経済を考える8-3

WーW'変換を考察する。

貨幣資本Gは、生産資本Wに変換して商品資本W'にして、G'にする。

しかし、WーW'で価値が増殖するのだろうか?

 

GとW、G'と、W'とはマルクスは等価交換しているから

WとW'の間で価値が増殖していないと辻褄は合わない。が、サービス業は価値を実現する為の経費支出でしかなく、何も価値生産していないとするならば、マルクスのこの式では当てはまらない例外となり、しかも現代では、当てはまらない方が大きくなっていてこれが混迷の主因となっている。

例えば家政婦協会など、ほとんど人材派遣業に近く、これも規模を個人から会社組織にすると、固定資産である事務所や、機器などの小さくても資本形成ができる。Wは、労働力でしかなく何も増えてはいないのだ。

商業も個人で個店やってる範囲でも資本形成はできるが、また巨大資本になることもできるが、ここでも生産資本はPを経て商品資本にはなっていない。

何も製造はしてはいないから、産出商品が増えるのとは、また違うのではないか。資本主義は誰の目にもあきらかだが、GーWーW'-G'  は、資本主義の普遍的な表式にはなり得ない部分的な表式でしかないのではないか。

だから、ケネーの不生産階級が、生産階級になるプロセスの研究が大切だ。

とりあえず、製造業が資本蓄積する過程を見てみよう。

生産資本に貨幣を転換する場合、まず、原材料を動力エネルギーと機械を使って労働して生産する。

要は人の再生産費用と機械の固定資産減耗で、原材料を変化させた商品にする。商品の価値は

原材料、エネルギーをPm1

固定資産減耗を、Pm2

労働力をAとすると、

貨幣資本が生産資本に転換するとき、原材料とエネルギーは固定資産減耗と労働力の結合により、違う物質に変わるだけで、価値は増えも減りもしないで加工後の製品に移行するだけだ。だから製造業は

G-WーWーG  でしかないのでは?

例えば家具工場を考えよう。

原材料の木材を仕入れて、ノコギリや丸ノコ機で細かくして、カンナで削ってそれを更に部品にして、組み立てて、釘や接着剤の原料を付加してイスや机を作る。原料を多くして、労働者も多く雇えば、製品も多くできるから、高い売上としてGが回収される。がそれがなんだ、だ。もし、家具職人がほとんど自分の手と簡単な道具で全作業をやるという、職人生産が主流の生産市場であったとき、職人を一箇所に大量に集めて大工場としてやったら、何が変わるのだろうか、何も変わらないはずだ。通勤費が発生し、町工場が各地に必要なくなり、事務経費が節約されるだろうが。

ここに、機械を導入して、機械に労働の一部を肩代わりさせ、より多くの生産は可能になる。

例えば10日で100個のイスを100人の労働者が手作りでつくっていたものが、機械を導入して、1日で10人の労働者で機械化とエネルギーを原料にくわえて木材原料も多くして100個をつくれるようになったとするとどうだろう。10日で1000個を作れるようになる、だれが900個を増やしたのか、労働者なのか、だ。然も労働者は1/10に減っている。

Pmに固定資産減耗と原材料を合算したことでAと同列の価値としたことが間違いなのだ。マニュファクチュアレベルの発想だ。要はGがWになるときに、労働力を機械化で置き換えることで同じ生産力をローコストで得ることができ、それが市場がマニュファクチャ生産のコスト構造での価格でW'-G'が可能ならば、その差額が剰余価値をWに内在化させて生み出され、資本化するのだ。資本の発生はW内であり、製造後の商品からできるのではなく、機械化による労賃の削減に起因するのだ。

だから、GーW(Pm+A)、ではなく

GーW[Pm1+(Pm2+A)]ということになり、

Aが、A>固定資産減耗である機械化導入により置き換えられ、更に高速生産が可能になり、Aが極小化して、m(剰余価値)が発生する、これが資本になるのだ。もちろんA>固定資産減耗、で

Pm2+Aが可変資本なのだ。Pm2自体は減価償却上は不変資本ではあるが。

木材工場労働者は数多首になるが、固定資産の機械製造業労働者として雇用される。ここから先は、ケネーの経済表範式の応用編、マルクスの再生産表式、に発展するが。、

マルクスはマクロ的な視点を導入したものの、資本の運動自体の興味はさほど大きくはなく、この辺りで革命家マルクスの命は尽きたわけだ。

イギリスの産業革命直後の大工場を観察して資本論を書き上げたが、当時まだ主流だったマニュファクチャ、職人による不生産階級の実態から、意識はまだその分類の範囲を抜けきれなかった。

まさか労働者階級の職人生産から機械化生産の中での労賃の削減と節約の中に資本形成があるとは思いもよらず、労働者生産物からの収奪に根拠を求めたのは彼のヒューマニズムだったとしか思えない。

 

起用する労働者の節約が剰余価値、資本の源であるなら、サービス業の説明も可能になる。また、WーW'なる魔法も不要になる。

 

GーWーG  で、剰余価値はWに内在して生産されるのだ。これが正しい後継マルクス主義経済学だと思う。そしてGーWーGーWー…を繰り返しながら社会は格差を広げながら発展する。

W-GーW の労働者階級は生活費と豪奢な暮らしの為に働き、資本家階級は  GーWーG を組織編成してW段階での資本の増殖の為に働く、というわけだ。

 

 

 

 

 

経済を考える8-2

ロビンソンクルーソーの魚とりは、道具の高度化による生産性向上、即ち需要分の魚が取れる時間の短縮により彼の自由時間が拡大される。

彼の資源は個人的労働力のみなので労働時間減少が資本増加を促すからわかりやすい。

 

自由時間に道具を高度化するのに消費するか、自由な遊びで消費するかだが、前者は資本としての投資、後者は最終消費だ。

彼にとっての剰余価値は自由な労働時間の量とそこでの固定資産投資労働として現れる。

借りに、道具を高度化できたら、さらなる自由時間が後にえられるはずだ。彼の一人の暮らしには、交換に不可欠な貨幣は不要である。交換は時間と行動との交換だけだ。

 

たとえば、木の枝の先をナイフでささっと削って素潜りで魚とると、1時間で1匹の魚しかとれず1日で6匹の需要があった場合、6時間の労働でがんばったわけだが、やってられないので、

余剰時間で1時間かけて10日間で、タコ糸で漁網を作った。

網を使ってみたら1時間で3匹とれるようになった。

網が原前払い、固定資産になったわけだ。

 

彼の魚とり労働時間は、6時間から2時間に削減できたわけだ。とすると、漁網漁では、補修作業時間を無視すると、木の枝のモリでの素潜り漁の1時間で1匹から、投網漁で3匹なら、かれの労働価値は時給1匹が、時給3匹になるのだが、漁網という道具と組合わせて3匹だから、労働時間が半減したのは、漁網のおかげであり、彼の過去労働の影響だが、10日で漁網を作り直さねばならないとすると、1日で10×1/10で1労働時間の減価償却資産とともに作った成果だ。

したがって6時間労働で6匹が3時間労働で6匹になったわけだ。ここでかれの時間当たりの労働は同じ価値か、ということだ。過去労働のおかげで、3時間の剰余がでたわけだ。素潜り労働と投網労働の各々の1時間の労働は同一人がやっているが、価値が違わないと変だ。

6時間の素潜り漁労働=3時間の投網漁労働

同じ人の労働時間が異なるというのは、労働の価値が同一ではない、と見なければ辻褄が合わない。

素潜り漁労働は、投網漁労働の3/6=50%の価値しかない、ということだ。

 

ロビンソンでは、自分の過去労働だが、ケネーでは、長い農本社会の歴史ではもうすでに亡くなった祖先の労働成果物であったはずだ。この上に現在労働による余剰生産物や剰余価値生産物がある。

 

したがって、投網漁労働と投網製造の過去労働蓄積の現固定資産減耗が投網漁の原動力である。

 

では少し話を変えて、たこ糸から網を作って、市場で漁網を販売する製造業を考えてみよう。

糸は製糸業者から買入、漁網を職人のハンドメイドで完成させた場合と、パート雇用で、製造機械で完成させた場合の差は何か、ということだが、漁網を作っている原価は、誰のものが主かと言えば、現在労働者の労働で機械の過去労働の償却と、機械のエネルギー源の消費量や保守メンテナンス料だ。この場合の労働賃金は、単位時間当たりでは、同一ではない。たとえ、職人だと10時間、パートだと30分だとしても。

要は、労働が、固定資産の減耗や動力エネルギーに置き換えられると労働力の価値が下がる、ということだ。しかも、労働価値は、生産力が上がると、たとえば6時間の投網漁だと18匹取れるようになり、賃金は、1/2に下げても魚が9匹買えるわけ。

要は生産力が上がると、労賃を下げても労働力は再生産できるから、下げた労賃分が剰余価値生産となってきて、これが資本化するのではないか。

ただし、生産力の増加は、需要で止まるし、資本蓄積も率で低下する。機械化後は換金できないので恐慌の引き金を引く。

 

初めにGがあり、原料部分と固定資産減耗は生産後のGに移行する不変資本である。あとは、労賃と剰余が移行して、当初のGと交換できれば剰余価値はえられるのではないか。

交換は、尺度でしかないから、等価交換を前提にする。不等価の交換もあるし、これは強制的交換であり、長続きはしない。

マルクスは生産工程を入れて不等価交換を混ぜ込んだが、肝は生産工程の解析にあるのではないか。

生産工程で説明すると、非生産部門やサービス部門での資本形成が説明できないので、製造業労働者の理論に矮小化される弱点をもつ。

 

あとで修正する部分多いが投稿する。

 

WーW'工程の深掘りが必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

経済を考える8

いよいよ、本題?にせまりたい。

マルクス資本論の主要命題  (記号の定義は後述)

 

GーW(Pm+A)…p…W'ーG'    

 

即ち、GーWーG'   説に対置して

名付けてGーW-G仮説を8シリーズでは検討してみたい。

 

労働者は、労働力商品Wを賃金G貨幣と交換して、生産活動に参加し、得た賃金Gで生産消費材商品Wと交換して生活、再生産する。

W-GーW  

が労働者階級の図式で、蓄積即ち資本化できる剰余生産ができない働き蜂的な階級。

   現代でも消費を抑えれば貯金はできるが、それもいざの蓄え、老後の蓄え、豊かさ先送りの消費資金でしかない。貨幣が資本化するには、生産活動に資金投下しなければならないから、あと送り消費可能労働者階級でしかない。

 

 一方で資本家は、

GーW-G

貨幣資本を労働力商品含む商品に交換で変え、生産活動させて拡大貨幣資本にもどす。

しかしこれでは価値が増えないので、この交換ではあえて交換の王者的存在の貨幣を資本化するリスクをとる意味がない。だから

GーW-G′   

であることが必要。として貨幣増殖即ち資本の増殖としてマルクスは展開する。

資本としての貨幣Gを等価の商品資本と交換する、即ち不変資本Pmと可変資本Aとに交換入手して生産活動PをさせてW′なる増殖した生産後商品を得てG′価値増殖した商品を等価の貨幣資本に変える。

ここで、Aは労賃、Pmは、原材料と施設や機械等の固定資産減耗。

等価交換で、資本は形を変える。

生産工程で労働により価値が増殖される、というもの。したがって増殖は労働によって得られ、労働者階級に帰属するものと考えている。

マルクス主義経済学の根幹部分だ。

そして交換自体は価値を増やしも減らしもしないというものだ。

G-WーW'-G'

より細かく正確に表現すると、

GーW(Pm+A)…p…W′ーG′    

Pは生産工程。 

価値の増加は生産工程で作られ、交換は常に等価交換、労賃以上の生産をさせる生産工程で、生産工程前の価値が生産活動を通じて商品として現れるから商品資本として増え、その後の貨幣資本が増え、剰余価値が資本家所有所有の貨幣資本になる、というもの。

 

ケネーの範式での生産階級は、30のインプットで50のアウトプットを得る。これをマルクス資本論に当てはめると、不変資本Pmを10+5、可変資本Aを15とすると、というのは、原前払い100、の年間償却が10で、年前払い20が、種子や年間消耗する資材の原材料、と農民の食糧即ち賃金にあたる、の合計が表現されているので、それを便宜的に原材料5、と食糧15に分けてみた。Pmは10+5で15、Aも15になるわけ。

30Gー30W(15Pm+15A)…50W'-50G'

となる。30Gが、生産活動で50Gになるわけだ。

今のが剰余価値を生む生産階級だが、ちなみに不生産階級はどうなるのだろう。

10Gー10W(10Pm+10A)…[(20W'ー10A)=10W']ー10G'

になるのではないか。剰余価値分の生産増はA即ち食糧=賃金に吸収されて貨幣資本は生まれない。これは、資本家のいない生活するだけの為の自営業者的な単純再生産社会であり、没落して資本生産参加する労働者階級になるか、生産性上げて資本主義化して剰余即ち資本を生み出す資本家になるかの分岐点の幅の中に存在する将来分岐する前段階階級であると思う。現代では、社長も雇われ経営者で高級労働者でしかない。

 

話を進めると、たしかにPm+Aが生産過程に入る条件で、ここで剰余価値='  が生まれると、これまで触れて来なかった、ケネーの経済表範式ではない、もう一方のジグザグ表と呼ばれる「経済表」の意味が見えて来る。

余剰生産物が資本化して、それ自体が自己運動できて、半分の?資本を生み、またその運動が更に半分の資本を生みという現代の乗数理論そのものだ。

ケネーのジグザグで単純な図の意味が300年前の当時は本人の残されたメモとしてあり、誰もわからなかったが、100年程前のケインズの乗数理論そのものだったことがわかったようだ。資本とは何かを最も初めに理解していたケネーは天才であるが、その思考方法を理解できれば深い経済知識がえられるはずだ。

余談だが、ケネーは宮廷医になる前の学生時代、まずしくて40km?の彼方の図書館に通って何冊かの本を借り、読みながら帰ると全部読み終わって理解した、との逸話もある。好きなことは苦痛にならないようだ。

また脱線したが、要は剰余価値生産が貨幣であろうと現物であろうと、単純な消費で経済循環から外れずに、経済循環に資本化されとどまる。したがって資本の生産活動がどうなされるかを解明しなければならない。マルクスの図式に問題はないのだろうかをケネーの視点で分析したいが、直感では

GーWーG仮説だ。

資本主義の剰余(資本の前段階)を生み出すスタートは労働だが、労働だけなら単純再生産を繰り返すだけ。ロビンソンクルーソーがいくら頑張って熟練しても、手作りのモリすらなければ消費生活を繰り返すだけ。余剰時間でモリや網を生産できなければ、船を生産しなければ、魚群探知機を生産できなければ余剰時間がより多く生まれない。資本は余剰生産物が生まれて初めて形成されるし、その形成は原前払い、が拡大生産する資本を増殖する。

即ち、償却する有効な固定資産形成が資本の現象形態である。蓄積労働でもある。蓄積労働は、労働力商品そのものに分類統合され、Pmのうちの原材料とは区別されるべきではないか、が8-2での検討課題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

経済を考える7

6-9はまだ未完成で自信も少しない。税収増が不生産階級を育て科学技術も発展しそうである。100%ではないが、税金も役立ち、農業基盤整備など生産階級への依存は小さくなっていかざるを得ないようだ

が、先に行く。

 

不生産階級の利益がどう拡大して資本蓄積に至るか、要は、工場規模の生産ができる投資資金と投資原資を支える利益の源泉はどこからか、だ。

生産階級の場合、当時のフランスの農民に貯蓄がたまっていたわけではない。なのに余剰生産物があり、それは不等価交換?として支配階級に流れていた。

GーW-GのWは、固定資産減耗と協力してのW、だからWのうちの賃金部分と固定資産減耗が経費であり、固定資産減耗の回収分が賃金から引かれ、更に労働は可変資本なので、固定資産追加投資の分が賃金から差し引かれ、Gに変える、これが資本主義の本質ではないか、が仮説だ。これは8で検討したい。

 

私の根本的な疑問は、マルクス

貨幣Gー商品Wー貨幣Gダッシュ だ。

WーGーWは、労働者の単純再生産課程である。

資本家は、GーWーGの生産工程では、もともままで工程を行う意味がない、というものだ。

だからPの製造工程で価値増殖が行われ、

GーW-PーWダッシューGダッシュ

増殖価値が製造課程で付加され、労働者帰属のそれが剰余としてとして資本家に帰属され、これが投資原資となる、ということだったように思う。

だから交換課程では、価値は増殖価値しない、ということだ。ならなぜ交換に経費をかけるかというと、資本即ち貨幣資本に戻す作業しないと資本にならない単なる商品資本だ、ということだったようだ。

商業の発達や商業資本の巨大化を説明しにくい。

近代工業化の先駆けの時代、流通機構も未発達な時代の限界で普遍化しきれていない、まだ、生産力が未発達で流通機構が問題にならないほどお粗末な時代であるから、そのセクションの資本形成に至らない、丁度ケネーの不生産階級の生産階級化の萌芽の時代の限界があったからではないか。

私は、GーW-G、が正解だと思う。

もし、そうでないなら、商業や流通業、いや家政婦協会業などのサービス業という、物販製造業以外に資本主義がはまらなくなるから。

サービス業は、資本を蓄積したり、固定資産投資原資が得られないはずだが、実際には拡大再生産も固定資産投資も行われている。

これは、現代でもなおマルクス主義経済学の論争の種として生きているから。

この世に需要のある限り、需要とは、が難しいが。

 

ただ、ケネーの生産階級内で剰余生産物を得るためには、100の固定資産保有の段階に成長していて、この固定資産原資は農民への利益配分からの収奪によって蓄積していたのではないか、ということだ。スミスのように等価交換ではなかったということだ。

不等価交換が富の増殖分からではなく、労賃の権力による収奪、即ち不等価交換から得られたと考えるのがふさわしい。でないと、支配階級の収奪と同じ原理である。収奪し過ぎれば再生産が縮小するから、そのギリギリを知る能力が支配階級にはあるし、借地農経営者も同じであり、幾分かの利益は得ていたはずだ。

Wのうちの、原料は削りようがないが、見た目価値ある粗悪品で市場を、通過できれば可能だが、長続きはしないとすると、労賃の必要を超えた削減が、資本の原資となり、それは工場生産などの規模拡大で多量化できる。発展時の生産階級と不生産階級の関係が、需要とする種類の産業が流通業なり商業なり、召使い業だった、サービス業まで、需要あるところの規模拡大には常に労賃からの収奪の積み上げが行われるわけだ。従って、需要増がなければ、単純再生産になり、供給過多になれば縮小する、縮小すれば投資用の収益も減る関係にあると考えられる。ここで、需要が最も大切だが、不生産階級即ち労働者階級が増えれば、労働者階級独特の需要が大規模化する。需要は天まで届くほどあるが、賃金総額で優先順位化するしかない。賃金は限りがかるからだ。社会の生産水準が高まると、支配階級との格差はあるにしても、圧倒的には労働者が多いため、労働者にも貯蓄が可能になる。貯蓄は投資資金となり金融業者から金利をつけて投資資本として産業に再分配される。

収奪されて資本家に投資原資が集まる、というより、労働者に分配された収奪後の賃金からの貯蓄が融機関を通じて投資資金として再分配され、金利を得るわけだ。ところが、投資先がなく金が銀行に溢れているのが日本の現代だ。借入需要がないのだ。住宅需要も少子化で有り余っているのだ。

 

マルクス主義者は、普通は剰余生産物は農民のもので、支配階級を倒せば、ついでに借地農経営者もいなくなれば、少なくとも20の余剰生産物が農民に分配されて農民が豊かになれる、というようなものだろう。

しかし、その余剰生産物は10は生産階級に食糧消費されるが、10は不生産階級に消費されるものの、拡大はしないが固定資産減耗ぶんの補填として不生産階級の必要労働を導きで 、更には拡大再生産用に固定資産投資に回せる。

疲れたので後で書き換えること前提にアップする。

経済を考える6-9

ケネーの経済表範式に感激したマルクスが、資本論で再生産表式の理論に発展させたプロセスの再現になるかもですが。

範式の生産階級が、原前払100が生産資本として存在し、10年で償却するから、年前払には10が消費される。

別に20の年前払は、実は大きくは労働力を提供する農民の生活費と種子や年間に必要な消耗資材費、要は人件費と物件費にあたる。

資本は合計で30を消費するが、100も資本である。

 年度当初は、100の資産と20の費用を投じて、90の資産と50の生産物を得るが、20の翌年度の費用を取り置き、消耗した資産10を補填することで100の資産に戻して、20が純生産として残り、これを支配階級に納税するパターン。ケネーのメモには、一瞬の切断面だけでなく、経過もあったはず。

 

仮に、減税を嘆願し、支配階級に20の税を15にまけてもらえたとすると、支配階級は食糧を10のままにして、5を不生産階級からの消費財買取で我慢することになり、不生産階級は5の受注しかなく、これでは食糧不足となるため、生産階級から10の受注ではなく15の受注を受けて食料費5、仕入れ原料費10をまかなうことになる。今までは不生産階級の他階級への受注依存度は50%ずつ、だったのが支配階級25%、生産階級75%と変化する。もし、100%生産階級依存なら生産階級に組み入れられ、不生産階級は存在意義を失う。

生産階級の15の余剰部分は、拡大再生産の為の原前払即ち固定資産に補充10に5の追加が行われるか、年前払に5を投じるか、その組み合わせか、何れにせよ5は、借地農経営者により資源配分される資本増加となる。借地農経営者が内部留保して現金にしてタンス貯蓄にすれば、支配階級が細るだけになる。

105の原前払、固定資産の増加5となって翌年の生産に寄与する資本増加をやるのが一般的で、道具の拡大にあたるのが普通のはずだ。

支配階級の最終消費で消えるのは食費の10だが、いつもは、20のうちの残りの10は、不生産階級の食費というか食糧生活維持費の元手となり、不生産階級を維持することに貢献し、生産階級の10の原前払の財生産に寄与できるから意味がある。

もし、支配階級が10の食費だけで済むなら、不生産階級は年前払10で、10の原料を仕入れ、20の製造加工ができ、生産階級から20の生産物を受け取り、食費に10、翌年の前払に10を保管できて維持される。

これは既に生産階級の下請けであり、不生産階級は消滅し生産階級のみとなる。

 

現実はこの想定とは逆である。人のいい支配階級は、もともと収奪と最終消費がこの階級の存在意義であるから存在しない。増産分は慢性的な食糧不足にでもならない限り、20が、30になれば、不生産階級を増やして豪奢な暮らしを楽しむか、=最終消費、軍や徴税人を増やす。従って、不生産階級は年前払の確保から、徐々に原前払も確保できることで近代的工場経営ができる固定資産を前提とした生産階級に発展していくが、その利益の原資は支配階級からの受注による。農業生産は人の頭数を機械により置き換えながら、食糧生産は人口を超えた需要がないので、投資が細る。生産過剰となるから、輸出品に役立つ程度となる。一方で非食消費財需要に応える近代的工場生産は支配階級と拡大不生産階級の需要で広がるが、支配階級の食糧需要の相対的低下と同じく、加速した生産財生産の結果、早い時期に飽和する。消費財生産財の関係はマルクスの再生産表式を参照すればよいが、この無政府的な生産競争が、過剰生産財生産にブレーキをかけて恐慌が起こり、壊れてまた立ち直る10年周期の恐慌を繰り返したが、これを救ったのが戦争による需要増作りだったわけだ。

余談だが、今の日本は将来人口減予測から、国内投資を抑えて国外投資による投資収益が得られている為、政府による最終需要を将来の返済を前提とした国債発行にたよって将来の返済を担保に国債増発しているが、その額は1000兆円程度で、国内生産もしており、国富が3300兆円ある。

内訳は非金融資産が2800兆円、金融資産が対外債権として250兆円あり、国富の3300兆円が非金融資産の再投資ができるから、国債はここまでは安全資産であることができるはずだ。発展途上国じゃないけど、投資資金が非金融資産である工場や生産施設がないところは、対外借入、又は投資資金を受け入れて低賃金労働で競争力つくり、国内需要が乏しいので輸出で稼ぎ更に低賃金で資本蓄積する、その場合もまず自前の工場作らにゃ!だ。

だが、今の状態の日本が続き、国内需要減が続き非生産資本が償却しきると、国債外資頼りとなる。

今の私の話が正しければ、3300兆円までプラス国の資産500兆円あるから、3800兆円を超える国債になると、外資が入り、債務不履行になると、IMF世界銀行が来て、緊縮財政が強要された上に国の資産であるインフラ、例えば高速道路や空港、鉄道や上下水道などが民営化放出され外資が担保にとる。料金は外資に流れ更に経済が厳しくなる、というのがこの間の経済破綻した国の先例である。韓国も一部当てはまっているが。取り敢えず日本の経済収支は20兆円の年間黒字だから、まだまだ先のことでしかないけど。

 

 

 

 

経済を考える6-7

原前払い、年前払い、資本について考えよう。

 

ロビンソンクルーソーは、食糧の魚をとるのに泳いで、木を削ったモリでとっていたが、熟練して最低限の確保ができ、時間の余裕ができたので、網を使ったり船を作ったりしてより短時間で同量以上の魚をとることができるようになる。労働の成果として、又は目的の為の直接労働以外の有効労働が、資本財を生み、生産力を飛躍的に伸ばし、更に別の有効労働の労働時間を生み出す。これが豊かになる工程である。

 

ケネーの生産階級も、もとは不生産階級だったはずで、その時期は循環経済が成立するまで人口減となり、ある水準までそれが続くが、その時代は本来的には支配階級は存在し得ないはず。

しかし現実は支配階級がいて、人口減が加速されながら、採取経済や略奪型の戦争に依存して人口減を食い止めようとしたのではないか。そもそも食い止めようとしていたかどうか自体が疑問だが。そのような村は壊滅し、ゼロサム世界とはいえ、生き残った村が生産階級化に挑戦する権利を獲得したと考えた方が自然だ。

 

話を戻して、生産階級労働が農場の生産労働だけでなく、余剰時間で農地改良したり、開墾したり、水利環境を改善する土木工事をやったり、凶作時備蓄食糧倉庫を作ったり、そこに備蓄食糧をためたり、農機具を改良したりと原前払即ち固定資本というか、償却資産を直接にか、余剰生産物の交換の為の外部委託でか、得る。

これらは、年前払いのような生産時に失われて新たなものが生産される種もみなどの原料や、新生産物に変化させる為の労働を裏付けるエネルギー源の食糧などの中間消費資本とは区別される減価償却する資本財である。

豊作時に年前払や原前払に余剰生産物を投資しておけば、長期の生産増が期待でき、この生産増の恵みを前払に活用できるか否かがポイントとなる。

余談だが、日本は公共性、戦略性がなく、バブルでチャンスを一旦消し去ったが。

 

人間に有用な需要物を、固定資本を減耗させながら原料を商品に変える労働を賃金で労働者にやらせるのが資本主義だが、一方で経営からミクロに見れば、労賃部分を償却資産の固定資本に置き換えて生産性が上がるなら、首を切り、単純労働を人に担わせて固定資産の減耗が賃金より低いならば、置き換えることになる。一方で機械などの償却資産自体が人間労働と機械と原料で生産されるので、その人間の再生産費用を含む製造経費がローコストでなくてはならない。その機械を生み出す労働にも再生産費用が必要である。

ここで、資本とは何か、だ。資本とは、再生産循環経済を可能にし、拡大する資源であり、余剰生産物から発生する、ということだ。余剰生産物は、偶然の気候変動による豊作や、労働によって得た生産物の消費節約により捻出される。偶然はプラスもあればマイナスもあるから、熟練による労働時間の短縮による余剰労働時間の捻出か、長続きしないが苦痛伴なう労働強度を上げて時間を捻出するか、労働時間を伸ばして捻出するか、何れにせよ労働で余剰労働時間が捻出できれば、年前払や原前払が得られて加速できる。生産階級にあっては、生産道具としての償却資産としての固定資産、労働力、原材料であり、固定資産を10償却しながら、生産物を食べさせて消費しながら労働させて、種や一年分の収穫に必要で消費する(中間消費)20で、計30を中間消費して50の生産物を得ている。

資本Gが貨幣なら、一旦、商品Wにして、すなわち原材料と労賃の20と固定資産減耗10にして、50の生産物を得る。ここで気になるのは労賃と固定資産減耗、すなわち何年も使える道具と人間労働との関係性だ。

マルクスは、商品Wを可変資本Aと不変資本Pmとに分類して生産工程Pにより、Wダッシュを得るが、生産物のダッシュ部分が剰余価値であり、拡大した資本Gダッシュのダッシュ部分としている。

人間労働を機械労働に置き換えて生産性は上がるが、平く言えば、生産に直接かかわる労働者を間接的な機械生産労働者に解雇採用することで、マクロ的な社会全体としては、より生産力が上がる。

大型機械を1時間操作して得られる生産物量と、手作業だけに依存して1時間かけて得られる生産物量は自ずと異なる。パワーショベルを1時間操作するのと、シャベルで1時間穴掘り作業するのとの差だ。

労働単独とシャベルの減価償却が費用であり、投下資本Gである。大型機械の減価償却と労働が前者の費用である。労働力や原料が20という年前払に統合され、大型機械にあたる100のうちの減価償却が10として組み合わせて生産しているのがケネーの範式だ。

ここで、資本とは、年前払の原材料と労働力、原前払は生産に関わる減耗する固定資産、この総和が貨幣のかたちであろうと、商品材料の形をとろうと資本である。貨幣資本、商品資本と使い分けできるが。いづれも、起源は労働の余剰生産物により得られたものの変形である。

仮に20の年前払の構成を5の原料と15の農民の人件費、とした場合や、その逆や、原前払を20、年前払を10とした場合などの組合せを6-9で検討してみたい。

経済を考える6-8

今回は話の流れを外して、利益率の問題に踏み込んでみたい。

生産階級の利益率が高く、利益すなわち余剰生産物ができたことが、生産階級と呼ばれる所以である。

農業を主として、漁業、林業、鉱業なども範疇にふくまれるはずだ。

生産に必要な労働力の再生産、即ち食糧プラスアルファを労働力特有の60年程度で減価償却する特徴がある生産資源であることによる世代交代の分も含める再生産費、種や肥料や農業資材の投入消費分も生産過程で再準備しなければならない。勿論借地農経営者の年間の年間再生産費経費も含まれるのが、年前払の20、である。

これ以外に、10年で償却する農業倉庫や耕運機や運搬具、それに土地改良や、橋や道路の整備、場合により、何年に一回起こる凶作時の食糧備蓄などの100の資本が原前払として内部留保されている資本にあたる。そして尚、30の余剰生産物を生産供出していて、外注している固定資産減耗補充10を不生産階級に依拠して現在の生産レベルを再確保するので、20の自由消費できる余剰生産物を他階級に放出できるが、支配階級が占有して消費している構造だ。

不生産階級は、利益率は低い?、ケネーの範式段階では、労働力の再生産のみの生産性である。

その為の年前払の確保がやっと、である。しかし、労働力の再生産は確保てきているわけだから、世代交代、家などの原前払分は確保できている。要は余剰生産物を他階級に放出できる水準ではないだけ、ということだ。

ケネーはその理由を、不生産階級の仕事が、単にものを変化させるだけの仕事だから、農業のように種が何倍もの収穫農産物となることはないと考えた節がある。確かに不生産階級の仕事は生産階級と生産階級の余剰生産物を消費する支配階級の需要の為の外注サービスを自身を再生産する費用で担う仕事人召使いでしかない。

これで循環即ち単純再生産が維持されている。

拡大再生産に転換し社会経済を発展させるには、生産階級の生産力を上げることであり、この事に貢献する手段を優先順位から満たすことである。

資本の投下だが、農業生産性向上の研究により限りある資源の配分効果の優先順位がわかるが、この研究のヒトモノカネは、不生産階級同様に直接の利益を生まない投資活動でもある。開墾による平和的な生産基盤拡大、伴なう農業労働者増、肥料作り、道具の高度化、家畜エネルギー利用、などを拡大することで得られるとする。農業用道路や橋や水路の整備なども実質の農業作業時間を増やすために有効である。生産性階級は、100の資本を年間償却10として原前払として既に投入しているが、あと100を追加投入し、年間償却を20として、60以上の年間生産が得られれば成功であり、循環する。が、その為には農民増や種子増も伴うから年前払も増やさざるを得ない。この投資は生産階級の内部経済でやるなら、減税してもらった内部留保分を使うか、支配階級に流れた余剰生産物の中から、支配階級の高い知性と政治経済行政力で、不生産階級の仕事の一つとしてやらせるか、しかない。平く言えば、善政を行う価値がわかる支配階級に期待することだが、期待できるかどうかだ。王妃の欲望に沿った豪奢な消費や、支配階級の拡大再生産の為の消費や投資を極力抑えられるかだ。抑えられるだけではなく、投資資金捻出と、余剰生産物を最終消費を抑え、中間消費となる年前払増や原前払増に振り向けることになると拡大再生産として花開くはずだ。

資本といっても、年前払と原前払があるが、年前払いは単純再生産の継続に必要な資本形成条件であり、生産階級の努力で多少得られるが、原前払は投資活動なので、支配階級の原資の消費として発生するので、オーナーに当たり、黙って不生産階級に委託するのがよく、その意味では、資本の乏しい段階では民間自由市場に任せたのでは利益を直接生まないから限界があり、遅々として進まない。だから資本主義初期は、国家が関与する国家資本主義が有効だが、得てして富国より強兵に流される危険があり、これが止まらないリスクが高いから難しい。

余談だが、今の日本は投資資金を海外に持ち出し利益を上げていて、国内投資分は消費に変えている。

具体的には、老人福祉や医療、で投資分類は子供への消費含む投資、研究や教育に投資資金を振り向ける政治判断が求められるが、多数の高齢世代の票に依拠した政治が、民主主義の衆愚政治ポピュリズムに流されている諦めの時代。高齢世代の資本を現、未来への投資に振り向ける英断がもとめられているのではないか。