資本主義を考える-3
・2で、資本主義が萌芽し、自営業者生産全体が資本主義生産に置き換わって行く過程を考察したい。
・自営業者のみの段階なら
1個/時間×8時間で8個/日
8個×20人=160個/日・・・需要規模
1000円/個で販売、総需要=160000円
・1資本家導入は、
5個/時×8時間=40個/日=40000円売り上げ
機械減耗費=2000円/5個/1時間×8時間稼働=16000円
労賃=8000円/日=8時間機械操作労働
40000ー8000ー16000=16000円
労働価値説で説明すると、機械製造労働時間2時間で、人間労働4時間分の生産労働を行う。機械の交換価値と使用価値の間に差がある、ということだ。
使用価値は機械使用生産労働であり、労働時間の短縮をもたらす。にもかかわらず機械の支配権を持つ者が労働時間を8時間に延長すると、減耗量も比例して増加するのであるが、延長時間生産物の支配権を労賃と減耗費に按分分配せずに減耗費側にのみ帰属させることで、賃金分を占有するのである。
マクロ的に見て、16000円はどこからきたのか?
まず、
機械導入自営業者は自分の労働を機械使用操作労働にすることで、40個/日を生産する。8個の時の5倍。
160個ー40=120個、120÷8個=15人、15+1=16
この1は、自分の労働。これで160の需要を生産できてしまう。
20ー16=4人は自営業廃業し、うち2人は減耗分の機械生産自営業労働に移行する。
1時間当たり機械は2000円の減耗費が必要なので、その分の生産労働が1000円×2=2人分だ。
残り2人が失業する。これが、16000円/日に相当し、これが機械導入自営業者に移転する。
これは、失業による2人の自殺による人口減であるならば、この2人分の生産所得減少と=消費需要の減少となって現れるのだ。
16000円の追加利益を上げた労働する自営業者が、日本人の好きな安全経済の為に?貯金した、として死蔵するに見えるものの、預かった銀行は金利稼ぎのために、主に投資に回す。投資とは機械生産のような資本活用であり、そのために雇用が生まれることで循環が維持される。
実際は、16000円は、日当8000円で労働者を1人雇用して、この労働者と入れ替えに自分は労働しないで8000円分の自家消費のみを専門にする資本家となる。
残8000円は、豪奢な贅沢暮らしの消費に回してもよし、次期収益拡大の為の資本として使用し地味な自家消費で我慢してもよし、消費か投資を行う。
消費なら、その分の生産労働に残り1人は雇用され、投資なら投資品生産労働があり、その労働所得の消費で需要は需給はバランスする。
何もなければ召使い労働し、資本家として労働せず身の回りの家事などの用事をこなしてもらい、賃金を払う。こうして失業から救済するのが一般的かもしれない。
資本主義を考える-2
・資本主義は、中世の封建社会経済の生産システムの中からの発展形として現れた。
日本で言えば士農工商の工商階級、フランスではケネーの経済表範式での3階級のうちの不生産階級、の生産方式の発展形態として登場している。
この封建社会の階級システムは日本とフランスだけでなく発展した中世社会に共通するグローバルな普遍性があり、イギリスやドイツでも同じであるが、生産力のより低い社会にあっては、支配階級と農民=生産階級だけで、工商や不生産階級の成長が未熟な社会であり、ここから資本主義が登場することはまずない。
資本主義は無、から突然現れたわけでなく、ということは歴史的にも初めから存在ていたわけではないということでもある。
資本主義は、より高度な生産システムとして既存の中世の生産システムの中から発生した、既存の均衡を打ち破る不均衡システムである。その不均衡の故に発展しまたその故に矛盾を持つ。
ヘーゲルの弁証法によって歴史的に解析することが有効であり、当節のように数学的に偏重することでは資本主義の解析方法論に限界があるとおもわれる。
不生産階級、商工階級、はどのようにして現れ増えたのか?
生産階級即ち農民=農奴の食糧生産力により、農奴自体の食糧が経費支出であることで、これを最低限とすることで税収奪する支配階級の消費力が得られるのだが、支配階級が収奪した食糧のうちの余剰食糧をあてにして、農奴の経費としての食減らしとして放出された人口が存在するのだが、彼らは支配階級の余剰食糧と引き換えに、支配階級の為に労働サービスを提供することで生きることができる階級なのだ。
支配階級の城の周りに城下町都市を形成して、そこで鍛冶屋、大工、仕立屋、装飾品製造者、馬主、輸送業者、宮廷調理人などなどとして現れる。
またこうした不生産階級の食糧は支配階級から現物給付されるのではなく、支配階級の発行する貨幣で給付され、市場で食糧と交換することで得られるから、市場関係者や商人、信用事業者も必要になる。
都市市民とも言える彼らに必要なのは、豊富な支配階級の消費力であり、その元は取りも直さず農業生産力であり、農奴からの収奪余剰生産物生産力である。
都市市民は、農奴階級の余剰人口の放出分であり、これが多い程、経費にあたる中間消費を減らすことができるが、放出された人口の全てが都市市民として生きることができるわけではない。
都市市民の周りには、失業者、乞食、浮浪者や売春婦、盗賊がうごめき、おこぼれに預かれない場合は淘汰される、そういう形で総人口調整がなされるのだ。
都市市民とは、自らの労働提供により支配階級から賃金を得る者と、その賃金で交換できる分業としての労働に依拠する者とがいて、その総体として都市市民が形成される。
ここで肝要なのは、この市民の階級は、労働サービスを通して貨幣を得て、市場を通じて自らの食糧を得ることであり、余剰生産物を蓄積しない、できない日暮の市民である、ということである。
その程度の生産力であり、もし仮に儲かる仕事があれば、失業者の群れからの労働力供給圧力が常にある状態、である。
また、それを可能にしているのは、道具程度の生産手段による自営業的な生産形態である、ということが生産性の低さと新規参入を容易にしている。
労働力が主体の生産形態に依拠した社会経済システムであった、ということだ。
世界最大の100万人都市の江戸は、宵越しの金を持たないフローの社会であり、その日暮らしがやっとの自営業者の群れ、世代交代がやっとの均衡経済の社会であったわけだ。
資本と労働の分離を、即ち資本主義とは全くかけ離れた経済社会がそこにはあり、当時は50万人人口都市であったロンドンやパリでも、恐らくは同様であったはずである。
需要について-1
・ロビンソンクルーソーは単純だ。
自らの需要の内、自らの優先順に限られた睡眠時間以外の活動時間を労働時間配分して需要を満たす。
満たせなかった需要は、繰越すか夢と諦めるかだ。
生産性を上げて短時間生産が可能になれば、満たせなかった繰越需要分の生産活動にあてるか、余暇時間を増やすかを選択できる。
自らの労働のみが需要を満たす手段である。
労働によって満たせる需要を有効需要と呼ぶことにする。需要>労働、の関係が常に働く。
・集団社会では、集団構成員の個々の需要は、個々の労働で満たすか、分業と交換による社会的生産活動で満たすかだが、実際には組み合わせた方法で需要は満たされている。
これをマクロ的客観的に見れば、個々の需要を実現する労働時間と分業生産活動での労働時間の合計値が社会的総生産となり、社会的総需要を満たすことになる。
社会的総需要は、集団構成員個々の需要の合計値を個々の生産活動を含む社会的総生産活動で満たせる範囲で満たせるに過ぎないのであり、その意味では需要は有効需要という語で説明するのがふさわしい。
・個々の生産活動であり個々の需要を満たす部分は分業ではないのであり、交換を必要としない部分。
交換に時間差を伴わないので、貨幣という債権債務証書との交換も必要はない部分である。
従って、GDPの集計だけでは総生産力は貨幣換算されていない個々の生産分はカウントされていないので根本的には不十分であるといえる。
家計セクションがカウントしきれないのだ。
例えば、家庭菜園での収穫物やその労力、外食でない主婦労働による調理労働や、亭主の生活使用時間を削減しての洗濯や衣食住に関わる家事雑務の下請けで亭主の社会労働時間をより多く確保すること、を労働時間として本来ならカウントしなければならない。交換による貨幣数値を換算するだけでは、生産力は正しくはじけないのである。
・さて再度、需要について考察する。
需要を個々の人により、分業せずにそれぞれ生産する集合体とする分業ゼロ%、の方法もある。それは自給自足とよばれ、自給自足の共同体である社会も理論的には存在しうる。
生産力は、経験や研究活動や道具の進歩や頑張りにより拡大した先には剰余生産物が得られる。
この段階で階級が発生しうるが、これはまた後ほどに深掘りする。
100%を分業によるのは、共産主義である。私有財産を必要とせず、生産手段が社会化しているからだ。
資本主義はその経過段階であると考えられる。高度な生産段階であるが、生産手段が私有財産のままで、階級分化が存在するからだ。
資本主義の分業率は高い。それは生産性が上がることで労働時間当たりの生産物が増えるからなのだが。貨幣を使用して生産物総量が増えるから、貨幣も増やさなくてはならない。過剰生産物は域外に輸出できれば、域外の労働所得が手に入る。が、輸出できなければ過剰生産となり、生産縮小となり、資本主義生産システムは機能不全を起こす。
さて、需要は労働生産物により満たされるのではあるが、それはサービスであろうと物であろうと。
労働によらずに需要を満たす方法は無いのか?
他人の労働物を不等価で交換することがそれである。1つは贈与、1つは略奪である。
略奪には合法的、非合法的があり、合法的略奪は再分配目的であることが条件となる税収、非合法は犯罪としての略奪である。
それ以外に、商業流通上の希少性によるものや、優先換金の為の値引き、等もあり非対称性を伴う交換が現実には多々ある。
要は生産されたものが、利益幅以内で営業経費=中間生産中間消費を伴いつつ基本的に不等価交換される、というのが資本主義での交換様式である。商戦を伴うのだ。
・また、現在経済だけでなく、需要をみたすのに、過去生産の債権や将来生産の債務を利用して物やサービスを交換入手することも可能だ。
将来生産の債務をもって交換する場合は、信用のレベルにより金利が発生する。それだけだ。
現在の労働と分業生産物とが等価交換される、というのは一面の数学的標準スタイルではあるが、現実は過去の蓄積生産手段による生産力の上に、将来の生産力予測と、これに現在生産所得の階級格差分配が加わるので複雑である。
条件を固定して数学的に結論を得る近代経済学では現実の役には立たない。経済学には論理学と哲学を働かせないと。
資本主義分析-8
・前章とは異なり、8店のかき氷店が当面継続し、取り敢えずA店のみでかき氷機が導入されて1日稼働して生産過剰になった状態の切片を考察してみる。
・A店の生産販売増による変化を考える。
カンナ式の時は、日産で考えると、
5杯/1h×労働時間8h=40杯
ここでの、対A店への原料供給は
90円×40=3600円 → 90×320=28800円
増分は、28800ー3600=25200円、
生産手段は、
10000/1000×40=400円 → 80000/1000×320=25600円
増分は、25600ー400=25200円、
労賃は8000 → 8000円、で増分はゼロ、
ここで、増分の合計は、25200+25200=50400円で、これは、原料採取部門と鍛冶屋生産部門への中間消費材としての支払いが発生するもの。これらの部門の労働所得として、彼らから最終消費として市場に投入される資金となる。
また、この中間消費材によりかき氷生産は
40杯→320杯に320ー40=280杯、生産増することができて、280×300円なら84000円にあたる生産物を市場に、持ち込み販売することにより得られる。
しかし、市場の交換所得増分50400円は、得られるが、84000ー50400=33600円分は、市場の購買所得の不足となり、売れない可能性がある。
市場の交換所得分が全てかき氷の消費のみを増加させることも可能性としてはあるが、他の消費材の需要に向かい、その消費材の生産増を導くのが普通だ。
・結論としては市場が閉鎖的市場であれば、例えば外国市場に売りつけたり、とかの可能性がなければ、ちなみにかき氷は輸出可能性のない内需商品であり、かき氷機なら輸出の可能性はあるが(^^)、生産性向上は需要不足、供給過多になりやすくなる。
・現実の世界なら、残りの7店のうち、1〜2店は、同じくかき氷機を導入してA店との競争になりますます需要不足となるので、より早くより多く販売することが求められる。競争社会が始まるのだ。もはやカンナ式の旧来のかき氷店の存在余地はないと言える。
一方で、剰余価値の多さ=33600円、から製造原価は、量産することで確保できる最大値であり、競争が同質間競争なので、この33600円は、AB両店で奪い合うことになる。原価が300円でなく195円になることで、かき氷の値段は300円から限りなく195円に引き下げられるか、市場の末端まで行き渡るように商業=営業経費、輸送経費をかけて更に値引き販売となる。
結論は値引き販売合戦での剰余価値の放出であり、商業運輸経費と関わる労働の増大である。
労働需要は、常に発生するのであり、生産物は過剰になり安価になる。自営業者は減り続け、労働者階級は増え続け、剰余価値の投資内容により発生する労働需要に吸収される。
労働需要は、生産材生産と原料生産に顕著となり、自営業者はその部門に労働者階級として雇用される賃金の方が、自営業による労働所得を超えることになり、労働者階級の国家に移行していく。
労働者の賃金所得が、労働者の生産物を消費するので、賃金所得と資本家の不労所得の合計以上の消費=生産が不能となる。富が偏在する社会にあっては、資本家消費に限界がある。デフレ生産調整社会が発生する。現代日本である。
消費も投資もできない金融資本が退蔵資本となり、経済循環を阻害するのだ。
労働者階級に、蓄財の減少とローンの負担を負わせら為に消費は低迷、生産減少、賃金低下又は非正規労働者の増加で覆い隠す、一方で法人の金融資産が増加し、非正規や老人含む低所得者への公的税支出が債務として国家に負わせられるが、その債務は退蔵金融資産に担保されていて滅亡しない社会が現れるのだ。
民間法人の投資抑制を打開するには、国による投資の拡大しかなく、将来的インフラ投資による生産増であるのだが、その意味ではコンクリートから人へ=教育研究、の投資方向への変更だけでなく、情報通信やロボット、宇宙空間の開発などを、法人税の引き上げか、国債発行による公的投資拡大で乗り切るしかない。
少なくとも担保は、企業や資本家の退蔵金融資産であり、機能させられない企業の資金を活用することである。企業も資金活用能力の欠如を階級社会であることに甘えている企業指導者の無能に支配されているのだから、国債発行で将来的な企業の退蔵金融資産を現在労働の需要に振り向けることが必要だ。
将来に禍根を残すのだが、将来を失うのは国民ではなく、現在の退蔵金融資産保持者、資本家であり法人であるのだ。何故か?それは国債担保保持者であるから。
日銀の国債買取の現在の方針は、その意味では愚策であり、資産バブルを醸成するのみで、現在経済を改善し得ない。国民が生産労働に活かされずに低賃金低消費=低生産=低賃金、の悪循環を断ち切る経済政策たり得ない。
飛躍したこの結論が、日本経済の低迷を打破して将来に明るさをもたらす方策であることに確信はあるが、またその経済的根拠もあるものであるが、かき氷屋の世界の発展形態から今後は個別課題として、またマクロ経済として証明しなければならない。
ピケティーのあまりにも当たり前の結論をありがたがる経済のリテラシーレベルを覚醒する必要がある。
労働者階級に、経済理論のリテラシー改革を提起する必要がある。
かき氷経済モデルからは、資本主義はやはり
社会の為、人の為のシステムではない。
格差拡大による、人間を商品や金の対象として貶めるある意味情けないシステムである。
しかし、人間は弱く、旧社会主義システムは人が人を支配する、更に情けないシステムとなった。
やはり、中世の自営業集団による共同社会が好ましく、人を雇って生産手段と組み合わせるのではなく、A店は、努力やアイデアが私的財産として報われていいのではあるが、丁度弁護士や医師や職業による賃金差はあってよいのだが、法人格による相続税のがれは、人間集団組織運営が退廃社会を生んでいるようにも見える。組織運営論を深める必要もある。
この後はまた視点を変えてみたい。
資本主義分析-7
前章の「価格形成と生産手段」から、かき氷店の資本主義化を検討した。
この章では、マクロモデルを作り、資本主義の本質に迫りたい。
世の中で、数ある産業が、農業以外は資本主義的生産が行き渡っていない時代で、職人的自営手工業市民によって分業生産されていた中世の時代を想定し、マクロモデルを検討する。
全てが「カンナ式生産」の、かき氷店が8店存在する国家社会をイメージする。
カンナは鍛冶屋が受注生産で、10000円の労働時間価格で生産され、1000杯で残存が0になる減価償却。
減耗費10円/1杯となる。
カンナ式かき氷の労働時間は、1日8時間で、8000円
原料は、氷屋が自然界から切り出し、氷蜜やカップは市場から調達し氷屋が、氷とともに納品する。
90円/1杯が生産量に比例してかかる。
ここで、Aかき氷店が、カンナをかき氷機製造に変えて、生産する。
8店舗のかき氷生産で市場は飽和、受給バランスが均衡していた、とする。
かき氷機は、カンナの8倍速の生産能力を持つ
カンナの8倍の生産コスト=80000円がかかり、カンナ同様に1/1000の減耗費がかかる。=80円。
かき氷機をA店のみ導入すると、7店はカンナ式で継続するがジリ貧時期を経て、閉店消滅する。
当初は並存してパイを奪い合う生き残り戦が続き、複雑な構造になるが、
着地点は、
A店以外の7店は、閉店して労働者階級となると仮定する。
カンナ時代 8店全てがカンナ式
マクロ生産状況は、
90+10+1000/5=300 の製造単価で
1時間で5杯の生産力、8時間労働で、40杯生産/日
1日当たりの販売高は、
40×8店舗=320杯×300=96000円の販売で、
・労賃は、
8時間労働者が、8人=8000×8=64000円の総賃金
・原料は、
90×320=28800円
・減耗費は、
10×320=3200円、
合計は、
64000+28800+3200=96000
解説、
・かき氷屋さん産業は、カンナ労働の人件費が大半の産業であること。
・原料採取の1次産業が主体、鍛冶屋2次産業はサブの産業である。
これが、A店のみでかき氷機を鍛冶屋に発注し、結果、7店は紆余曲折を経て淘汰された後とする。
A店 8倍速のかき氷機を導入、鍛冶屋では8店分のカンナは製造中止になり、かき氷機1台のみの生産に移行する。
A店生産力は、40/h×8=320杯を300円販売=96000
・労賃は
8000円 8人64000円から大幅に減少 1/8に。
・原料は、
90×40×8=28800円 で変わらず
・減耗費は、
80000/1000×40×8=25600円 3200円から8倍に増。
計は、8000+28800+25600=62400円
62400/320=195円 製造原価は105円/1杯下がった。
にもかかわらず、300円での販売を継続できるので、
300×320=96000、の販売は、市民社会のこれまで市場流通での需要による。
96000ー62400=33600円をA店が所得化できる。
解説、
・この時点では、8000円の賃金を8時間のかき氷機労働で得た上に、33600円の別所得を得た富裕な自営業主でしかない。
・8店で稼いでいた労賃から自分の労賃を減じた64000ー8000=56000は、閉店に追い込まれた7店で稼いでいた労賃であるが、そのうち33600円は、A店にかき氷機労働による8倍速の生産性向上労働で、所得移行した部分である。では56000ー33600=22400の労働所得残は、どこへ行ったのか?
原料は、生産数が320で同じなので変化していない。
減耗費は、
8店の時は、3200円 カンナ8つの減耗費計
A店は、かき氷機減耗費25600円、差額は22400で、かき氷機製造する鍛冶屋に22400円の労働所得増に移行したのだ。
A店以外の7人の得ていた労働所得56000円は、鍛冶屋に22400、かき氷機A店に33600として移行し、7人は失業者となるが、鍛冶屋の仕事増とかき氷店の33600円の市場での消費の為の生産活動への参加により、全てが吸収される。
もともと、市場は7人分の56000円の消費と交換できるかき氷以外の消費材生産労働分と交換して消費して均衡が得られていた。
この消費がA店の33600円の所得の豊かな消費増が市場に持ち込まれるので、7人のうちから、鍛冶屋に転職した2.8人=8000×2.8=22400円以外の4.2人は、33600円/8000=4.2の交換労働として、A店経営者の為の消費材生産労働に従事することになる。これは生活必需品から外れる可能性はある性格だが。
次に、33600円のA店の純所得の活用方法について検討してみよう。かき氷機労働は自ら8000円の労賃を算入して尚、33600円の純所得、その使途だ。
・贅沢浪費による勝ち組ステイタスの実感
これは、失業者7人が、かき氷機製造の2.8人の移行により、正確には4.2人が、A店の店主の贅沢浪費消費材の生産労働に移行することで労賃を得ることになる。
・貯蓄
これは、失業者を4.2人生み出し、これを生活保護費消費等で救済すると、A店からの法人税課税税収がなければ、国家が税収不足となり、赤字国債を発行して救済することになる。が、A店の貯蓄という形で担保はあるので、国内消化の国債の範囲である。
日本の現在の姿だ。交換能力のある貨幣を退蔵凍結しているので、将来消費の形で現在生産活動を縮小する。生活保護だけでなく、非正規や残業等に対する支払いの拒否、社会補償費の削減、等労働者は貧困化する。が、資本家企業は預貯金が溢れて投資=消費をしない。
・資本主義化
A店は、自営労賃8000円以外に、33600円の純所得をがあったわけで、1人失業者から雇用すると、3.2人の失業者は残るが、本人は、不労所得として33600円を得ている。これを、更に失業者から雇用してかき氷機も増やして、即ち原料生産増、鍛冶屋生産増に失業者を移転しながら生産増=不労所得増をもたらすのが普通である。
しかし、ここでは既に需要は均衡して限界になっていることを想定している。輸出=国外市場を相手にして、他国のカンナ生産かき氷屋を失業に追い込みながらの純所得の拡大を行うこともここでは除外している。
この二つが資本主義経済を発展させるのだが、そのためには、原料を生産物量増分必要とするので、安く叩ける市場の開拓=輸入の拡大も必要だ。
これを除外すると、かき氷屋以外の消費材生産業への生産手段の機械化高度化、生産材生産業界、例えば鍛冶屋の機械製造の生産手段機械化に資本の活用を図って失業者を移行雇用することで、そこから新たな純所得を得る投資活動に振り向けられるのだ。
しかし、これも一巡するとさすがに停滞する。全てが資本主義化して、生産物の需要に達して供給過剰になって均衡に戻す状態、これも現代日本の状況である。原料輸入市場、例えば石油を自国に有利に買い叩き、量を得ることが加工生産業では必要だし、国外販売市場も必要だが、戦争や紛争を避ける日本はこの道を戦後に捨てた。やむを得ない選択ではある。
資本主義の本質は、均衡生産システムを不均衡にして所得格差=再分配を作る、資本家サイドのシステムである。
この格差は広がる一方の経済システムなので、一方で相対的に貧困な労働者群と、金余りでこれ以上の生産拡大が社会的に困難な実需、との金融資本の需給バランスの中で、先進資本主義国は金融資本主義の性格をより色濃くすることになる。生産手段の生産=工業化による健全な実需による純所得の拡大が飽和している、資本主義的生産システムの限界に来ている末期的症状であるとも言える。
他人の労働権を科学技術を使って奪い、そのことで労働所得を移行して、市場からの製造原価以上の所得を獲得して、労働者の労働所得の交換の場=市場では不等価交換により、労働所得を合法的に移転する、弱肉強食的、非人道的な個人主義的なシステムなのだ。
本来なら、革新的な技術開発者に相応の対価をもたらしながら、労働時間の削減や製造原価低下分の販売価格の低下、という神に恥じない当然の社会的貢献を実現すべきであると思うが、資本家の個人所得の増加、支配権獲得による資本家所得減税、税逃れ、とグローバルに資本収益が図られ、格差は拡大し、移民が増える。
確かに旧社会主義国には、イノベーションがなく中世経済への回帰が起こった弱点はある。
共同体意識や協同組合意識が国民に生まれ、実感できる程度には格差の是正、所得の再分配の思想が普及する必要はあるかと思うが、それを支える経済システムはなく、宗教や政治に委ねられる限界があり、資本主義に、ましてや現代では金融資本主義から移行できる経済システムの登場が待たれる感がある。
価格形成と生産手段
・ここに、300円のかき氷が売られている。
また、10000円のかき氷用カンナも販売されていたとする。
このかき氷もカンナも、生産費用は、原料費+加工労賃、と考えられる。この生産費用が回収されることが生産活動を継続できる条件である。
加工労賃には、労賃だけでなく道具類の減耗費も加わっている。
更により正確には、+運搬費+商業経費、で販売価格が形成される。
市場取引は分業による労働時間の等価交換であると考えるなら、他人の世話にならずに全部を自分で労働してカンナをも製造することは可能である。
しかし、個人が全てにおいて専門技術を使えるわけではないので、分業での社会的平均労働時間を超える労働時間を個別に投入することにならざるを得ないので、しかしながら交換は、個人的労働支出ではなく社会的平均的労働時間で交換される為、分業による方がより少ない価格で目的生産物を得ることができると考えるのが普通だ。
さて生産活動で、原料Aを加工生産物Bにするには、加工労働が生産工程で発揮されなければならない。
原料 Aをかき氷の主要原料「氷塊」で考えると、天然氷をノコギリで切り出して運び保管する労働時間計により販売価格が得られる。保管と運搬は除外して考える。
ここでは、原料は、自然から得るのでこの天然氷を切り出す作業ではゼロ、原料は無い。
ノコギリの製造時間であるが、そのノコギリの製造に関わり原料である鉄鉱石原料の採取労働時間と柄となる木材加工の労働時間と加工組立の作業時間と鉄鉱石加工労働時間が必要な単位あたりで総和されるのだが、1本のノコギリの製造に要したその労働時間分のうち、減耗費分が氷塊切り出し労働に加算された分が氷塊の商品販売価格、即ち関与労働時間換算合計表示貨幣額となるのだ。
カンナ使用労働は、5杯/1時間の製造能力=fなので、8時間かかって40杯を生産できる。
f=5、=時間当たりの生産能力。f×8h=40杯
f=5×8、ならf×?=40 で、?=1h
ここで、仮にf=1なら、これは素手での労働を仮定する、=道具不使用労働、のだが、f×?=40
素手なら40労働時間必要だったはずだ、との理論計算になる。これがカンナとの結合労働で、8時間に短縮された、と考えてみる。
ここで、カンナを8倍性能のかき氷機に変えると、
f=40とすると、カンナ労働がパワーアップして、
f×?=40となるので、?=1h
カンナ生産は1日8時間労働で、原料単価90円とする
5×90×8+5×?×8+8000=300円売価×40杯
5×?×8=12000ー8000ー3600=400 ?=400/40=10
カンナは10000円の製造費で、1杯のかき氷製造で1/1000を減耗するとすると、10円の減耗費がかかる。
90+10+1000/5杯=300円
1杯300円で売れば8時間労賃の8000円が得られるわけだ。
カンナの減耗費は、製品1個あたりで10円だったことになる。これで8時間生産すると40杯で、減耗費計は400円となる。
これを、カンナからかき氷機にすると、
fは、5から40に8倍速の製造性能になるので、40杯の製造は1時間で終わる。
8倍速のかき氷機は、カンナ10000円に対して8倍の80000円かかったとし、減耗率は1/1000でカンナと同じ材質の鉄を用いたとすると、減耗費も1杯当たりで
80000×1/1000=80円に増える。
1杯当たりの製造原価は、
90+80+8000/40×8=90+80+25=195円でできることになる。300ー195=105円/1杯の剰余価値が生まれる。
5杯/1時間できる製造能力で、1日カンナ労働すれば
90×40+10×40+8000=12000円かかり、
300円で40杯=12000円で売って、8000円の労賃が得られる。それが、
40杯/1時間できる製造能力を得たことで、労賃8000円/日で労働者を雇用してかき氷機生産させると、
90×40×8+80×40×8+8000円=
28800+25600+8000=62400の原価で
40×8×300=96000円で売れるから、
96000ー62400=33600円の利益がでる。
検算は、
(300ー195)×40×8=33600 でOK
減耗費は、
10000円のカンナ製造は、1日で
10000/1000×5×8=400円
これが、
80000/1000×40×8=25600円に膨れ上がり、
原料費は、1日で
90×5×8で、3600円が
90×5×8×8=28800円に膨れ上がる。
25600+28800=54400円に相当する原料と生産手段の生産増から、カンナ時代の製造費、
減耗費10×40=400
原料費90×40=3600
を差し引くと、純増は、
減耗費25600ー400=25200円の増
原料費は、28800ー3600=25200円の増
合わせて50400円の純増になる。この原料と減耗費分の生産手段の生産増がかき氷の製造増によりもたらされる。
それで300×(320ー40)=84000が得られる。
96000ー12000=84000だから、検算はOK
収支差額を考えると、
カンナ労働をかき氷機労働に変えると、
原料生産部門に、+25200
生産手段生産部門に、+25200
計+50400円の他部門追加生産労働需要増により、
生産量は、40から40×8=320に280杯の増加となるので、280×300=84000円の売上増になる。
このうち、84000ー50400=33600は剰余価値となる。何故なら、かき氷生産増のうち50400は、原料増加と高度化した生産手段製造費分=減耗費増分で支払い経費が生じるからだ。
また、50400円の追加されたかき氷製造以外の労働時間増は、かき氷製造労働時間から弾きだすのだ。
本来なら40杯/8時間の製造能力の労働時間は、8倍速320杯を得るのには増加分で320-40=280杯分の労働を削減する。280/40=7×8時間=56000円、このうち50400円は、別労働に労働者として吸収される。
33600は、
33600=40×8×(300-195)
即ち生産手段の高度化による労働生産性向上による生産増と更に製造原価減の効果である。これを消費者=労働者に還元しなかったことにより、労働者階級には生存持続権を維持したままとしての実質賃金の引き上げをせずに成果物を資本家が貨幣資本化したのだ。
また、消費材生産労働時間を、生産材生産労働に振り向け、そのことによる生産増効果を実現する為に原料生産にも振り向けることになる。
製造原価が195円×=62400でできるものを
300円×320=96000で売れることにより、
96000-62400=33600円の労賃支払い後の剰余価値を産む。
かき氷製造以外の部門の労働時間を50400時間増やすことで、かき氷生産を日産40→320杯に、その労賃込みの原価を300円→195円にすることができるが、
ということだが、この収入増は、原価が下がったのに、カンナ製造の原価を消費者に押し付けており、
これは、消費者からの所得移転である。
84000円のかき氷販売増を50400円の原価費用増で済ませたことで、消費材製造部門に33600円の所得を資本家にもたらしたのだ。
その所得は、195円で300円で売れる商品を作れるようになった、資本家の勝利である。
資本主義でなければ、50400円の費用増分が回収できれば良いのだが。即ち195円での販売が可能だったのを消費者=労働者所得に還元することで、105円を他の消費材消費に向かわせることができるわけだから、全ての労働者の生活向上に向かわせることができるのだが。そのモラルの前に、他人より自分の幸福を求める普通の人間が多ければ、より正確には、他人から所得を移転させても自らが儲かりたい人々の群れであるならば、神の手により、所得は偏在していくのだ。
封建時代=農本主義社会には、単純再生産と農業資本主義による支配階級維持の黄昏の中世時代を維持する為の、宗教のイデオロギー統制は必要悪であった。
資本主義化は、この理由により、消費材生産の全てのジャンルに、また、生産材生産の全てのジャンルに、原料生産の全てのジャンルに拡大し、資本家の所得を拡大する。
拝金主義と宗教イデオロギーの摩擦が起きるのだ。しかし、経済システムが資本主義であれば、キリスト教は邪魔になるが、異教徒には金利を取ることを許すユダヤ教が金融業を発展させる。
過剰生産になると、最早資本主義生産を拡大再生産できなくなる。この段階が、金融資本主義への変質の時代であり、ユダヤの台頭を余儀なくする。
金融資本主義の時代をユダヤのイデオロギーが支配し、反ユダヤの思想が対抗台頭するのだ。
まだ組み立てが危ういが、
結論は、
過去労働で生産手段=道具を生産するのだが、その道具の性能がx倍になれば、当然にその道具使用現労働が1/xになる。
その為、現労働時間がその分減って短時間での生産が可能になるにもかかわらず、市場調達した契約労働時間を働かせることで、無償の労働時間が発生する。
この労働時間分は、原料増と道具の減耗増を伴うので、消費材生産労働が減り、その労働分が、原料と生産材生産労働に移行するだけである。しかしながら、消費材生産性向上による原価減分を、労働者所得から収奪できるので、労働者の総所得から資本家に所得移転を生じさせる。それは、生産性向上前の価格で労働者は買い続けることになる。
この剰余価値獲得を目指して、市場から労働力商品として労働時間調達する仕組みが資本主義生産システムである。
労働者階級は、自らの再生産費を回収でき、資本家は投下資本以上の剰余価値生産物を得る、ウィンウィンの生産システムとなる。しかし、労働者階級は、いつまでも最低生活を維持することになるが。
資本主義生産システムには、道具、即ち生産手段、減耗固定資産、原前払い、との結合労働による現労働時間の短縮が得られなければならない仕組みなので、生産手段が道具との結合労働である事が前提条件であるり、また労働力を労働市場から時間で購入できる事も必要条件であることがわかる。
また、結果は格差となる。
資本家と労働者の格差は広がる一方で、ユダヤ思想による金融資本主義時代をやがて迎えることになるのだ。
資本主義分析-6
・かき氷屋 さんAの-4からの続きだ。
いよいよ、これまでなかった資本主義生産様式が、かき氷屋 さんAによって採用されることになる。
中世の市民社会モデルの手工業者と商人とからなる単純再生産交換経済を基礎とする均衡社会は、かき氷屋さん Aのかき氷機の発案と、これをカンナ製造職人即ち鍛冶屋に製造発注したことから社会経済システムは不均衡化の時代に突入するのだ。しかしこれはモデルであっても可能な、自然な進歩の結果でしかなく必然性があったのだ。
・復習だ。
かき氷機前の3店のかき氷店のカンナ式かき氷機使用での生産販売は、
カンナ式のカンナは、製造費が10000円で、1000杯の使用で滅失する為、10000/1000=10円の減耗費。
労賃は8000円/日必要。で時給=1000円。
カンナ労働だと、5杯/1時間が生産量。
90円原料費+10円減耗費+200円労賃の単価製造で、
8時間労働で40杯生産が可能。
8時間=1日で、
3600円原料費+400円減耗費+8000円人件費
=12000円の経費回収には、300円/杯で販売。
これで労賃8000円が得られて自己再生産できる。
店舗労働が継続できる。
これがケネーの不生産階級の生産活動の姿だ。
かき氷機投入で、
カンナ歯を4枚で回転労働にすることで、8倍の生産力を得ることが可能に。5杯×8=40杯/1時間
かき氷機製造費は、100000円、1000杯の使用で滅失するので、100000/1000=100円の減耗費を要する。
労賃は、時給1000円。
90円原料費+100円減耗費+25円労賃の単価製造で、8時間労働で320杯生産に。
かき氷機投入で40杯生産するには、
3600円原料費+4000円減耗費+1000円人件費
=8600円の経費、8600/40=215円
だが、1日なら8時間労働で、
5×8×8×300=96000円の売上だが、
3600×8+4000×8=60800円は、支払い経費である。
96000ー60800=35200が労賃となる。
この段階では、より豊かな市民でしかなく、消費材を豊富に購入することで、豊かな生活を楽しめる条件が得られた自営市民に格上げされた、というだけだ。
ただし、この前提は、215円の製造単価で300円で売れる場合だが、もともと、かき氷屋の維持費は、8000円/日の労賃回収であり、3店で経営していたのだからこれで成り立っていたことになる。この額での需要はあったのだから、カンナがかき氷機に変わろうと、それは買う側からの問題にはならない。
ただし、生産量が増えることで、潜在需要がなければ、上記の計算は成り立たない。
日産40杯の生産で社会的均衡を保とうとすれば、
40×90円原料費+40×100円減耗費+40×25円人件費
=3600+4000+1000=8600
300円×40杯=12000、12000ー8600=3400円/1時間
労賃は、不足だ。過剰投資だが現実は、生産スピードの早さで、他の2店に並ぶ客を引き寄せて優先販売できるのだが、すると他店は廃業するしかない。
潜在需要がなければ、結果は同じである。
仮に潜在需要がなく、他店が廃業すると、
40杯×3=120杯が総需要、
120×300ー(120×90+120×100)=13200円、の労賃は有難いが、資本主義化はできないし、廃業で2失業者となる。
しかし、鍛冶屋は、対かき氷屋には、
40×3=120×10000/1000=1200円/日、分のカンナ製造需要があったが、これが、
40×2=80×10000/1000=800円と、40×100000/1000
=4000円の合計=4800円の製造需要となり、
いずれは120×100000/1000=12000円需要になる。
すると、鍛冶屋は12000ー1200=10800円の製造需要増となるので、廃業かき氷店の1人は、鍛冶屋に転業が可能、となる。
仮に、かき氷潜在需要が十分にあれば、
40×8×100000/1000=32000円/日、2人の廃業失業者を吸収でき、更に原料増に伴う、
(320ー120)×90=1800円/日の合計で33800円の労働需要が生じる。原料増はさておき、かき氷機製造需要は、場合により、既存鍛冶屋への労働者雇用に伴う資本主義生産化も可能にする、ということだ。
A店のかき氷機導入での影響は、社会的均衡を崩す悪弊を撒き散らすことになる場合もあるが、生産の高度化と労働需要の変化、場合により、かき氷機製造の資本主義生産化をもたらす可能性もある。
閉店に追い込まれ、自由市民から労働者階級になった失業者は、かき氷機製造という形で、かき氷販売に間接的に関わった仕事にシフトした、ということになるのだ。
・独占販売する かき氷機生産するA店、で新たな均衡で落ち着くのか?というと潜在需要との問題もあるが、同じくかき氷機を導入したC店が新規参入することもありうるのだ。
理由は、215円の製造費で300円という、或いは独占販売による独占価格を形成し、350円とかで販売する権利があったからである。
300円という価格は、カンナ製造の市民社会の自営業者の労働再生産費用としての価格であり、現在は215円の生産コストである。85円の利益を求めての新規参入の隙があるのだ。
この場合は、更なる潜在需要があれば、85円の利幅を維持するのが可能だが、潜在需要の限界による値下げ競争での販売競争による死闘となる。
ここで、新種のガソリンを燃料エネルギーとする発電機による自動かき氷機ができたり、出来た氷をセルフサービスでカップに受けてもらえば、監視作業だけで済む生産工程が得られるのだ。
こうして、労働需要自体が生産手段としての労働時間を削減する生産材生産労働へと形を変えて、生産材生産の機械化へと更に進むのである。
ここで、話を戻して、
かき氷屋さん Aの予期せぬ?労賃がかき氷機導入で35200円得られたが、このうち8000円は生活費だから27200円を得た。これを資本として、もう一台かき氷機を導入し、労働者を2人雇用し、2台を稼働させる資本組成とすると、
90原料+200減耗費+25円労賃=215円投資で8時間労働させて、320杯×2=640杯生産すると、54600円の剰余価値が生産できる。要は需要次第だ。
お金がお金を産み、怖いのは新規参入者と需要の限界である。
かき氷機はフル回転し消耗が激しくなるので、かき氷機生産工場にも投資枠を広げる。機械生産だ。すると、かき氷機以外でも機械生産材需要は高まるので、機械工業生産により、消費材生産業種の機械化により、またその生産に資本主義生産で応えれば
全産業が資本主義生産での生産様式となり、生産物価格は下がり、実質賃金は上がり、資本主義社会が出来上がる。チェーンストアが増えるが、人手や接客業など、機械化の及びにくい範囲を除いて資本主義生産が行き渡ると、生産材生産需要は有限であり、必ず壁に突き当たる。
貨幣資本として回収された資金に、生産材投資先が見つからず、金融資本主義が実態経済で働かなくなるのだ。
しかし、かき氷機導入により、確かに資本主義は芽生えることは可能であれば、それ以外の業種のどこからでも資本主義化は必然として生まれ育つ、ということはわかるのだ。