SNA国民経済計算-1

現行の国民経済計算は、1993年に国連が勧告した国際基準、93SNAに基づく。

 

[ 1 ]  経済循環のとらえ方

 

1.  生産要素(労働、資本ストック)、土地、を組み合わせて使用し、原材料(中間財)を投入し財貨、サービスを産出する。

 

2.  生産活動の過程で生み出された

付加価値(産出額ー中間投入額)は、固定資本減耗と純間接税を控除した後、各生産要素の間で配分される。

要素費用表示の国民所得

=営業余剰・混合所得+雇用者報酬+海外からの純所得

 

3.  他方、産出された財貨、サービスは、中間消費や国内最終需要、輸出販売される。

 

4.  生産要素を提供した各主体は、配分された報酬から所得税等の経常税や社会保険料等を一般政府に納め年金等の給付を受ける。各主体間で配当や利子の受払を行い所得の再分配が行われる。

 

5.  再分配後の所得をもとに各主体が消費の為に財貨、サービスを購入したり、住宅企業設備、土地等の実物資産を購入する。

 

6.  支出の結果、資金に余剰が生じた主体は、預貯金、公社債、株式等の金融資産に運用する。資金不足した主体は、不足分を金融機関からの借入や公社債、株式発行により資金調達する。この調達と運用は海外にも向けられる。

 

7.  海外との取引は、

経常取引(財貨、サービスの輸出入、雇用者報酬や財産所得の受払)

資本取引(直接投資、借款、対外証券投資)及び金融取引(現金、預金、株式、金融派生商品の取引)に。

このうち、輸入財貨とサービスは、国内産出のそれと同様に中間消費、国内最終需要、輸出向けに販売される。

海外からの所得、経常移転の純受取額は、国内の各主体の所得となり、消費支出や実物資産、金融資産の購入に充当される。

 

8.  各主体が、実物資産を購入、又は売却すると、この主体の保有資産のストック量が増減する。また、借入等の資金調達を行うと負債の増額が変化する。

 

9.  当期に増加した資本ストックは、次期の生産要素となり、労働力と共に生産活動に提供されて所得を生み出す。また、当期に蓄積されて増大した金融資産や土地は、次期に利子や配当等の財産所得を生み出す源泉となる。

 

(以下は、私的解説)

・これは、内閣府で作成しているGDPの計算根拠であり、中国等いい加減な統計もあるが、国際標準の約束事により作成されている。

 

ソ連モスクワ大学マルクス経済学を専攻したロシア人のワシリー・レオンチェフアメリカに移住の後に、アメリカの労働省で採用された国民総生産計算方法。第二次大戦後引き上げてくる大量の失業兵士群と、軍需生産が大幅にダウンすることによる大恐慌発生を避ける方法をこの計算でソフトランディング予測をしてもらい、ほぼその通りにできた逸話もある。しかし、個人的には冷戦による軍需生産の継続と、在庫抱えた大戦時代の武器の消化の為に朝鮮戦争が矛盾を解消したように見えるが。

現在では、世界標準となっている。

 

・これを読むと、早い、或いは若い時代に節約して、又は相続財産を受け取るか、宝くじにでも当たって(^^)金融資産と土地を得ることで、労働所得だけでなく、利子や配当等の財産所得が得られることがわかる。又は、その資金を実業に起業投資することでも同じである。

まあリッチになりたければの話だが。それなりに働いてそれなりの消費をして楽しい人生をおくれればそれが一番いい、という気もするが。(^^)

 

 

貯蓄のパラドックス

新自由主義発想をやめてケインズ主義を復活せよ!

さもなくば戦争発生でしか救国できない!

 

大局的には、現在の日本は長いデフレ期であり、戦争でもやならないと供給力不足にはならない構造です。

日本の現在のデフレは経済の病でもあるのですがその治療は20年経っても直せない、素人の政治家や御用学者ではなかなか治せない死にいたるような重い病なのです。

この人類史上かつてない長期にわたるデフレ経済は、実は1990年代のバブル崩壊の対処の間違いが原因で、お金を借りてばらまく激しい金融緩和の不足でした。戦後にあまりにも順調に経済成長したツケで、金融財政政策のノウハウもなく、何もしない政治でも経済成長がそのお粗末さを隠してきました。

デフレは、人為的操作無くしては解決しません。

長いデフレの放置も徐々に回復して借金返済から貯蓄増に変化してデフレを脱却できる兆しが出てきたところで橋本内閣が緊縮財政と消費税増税社会保障費を大幅削減して本格デフレに戻し現在まで継続。また、小泉内閣も竹中新自由主義を導入し、供給力を多様化、競争激化方針を導入、需要拡大策と真逆の80年代のアメリカの主流経済学で臨みました。取るべき方策が全て逆だったのです。

更に、安倍のミックスで、実需を伴わない金融緩和を日銀黒田が行い、デフレで株バブル、貯蓄過多でも消費停滞、総賃金減少、国力低下、しかも消費税増税という逆方向の施策が国民的支持のもとに行われようとしています。

デフレでバブル発生、という人類史上ない実験が行われています。

 

民主主義の衆禺政治システム制度だと、皆んなの感覚と逆の治療が必要なので治すのが難しく、この時代には保護主義、国家資本主義、国家社会主義共産主義などが台頭して、一定の効果が出てしまう時代でもあり、治療は困難の極みです。

常に緊縮財政=正常化に戻す圧力を受け続けることが完治できにくい理由です。完治する前に、緊縮財政や増税に舵を切ってしまうからです。

ケインズ政策を辞めて、アダムスミスに戻ってしまうのです。

 

勿論戦争などではなく、大規模災害復旧でも同じですが、緊縮財政が基調の意思になるので、需要拡大のチャンスを逸し国債発行による実需拡大が中途半端になってしまいます。

戦争だと待った無しの需要拡大となり、供給力収縮が完全に止まります。戦争がデフレの特効薬なのです。とても愚かで残念ですが。

 

要はデフレ期とは現在消費や現在投資を極端に避ける思考回路に国民全体が傾き、貯蓄や借金返済(=貯蓄)に傾斜してお金があまりだし、借り手がいないのです。また、問題は不良債権の完済まで状況が続き、それを超えて貯蓄過多になってもこの体質が継続する難しさがあります。確かに、国が他国に借金をした状態で返済が滞れば、返済分の労働所得は実需を産まないで徴税され返済されるので貧しくなるのですが、日本の場合は国債は国内で消化でき、発行国債を超えた金融資産が政府以外の企業や特に家計にあり、滞留しているのに尚貯蓄し、実需である消費や投資を萎縮させる傾向が続いています。

だからこそまだ大量の国債発行が必要な時期だ、そして実需を拡大して消費投資を政府が行う必要があります。

政府は借金の山なのですが、企業と家計の合計が貯蓄の山で後者が大きすぎて、尚この傾向が強いままで、まだ債権過多なので金余り、貯蓄過剰ということになります。一方でマクロ経済的には貯蓄過多は実需不足となり供給力過多の供給力を、消費や投資を減らし、そして、総生産、総実質賃金を減らし続ける死の病、なのです。

 

ではなぜ、このような状態になるのでしょうか?

正常な経済活動では、需要に対しての供給不足が常にあり、生産して販売されます。売れて労働所得が増えるので、もっと働きもっと儲けてもっと消費する流れです。これは企業も家計も同じです。この過程でも自由放任経済なので好況と不況の波はあり、不況のあとには好況が来てまた不況になりながら螺旋を描くように経済成長していきます。

 

一方で貯蓄も行われるのですが、その貯蓄は金融機関を通じて生産手段に投資され生産性を上げて人件費を減らして固定資産減耗費を加算して尚生産コストが下がる循環の中で生産力が上がり、需要をより多く満たしより豊かになります。

貯蓄金に需要があり、循環するのです。資金需要が激しい場合、急成長しているときは、貯蓄がブレーキをかけることはありません。

同一労働時間で生産量が上がるので、沢山の消費が可能となり豊かな消費生活が可能となります。

この循環では需要に対して生産力不足なので、セーの法則の働くアダムスミス流派の古典派や新古典派の考え方が正当となります。

マルクスもこの流れの中にあります。ただ労働所得からの収奪により資本が形成され彼は貧困化する労働者の階級闘争による分配の強化獲得の必要性を論じ、スミスは神の見えざる手による自由主義放任でこそ前向きの力が常に働くとときます。また、正常な経済体制なので、マクロよりミクロ経済が花開きますし、レッセフェール、自由放任主義が最も良い経済政策となります。不況時期でさえほっておけば徐々に好況に向かう自然力が働くのです。

 

分業生産による労働所得の交換市場での運輸、商業、金融労働所得を付加し、これを含めた労働所得同士の貨幣を媒介とした生産物又はサービス労働の所得交換がなされて所有権が移転して消費されます。労働所得増がマクロ経済を大きくするのです。

 

しかし、労働所得の全てを交換しきるわけではなく、一部は貯蓄に回します。家計=労働者階級は将来や老後、病気や災害にも備えなければなりません。

限界消費性向の登場です。

限界消費性向が1なら、労働所得を使い切る消費、0.5なら消費と貯蓄が半々というものです。

仮に、全員が1の宵越しの金は持たない江戸時代の価値観であったものが、0.5の消費性向になったのなら、消費の社会的総量は1/2になります。

1、の時の半分の消費規模=生産規模となるまで不況は続きます。

GDPが半分になる、しかし、貯金が銀行に行き、銀行は借金して金利を付けて、企業に貸して利鞘を稼ぎます。借りた企業は固定資産を発注し生産増加したり、原料増や雇用増に伴う運転資金にも使います。お金は経済成長と共に需要は増えます。

金本位制だと、金の産出が間に合わずに不況となります。この場合は、一定の交換率を保証した紙切れでも十分なので印刷紙幣を増刷すればいいのです。

 

銀行は預かっているお金を貸すのではなく、預かっているお金を見せ金として、それより多くのお金を貸します。貨幣は銀行で発行されるものなのです。

信用による貸し金で、預金数字を借り手の口座に記帳するだけです。だから、不良債権ができると債務過多になり、銀行倒産する場合もあるのです。それを避ける為に中央銀行が各国で設立されてリスクをヘッジしていますが、アメリカはなかなか設立しなかった過去があります。何故なのか理由を考えてみましょう。

 

さて話しを戻して限界消費性向とは、

現在総消費/総労働所得なのだから、これが減っていく傾向とは、節約であり、将来消費に備えるディフェンシブな貯蓄志向の高い消費スタイル、蟻です。

 

一方で1.のようにこれが増えていく時は、気前よく今を楽しむ暮らし、となります。キリギリスです。

 

蟻🐜さんのスタイルが強まると、消費規模は小さくなるので、生産も減速して労働所得も減る流れになります。また、キリギリス方向に進むと、生産も加速して労働所得も増加します。

景気循環をくり返しながら、貯蓄したり取り崩したりします。

蟻🐜さんばかりだと堅実ですが、生産力が落ちて給料が減る方向になります。日本人は蟻さん🐜。

 

小遣い帳や家計簿感覚だと、貯金はたまるのですが、お金の借り手が見つからない場合は、お父さんの仕事は消費減で減るだけだから、小遣いの支給額や給料が減ったり失業して小遣いや家計収入の元がが減る可能性さえでてきます。

このマクロ経済がわからない真面目な労働者は、給料が減っているし更に減る方向だから無駄遣いは敵だ!となります。さらに貯蓄性向を強めます。

借金して消費を増やす、投資を増やすなんてけしからん!となり、緊縮財政を求める大合唱になります。

消費を節約して貯金を!の大合唱に。

で、更に生産力が収縮します。

これでは溜まった貯金即ち銀行の債務は増え続け、銀行が貸す相手が更にいない状態になります。

 

いずれにせよ貯蓄は、現在消費を減らして将来に貨幣を=債権を=所得からの将来消費を増やしていくためのものです。この限界消費性向は1以内で、好不況を繰り返しながら成長します。

 

では、限界消費性向が1を超えることはないのでしょうか?それが実はあるのです。これがデフレの発生源のバブル生成なのです。これは、限界消費性向が1以内の好不況とは、別次元なのです。

 

それは需要が過熱して、土地神話のような、或いは株価はこの後も上がり続けるだろうとの楽観論が支配する世界で、生産労働所得を超えた消費や投資が行われることになります。生産労働所得をこえる投資や消費、投機さえ行われます。これは将来所得、即ち借金による投資、消費、投機を指します。

将来労働所得を前借りすることで消費が増え、生産も生産力も増える状態を指します。2年分、5年分の給与所得の前借りでチューリップを買うようなものです。

しかし、投機熱が冷め、目がさめると借金だけが残り、返済義務のために翌年から消費を減らして貯蓄=

借金の返済、のことですが、労働所得が注ぎ込まれ、その分の減らした消費で生産需要も減り給料も減ります。この場合は金欠病なので、銀行も信用貸しで元本さえ毀損していて貸し剝がし、貸さないで元金を保全しようとします。

ここで銀行の毀損分以上を無利息で銀行に貸して、資金が回るように金融緩和して、銀行機能を復活させなければなりません。

ヘリコプターから銀行に湯水のように金を貸す大規模金融緩和が必要です。

これで貸金で消費を増やせる状態にしてあげなくてはならず、消費増から生産増、給与増の循環に実需を戻してやらなくてはなりません。

ヘリコプターから不換紙幣を銀行にばらまくのが有効ですが、インフレには絶対なりません。

消費に消極的だからです。万一インフレ傾向が出れば緩和策を中止すれば血液である貨幣がうまく循環し出します。

この時点ではバブルの後悔もあり、以前の豊かな消費にはなかなか戻りません。

 

しかし、借金を返済し終わっても、消費気分が減退したままなので、その資金の流れ即ち貯蓄志向が継続、借金を返し終わっても貯蓄が溜まり始めても消費は回復しないまま、が継続します。

これが現代日本の状況です。

 

生産力は徐々に落ちていき貯蓄は溜まるので、銀行は貨幣発行即ち債権を発行する相手であるお金の借り手がますます現れないのです。

果ては銀行倒産の方向になります。利鞘が一切稼げないのに貯蓄という銀行とっての借入だけが膨らむからです。

 

本来なら、バブル処理終結宣言!を出せばいいだけなのですが、自傷行為が継続しているのです。

経済成長していないので、税収は増えず、ここで税収を増やせば更に消費が減ります。安倍首相は消費税を上げる、と言っていますが。(^^)

財政は経済成長しないまま高い支出の社会保障を維持できずに赤字に転落、すると節約要求の大合唱の中で、更に総消費の政府部門が抑えられます。

 

逆回転させるには、政府の債務を増やして「消費」を高めることで、生産増を誘導して給料を増やす構造転換が必要なわけです。財政出動ですが、コンクリートから人へ!とか、無駄な箱物投資で財政は、破綻する!などのど素人の意見が、あたかも国の基本方針であるかのようなお粗末な誘導がなされます。

政府の借金に官僚は怯えますが、彼らは税収で給料を貰うだけの、年金生活者や生活保護者と本質的には変わりません。安定税収を求めるだけです。

税収の元、生産活動を活発にすることで、限界消費性向を高めることで税収が高まる、という発想はないのです。しかも、解決策はこれしかない、のです。

日本は家計と企業に貯金が有り余ってますし、政府でさえ特別会計埋蔵金が溢れています。

 

もし、1000兆の借金でなお国債が必要になり続けて破綻に進むのなら、なぜ金利がほぼゼロなのでしょうか?ギリシャなど10%を超える金利でないと国債買う人はいません。

 

話を戻すと、バブルにより、そしてその崩壊により、正確には将来所得を前借りして、宴を盛り上げてしまい、請求書を見て目が覚めた。それも年間労働所得をはるかに超える消費とそれを支える生産力と給与を消費した、即ち来年、再来年分の生産を借金でして、労働所得も得たが、それをはるかに超える1億円の宴会をやってしまった状態がバブルの崩壊なのです。

だから翌年には、労働所得の限界消費性向が0.5、0.4、0.3、と貯蓄=返済に回り、実需は減り続けるのです。

長くなったけど、バブル崩壊による貯蓄性向の過剰な推進による経済規模の縮小、これが貯蓄のパラドックスであるわけです。

であれば、自由放任、古典派、新古典派、の自由経済政策では復興しない、経済成長過程での好不況の不況とは全く異なる状態である、という認識が必要で、需要をわざわざ人為的に高めるしかない、という点で、成長軌道での好不況とは全く別の病である、との認識が必要なのです。

不況ではなく、デフレ、なのであり、対処法は不況なら自然治癒に任せるのが良く、デフレなら自然治癒がなく、投薬や手術が必要、ということです。

 

ケインズ合成の誤謬、貯蓄のパラドックス、に達していたのです。ケインズ方向での国によるテコ入れが必要でニューディール政策もやるし高速道路網建設や発電用ダム作り、ヒトラーによるアウトバーンの建設国家的投資、などをやるのですが、やはり民衆はバブル崩壊の恐怖でパニックになり、少しでも公共投資で効果出ると、すぐ緊縮財政に舵を切ります。

で、デフレは継続復活し、結局は戦争経済で救われる形になるのです。これでしか供給生産活動の向上を図れない現実があり、結局は戦前ということになります。

日本の場合は、ここで、即ちバブルで吹き飛んだ債権の穴埋め貯蓄が貯蓄過剰になったあとで金融緩和を大胆に進めました。安倍のミックスです。

これで更に銀行の預金残高が膨れ上がり、デフレバブルなる世界史上過去前例経験のない状態が日本で作り上げられてしまったのです。

結論は、政府としては国債発行量をデフレギャップ分やればよかったのが、バブル毀損分を埋めて尚、折角国債発行によりデフレギャップを埋めかかっていたのに、その国債を買い取るという形で発行量をへらしてしまったので、またデフレギャップが拡大してしまい、デフレ克服が遠のいた状態です。国債を更に320兆円プラスすると、過去のデフレギャップにもどり、あとはその分の国債発行すれば良いということになります。日銀の策は金融緩和、と名付けていますが金融引き締めに近いもので、デフレギャップを拡大してしまった誤った処方箋を施したことになります。だから、もう一度元に戻し、更にデフレギャップ分の国債を発行することで、デフレギャップを埋めるしかない、余計な事をやったことになります。こうすることで銀行に滞留した預金を消化できて、初めて資金需要が起きて生産拡大への通常の好不況を伴うアダムスミス的なセーの法則による成長軌道にもどすことができるのです。

金融緩和という名の、為替介入円安誘導でしかないことがわかります。

デフレバブルを克服する政治力が日本にあるとも思えません。従って戦争を自国がやるやらないを別にして、激しい生産力需要、資金需要の種がなければ、この収縮経済、緊縮財政がずっと続くことで、世界の中の国民総生産GDPの順位だけがどんどん落ちることになります。日本は、戦争によるしかデフレバブルを克服できないと思います。直接参加しようと、死の商人になろうと。だから今は戦前、なのです。ケインズの貯蓄のパラドックスを打ち破る、財政政策を、多大な国債発行によってなすのが戦争以外のデフレ克服法なのですが、残念です。

 

 

 

経済のポイント-6

「閉鎖経済での集団的経済活動」をこの章の以降で深めてみよう。

島国日本での平和的鎖国状態と考えれば良い。

 

ところで日本の人口は、鎌倉幕府始めで750万人、江戸幕府始めで1200万人、江戸幕府終わりで3300万人、第2次大戦終戦時で7200万人、戦後のピークは2008年の12808万人。ここを境に下降に向かっている。

 

江戸時代は平和で、徳川幕府による封建的農本主義で、ケネーの言う経済表範式があてはまっている。生産階級、支配階級、不生産階級が、日本では士農工商で農業生産の米を藩が収奪し分配する経済システムである。当時のフランスと同様である。

 

全国の石高分配では全体で3000万石、うち徳川が800万石の最大支配階級であり国権を代表支配する藩連合を徳川が束ねた形の国体であった。

 

明治になり不生産階級=工商階級による資本主義システムが輸入され経済発展して人口は倍加し、敗戦後の戦後復興で更に倍近くまで伸びたが、その復興経済に朝鮮戦争ベトナム戦争特需があり、巨大な生産手段投資が支えられ、その生産力でブレトン・ウッズ体制の固定為替での輸出が続き、主にアメリカからの所得移転が進み世界第2の経済大国に成長した。

しかし、アメリカからの変動相場制要求により超円高に振れバブル化しそのバブルが崩壊し、時間を経て衰退に向かった。

冷戦崩壊により、日本の位置は冷戦敗戦国の中国に強い復興需要があり、日本の戦後復興の地位をほぼそのまま中国が譲り受けることになった。

 

グローバリズムの勃興で日本は資本輸出国の側になり、中国への生産財資本投下競争への積極参加により、国内総生産が単純再生産的足踏みに留まり、国民総生産としてのみ維持する国民経済となり、現在も国内生産は停止中である。

 

さて本題に移る。

・集団社会とはいえ、集団での生産は勿論集団の需要を満たす為にその分を生産するのであるが、

生産力が低い間は、余剰生産物どころか不足する生産物の奪い合いにより、最終的に分配を受けられなかった者が淘汰される弱肉強食社会となる。

人口も自然に増えるのではない、淘汰されるのだ。

しかし、農機具の進歩や農業技術の進歩により、平和が続けば次第に農業生産力があがる。

ある時点で人口需要を超えた生産物が得られる。

これが既存の農業生産人口を支えるだけでなく、超えた分は、農業生産人口を増加させることにより、消費増となり余剰生産物を失うモーメント力が働く。

もともと、生産力不足の時にも分配抗争により、より多くの分配を得て生存を維持する力が働き、その秩序、即ち生産階級と支配階級との抗争は継続してきた。

横領されると食糧不足となる生産階級は、常に強制的所得移転=税収奪には抵抗するわけで、それを暴力で抑え込む支配階級のシステムが常に機能していたはずである。上手くできなければ新たな支配階級に取って代わられるだけだったはずだ。

 

支配階級が存在しないのは、南洋の孤島とかの自然の食糧が豊富で気候が温和、分配が見える程度の少人数の地域社会に限定されるはずだ。

 

そもそも閉鎖経済圏自体が陸続きなら、他の経済圏からの脅威には常にさらされるわけで、支配階級も安穏としておれず、富国強兵を迫られるはずだ。

したがって、生産力の向上と税収の拡大という相反する課題に取り組み、生産階級は生かさず殺さず、農閑期には兵士として雇用することにもなる。

膨大な官僚機構や職業軍人、兵器や武具の生産力を常に必要としていたはずだ。

 

超過生産分を所得移転すれば、農業人口は静止し、維持はされるが、一方で所得移転を受けた非生産階級人口は増加することになる。支配階級の直接雇用の公務員と非農業生産階級である不生産階級である。

その人口総量は頂点に君臨するのが支配階級なので少数であり、また過剰生産力も当初は大きくないので当たり前であるのだが、過剰分を収奪した農産物移転所得は消費しきれず、この消費の受け皿として支配階級の召使い労働を行う不生産階級人口を増加させ、またサービス労働させることで、支配階級の需要をより多く満たすことができる仕組みである。

常勤的には、官吏や職業軍人や徴税人や警察を国家の礎とし、あとは非常勤として消費財やサービス生産する召使いや民間の不生産階級を城下町に集めることになる。

 

彼ら不生産階級は城下町で支配階級の所有する余剰農業生産物と引き換えに支配階級の需要する労働を行うのだ。

それは、城の建築に始まる土木や建築、同作業員、内装、装飾具、美術品、服、等の加工生産労働や、調理、理美容、清掃等のサービス労働である。

そこから溢れると、乞食、売春、盗賊が増え、失業者の成れの果てであり、これらが一定数いる、ということは過剰な労働力人口にあり、彼らは支配階級同様に支配階級からの余剰生産物の間接的流入により生存維持されたり絶滅したりする調節弁の役割を果たす。

消費財は、原料を採取、運搬移動させたものを目的物に加工労働するものであり、原料採取労働所得分にも分配されつつ加工労働は行なわれ、その総労働所得分を支配階級のもつ余剰農産物と交換するシステムである。

 

しかし、直接雇用する官僚や、受発注相手となる不生産階級の量と質は、全ては過剰生産物の量に関わっているが、過剰に収奪すれば反乱が起きるし、生産力自体が落ちる。逃散など生産階級の他の経済圏への脱走も導く。

したがって生産力を上げるには、人力に依存するのではなく、農機具や倉庫、運搬具、肥料や防虫害予防、暦作り、などの後半の農業技術に対する投資により多くの不生産階級を投下することで増産が図られ、また経済圏の拡大戦争による領地と領民を増やすことで移転所得=税収奪量を増やすことになる。

 

この仕組み、国体は政治力であり、経済力とは無縁である。これが実態と知った上で、グローバリズムの成れの果てでもある、閉鎖経済圏について考察するしかない。だからこれは単に現存しない政治権力の及ばない夢想そしてのモデルではあるが、グローバリズムもいずれは行き着くところまで行き、このモデルに到達する、との理解で次章で検討する。

 

 

 

 

 

 

経済のポイント-5

・市場での売価は、

生産労働所得の総和、即ち原材料生産労働所得に加工労働生産所得に固定資産減耗分生産労働所得(厳密には過去固定資産労働所得)

これに運輸、商業サービス労働所得との合計額であろう。これを貨幣により交換するもの。

 

勿論、希少性など需給関係により特殊利得(需給バランスが取れている場合以外の、供給<需要、の場合による販売価格による利益もあるが、逆は過剰生産による値崩れで先の存続がなくなる)があるが、供給<需要、の場合は市場で供給が新規参入することで、需給バランスは均衡を超えた供給過剰になるが、徐々に供給が淘汰され、均衡に戻る。こうして経営的には希少性は重要だが、マクロ経済学的には、均衡の時点を問題にすれば良いことになる。

 

競争のある中では、製造原価を超える利得は、漸減し、紆余曲折の振幅振動しながら均衡する。

とすれば、生産活動を動機付ける利得を資本家が得続けるには、労働時間、労働日数を雇用単位とする労働力商品をフル活用し、タダ働き時間を織込むことであり、機械生産の補助労働として生産物の単位時間あたりの生産量を拡大し、即ち労働生産性を上げて、固定費としての労働力商品との賃金交換を維持しながら生産物量を増大させること、いいかえれば同じ生産量を生産継続するのに、より少ない総雇用賃金による機械化等で実現すると、(賃金+固定資産減耗費)<社会的平均的製造労働原価、となることにより、無理なく利益分を資本の側で労働所得分の一部を移転できるのだ。

ある意味、高度な生産設備をフル回転しながら奴隷的低賃金労働により生産することが、最も資本家への所得移転を増大する。勿論、生産設備の減耗分補充生産費用は人件費より多いのだが。

こうして生産力を拡大して労働所得を大きく得たのが敗戦後の日本とドイツ、そして現代では中国である。中国の労働所得の大部分は共産党幹部の支配する公司と資本提供する外資に吸い上げられ、大手企業は国有である為、幹部と国税に資金が配分され、この資金で一帯一路の国策や軍事支出を支え、国外にODA的貸付を行い過剰生産設備稼働率を上げ、現地に資材と失業者を送り込むことで生産需要を維持する現在の中国の姿がある。

これは2周回遅れの帝国主義そのものである。

中国の労働者賃金は、元々農業内過剰人口の放出された失業者であり元々所得がなかったので、奴隷並みの賃金での雇用が成立していたのだ。

グローバル経済化した冷戦後の社会で、世界の需要を一手に引き受ける近代的奴隷工場が国外資本で維持された世界経済の奴隷となったが、中国共産党が利権を離さず、独立した帝国主義化を進めた為、アメリカが介入しだした。

この中国成長モデルがいつ止まるのかも後に検討してみよう。

 

年度始めの生産組成で、機械化設備を擁した工場などの固定資産を最低数の雇用で市場の需要分を大量に生産する。

ただし、機械等の減耗分を自社か他社でかを問わずに生産したものを購入しなければならず、(=次期生産を同水準で行う為に)、このコストの額は、これによって社会的平均的に起用する労働時間を超えたタダ働き時間との比較で、より低い額となるのは当然のことだが、今期に上げた利潤の中から労賃と同様に拠出するのであるが、更なる利潤の残で資本家の自家消費増とともに、次期生産組成で更に労働者数を減らして高度機械に置き換える投資をも行うのだ。

 

社会全体で見れば、減らされた雇用分は、置き換える固定資産減耗分の生産労働にシフトする。

同様に固定資産生産労働でも、機械化を進めることで労働者の雇用総数は、常に減らされる圧力がかかる。生産が高度化するにつれ、総雇用労働時間が減ることで、失業者が出るので、一向に賃金は上がらない。当然のこととして、労働者階級の需給バランスを供給過剰にするからで、仮に労賃を上げても人口増を誘導して供給過剰になるのだが。

 

本来なら労働時間が短縮されるか、タダ働き時間を減らすことで、労働所得が上がり豊かさを実感できることになるのだが。

 

 

 

経済のポイント-4

・封建的農本時代でも、近代的資本主義時代でも原理は同じである。

前章で明らかにしたように、個別工場生産での原価分析は、資本主義の勃興時代の限界をもつ。

分業生産が市場での交換を前提とした商品生産となるので、販売できるか否か、は生産継続や拡大再生産ができるか否か、という問題でもあり原価構成に運輸や商業を伴う以上、生産原価と販売価格との間には差が生じる、ということだ。

工場の生産原価、とは工場出し値、であり販売価格は市場原価、となり運輸や商業、これには倉庫業コスト等も加わるのだ。こうしてみると、工場での生産原価の位置は相対的に大きくはない。

又、市場で交換するのは、買い手の所得との交換によるのだが、

その所得には、工場生産労働所得と運輸商業等サービス労働所得と、労働所得は全額は労働者に分配される社会主義システムではない資本主義段階での階級分配社会システムなので、

生産、サービスの労働所得からの資本家に移転した所得を減じた労働者の移転後労働所得

と移転所得、即ち資本家所得の内の自家消費分と資本家所得の内の次期投資分の投資支出との合計値であるが、また更に時間差所得の実行即ち、

労使を問わず、過去所得蓄積である貯蓄からの引き出し分マイナス貯蓄分や信用による将来所得の引き当て分マイナス貯蓄分

以上の総合計が市場での総支出である。

 

総生産とは、この総支出を支える総労働生産でありこの生産は手作業ではなく機械、工場等の固定資産減耗も生産手段として起用されていて、その結果としての総生産であり、これが所得を労働と資本に分配し、固定資産減耗補填コスト以上の補填を労働者の労働所得から移転するにしても、総生産、総所得となる。構成は消費の上記内容と同じであり、ただ、総生産には貸借部分はない。あるのは固定資産の現段階レベルによる労働生産性の問題だけだ。

 

いずれにせよ、市場では貸し借り即ち時間差支出もあるので、物々交換での説明は限界があるので、貨幣経済で検討する段階に移す。

 

 

 

経済のポイント-3

・階級概念がなければ、余剰生産物即ち利潤又は資本は発生しない。それは生産階級内で処分するだけである。結果は生産階級内の人口増か労働時間を短縮して単純再生産に、いずれにせよ単純再生産の循環となり停滞する。

 

・社会秩序には強弱があり生存競争があることで、格差が生じて階級制度が形成されるが、当面捨象しよう。

レオンチェフのインプット、アウトプットで経済活動を捉えてみよう。

 

・集団的分業経済社会では、

集団的生産は分業生産労働生産物を他の分業生産物と交換して社会的総需要を満たす為に、流通=交換過程が必要となりシステムに内包される。

 

まずは貨幣を考えずに、物々交換で考えよう。

分業生産物は、自家消費する分を超える過剰生産物を流通過程に移し、過剰生産物の一部を運輸、商業労働と交換する。

ここでの交換は物々交換ではない。生産物と労働そのものとの交換である。

そして残過剰生産物が市場で物々交換されて、過剰生産物は消費財となり、消費される。

 

消費される総生産物は、需要総量であり、ここには運輸、商業労働所得も市場で交換が可能である。

運輸、商業は生産労働ではなく価値物は生産していない。マルクスの時代の工場生産労働の価値のミクロ分析ではここは限界となる。

 運輸は、  A地点工場の生産物をB地点市場の生産物に、位置を移動する労働支出であり、

商業は、市場でのA所有権者をB所有権者に所有権移転する労働支出である。

それは例えば工場の出荷口で商業者に所有権を移転して、この生産物を自らの運輸手段で市場に運び、ここで消費者に販売=交換による所有権移転だ。

この作業は、生産者自らが生産から販売までを行うことも可能だが、例えば産地の特産品や手作り雑貨などを市場に運んで売るには、生産する以外の労働は必要であり、少量の生産物には可能でも、大量となるとやはり運輸業者のような専門の分野でないと、生産物生産用の資本回収に長時間を要して資本効率も悪い、ということになる。

マルクスの運輸と商業の位置付けの不十分さは、村の定期市レベルの生産力が画期的に増した黎明期であり、分業がその部門に至る前、といえる。

 

総生産物は、運輸、商業の機能を果たす労働支出に対する交換分も含まれた生産物でなければならず、総消費も同じである。ある意味、マルクスの歴史的限界の思想を教条的に適用したソ連社会主義の失敗の根源でもある。資本主義のシステムをマクロに見れば、生産原価を積み上げても、流通原価は生産原価の中では語りようがない限界のである。

生産力が増せば、分業分配する行為に労力間接コストが膨大にかかる、という問題が浮かばない。

生産点問題より、分業生産物分配問題の方が深刻化し、優先販売力=交換力=資本回収力=拡大再生産力となる程、生産原価は分業による競争生産の中で、その製造コストをいくら分析しても出てこない流通経費問題の方が大きくなる必然性は、工場生産段階の分析での価値やコストでは出てこない原価が存在するのだ。

 

・こうなると、巨大な工場で巨大な生産物を生産し、その巨大な生産物を広域に消費地市場に運輸し巨大な販売をする、という時、実は有史時代前からの貨幣は使用されていたのであり、物々交換はほとんど相対個人通しで偶発的瞬間的にはあったとしても、貨幣交換が行われてきたのが真実である。

それは、物に価値尺度機能を負わせる不便さ、時間差使用に物は適さない保存性問題、時間差軸での交換が一般的で、時点交換は特殊例に過ぎない、ということだ。

 

 

 

経済のポイント-2

・余剰生産物とは何か、という問題を深めなくてはならない。

余剰とは文字通り余分な、余った、ということとすると、何に対して余ったのか、ということだが、それは労働力支出に対する分配分が、支出以下であることによる。

余った、というのは集団的生産活動における

販売代金ー[原料代+(減価償却費+労働所得)]=利益

の利益である。

利益は、タダ働き時間の存在さえあれば、原料代と減価償却費をより多く加算しながら生みだすことができるのだ。

問題はこの利益が誰に属するか、だ。

タダ働きをやめることにする=階級を労働者階級だけにする、というならタダ働きではなく比例した労働所得になるだけのことだ。その為の過剰な生産は必要がない。

 

利益が労働者のみに属すれば、労働時間短縮か別の生産活動か余暇かを労働者自身が選べるのだが、収奪階級が存在すれば、その階級の処分できる利益、となる。

処分は、消費として別種の生産労働を誘発もできるし、機械生産等での固定資産に消費=投資すれば、次期生産から更なる利益をも生み出せる根拠がえられる。

 

貯蓄と同じで、

•総生産ー総消費=貯蓄(=余剰生産物)

であり、それは労働価値説をとるならば、

総生産物は総労働支出によるものであるから、過剰労働支出がなされたことに起因する、といえる。

ただこの場合の客観的な階級制度を無視した経済情報は、貯蓄の処分者がどれだけ自家消費に向けているか、が問題となるが。

本来なら生産労働所得であるはずのものをどう処分したか、だが機械投資などの公共的投資であるならば、その後の向上生産性分が、時短や賃上げに向かうなら、労働所得の後追い的支払いとしての正当性は保持できるのだが、実際はそうではない。

 

ロビンソンなら、自らの労働支出は、目的生産物量を得るまで行われ、目的生産物量が生産されれば、別の目的生産物量の生産労働に移ることになる。

過剰労働支出は、自らの判断で行わないようにコントロールでき、余った労働時間を別種の生産労働にあてられる。

過剰生産は必要ないし、弊害さえ生む。

それは不必要な労働支出であり、別種の目的生産物は数多あるのだから別種の需要物生産を阻害する無駄な時間であり労働資源の浪費なのだから。

 

生産の多様化に向かえれば、トータルでより高い水準の消費生活が得られるのだ。

 

また、彼の労働支出は、目的生産物を得る為だけでなく、より労働時間を短縮する為の道具作りにも当てられる。

生産手段の高度化、具体的には労働補助具である道具や機械の生産の為の労働支出も自らの使用可能労働時間の中で行う。

目的生産物量を得る為の労働補助具使用による労働時間が、不使用労働時間の場合より短縮できるからでしかない。

その場合にのみ労働補助具生産労働は価値をもつ。価値をもつことは実証を必要とするので失敗を含む実験的労働時間も必要となるのだが。

 

要は、ロビンソンの暮らしを豊かにするのは、自らの1日を単位とした可能な労働時間をどう支出するか、なのだが目的生産物を自らの肉体労働に頼ったものから、道具=労働補助具を生産する、より正確にはその労働補助具量を維持できる道具の減耗量分の生産労働支出を常に伴うことにより、短時間労働での生産水準を維持することができる。

 

目的生産物量生産に要する総労働時間は、

 

道具使用労働支出+道具減耗分の道具生産労働支出

 

であることがわかる。

この過程で余剰労働時間は発生し、これを道具の高度化に向けた実験研究にあてることも、娯楽や過剰な休息にあてることも可能だが、前者に当ててより高度な生産手段である道具を見いだせれば、更に余剰労働時間が得られる、この循環である。

 

余剰労働時間を消費にあてることも、生産手段生産や研究にあてることもできるのだ。

余剰労働時間を過剰生産に当てて、それを消費するだけの被扶養者扶養消費にあてることも可能であるし、その労働者階級人口も支配階級の移転所得を増やすことも可能であるし、生産手段生産労働者の雇用費にあてて、分業することも可能である。

この直間比率はマルクスの再生産表式を参照すれば良い。直間バランスで分業社会を維持することはロビンソンでは不可能だが、集団的分業社会なら同時並行が可能となるのだ。

 

ロビンソンなら、1日の可能労働時間を、食糧生産と、この生産労働時間支出を短縮できる道具減耗分生産労働時間と、これで得た余剰労働時間で、衣、住、生活インフラ、とより豊かな消費生活材生産に振り分けることができる。

ロビンソンは、道具=直接労働時間短縮の為の生産手段の高度化により、加速度的に豊かさを得られることがわかるし、実行できる。

更に、娯楽や放蕩や怠惰や休息時間の拡大が、モチベーションを維持する為の時間捻出も可能となる。またそれは自分で選べるのだ。

簡潔に言うなら、全ての労働所得は全てロビンソンが処分する支配権をもつ、ということだ。

 

以上を元に、ロビンソン段階の特殊例から集団的現実社会での経済モデルの検討に入る。

 

社会的生産活動は、分業化による労働所得の市場による交換を前提とした、需要に基づく各生産単位の過剰生産を前提とし、過剰部分を交換することにより、当該生産単位以外の過剰な生産物と交換できる、商品市場経済をもつことになり、それが必要にもなる。

過剰部分というのは、まずは、現物経済で考えるなら

 

1.自産業の労働生産物で自らの労働者需要を満たすことだが、それでは自産業の生産物しか享受できない。全需要に対しては労働量不足により生産量が足りないのだ。

 

2.交換のための商品を過剰に生産しなければならない。交換用商品は市場で交換されるから、その流通労働者の非生産的?労働にも更に分配されなければならない。その分配分をも過剰生産しなければならない。

 

3.また、当該産業の発展の為の生産手段の高度化による固定資産投資減耗分も確保しなければならない。これは資本家であったり、庄屋や借地農経営者であったりは、資本主義か農本主義(絶対主義的封建社会)かの生産システムの違いをとわず、その時代による経済体の代表支配者に分配されるが、ここへの分配分も生産しなければならない。そうしないと次期の生産性が落ちてしまうから。

しかし、この段階までは再生産循環、単純再生産維持である。

 

4.更に、ここから先の労働時間生産分はタダ働きである。

利益が出る根源となる労働時間分であり、賃労働でない無償労働すなわちタダ働き分である。

このタダ働きで生産された生産物分も、流通を経て利益となる。これが生産単位の長である資本家や借地農経営者に帰属される。これが剰余価値生産であり、この生産物の帰属が問題となる。

 

ロビンソンが道具使用労働で得た余剰時間にあたるが、ここでは利益貨幣として存在する。

これを生み出すのが、資本家でありまた借地農経営者であり、国王などの支配階級の生産目的である。

階級が労働者とは別に存在しタダ働きを強制するのだ。

 

4.こうして産業体とそれを束ねる国体が出来上がる。

農本社会なら、献納品は、現物でやることもあるが、保管管理が面倒だし、交換に時間軸が発生するので、貨幣経済が楽であり、貨幣経済に移行していく。

国家の発行する法定貨幣に交換等価性を証明する金銀などの商品貨幣は必要はなく、納税条件に法定貨幣を強制すれば、紙幣で十分になる。

国家には徴税権があり、それが国家の本質である。

国家が紙幣の税収回収分以上に乱発をすればインフレになるだけのことだ。

商品貨幣を使うと、資源採掘量や採掘コストが経済発展に追いつかなくなり、現物商品流通を阻害するので、デフレとなる。

仮に、法定貨幣=紙幣=借用書、を使っていても、経済発展すれば紙幣発行が追いつかずにデフレとなる。

その意味ではデフレは貨幣現象である。法定発行貨幣の不足する現代のデフレは、国家が保証する国家の借用書の発行不足であり、その意味ではインフレにするまで、即ち国=政府以外の経済主体である、家計と企業体の合計する貯蓄水準まで、国債を発行して公共事業や公務員給与含む国家消費を拡大することが求められている、のだ。

この国家の国債発行による消費は、企業による生産活動を誘発してしまうので、ここへの投資が必要となり、労働所得も発生するので、資金需要が起き、景気良くなり金利も上がる。税収も増えるから高金利国債も発行しにくくなる。

交換バランスがとれるようになるのだ。

 

脱線したので、

この話を、次の段階、即ち閉鎖経済=鎖国状態を前提とした集団経済社会に移す。

自由経済での資本の国家障壁を越えた現代社会がin vivo、なら、一昔前で、現代の米英のアンチグローバリズムは、鎖国閉鎖経済への回帰であり、in vitro的であるから。