でではあるが。

 

ロビンソンでさえ、過去資産である生産手段を利用した生産性が現在の生産力なのだが、将来に、より短時間で又はより多い生産物が欲しいなら、その分の生産財生産労働を付加しなければならない。

そうでなくとも、現在労働を支える過去労働蓄積物である生産財は、現在労働に付加して減耗するから、現在労働でその分を補填しなければならない。

が、必ずしもそれは強制ではなく任意である。

将来の需要拡大期待がなければ、刹那的に減耗に任せることも可能である。いずれにせよ

市場経済も貨幣も不要である。何故なら分業がない経済システムなのだから。

 

一方で社会として分業生産にあたるのであれば、過去の社会的遺産である生産手段を活用した労働により生産物を得るのはロビンソンのそれと同じであるのだが、現在生産力が社会的生産手段を使用した労働による生産性であるので、社会的生産手段の減耗分の補填は、農本社会にあっても分業による主たる生産者である農民でさえも支払わねばならない。

 

現生産性をもたらす労働と区別されるが協調して使用される生産財とは、農機具であり、土地等である。土地は確かに減価償却はしないが、農業生産にあっては生産手段の主力であり、収量を維持したければ施肥による補填等は必要である。収量増を期待するのであれは尚更である。

それと農民労働力の再生産分の消費補填も必要となる。土地と農民の労働力が主要な生産手段である。

ここで、現生産力を支える減耗分の補填は、誰かに徴集され適正に配分されなければならない。

しかも減耗分分配を超えた収穫量は、徴集するものとの間で分配競争とする事が可能な余剰生産分である。だが、拡大再生産を次期生産に期待するのであれば余剰生産物をもって生産手段増に分配しなければならない。しかし、その余剰生産物増分の生産手段増分の帰属が農民か支配階級かによって階級間利害は異なるが。

過去の社会的資産を持つもの、所有権を権力で証明するもの、が生産手段の所有者であり、特に農本社会にあっては、土地の所有権が決定的要素となる。ということなので、余剰生産物は、100%とはいえないまでも、生産手段の所有者を証明する支配階級が、その余剰生産物に依存するのだから、その範囲が生産手段減耗分にまで及び、補填分にまで及べば生産力は衰退し、減耗分を超えることを許せば次期生産力が増すことになる。

ただし、農民が農機具や、開墾のエネルギー等に使用消費すれば、である。この生産財に消費するか否かは、生産増分が自分の取り分になることが可能かどうか、である。

 

全ては支配階級の意思と、生産階級の許容力に依存する綱引きの引き合いである。

それにしても、決定づけるのは現生産力そのもののレベルでしかないのだが。

日本の過去歴史では農地が小刻みで生産性に限界があるから、極貧となり支配階級も強くなりたければ激しい収奪をするしかなく、貧しい支配階級となる。支配階級間の闘争も国内の再分割戦でしかなく、他国の支配階級による影響が少なかったことで国境は維持されたにすぎない。競争力が乏しいので、競争から協調へ流れやすい国民特性はあるからガラパゴス化しやすいがそれでまた保ちやすい。

 

階級構成があれば、社会的な生産階級自らの消費分以上の生産をして差し出すのであり、差し出された支配階級は、これを生産階級に代わって消費する。すると単純再生産となり、中世の停滞経済が維持されるのだ。凶作と豊作とを繰り返しながら。

 

富は、農本社会なら支配階級へ流れ、支配階級の消費経済を生み出す。この消費経済には、あえて市場は必要ではない。生産階級からはみ出された不生産階級とも相対取引だけで済む。

市場経済は、あっても村の定期市レベルの規模で、それ以上は必要ないのだ。

農家の副業的な手工業生産物通しの交換の場、籐のカゴや藁の縄、織物など。地域の特産品もあるがその生産量も微々たるもので、副業生産物通しの交換レベルであり、常設の市場を維持できるものではなく、経済の主役足り得ないはずだ。

だが、このレベルでさえも交換を容易にする為に、初めから貨幣が使用されたはずだ。貨幣なしでは市場での交換機能が果たせないのだ。

この場合、貨幣自らがその役割にふさわしいもの、貴金属が選ばれる為、商品貨幣が使用されていたはずだ。貨幣なき市場、物々交換などは架空の世界か、極めて稀な世界であり、市場交換には貨幣経済が欠かせないことで、次第に本来不必要な非市場流通も貨幣経済に移行していく。

年貢も貨幣で行い、農産生産品現物は、商人に買い取らせるのだ。生産物の価値を計り、その分を貨幣で支払い、輸送して保管して販売することで貨幣を得る商人の登場である。ここで市場流通経済ができあがるのだ。

 

本来の生産階級と支配階級との関係では、強制的片務の労働所得収奪であり、市場は介在しない。

ここに貨幣経済が導入されたならば、商人が介在して、運輸を伴い、集荷と分配が行われ、支配階級への納税は、現物農産物から、商品貨幣経済へと移行する。

要は農村から貨幣で集荷して、農村は貨幣で納税する。商人は集荷した農産物を市場に出して、支配階級からの直接、間接、即ち直接には食料を貨幣との交換で販売し、間接には官吏への賃金、不生産階級への発注代金を貨幣で支払うので、商人は市場で貨幣を得てそこから手数料を差し引くのである。

 

支配階級は、貨幣経済とすることで面倒な、集荷や価値評価、保管や伴う減耗、保管倉庫の建設や維持管理の手間から解放されて商人に雑用を押し付ける事ができるし、保管管理は貨幣だけで済むのである。まあ、日本の支配階級でさえ、保管までは直営でやっていたにせよ、藩票などの貨幣代替の法貨紙幣でやっていたわけで、藩票を回収して米倉をその分開いていたはずだ。

 

 

 

 

マクロ経済モデル

・1国で生産される財、サービスを付加価値ベースで名目値で集計し、物価指数で除すと実質値がでる。これを前提として議論する。

・1国の年間の供給される財は全て需要されるとする。と、総需要=総供給となる。

 

Y・・・生産、但し付加価値生産

Im・・・輸入

 C・・・消費

 I・・・投資

G・・・政府支出

Ex・・・輸出

 

総生産=総需要、但し、中間生産は中間消費され相殺されるので、正味総生産=実総需要、とすべきかも。

Y+ Im=C+ I+G+Ex    

変形すると、国内正味生産=、

Y=C+ I+G+Exー Im     

生産は中間生産を除く付加価値ベースでの集計、生産に関与した所得がある。所得の為の生産、所得は税金Tを差し引かれた後に消費Cと貯蓄Sとなる。

Y=C+S+T    

故に、

C+ I+G+Exー Im= C+S+T    

貯蓄に着目して整理すると

S= I+ (GーT) + (Exー Im)

閉鎖経済なら、Exー Im=0

財政均衡社会なら、GーT=0、

一国の正味生産Yは、S= I  の水準で決まる。

 

 I投資に着目して変形するなら、

I=S+(TーG)+(lmーEx)

投資=

貯蓄(家計貯蓄+企業内部留保)+政府貯蓄+純輸入(=対外借入)

の3つの資金源がある。

ある国が、自国の投資水準を引き上げるには、家計貯蓄を増やす(=消費を抑える)、政府貯蓄を増やす(=政府支出を減らすか、増税する)、対外借入を増やす、或いはこれらの全てを組み合わせる、しかない。

 

 

未来を失う日本人の経済学リテラシー

経済学は、

マクロとミクロに区分される。

ミクロでは、各経済主体の経済的効用を最適化行動の中身と相互連関を分析する。

マクロでは、一国経済全体の活動を分析して、インフレやGDPを対象とする。

 

*マクロ経済の視点から経済政策を統計資料に基づき論戦する為には、マルクス主義者もマルクス主義経済学、これもサプライサイドの所得分配の階級闘争でしかない歴史的限界を保留して、又は応用適用しつつ経済論争を挑まなければ議会制民主主義制度の下での「人民的議会主義」革命なるものすら成立しないし、議論も噛み合わない。

 

少なくとも、このマクロ経済学代わるマルクス主義での需要側をカバーできる学派が登場して政権主流となる前は、協議のベースを妥協して合わせるべき。マクロ経済学は十分に利用できる客観的統計を適用できる学派であり、しかも現実経済に即しており、ミクロのように頭でっかちではない。

マルクスの時代とは異なるので、マクロ経済学で対抗し論破しなければならない。又はマルクス経済学の需要側の学派を成立させて置き換える力と能力を要する。

 

古典派、新古典派に共通するサプライサイド=供給側重視の学派と、ケインズに見られる需要側重視の視点であるが、結局はケインズマクロ経済学により高度成長期の不況時に財政出動させて、結局は、慢性化しスタグフレーションを招いた過去がある。

 

この時期は新古典派が登場しても良かったのだが、日本で登場したのはバブル崩壊後のデフレ期、でありアメリカで深刻化していたケインズ型の財政出動下での不況を打破する流派が盛んな時期にアメリカで留学洗脳された竹中らにより持ち込まれてデフレを悪化させてしまった。

自分の頭で考えなくとも日本経済は成長し続けた歴史があり、経済学の国民のリテラシーは、現在もまだかなり粗末なままである。英語と経済学の平均水準が他の水準と比較して、おぞましいほどに低い。

 

現日本は、不況ではなくデフレ、であり古典派や新古典派ではデフレを深刻化するから、これをマクロ経済学の視点から論破し殲滅しなければならない。

 

マルクスを含む古典派時代は、サプライサイド、セーの法則の適用が妥当な資本主義の萌芽発展の時代、圧倒的な供給不足が環境としてあり、政府の経済介入は供給サイドにも需要サイドにも不要な自由=レッセフェールが求められたし、それが最良の選択であった。

 

ここでの政治的な対決軸は、消費地市場ではなく生産活動即ち供給サイドでの所得分配での階級対立となる。マルクスの言う通りだ。

市場に制約がなく供給サイドで発生する階級間の所得分配が問題となる。作ればローコスト生産が可能であり手工業生産に対抗して売れてしまうのだ。

 

ケインズの時代は圧倒的な供給過剰とそれによる需要不足を基調としたある意味資本主義の成熟期から終焉期の環境の中での政府の経済介入による立て直しを迫られる時代、即ち現代である。

 

小動物の食い合いから強い種が残る時代が終わり、恐竜だけが残った。

既に手工業生産は駆逐され、過剰生産の大工場とそこに就職する労働者階級による高度生産工場が林立して、ローコスト生産競争する大恐竜時代となるほど生産力が発展してしまったのである。

これだけの恐竜を維持する餌が足りないのだ。

恐竜を間引きするのが一番なのだが、何処からか食糧借りてこなくてはならない。借りて生き永らえさせるのがケインズ主義であろう。しかし、借りたものは返さねばならないが、借り続けてすむなら借り続けたい、というところが本音であろう。

 

政府の経済介入は、需要側即ち市場での階級対立に移行し、生産側では対失業の雇用をめぐる戦いとなる。

生産物の買い手がいないし足りないのだ。生産側ではリストラや合併、統合が相次いで労働者は失業者となり、世相が怪しくなるのだ。労働者は自殺するか盗賊になるしかないのだから。

FRBは、日本と異なり政府の子会社ではないが、この運営目標は、何と!物価の安定と失業の撲滅であり、現議長は労働の専門家である。金融の専門家ではない。マルクス主義者は知っているのだろうか。

GDPの原型の国民経済計算、産業連関表の創始者レオンチェフを起用したのも米国労働省の大戦後の復員兵の非失業者化と、軍事産業から民間産業に移行する際の需要不足の不安に対する対策要請、が起点であり、やり遂げた。が、実際には冷戦と朝鮮戦争による軍事需要の維持による産業と就労の維持に助けられたのが実態で、そうでなければ米戦後経済のハードランディングは避けられなかったはずだ。

また、復興に伴う敗戦国への借款などで需要不足の国内で余剰化する金融資産を活用、更にドルを国際通貨とすることで、印刷すれば良い状況にしたはずだ。

 

話戻して、確かに大工場を共食いさせることで減量して調整することも可能だが、この場合、淘汰された工場からは大量の失業者が出る。

失業者には購買力はなく暴徒化し、治安費用がかかる。工場には投資需要がなく生産物を消費する労働者が減ることで更に生産過剰となるデフレスパイラルとなる。

これが現代であり、それが国内で抑えられない国や地域から戦争となり、自らの群れを生き残らせ繁栄を維持しようとする。

 

しかし、この過程でより高度の恐竜に成長する群れと、壊滅させられた地域に激しい復興需要が発生するのだ。格差は大きいものの壊滅した地域にも発展性が残ることになる。

この大戦に参加しなかった平和な地域は、勝ち残ったより強い恐竜の支配下となる、のだ。

また復興して強化された恐竜の地域も、餌場が足りなくなり、また大戦前、となるのだ。

資本主義の時代は終わろうとしてもがいているのかも知れない。しかし、終われば労働者階級は生きていくすべを失う。

 

成長期、それは成長の為の投資、が供給側で継続して生産力が上がる時代である。

不況になり投資が減退すると、理論通り金利を下げれば良い、となるはずが、現代日本はゼロ金利でさえ投資が消極的であり、ミクロ理論上の投資量が金利の関数、では全く無い異常事態が継続する。

この上金利上げたら更に投資は減る。投資しないから金融資産のまま企業が備蓄する。せいぜい海外投資運用となる。

ゼロ金利でも尚国内のこの投資需要の不足は、金利操作で効果ない段階になっていることの証であり、投資が将来への期待、と動物精神(アニマルスピリット)による、というケインズの理解の正しさを証明している段階である。

少子化してもの余り、住宅の国内需要もない。

持ち家が二軒あり、夫婦でどちらかで済むことになる。また、経済が成長の必要がないので投資はリスクのみだ。また、経済成長ない時代に育ちリスク回避の意識も高い。特に現役労働者に。

 

結果として企業利益を金融資産で残しながら労働側の分配の差別化により、正規、非正規でシェアする社会主義的思想方式になり、失業者はいないが、ワーキングプアが2/5という異常が継続拡大しているのだ。正社員は要らない、アルバイトが大量に欲しいのだ。だから移民政策を推進し、もはや機械化が進み子育てもない主婦のアルバイト導入を図るものの、主婦を長くやってると現代の生産活動についていけないお嬢様扱いを求める主婦ばかり、となる。

 

話を戻せば、政府がどの階級の利益をより市場に持ち込むか、であり財政出動を通じて一方で国内政府債務を負いながら需要を拡大することで、供給過剰を緩和して供給側を残存させる政策となる。

政府が介入できるのは、市場に対して、であり政府投資もただの消費でしかない、何故なら自らが生産活動するわけではないから返済の道は、企業の成長による労働所得と資本所得からの所得移転に頼らざるを得ないのだ。官僚はリスクを負って生産活動する人種ではないし、官営の産業が大赤字を抱えても立法したのは国家であるとして退職金を平気でもらう体質の人達だ。

橋や道路を作っても生産活動を側面援助はできるものの、固定資産償却分の補充原資でさえ徴税分からしかできないのである。

 

政府の投資、はなく消費でしかない。家庭の持ち家や耐久性消費財とかわらない。消費の合理的な編成変更=移転でしかない。

しかし、この国策治療が行き過ぎれば投薬の副作用がスタグフレーションをもたらし、供給サイドの活性化が必要な新時代古典派の復権再来が求められる。

が、これは財政出動が効果あることの証であり、需給バランスを市場にもたらしたのちにも、財政出動を継続した政策ミスの結果である。誰も悪者になりたがらないのだ。

ここでは財政出動停止と徴税実行=増税をもってバランスを取りつつ、政府セクションの累積債務を返済する、政府の経済介入が必要であることを怠ったことから、新古典派なる小さな政府、既存企業の既得権益打破、供給サイドの競争組織による活性化、が当然に必要となるのだ。

 

日本は、デフレ克服に財政出動と金融緩和を必要とした、即ちケインズ主義政策が必要な時期に、なんと愚かしいことに、新古典派理論を採用した為に、更にデフレを加速して長期化させた。

橋本、小泉政権である。橋本が最悪でありデフレ長期化の先鞭。小渕内閣財政出動させたが、小泉が戻して新自由主義を導入、長引かせて、安倍は金融緩和だけ行い、財政出動を拒んだ為実需が増えずに金融資産バブルを起こして現在に至っている。

更に税を導入してまたデフレを長期化させようとしている。こうして日本は成長せずに30年を経ようとしている。

 

民主主義政治体制は、増税派は落選する。

デフレ克服後は政府の強いリーダーシップ、集権化した政府が求められることになる。非民主主義的国家の登場が求められるのだが。

強力な財政出動停止、金融引き締め、増税をセットして借りを返さねばならない。アメリカは今やっている。

 

デフレ時期は、ケインズ政策、克服後は増税新自由主義が必要かもしれない。世界の大半がそうであるように。

しかし、日本の一番の深刻な状況は、国内投資が企業によって行われることのない状況そのものであり、バブル崩壊後に積極姿勢を失い、アニマルスピリッツも将来期待もない、老人だらけの国民の成長意識の喪失に問題があり、また高齢世代の金融資産の活用不足にあり、高齢者資産を担保とした積極的未来投資を政府が行うこと、に対策は尽きる。

しかしながらハングリー精神を失った現役世代及びその二世がアニマル化するまでは、我が息子の1人が言うように、一度崩壊して立ち上がる人によって再建するしかない、のかも知れない。

安定成長による経済リテラシーの国民的不足、ミクロではすごいが全体包括して理論的に国家運営する、できる政治家群、使命感で国難を打破する官僚群、が安定成長の陰で喪失しているのも不幸を長期化しているのかも知れない。