資本主義分析-5

・かき氷店の資本主義的生産様式への変化の前に、生産手段に使用される機械と人間労働について更に掘り下げてみたい。

 

例えば、人は労働を通じて、人にとっての有用物をつくりだすのだが、それは労働対象物=原料、を労働手段である道具や機械を使い人間労働と結合した生産手段化による生産工程を経て目的生産物に変化させるものだ。

1単位の原料を1単位の生産物に作り変えるのである。針金をペンチで適当な長さに切って、丸めてクリップ📎を作るというように。これを反復して量産するのだが、この作業を1台で一連の人間労働が連続的に代理機能できるように作業機を作り、人間は直接作業労働から機械操作間接作業に移行し、作業機に作業を行わせる。

 

現在の労働を(機械の作業+間接労働)に置き換える。

これは別労働又は過去労働生産物で、現労働に置き換えて現労働を減らすことでなければ、またそれも現労働を過去労働時間減耗費より減らすことでないと機械投入の意味はない。

機械自体もその目的の為に生産される目的生産物であるのだ。機械は労働力再生産の為の消費材ではない。

機械生産に労働時間を投入し過ぎれば、これまた機械が高価になることになり、投入するに値しない。

カンナ生産の場合、1単位のかき氷原料を1杯のかき氷商品にするのに、

90円原料費+10円減耗費+200円労賃=300円の単価製造で、8時間労働で40杯生産が可能。時給は1000円とする。

3600円原料費+400円減耗費+8000円人件費

=12000円の経費回収には、300円/杯で販売。

これで労賃8000円で自己再生できる。

これがケネーの不生産階級の生産活動の姿だ。

かき氷機投入で、

90円原料費+100円減耗費+25円労賃の単価製造で、8時間労働で320杯生産に。

かき氷機投入で40杯生産するには、

3600円原料費+4000円減耗費+1000円人件費

=8600円の経費、8600/40=215円

減耗費を10倍にして+3600円にして、人件費をマイナス7000円にしたこと、要は過去労働生産物で、現労働時間を短縮したことになる。

 

道具や機械などの生産材の使用価値は、生産工程に投入されることで生産手段の必要生産時間を短縮することにある。現労働時間に頼らない生産方法だ。

生産材は、過去労働時間の投入による生産物であり、その交換価値は製造時の投入労働時間である。

 

これを現生産手段に投入して、即ち過去労働時間を投入することで現労働との結合、生産手段の必要時間総体を削減することで生産手段を構成する労働生産時間を短縮するのだ。

 

投入は過去労働時間生産物であるが、現生産物に移行する価値額は減耗費換算労働時間分である為、現生産手段としては、現労働時間を短縮しつつも、減耗費労働時間分を価値移行するので、生産材の使用価値は、その機能としては減耗費以上の現労働時間削減が必要条件となることである。

 

1つの原料を1つの目的生産物に変える生産工程で、

一つ目の生産には、かき氷機は、減耗費労働分ではなくかき氷機として全過去労働時間として現人間労働と結合して作用する。

また、二つ目の生産には、減耗残として作用するのではなく元の全過去労働時間分として人間労働と結合して作用するのだ。原料やエネルギーは、そのものが生産物に全価値移行するが、人間も生産材もそのままの形が残った姿で原料の変化の為の労働支出をするのであり、1個目も2個目もn個目も同じ作用をもたらし、減耗した、償却した償却残として作用がすり減って減退したものを使用しているわけではない。人も機械も生産手段として機能するのだが、それが融合形の一体化された生産手段となっている。過去労働生産物との現労働の結合形の新たな生産手段となって機能しているのだ。

 

かき氷機の場合は、カンナ結合労働の場合より、8倍の生産スピードに新結合生産手段化するこで、現在労働時間をカンナ労働の1/8に短縮できるのだ。

かき氷機が価値として製品に移行するのは、あくまで再生産費=労働時間は換算分であり、積立金の回収であり、機能はあくまで過去労働時間生産物として機能するのだ。しかし、減耗費分はかき氷機の投入継続の為の積立金として生産物価格に移行して回収しなければならないだけだ。

 

結論としては、最終的には、道具生産は、高度な機械も同じであるが、迂回的生産活動であり、これ自体は消費材生産活動ではないが、消費材生産を短時間化することで、現労働時間での消費材生産増をもたらすので、消費材需要の範囲での壁の問題はあるが、迂回労働時間とのトータルでは、より少ないトータル労働時間での消費材生産を可能にする。

トータルとは、迂回労働時間+現労働時間の和が、迂回労働時間を経ない場合より少なく、そのことは迂回労働時間に、更に迂回労働時間、機械生産を機械化する生産手段の高度化等により、更にトータル労働時間を削減することが可能となる、ということだ。

 

これ自体は文明であり、自然科学上の発展であるのだが、これは角度を変えて見ると現在労働の価値を高めることになり、また、高めたことにより現労働の再生産費を超える余剰価値を生むのであり、この価値は機械化を導入した生産手段によりもたらされる為、価値生産物の帰属を巡る分配時の紛争の種を蒔くことになる。

 

・結論として、労働とは仕事である。
物体に一定の力Fを加え続けて、その力の向きに距離s だけ動かしたとき、その積 Fsを、力が物体にした仕事Wという。
W=Fs 
原料を物体とすると、これを生産手段Fsで、Fの力をn時間かかってsに動かしたとするとWの仕事をした、といえる。
このWが目的生産物の必要量とすると、それにはs時間を要する仕事量だ、といえる。
Fが大きければ、sは小さくてもWが満たされる。

生産手段が人間だけなら、2人投入すればFは2倍、ならsは、半分の時間で終わる。
生産手段が人間と人間のF機能の代理機械との結合により一体化して生産手段として作用機能している。
機械を投入して人間労働のFの機能部分に付加でき、又はF以上の力の発揮が可能な機械が投入できれば更に短いsでこの生産手段で生産物がえられる。
sを短くできれば、=生産時間を短縮できれば、それで通常時間の仕事を継続できれば生産物増となる。
ただし、この増加した生産物は市場で相場で換金されれば原料増と機械稼働時間増にかかわる減耗費分の控除は必要だが、それを減じた額が労賃増として本来得られるが、資本主義システムで経営されれば、労賃は既に商品として購入されているだけで済むので、労賃増ー商品労賃=剰余価値として機械投入者の手に入る、ということだ。


これでみると、人間労働のF機能を代理する機械も人間労働を通じての生産物であるので、これ自体が労働時間価値物であり、製造コストが低い程=製造時間が短い程、また減耗費コストが低い程、またF機能が高いほど、剰余価値生産は高く得ることができる、ということである。

 

 

 

 

 

 

 

資本主義分析-4

・かき氷屋さんの資本主義

 

資本主義生産システムのエンジン、心臓部にあたる生産工程での生産手段の役割について掘り下げてみたい。

労働も生産手段ではあるが、私はこれを可変生産手段と呼ぶことにする。

しかし、問題にしたいのは不変生産手段と命名する道具、機械、固定資産、ケネーなら原前払い、即ち償却資産であり、機能を発揮すれば減耗=減価償却を生ずる、資本主義のエンジンであり、心臓部である。

 

身近な事例として、中世の架空の城下町でのかき氷屋さんの製造販売で考える。もちろんお伽話でまだなかったはずだが、事例として許されたい!(^^)

 数件のかき氷屋さんがある資本主義発生前の、手工業的な市民社会モデルに存在する、商店の1つである。市民社会は職人的な専門業者の集合体である。

パン屋、鍛冶屋、仕立て屋、居酒屋、家具屋、時計屋、大工、靴屋、帽子屋、雑貨屋、酒屋、材木屋、本屋、皆小さな稼業で自分の労働で稼ぎ、その分で生活する人たちだった。

現代の商店街をイメージしてほしい。

 

生産力、という点ではドングリの背比べ、道具程度の財産があるだけだ。やっとの生活費を稼ぐ力しかない。

かき氷屋も架空だが、ここの1つの人気業種としてあったと想定する。

人気はあったので4店舗が共存共栄していた、とする。

 

かき氷屋さんはA店以外も3店あり、皆同様の生産工程で、かき氷を製造販売していた。

 

かき氷店 A店   個人の自営

 原料は、氷塊と氷蜜とグラス、計 90円/杯。
道具は、工具であるカンナ式の削り機。

               カンナは10000円、1000杯で摩滅交換=減耗

               費は10円/杯。減耗費に研ぎ代含む。
労賃は、時給1000円で8時間労働=8000円/日

              労働は、カンナ労働で、1時間に5杯生産

              の生産力、1000÷5=200円/杯

              製造原価は、90+(10+200)=300円/杯

              ()は、原料ではなく生産手段計の意味。

              8時間で5×8=40杯/h、40×300円=12000円

              だが、(原料費90+減耗費10)×40=4000は、

              支払わねばならない12000-4000=8000円

              が日当としての労賃となる。

              これより、高い価格で売れば、この額で販  

               売する他店が売れるだけだ。

              この価格は持続再生産補償費として

              労働力放出の対価賃金と仕入れ原料と  

              カンナの減耗費として市場から回収。

 

製造工程と製造能力については、

                カンナとの結合労働で、原料氷塊を腕の前  

                後運動で削る。12分/杯の製造力。=5杯/h。

                往路は歯の当たった面で削れ、復路は戻す

                だけの作業でロス時間が生じるが、生産手

                段のうち、道具としてのカンナより、人力

                にほとんどを頼る組合せである。

 

・ここで、A店のみが、カンナ式労働による生産力に不満で、カンナの歯を4枚刃を十文字形に取付けて氷を上から押さえて回転させ、歯車で手動回転エネルギーを伝達させて削る「かき氷機」を考案し導入するとする。


歯が4枚で4倍の削り能力が往復の片道ではなく連続回転するので、4×2=8、で8倍の生産力が可能になったとする。

道具は、かき氷機、100000円で1000杯で摩滅交換=
                         減耗費=100円/杯と+90円増になる。
                         労働は、かき氷機ハンドル回転労働

                         に変化 するが、1時間に5×8=40杯の

                         生産が可能になる。

                          1000÷40=25円/杯、に175円減る。

                          製造原価は、90+100+25=215円/杯

                          で、85円/杯の製造原価減=利益増。

                        1日の生産力は、40×8=320杯×300円

                         なら、=96000円が売上に。

このうち、320×(90+100)=60800は経費で失うから、

96000-60800=35200が利益である。自営なら8000円が35200円になるのだ。ウハウハである。(^^)


市場価格は、カンナ製造での労働補償費として他の労働生産物の労働時間と等価交換されるので、300円での販売が可能になるのだ。

個別の生産費と等価での交換ではない。だからこそ剰余価値が生まれるのだ。社会の平均的生産手段での生産方式が自営システムでのカンナ生産であるなら、生産コスト回収としての300円が市場価格となる。

カンナでなく、かき氷機で作ったかどうかは取り敢えずは問題にならない。価格は市場という外部要因により決定する。

 

・では8000円の労賃をかき氷機で稼ぐのには、何時間の労働時間が必要か?

x時間とすると、8000=40×x(300-90-100)

40x=8000/110、x=8000/110/40、x=1.81818時間

より簡単には、

8000/32500×8だ。

 

半端だが、2時間弱で8000円分の労賃が得られることになる。

これは賃金分で、8時間の残りが資本家の為の労働であり、収奪されている、というのがマルクス流の資本主義の剰余価値の解釈である。

だがこの時点では、資本主義ではない。

 

残念だが資本主義では、労働者は8時間8000円の1日当たりの必要再生産費労働契約により労働市場から調達された可変生産手段である。即ち商品である。

不変生産手段である道具や機械や工場などの固定資産は労働者同様に減耗するが、この形を変えずに人間労働と同様に減耗する生産手段を誰が生産投入したのか、が問われるのだ。これが生産性に寄与するのだ。これも資本主義ではこれ自体商品なのだ。

事例の場合は、自営労働者が導入しているので、剰余価値収奪論は成立しない。

 

明らかに、かき氷機のお陰で労働時間が大幅に短縮されており、不変生産手段である固定資本型の生産手段による生産工程での労働時間の削減である。

これこそが資本主義生産システムを可能にし発展させているエンジン部の形なのだ。

 

だが、現時点では、稼ぎのいい自営業労働者の誕生の範囲であるが、この後、再生産費の1日8000円を超える部分を備蓄にするのではなく、また、自らの労働によってではなく、機械などの固定資産と同様に、労働市場から労働者を商品として雇用し結合労働させることで剰余価値生産させる、即ちお金を働かせてお金を稼ぐことを思いつき、それを実行することで資本主義生産システムは歴史的にこの架空の世界でだがスタートするのだ。

 

解説

・8時間カンナ方式の労働による生産物販売で、原料やカンナの減耗費を払った残りの8000円は8000円分の生活消費材を購入することで、生活できる、即ち

生産手段の労働力部分を再生産できるのだ。

 

これを、自営業者のまま、不変生産手段=道具をカンナからかき氷機に置き換えると、35200円の「労賃」が入る。8000円で生活できるので27200円を貯蓄できるのだ。これをタンス預金にすれば死蔵するが、これを元手に、職人的生産を、資本主義的生産様式に変えることができる。お金を働かせるのだ。

 

・自らは生産労働に参加せずとも、労働者を日給8000円で3人雇用できる。労働力=可変生産手段と機械類=不変生産手段を商品として生産資本化した生産様式を資本主義生産様式、といえる。かき氷機も3台仕入れることになる。

前貸し資本増加は信用で後払い、労賃は生ものなのでそうもいかないが、資金繰りで売上換金しながら優先支払いすれば良い。

ここでの利益は、35200×3=105600円という膨大な利益が得られる。

また、かき氷機を電動式にすれば、更に生産性が上がる。労働市場外の非正規弱者の被扶養者を低賃金で雇用できるからだ。

こうして不生産的生産様式から資本主義的生産が生まれるのだ。

 

・とはいえ、まずは上記の前提として、かき氷需要に制限がないことが条件となる。それ程に資本主義生産様式の生産力は破壊的に大きいのだ。

A店は1日40杯、他の同業者が仮に3店あったとすると総生産は160杯はあったことになる。需要枠はここまではあったのは明らかだが、潜在需要がどれほどあるのかは生産量を増やしてみないとわからない。

A店が、かき氷機導入の結果、総生産は440杯に。

320+40×3

これだけ売れるのかどうか自体が問題。

もし、需要がそれ以下なら8000円の日当が得られないA店以外の店には、3つの選択肢が残る。

8000円以下の日当で、窮乏生活に耐えるのか、

店をたたんで労働者として労働市場に登録するか、一か八か、かき氷機を導入するか、だ。

3店がこの道をそれぞれ歩んだとする。

窮乏生活は限界に達し、労働者登録することに。

労働者登録者は、A店に雇用され、後に労働者登録した人は、B店に雇用される。いずれにせよカンナ方式の店はいずれは消滅する。

総生産は320×2=640、ここまでのマーケット需要はない。従って、生産調整に入るが、当初は販売合戦で在庫をより早く吐こうとしたが、結果、値引き競争になる。更に余った在庫の換金ができない=売れないので、商品資本を貨幣資本にできないことで、ようやく生産調整に入るのである。

しかし、マーケット規模が小さければ統合される。

これについては、均衡論の研究結果が必要だ。

社会的総生産以上の総消費はない、ということであり、いずれはマーケットはグローバルボリュームにまで広がることになることで、統合ではなく A.B2社は、共栄存続をめざすのだが。

また、生産材の生産性は、総消費の枠に同様にはまる範囲でしか生産拡大はできない。

 

・カンナ方式の生産には、他の産業としてのカンナ製造の職人生産が行われていることが前提であるが、この業者の生産物が減り、かき氷機の生産を新たに要求されるので、結果的にはカンナ製造者がカンナからかき氷機製造にシフトすることになる。

かき氷機の大量生産は、かき氷需要に規定されて生産過剰になるまで生産継続する。

また、かき氷機による生産力向上は、氷塊、氷蜜、グラスのような原料生産の生産需要も高まる。

かき氷🍧産業だけの問題では済まないのだ。

原料から生産材、廃業による労働者の産出と、破壊的な影響を外部との関係でもたらす。

 

こうしてみると、神の見えざる手により、社会の総需要の枠で生産活動は合理的に発展するのだ。

資本主義生産システムは、その強大な生産力から、その動機は利潤を目的とする生産であるから、自らの強力な生産力が需要不足=生産過剰という深刻な病にいずれは悩まされることになる、ということである。

 

・かき氷は、どうしても必要な食品ではない。嗜好飲料やお菓子などの補助的な食品の類である。無ければ他の菓子や嗜好飲料で代替できる面もある。

 また、趣味や娯楽としての側面もあるので、ブームや気温、季節により需要も変化する、と考えられるが、潜在需要、マーケットボリュームを確かめるには過剰生産による販売高実績により、後付けでこれこれの需要があった、と結論づけるしかないことになる。需要もまた社会的なものであり、社会に与える影響についても検討せざるを得ないのだ。

 

・次回は、資本主義の心臓部である生産手段生産の、役割を明確にする為にも、Aかき氷店のかき氷機導入が、同業者以外に与える影響について考察したい。

 

 

 

 

 

 

 

資本主義分析-3

・ケネーの経済表範式での不生産階級労働は、

原料を労働対象物として労働力を生産手段として生産工程で労働し原料とは異なる原料加工目的生産物を作り、これを市場で貨幣と交換し、その貨幣で労賃即ち生活費即ち労働力再生産費と原料購入費を支払って生産消費が循環する、というものだ。

ここには余剰生産物を可能にする、生産性の高い生産手段との結合労働はない、とされる。

 

不生産階級でさえも、その生産に道具程度の使用はあったわけで、労働時間を短縮させることができ、道具不使用時の必要労働時間と同等の時間労働すればより生産量が増えることで、生産者個人の所得は交換市場を経てより多くを得られたわけだ。

自営業を基本とする不生産階級は、多少の豊かさを実感できたはずだが、工場生産となると余剰生産物の分配に問題を生じる。生産手段の所有者が剰余労働を期待して、その具現化としての剰余価値を目的とする生産活動を組織するのであるから資本家と労働者の階級分離が起こる必然がある。

 

・交換後の貨幣で他人の労働生産物を購入するのであるから、他人の労働時間の尺度が商品毎に交換価値として存在し、平均労働時間のその貨幣額を支払うことでの等価交換になるから、即ち労働時間同士での等価交換となるのである。

自分で必要なものを自分で生産労働する代わりに他人の労働で生産したものを平均労働時間で交換する分業生産が成立しているのであるから、生産増としての剰余価値の実現には、他の平均的な生産性との交換になる。即ちマクロがかかわるのである。

同業者が、家内制手工業での目的物生産に要する平均的労働時間での販売、貨幣=社会的労働時間単価として貨幣化される。マルクス流のタダ働き労働時間増による生産増としての理屈付けでなく、労働時間の短縮した分だけ労働者数を減らすと、剰余価値は生まれないことになる理屈付けではなく、生産手段との結合労働が、トータル製造コストとして削減され、剰余価値を、マルクス流に言うなら特殊剰余価値をもたらすことで、生産手段は高度化するのだ。生産手段は労働生産性を高めるのだ。そのことで人減らししないで所定時間働かせることで、生産増になるのは結果であって原因ではない。

ここが大きな判断の分かれ目である。

生産手段を労働者階級が握れば、時間短縮は労働者の余暇時間として現れ、生産手段の高度化は労働時間の維持につながり、生産手段を高度化できる。

社会主義国には、インセンティブが働かない、というのはこのことによる。

労働者の代表が、更なる生産性向上の為の生産手段の高度化資金を生み出すように労働時間短縮を拒否して資本主義国との競争に立ち向かわなければならないのだ。1国社会主義は成立しないのだ。全ての資本主義国が社会主義になるのが前提だが、その場合も資本主義が内部から現れるだけなのだ。

中世型の非拡大再生産社会として歴史の中で現れるものの、資本主義との競争、戦争又は戦争準備経済が現れ、双方の生産体制が歪む不幸な社会となるのだ。

本来なら、労働時間が短縮するハッピー状態を作るのが、資本主義はそれを別の目的、剰余価値生産に向け、剰余価値生産量の拡大の為に使うのだ。

 

・ここで労賃とは、生活費、労働力再生産費と述べたが、労働で放出したエネルギーの補填=食糧分と、生産手段としての労働者の減耗分の補填、即ち労働の生産手段としての固定資産的意味合いから、減耗費=世代交代食糧費の補填をしなければ再生産が維持できないことになる。労働者も寿命があり減価償却する。そして個体は消滅するのだ。

 

・道具や機械、工場施設などでの生産手段との結合労働について深めよう。

・道具は、形を変えずに生産手段として人間労働と結合機能して減耗し、労働対象物を目的生産物に変える作業をするのだが、人間労働も道具ゼロの生産手段そのものであり、道具を使うと道具使用労働に労働の形を変える。人間労働は、道具によって形を変える特殊な生産手段の1つである、と言えるのだ。

 

・道具と労働、生産手段と労働の関係を考えてみたい。

何故、どのように労働時間を短縮するのか?

 

・かき氷屋さん、を例として考えよう

 

 

資本主義分析-2

・資本主義の本質は、資本の剰余価値生産を動機とする生産様式である。

 

・資本主義生産様式は、突然現れたシステムではない。その前史は、ケネーの経済表範式モデルからその萌芽を読み取れる。まずは歴史的考察。

 

絶対主義的封建主義時代に共通する農業生産様式が、

原前払い、という農業生産性向上の為の減耗する固定資産=生産手段と農奴労働の結合による農業生産が実現していたことにより余剰生産を可能にしたことで、この体制維持を実現したのである。

これが資本主義システムの前身である。

このことは、次の3章で深めるが。

 

・この剰余生産のためには、中間消費コストである農奴の食糧消費を最低限に抑えて剰余生産物を最大化する必要がある。絶対主義支配階級の階級による利潤を目的とした生産様式だったわけだ。

 

・この剰余生産物は、農奴を労働者とする生産階級内の生産手段、即ち原前払い、即ち固定資産との結合による高度な労働により、自然の恵みを最大限引き出して生産されるので、本来なら農奴人口増加で消えるものだ。

農奴内での非生産人口を生じさせるはずだ。

剰余生産物=農奴の中での非生産者=余剰人口増による消費で消えるものだ。

 

この分を支配階級が余剰生産物として税収奪する。

すると、生産階級は、階級内では過剰人口となり、過剰人口は生産階級から放出され、自らの食糧を生産階級に頼れなくなるのだ。

支配階級人口消費食糧を超える余剰食糧分で生きられる人口が物乞い浮浪者か死か、ではなく不生産階級として支配階級の余剰生産物との交換労働により生存できる、という構造になる。

不生産階級は食糧以外の生産労働に従事して支配階級から剰余生産物の余剰物との交換労働奉仕で生活する階級であり、生産階級の固定資産減耗を補充する、即ち丸まった金属の鎌を研いだり、農業倉庫を建築したり、農道を整備したり、ということでも生計を立てられるから、支配階級がやむなく認めた生産階級内の内部留保剰余生産物にも依拠できる、という構造になる。

 

ケネーの範式モデルの才能はすごい!

農業生産力の向上は、農業技術の蓄積により生産力を上げ、農奴数は固定するので、不生産階級を増加させることになるのだ。

この不生産階級増加、が資本主義生産の主体である労働者階級を生み出すのだ。

 

上記の構造からは、支配階級には余剰生産物税収があり、税収を減らしても生産力を高める為の生産手段増強を望まないことにより、自然発生的、熟練による技術発展か、不生産階級により良い農具生産を委託するなどの長時間の積み上げで固定資産=生産手段を増加させるしかない、ある意味低成長の安定した単純再生産社会が実現する。

均衡制度といえる中世の長い時代が続くのだ。

 

支配階級に更なる税収の野心がある場合は、領地を増やして税収である剰余生産物総量を増やす、戦争による領地収奪戦が手っ取り早いのだ。

ただし戦争は勝ち負けのリスクがあり、トータルの税収が増えるわけではない。また破壊と消耗、消費拡大を前提とするギャンブル、できれば婚姻による同盟関係で現状を確保しようともしたのであるが、戦争は残念ながら工業生産技術が高まるので、戦争と平和が繰り返されながら中世の歴史が積み上げられた。

 

こうした歴史を繰り返しながらも

 ・不生産階級と呼ばれる自営業者が徐々に増える。生活のために労働し、糧を得る。市民である。

例えば鍛冶屋、大工、洋品店、パン屋、流通業者である商人、運送屋、であり、漁師、これらの周りに、乞食、売春婦、金貸し、などが支配階級の召使い達と同居する市民として都市を形成する。

これは農地を生産の場とする農奴とは別の世界であり、間接的には余剰生産物の流通により生きる人口である。

狭い場所に沢山の雑多な人口集積地ができるのだ。

この手工業者達は、生産性の向上に努めざるを得なかったが、これを実現したのが道具の開発である。

支配階級と不生産階級の増加は、需要を拡大する。この需要を支えるのは道具使用労働即ち手工業的生産であったが、このレベルでも生産性は道具により高まったし、道具の普及により、マクロでの社会的生産力も向上していた。

 

・ここに、農業生産システムの生産手段蓄積による剰余生産物作りの非農業生産部門への適用による余剰生産物を目指す生産様式が登場した。

 

家内制手工業システムから工場生産システムへの変化である。当初は不生産階級の名の示すとおり、

 原料+加工労働=価値生産物、であり価値生産物は貨幣を媒介として販売され、他の労働生産物と交換され原料代と生活費が戻る循環構造であった。

 

生産階級だけで食糧過剰生産を可能にしたのは、原前払いという固定資産形成物=生産手段が、農業生産の生産階級の労働に活用され、この農業部分だけ、部分的な資本主義生産であったことにより余剰生産されていたのだ。

この場合は、牛馬や鋤鍬や鎌や大八車や、穀物保管倉庫や水利施設、水車作りなどが考えられる。

生産労働を応援したわけだ。

 

・資本主義は、職人による手工業生産の集合体である不生産階級、即ち剰余価値不生産階級を、生産階級、即ち剰余価値生産階級に格上げする。

これを主導したのは生産階級内の借地農経営者である。借地農経営者の資本家化が労働者増と共に資本主義の構成要素であり、この結合が資本主義生産様式を作り上げたのだ。

 

・結論は、

中世の農本社会を階級社会にしたのは、農業生産力の上昇に伴い、余剰生産物を収奪する階級があっても再生産が可能になった社会が形成され、その余剰生産物の収奪に伴い、不生産階級が生産階級から過剰人口として押し出され、支配階級と生産階級の余剰生産物との交換で、非農業生産手工業者が育ち、農業生産力が更に増すにつれ、非農業生産に生産階級の生産様式が持ち込まれることで、不生産階級が非農業生産階級となり剰余生産物を作れる階級として新たな新生産階級に成長する生産性をもたらすようになる。それは原前払い=固定資産形成=生産手段増の不生産階級生産へのシステム導入である、ということだ。

ポイントは、生産手段、である。

道具から固定資産増への歴史的進歩でもある。

これを次章で深めることにする。

 

 

資本主義分析-1

マルクス表式で、資本主義生産様式では

GーWー GーWー・・・・の資本の変態により、剰余価値が蓄積されることを前回明らかにした。

 

資本主義システムは、資本家利潤を目的とすることで、社会的な総生産を担い、社会的な総消費に対応する、強い資本家動機により発展する。

 

資本家は貨幣資本を生産組成して生産活動を行う中で剰余価値を得るのだから、生産自体を自己目的化せざるを得ない。資本家間競争の社会である。

 

その為には、生産活動の継続と資本増殖率の向上、GーWーG変態の高速化が求められる為、常に可変資本の剰余価値転換を求める。また、その剰余価値も退蔵したり、自家消費したりするのではなく、より優れた生産組成=可変資本の縮小に寄与する生産手段への投資消費に向かう為、社会的な総生産に寄与せざるを得ない。

労働者は生きる為に資本家に商品として労働力を売り生産組成の原料を目的生産物に「変える者」=可変資本として機能するしかない。

資本家は労働者を雇用するより、より安価な生産手段を市場から調達する競争となり、生産手段需要は高まるので、生産手段生産競争が一方で起こる。

労働の一部を安価に代替する生産手段は、発展して次第に労働力の主流の座を奪い、労働力をより安価な生産手段の操作機能に置き換えようとする。

 

可変資本即ち原料を目的生産物に「変えるもの」の主役は人間労働から動力エネルギーを使用する機械に置き換えることにより画期的に省力化でき、この資本主義生産物が旧態の人間労働生産物市場に投げ込まれると、剰余価値の一部を失いながら低価格を実現して市場占有率を高められるし、剰余価値を蓄積できる勝者のシステムとなり、生産手段を更に高度化していく生産循環ができる。

 

一方で、職人生産者は市場の価格競争で敗退し、労働者へと身を落とすことになる。

市場では、単位あたりの生産物の価格が下がるので、消費者の側からは貨幣価値が上がる。多種類の或いは多量の商品を賃金から得られるのだ。

魔法の杖🧙‍♀️、としての前期資本主義のシステムが花開くのだが、これはいつまでもは続かないのだ。

 

 均衡的生産システムである不生産労働生産様式は、消費の為に生産活動し、生産活動分を所得として交換市場で貨幣を媒介に得て、その貨幣で他の分業生産物と交換して生活する。中世の均衡システムだ。

 

しかし、不均衡生産システムである資本主義的生産様式は、所得を機械生産として労働者から奪う、労働者依存度を減らす、蒸気機関内燃機関の動力機関に置き換えることで飛躍的に発展する。

労働者から奪った所得を資本家間競争に必要な生産手段に消費しなければ継続生産=継続剰余価値取得が資本家にも保障されない不幸なシステムでもあるのだ。

資本家間の競争により、剰余価値収奪戦が起こり、生産手段への消費戦がおこるのだから、均衡型生産物は市場から駆逐され、資本家間の生産継続の為の優先販売戦が起こるが、営業経費増であり値引き戦争となる生き残り戦となる。いずれも剰余価値は減額されるし、残存剰余価値はより高度な生産手段への消費となり投資され、上がりすぎたトータルの生産力は、遂に行き場を失う変換点を迎える。不均衡生産の行き着く先だ。

 

生産過剰、需要不足となるのだ。資本は、統合寡占化と資本家間競争を減らし、一方では持て余した生産力を消化して換金できる他の均衡市場を求める。植民地的隷属市場であり、ここも底をつくと市場争奪戦として国家を巻き込んだ戦争による再分配戦となる。

 

その時代時代でだが、初めは第一次世界大戦での市場争奪戦が、ここでは先進資本主義イギリスと後発資本主義のドイツが中軸となって破壊消耗戦を、その間にアメリカ🇺🇸が圧倒的な戦争経済で死の商人として生産力の向上を実現、終戦とともにアメリカの生産力過剰が恐慌を引き起こし、もう一方では、競争脱落したロシアは、社会主義となる。

しかし、アメリカの恐慌復興は第二次世界大戦の消費を必要とした。

この荒廃による戦後復興需要から資本主義陣営では日独敗戦復興需要国での復興資本主義が発展し、一方で社会主義運動や先進資本主義の生産物処理兼低価格原料供給地である植民地の独立運動が広がりを見せ、アメリカ🇺🇸の地位は低下し、冷戦で市場縮小を防ごうとした。世界市場に社会主義経済圏を均衡市場として残して飽和したが、アメリカは、冷戦を勝利して国際市場を拡大する。日独の所得を回収しながら。

 

冷戦終結後は、中ソの冷戦後復興需要で中国🇨🇳の生産力が増大し、その中国が投資先となり世界の工場に。そして世界的な生産過剰になっているのが現代だ。

形は時代を背負って変化しているものの、根源や本質においての進歩はない。

基本が不均衡な資本主義システムであり、生産過剰と破壊、復興の歴史を繰り返しているだけだ。

その間に科学技術が進歩し、筋肉労働の機械化から頭脳労働に代わるA Iマシンに生産手段が置き換わろうとしている。

人は、労働を通して所得を得て、所得を消費して生活して生きる。が、人の労働に所得をもたらす必要のない社会を目指して、資本の増殖を目指して進んでいるのだ。資本への所得移転を最優先で目指す社会に突き進んでいるのだ。

むき出しの生存競争、強いものが勝ち、圧倒的多数は労働者階級として、脱落しないように競争し団結できない資本支配社会に。

今まだそのプロセスから脱しきれないでいるのだ。

人が資本蓄積の為に働かされている世界のまま、であり、時には破壊を通じてこのシステムは生き延びている。

 

 

 

 

 

マルクス経済学、結論

マルクス主義経済学は、資本主義システムのモデル式として

GーW(pm+A)ーPーW'ーG'  

と表現した。

資本主義生産システムは魔力のある経済のエンジンである。ことの本質は、下部構造は農本主義、上部講構造は絶対主義的封建時代から、下部構造は資本主義、上部構造はブルジョワ民主主義に、旧態の君主制や王政を象徴形骸化しながら進行していったが、ケネーの示す不生産階級の職人生産様式が、マルクスの言う資本主義的工業生産様式に移行する変化が上部構造をも変えていったのだ。

 

資本主義は弱肉強食を地でいく抑圧と収奪の仕組みでもあり、安価な商品を大量生産しながら生産活動が剰余価値、即ち資本を生む魔法の杖でもある。

この悪魔的なシステムは、不生産階級の職人的な生産活動を駆逐していった。不生産階級的生産は均衡生産であった。長く続いた中世を支えたシステムであった。資本主義は、

「不均衡」な生産体系であるのが悪魔的なのだ。

即ち消費の為の生産ではなく、生産活動による資本蓄積、格差拡大や弱肉強食を自己目的化する為の生産である為に、最も大切な人類の生存や発展より、資本拝金主義による滅亡をもたらすエンジンでありながら、その仕組みの解析はマルクス時代の資本主義の先進国イギリスの18世紀初頭のまま基本の理論体系は放置されている。

 

第二次大戦後は、核の冷戦による2体制均衡の上に健全な前期資本主義が戦後復興として築かれた。冷戦により、資本主義は社会主義以上に福祉国家として機能することが求められ、ケインズ主義が発展を推進した。

1970年代に、戦後復興需要が終わり、ケインズ主義が機能しなくなり、新自由主義による金融資本主義に脱皮、ソ連崩壊による冷戦後は、体制グループを捨ててグローバル金融資本主義に脱皮して現在に至る。冷戦崩壊とグローバリズムにより、中国は国家資本主義に変質、こうして周回遅れの覇権主義的国家資本主義も誕生した。

資本主義エンジンは、こうして脱皮を繰り返しながら生存維持しているのに、マルクス経済学理論は18世紀イギリスと崩壊した旧社会主義のままで引き離される一方で、これから先の資本主義の脱皮や滅亡、それに代わる新たなエンジンの有無を予測することもできないでいる。

 

話を戻そう。早く現代の分析に至らねば。まずはマルクス時代の工場ミクロ的な初期資本主義の分析評価から再スタートしてみよう。

 

ここで Gは貨幣資本、Wは商品、pmは不変資本、Aは労働力商品=可変資本、Pは生産工程である。

Wは前者も後者も 商品であるが、その性格上は、前者は生産資本、後者は商品資本と呼ぶ。' は剰余価値であり、mと表現することもある。

 

マルクス主義支持者でありながら、マルクスの表式の弱点をまず洗い出したい。その理由はマルクスを現代に呼び込みたいからだ。18世紀の限界に置いてきぼりにされているのが不満なだけなのだ。

 

この表式での不思議は、生産量の増加、である。

価値量の増加とも言え、生産前と後とでは異なる、ということだ。

資本主義前でも、工業生産品は職人の手によって行われていた。その形は

 W(pm+ A)ーGーW(pm+ A)

の繰り返しなのだ。自営業者的である。原材料を労働加工して市場で貨幣と交換し、その貨幣で原料代を払い、生活消費材を得て生きる、この繰り返しである。原料は無視できる単純再生産、生活の為に働く、であり、    Wー GーW    である。

労働力商品として自ら生産活動して市場から貨幣を得て貨幣を生活必需品と交換して労働力を再生産する、ということだ。他人の労働生産物と自分の労働生産物を労働時間価値同士で交換して生存するし、生存してきたのだ。

経済学の母、フランソワ・ケネーは、この生産様式を不生産労働と呼び、この生産様式を行う労働者を不生産階級と呼んだ。剰余生産物を産めないのだ。

 

ここに、資本主義が登場する。マルクスは圧倒的な工場生産力とその生産量を、可変資本の加重労働による搾取として階級闘争による分配是正の根拠としたのだ。

 

しかし、 GーWー W'ー G'  は不払い労働の積み重ね、ということになり、Wー GーW  より劣る労働者の賃金、ということになり、この生産様式より劣後のシステムと言えるし、そもそもWーW' は不等価交換であり、等式ではない。不等価交換は続かない特殊例であり、普遍的ではないのだ。

 

 GーWー G  が繰り返される中で剰余価値mが作られることが資本主義の凄みであり、悪魔的なのだが、このmがどこから生まれるのか、が問題である。

 

貨幣資本は貨幣資本のままでは、一円たりとも増殖しない。生産資本に変換して生産活動する中で貨幣資本は増殖できるのだ。より正確には、生産物を貨幣資本に商業を通じて戻すことで剰余価値が生産できるのだ。

生産資本は、前時代の不生産階級生産同様に、原料を労働力で別の目的物として生産し貨幣資本と等価交換するのだが、原料は変化しようがないのであり、剰余価値を得たければ可変資本の削減によるしかなく、労働力商品の生産単位当たりの削減によりしかも生産物が予定通りに生産できた場合に、そう言い方を変えれば、生産組成段階で剰余価値は生産工程で内部発生するのである。

しかし、労働力を削減すれば生産量が不足となり、交換される貨幣も減るだけである。これを乗り越えるには、マルクスが誤って分類した不変資本の一部である機械使用=固定資産減耗、と機械を動かす為の動力エネルギー代、を可変資本に分類すること、が問題の本質である。

機械を導入すると、機械と動力代が付加され生産コストは更に上がるのだが、このコストを超える労働者の削減ができるなら、剰余価値はこの生産工程で発生するのだ。これが本質なのだ。

もし、剰余価値分を生産工程に原料として追加投入すれば、生産量増大となるだけのことだ。マルクスの表式はこの状態を表しているに過ぎない。

 

剰余価値を発生できない、と考えられてきた不生産労働を資本の力で剰余価値を生産できるのだ。

 労働者階級の失業分利益のAから後で述べるpm2分の経費を引いたのが剰余価値であるから、そのことさえ無視すれば、とてつもない社会発展の原動力エンジンとなる。集団的職人仕事で剰余価値が生み出せるのだ。

 

マルクスは、前期資本主義が軌道にのる前の資本主義。機械と動力エネルギーで置き換えずに、失業者や婦女子を低賃金でこき使うレベルが当たり前の初期資本主義の分析だった。

 

しかし、失業者は機械自体、エネルギー自体を生産する産業に吸収される。

資本主義発生期の機械も貧弱で動力エネルギーを石炭や薪に頼った蒸気エネルギー時代から一歩前に進めば、圧倒的な生産力を実現できる魔法の杖となることができたのだ。前期資本主義や戦後の復興型資本主義の魔力には凄みがあるのだ。

 

機械と動力エネルギーの生産工程での結合は、目的物に変えられるもの、ではなく変えるもの=労働力として機能している。人間労働の補助ではなく人間が機械労働の補助労働になることで、主従が逆転して雇用が少なくなることで、生産労働は人間労働からよりコストの低い機械労働生産に置き換えられる。人間労働は機械と動力エネルギーに駆逐されるのだ。

 

さてここで、生産物への移行価値は剰余価値分減額しているのに、貨幣資本に転換するときには、外部市場での価値、その裏には既存の生産システムが職人労働なら、その生産システムでの価値と等価?交換される。その差額が剰余価値として資本主義生産システム側に蓄積されるのだ。マルクス表式はミクロの世界であるが、交換はマクロの話である。ミクロでは完結できないから、マルクスも再生産表式等も開拓していたのだが。

 

であれば、その裏が、即ち交換相手の生産様式が全て資本主義的機械生産であるのなら、価格カルテルでも行わない限り剰余価値は生まれないか少なくとも低減していく。資本蓄積を目指して生産新規参入競争も起こり、その競争が貨幣資本への転換の速さを競うから、剰余価値低減の価格競争となる。

早い話が安売り合戦だ。これを止めるには流通を支配する独占や寡占にするか、販路を=市場を拡大するしかない。規模と生産力を拡大した結果としてより大きい市場を必要とするようになるのだ。

 

マルクスを擁護すれば、当時の工場生産は一部に機械はあるものの、圧倒的には人力であり、労働強化が基本であり、エネルギーも恐らくは蒸気機関の走りであり、小道具にしか値しかなかったはずだ。

 

話を戻す。

Pの生産工程は、原料と労働エネルギーの結合工程であり、人力エネルギーを消費するのが労働力である。これを機械と動力エネルギーに代替することで、人力を省力化するのだ。

このことをわかりやすくする為に、不変資本のうち原料をpm1、機械の減耗と動力エネルギーの合計をpm2と区分してマルクスの資本主義システム表式を変形すると、

GーW(pm1+ pm2+A)ーPーW'ーG'

とできる。

しかし、この式にも問題がある。

原材料を加工労働する生産工程を経ると、原材料と加工労働を超えた価値物が生産されることになる。

職人労働なら、フランソワ・ケネーの経済表範式での不生産階級=労働者階級の生産様式では、超えないので、単純再生産が繰り返されるだけだ。農漁業と異なり、自然力は工場生産には介在しないのだ。

 

 GーW1[(pm1+(pm2+ A2)+m]ーPーW2ー G

が正解だと思う。ここで、A2は削減後の労賃、mは勿論剰余価値である。

ただし、 元の式ならA=(pm2+ A2)+m

で、m=0、が不生産労働システム

       m>0なら資本主義生産システムである。

 

W1[(pm1+(pm2+ A)]ーPーW2

は、貨幣の商品との交換であり、できた商品を貨幣化するので、上式は大きくWとしてくくれる。

即ちGーWーGを繰り返しながら、富=剰余価値を増殖し続ける、このまま未来永劫に続けることが可能なら、資本にとってこの上ない夢の貨幣資本増産システムだし、雇用継続の生活安定なのだが、ここからは悪魔と化す。不均衡の故の悪魔への変質だ。

資本主義前期の夢が、夢だったと目覚める後期資本主義となる。必ず。

資本主義は消費需要を超えた生産の維持を必要とする、均衡を崩すシステムなのだ。需要不足=生産過剰なのだ。走り続けないと転倒するシステムなのだ。しかし資本増殖を維持する為には生産し続けたい欲求があり、労働者も、雇用継続欲求があり資本に従う。しかも剰余価値生産が可能な間は新規参入が続き市場は飽和し需要不足となる。

市場の拡大か、又は失業社会問題を伴う投資即ち金融資本の生産資本化を止めるか、既存の生産資本=固定資産を破壊して、需要水準にまで縮小して均衡ラインにするか、しかない。

平和を求めるならデフレ経済を甘んじて受けて、賃金水準を落とし失業者を増やし、赤字国債を発行しつつ過去の良好な均衡時代の備蓄を消耗しながら均衡点を探る。この場合は労働者を淘汰殺戮し労働人口減で対応するしかない。

平和に頼らなければ、外国市場の強制開拓、経済圏の拡大、戦争経済による強制的な破壊=需要作り、の方法をとる。

「不均衡」で発展したことのツケを払うのが後期資本主義時代だ。しかし、その前に、マルクスの手法とケネーの循環論で資本主義マクロを分析しよう。

次回からは資本主義分析となる。

 

マルクス主義経済学研究の結果は、方法論は正しいが、生産手段と労働の比で、生産手段のレベルが低すぎる資本主義初期の時代の制約と、過度の階級闘争への傾斜の結果として、生産手段の分類を不変資本にのみ分類することで、可変資本の低減と、その差による剰余価値の生産工程=労働と生産手段の結合での発生を正しく評価できなかったことにある。

 

 

 

 

マルクス主義経済学7

・結局のところ、ケネーの範式モデルは、自然の力=自然物の増殖力と人間にとっての有用自然物=農産物の濃縮労働生産による農産物の対人口過剰生産が安定したこの時代の経済モデルであり、定住による単純再生産を可能にした農本社会を形成したが、過剰生産であるがゆえに、支配階級の存続をも可能にした。

より正確には前にも述べた通り支配階級が強制的に生産物を収奪することが、農奴の生産性を維持した必要悪ともいえるし、同時に中間消費を減らして支配階級の為の剰余生産物を生み出す為には食い扶持減らしのための不生産階級も生み出さざるをえなかったのである。

 

一方で、原前払い=固定資産形成=内部留保も生産階級内で蓄積できており、こうして農業生産業のみに剰余生産物を可能とする初期の資本主義生産システムが形成されていた。この体制が農本主義封建制度として構築されたのだ。

 

・支配階級と不生産階級ができたのは、余剰生産物が生産階級で作り得たことの結果であるとともに、支配階級が、生産階級への分配を農奴の生存レベルと、わずかの固定資本形成以上の取得を許さなかった結果でもある。

 

・この農業の資本主義的生産力の実現こそが、ケネーの経済表範式により絶対主義的封建主義社会という安定的継続的な国体を可能にした。

農業の資本主義的生産様式の実現とは、原前払い=固定資産形成から100の資産のうち10を毎年減耗しながら50の生産物を得て、そのうち20は生産時に農奴の生存食糧等最低限の中間消費をしているわけで、30の余剰生産物がある。これが利子であり地代としてあるわけだが、形成固定資産を10減耗しているので、10を減耗分補充=固定資産形成するので、20が剰余価値、というわけだ。

 

マルクス表式  GーW(pm+A)ーPーW'ーG'

に適用すると、貨幣資本Gを捨象すると、

生産資本は、20(種籾+農奴食糧)+10の固定資産減耗であり、年間の農奴による農業生産労働と固定資産減耗の合体による生産活動工程P(但し生産活動と言っても種子の自然成長のスピードに従うしかない工程だが)を経て、50の生産物W'を得るのだ。だから資本主義的生産と言える。農奴と種もみに20を払えば30は資本家に入り、10の固定資産減耗を補充し、残20が剰余価値である。

ここで、ふと疑問が出てくる。20の剰余価値は誰の物なのか?

仮に自然の種子の増殖DNAと太陽エネルギーと水と二酸化炭素を植物の自己生産力の利用でしかないとしても、目的生産物の成長濃縮補助労働をしている農奴と固定資産減耗している生産階級内の借地農経営者、いずれにせよ生産階級内で分配されるべき生産物ではある。

ロビンソンで言えば、素潜り漁法から投網や小舟を作っての漁に進歩する中で、食べきれない魚が取れるようになった、漁業労働の直接従事時間を減少して他の労働で消費生活を充実多様化させることができるはずだ。

本来なら農奴の人口を増やして養い、彼らに増産された食糧と交換して多様化した労働によるサービスを受けられるようにしたり、同じく経営者に固定資産を増やさせたりして、更に生産力を上げる循環を作ることが可能になる。

 

 ・生産階級のものであるはずの余剰生産物20は、支配階級人口の食糧需要分だけなら、不生産階級は生まれない。このレベルは、2階級であり非食糧生産活動は、支配階級内の召使い労働の範囲と、生産階級内での=農奴の余剰人口での固定資産形成労働で非食糧労働需要が賄われることになる。

生産階級からの収奪が徹底しすぎると、生産力は増えず逆に維持すらできなくなるし、低い生産量からの収奪では、支配階級と言えども労働はしないが扶養されるレベルである。

支配階級の食糧消費需要を超えた余剰生産物が得られるようになって初めて不生産階級の食糧需要が得られる。不生産階級増は、多様化した商品生産を可能にし富国強兵も高い文化も支配階級にとって可能となる。

農業の過剰生産が、人口増を産み、不生産階級を増やすことで、生産階級の固定資産形成がより進み更に生産力が増す、拡大再生産の軌道に乗るのだ。