経済を考える8-5

ちょっとお休みして、ぶつくさ独り言。(^^)

 

不生産階級による職人作業の機械化へ置き換えによるコスト削減を通じて、剰余を得て、その剰余で一方では機械化の高度化の為の機械生産へ、もう一方では、W-Gに要する商業経費増を通じて、職人生産物価格により近いが下回る価格販売を可能にして職人生産物の置き換えが急ピッチで進む。

一方で商業にも同じ流れを促し、製造業の発展分の発展が販売する生産物と同額の販売システムまで派生成長する。不生産階級の商人が商業資本に成長する。外国生産物の輸入により、商業資本の発達は止まらない。また、製造業も生産することで剰余が得られるから、国内市場が飽和したら、実質的に国外の職人生産がなくなるまで輸出が続く。その市場がなくなると、需要が固定化して生産回転数が定常になる。この間に機械化と回転数の向上がなくなるわけだ。それは剰余が固定資産を新たには形成されないことをも意味する。剰余価値が固定資産減耗で消し飛ばされる。要は補充だけの現状維持だ。需要が減退すると、そこから更に補充も部分的になる。固定資産減耗分の補充が減るから、そのぶんの賃金削減を頭数の削減含めて存続させる段階になるはずだ。

現代経済は、ここの研究が必要かもしれない。

 

生産階級の不生産階級化が進行しだすと、資本主義のシステムが機能不全になる。現代日本はここの段階にある?

戦争などで生産需要は一時的に増え、システムが機能するが、戦争は終わる。

勝った側には過剰生産設備が残され、失業が待つ。負けた側には、激しい生産需要が起こる。トータルではゼロサムで、ある意味労働者の悲劇の優生保護が機能するだけだ。

それならいっその事、ケネーののどかな範式の時代に戻った方がいいのかも知れないが、資本主義生産が勝るがゆえに、また、市場を求めるがゆえに、世界の資本主義が成熟するまでは止まれないで進むしかない。現代日本は先頭に立っている為、部分的にこの課題に直面している。今は茹でガエル状態で次なる方策を待っている時期なのだ。

 

経済学に価値があるのなら、マルクス後継者により新たな経済学批判=(新)資本論、を完成させなければ真価はない。

人の機能の外部化のうち、筋肉消費部分が初期には外部化され、人は機械の操作人となってきたが、今は頭脳の外部化が進み、そこに資本主義が機能する活動場所ができている。その操作人となって久しい。マルクスの時代に、職人労働が、機械により児童や婦人の労働に置き換えられた。初期は劣悪で長時間労働だったが、全社会的には失業者部分に賃金が払われ、職人生産に置き換えられ、職人が減る、がトータルでは生産量拡大で職人の単独よりもマクロ的には収益性はよい。日本人は職人で、生産基地が中国に移る現代と変わらないし、世界という枠では平均すると豊かになっているはずだ。

頭脳さえも機械の操作人になった後に待っている世界とは?

自動運転で採掘して自動大型トラックで地下資源を採掘輸送、輸送はGPSで中央制御盤で監視コントロールされている映像を見たことがあるが、作業員はごくわずかしかいないとすれば、金属需要があるかぎり剰余価値が生産されるものの、他の生産方式が一掃されれば定常化する。

イノベーションがなければ、単純再生産の近代的中世、の時代が、機械化前の長い封建的中世と同じに続くのだけではないか、また、その時代は、

快適空間の創造、が新たな需要となりそうな気がする。ここに労働が発生して効率化していくのでは?とも思う、芸術やスポーツなどの娯楽ニーズなのかも知れない。人に必要性と欲望があれば不均等でも発展は続くし、そこに最大の欲望、金、名誉欲があればシステムがなんであれ、不生産階級は生まれるのではないか。ケネー当時の不生産階級はすでに生産階級になった。現代の不生産階級にその芽は🌱

芽生えてるのかもしれない。

暇な話に付き合わせて申し訳ない。(^^)