需要について-1

・ロビンソンクルーソーは単純だ。

自らの需要の内、自らの優先順に限られた睡眠時間以外の活動時間を労働時間配分して需要を満たす。

 

満たせなかった需要は、繰越すか夢と諦めるかだ。

生産性を上げて短時間生産が可能になれば、満たせなかった繰越需要分の生産活動にあてるか、余暇時間を増やすかを選択できる。

自らの労働のみが需要を満たす手段である。

労働によって満たせる需要を有効需要と呼ぶことにする。需要>労働、の関係が常に働く。

 

・集団社会では、集団構成員の個々の需要は、個々の労働で満たすか、分業と交換による社会的生産活動で満たすかだが、実際には組み合わせた方法で需要は満たされている。

 

これをマクロ的客観的に見れば、個々の需要を実現する労働時間と分業生産活動での労働時間の合計値が社会的総生産となり、社会的総需要を満たすことになる。

社会的総需要は、集団構成員個々の需要の合計値を個々の生産活動を含む社会的総生産活動で満たせる範囲で満たせるに過ぎないのであり、その意味では需要は有効需要という語で説明するのがふさわしい。

 

・個々の生産活動であり個々の需要を満たす部分は分業ではないのであり、交換を必要としない部分。

交換に時間差を伴わないので、貨幣という債権債務証書との交換も必要はない部分である。

従って、GDPの集計だけでは総生産力は貨幣換算されていない個々の生産分はカウントされていないので根本的には不十分であるといえる。

家計セクションがカウントしきれないのだ。

例えば、家庭菜園での収穫物やその労力、外食でない主婦労働による調理労働や、亭主の生活使用時間を削減しての洗濯や衣食住に関わる家事雑務の下請けで亭主の社会労働時間をより多く確保すること、を労働時間として本来ならカウントしなければならない。交換による貨幣数値を換算するだけでは、生産力は正しくはじけないのである。

 

・さて再度、需要について考察する。

需要を個々の人により、分業せずにそれぞれ生産する集合体とする分業ゼロ%、の方法もある。それは自給自足とよばれ、自給自足の共同体である社会も理論的には存在しうる。

生産力は、経験や研究活動や道具の進歩や頑張りにより拡大した先には剰余生産物が得られる。

この段階で階級が発生しうるが、これはまた後ほどに深掘りする。

100%を分業によるのは、共産主義である。私有財産を必要とせず、生産手段が社会化しているからだ。

資本主義はその経過段階であると考えられる。高度な生産段階であるが、生産手段が私有財産のままで、階級分化が存在するからだ。

資本主義の分業率は高い。それは生産性が上がることで労働時間当たりの生産物が増えるからなのだが。貨幣を使用して生産物総量が増えるから、貨幣も増やさなくてはならない。過剰生産物は域外に輸出できれば、域外の労働所得が手に入る。が、輸出できなければ過剰生産となり、生産縮小となり、資本主義生産システムは機能不全を起こす。

 

さて、需要は労働生産物により満たされるのではあるが、それはサービスであろうと物であろうと。

労働によらずに需要を満たす方法は無いのか?

他人の労働物を不等価で交換することがそれである。1つは贈与、1つは略奪である。

略奪には合法的、非合法的があり、合法的略奪は再分配目的であることが条件となる税収、非合法は犯罪としての略奪である。

それ以外に、商業流通上の希少性によるものや、優先換金の為の値引き、等もあり非対称性を伴う交換が現実には多々ある。

要は生産されたものが、利益幅以内で営業経費=中間生産中間消費を伴いつつ基本的に不等価交換される、というのが資本主義での交換様式である。商戦を伴うのだ。

 

・また、現在経済だけでなく、需要をみたすのに、過去生産の債権や将来生産の債務を利用して物やサービスを交換入手することも可能だ。

将来生産の債務をもって交換する場合は、信用のレベルにより金利が発生する。それだけだ。

現在の労働と分業生産物とが等価交換される、というのは一面の数学的標準スタイルではあるが、現実は過去の蓄積生産手段による生産力の上に、将来の生産力予測と、これに現在生産所得の階級格差分配が加わるので複雑である。

条件を固定して数学的に結論を得る近代経済学では現実の役には立たない。経済学には論理学と哲学を働かせないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義分析-8

・前章とは異なり、8店のかき氷店が当面継続し、取り敢えずA店のみでかき氷機が導入されて1日稼働して生産過剰になった状態の切片を考察してみる。

 

・A店の生産販売増による変化を考える。

カンナ式の時は、日産で考えると、

5杯/1h×労働時間8h=40杯

ここでの、対A店への原料供給は

90円×40=3600円 →  90×320=28800円

増分は、28800ー3600=25200円、

生産手段は、

10000/1000×40=400円 → 80000/1000×320=25600円

増分は、25600ー400=25200円、

労賃は8000 →  8000円、で増分はゼロ、

 

ここで、増分の合計は、25200+25200=50400円で、これは、原料採取部門と鍛冶屋生産部門への中間消費材としての支払いが発生するもの。これらの部門の労働所得として、彼らから最終消費として市場に投入される資金となる。

また、この中間消費材によりかき氷生産は

40杯→320杯に320ー40=280杯、生産増することができて、280×300円なら84000円にあたる生産物を市場に、持ち込み販売することにより得られる。

しかし、市場の交換所得増分50400円は、得られるが、84000ー50400=33600円分は、市場の購買所得の不足となり、売れない可能性がある。

市場の交換所得分が全てかき氷の消費のみを増加させることも可能性としてはあるが、他の消費材の需要に向かい、その消費材の生産増を導くのが普通だ。

 

・結論としては市場が閉鎖的市場であれば、例えば外国市場に売りつけたり、とかの可能性がなければ、ちなみにかき氷は輸出可能性のない内需商品であり、かき氷機なら輸出の可能性はあるが(^^)、生産性向上は需要不足、供給過多になりやすくなる。

 

・現実の世界なら、残りの7店のうち、1〜2店は、同じくかき氷機を導入してA店との競争になりますます需要不足となるので、より早くより多く販売することが求められる。競争社会が始まるのだ。もはやカンナ式の旧来のかき氷店の存在余地はないと言える。

 

一方で、剰余価値の多さ=33600円、から製造原価は、量産することで確保できる最大値であり、競争が同質間競争なので、この33600円は、AB両店で奪い合うことになる。原価が300円でなく195円になることで、かき氷の値段は300円から限りなく195円に引き下げられるか、市場の末端まで行き渡るように商業=営業経費、輸送経費をかけて更に値引き販売となる。

結論は値引き販売合戦での剰余価値の放出であり、商業運輸経費と関わる労働の増大である。

労働需要は、常に発生するのであり、生産物は過剰になり安価になる。自営業者は減り続け、労働者階級は増え続け、剰余価値の投資内容により発生する労働需要に吸収される。

 

労働需要は、生産材生産と原料生産に顕著となり、自営業者はその部門に労働者階級として雇用される賃金の方が、自営業による労働所得を超えることになり、労働者階級の国家に移行していく。

 

労働者の賃金所得が、労働者の生産物を消費するので、賃金所得と資本家の不労所得の合計以上の消費=生産が不能となる。富が偏在する社会にあっては、資本家消費に限界がある。デフレ生産調整社会が発生する。現代日本である。

消費も投資もできない金融資本が退蔵資本となり、経済循環を阻害するのだ。

労働者階級に、蓄財の減少とローンの負担を負わせら為に消費は低迷、生産減少、賃金低下又は非正規労働者の増加で覆い隠す、一方で法人の金融資産が増加し、非正規や老人含む低所得者への公的税支出が債務として国家に負わせられるが、その債務は退蔵金融資産に担保されていて滅亡しない社会が現れるのだ。

民間法人の投資抑制を打開するには、国による投資の拡大しかなく、将来的インフラ投資による生産増であるのだが、その意味ではコンクリートから人へ=教育研究、の投資方向への変更だけでなく、情報通信やロボット、宇宙空間の開発などを、法人税の引き上げか、国債発行による公的投資拡大で乗り切るしかない。

少なくとも担保は、企業や資本家の退蔵金融資産であり、機能させられない企業の資金を活用することである。企業も資金活用能力の欠如を階級社会であることに甘えている企業指導者の無能に支配されているのだから、国債発行で将来的な企業の退蔵金融資産を現在労働の需要に振り向けることが必要だ。

将来に禍根を残すのだが、将来を失うのは国民ではなく、現在の退蔵金融資産保持者、資本家であり法人であるのだ。何故か?それは国債担保保持者であるから。

日銀の国債買取の現在の方針は、その意味では愚策であり、資産バブルを醸成するのみで、現在経済を改善し得ない。国民が生産労働に活かされずに低賃金低消費=低生産=低賃金、の悪循環を断ち切る経済政策たり得ない。

 

飛躍したこの結論が、日本経済の低迷を打破して将来に明るさをもたらす方策であることに確信はあるが、またその経済的根拠もあるものであるが、かき氷屋の世界の発展形態から今後は個別課題として、またマクロ経済として証明しなければならない。

ピケティーのあまりにも当たり前の結論をありがたがる経済のリテラシーレベルを覚醒する必要がある。

労働者階級に、経済理論のリテラシー改革を提起する必要がある。

 

かき氷経済モデルからは、資本主義はやはり

社会の為、人の為のシステムではない。

格差拡大による、人間を商品や金の対象として貶めるある意味情けないシステムである。

しかし、人間は弱く、旧社会主義システムは人が人を支配する、更に情けないシステムとなった。

やはり、中世の自営業集団による共同社会が好ましく、人を雇って生産手段と組み合わせるのではなく、A店は、努力やアイデア私的財産として報われていいのではあるが、丁度弁護士や医師や職業による賃金差はあってよいのだが、法人格による相続税のがれは、人間集団組織運営が退廃社会を生んでいるようにも見える。組織運営論を深める必要もある。

この後はまた視点を変えてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義分析-7

 前章の「価格形成と生産手段」から、かき氷店の資本主義化を検討した。

  この章では、マクロモデルを作り、資本主義の本質に迫りたい。

世の中で、数ある産業が、農業以外は資本主義的生産が行き渡っていない時代で、職人的自営手工業市民によって分業生産されていた中世の時代を想定し、マクロモデルを検討する。

 

全てが「カンナ式生産」の、かき氷店が8店存在する国家社会をイメージする。

カンナは鍛冶屋が受注生産で、10000円の労働時間価格で生産され、1000杯で残存が0になる減価償却

減耗費10円/1杯となる。

カンナ式かき氷の労働時間は、1日8時間で、8000円

原料は、氷屋が自然界から切り出し、氷蜜やカップは市場から調達し氷屋が、氷とともに納品する。

90円/1杯が生産量に比例してかかる。

 

ここで、Aかき氷店が、カンナをかき氷機製造に変えて、生産する。

8店舗のかき氷生産で市場は飽和、受給バランスが均衡していた、とする。

かき氷機は、カンナの8倍速の生産能力を持つ

カンナの8倍の生産コスト=80000円がかかり、カンナ同様に1/1000の減耗費がかかる。=80円。

 

かき氷機をA店のみ導入すると、7店はカンナ式で継続するがジリ貧時期を経て、閉店消滅する。

当初は並存してパイを奪い合う生き残り戦が続き、複雑な構造になるが、

着地点は、

A店以外の7店は、閉店して労働者階級となると仮定する。

 

カンナ時代  8店全てがカンナ式

マクロ生産状況は、

 

90+10+1000/5=300 の製造単価で

1時間で5杯の生産力、8時間労働で、40杯生産/日

1日当たりの販売高は、

40×8店舗=320杯×300=96000円の販売で、

・労賃は、

8時間労働者が、8人=8000×8=64000円の総賃金

・原料は、

90×320=28800円

・減耗費は、

10×320=3200円、

合計は、

64000+28800+3200=96000

解説、

・かき氷屋さん産業は、カンナ労働の人件費が大半の産業であること。

・原料採取の1次産業が主体、鍛冶屋2次産業はサブの産業である。

 

これが、A店のみでかき氷機を鍛冶屋に発注し、結果、7店は紆余曲折を経て淘汰された後とする。

 

 A店  8倍速のかき氷機を導入、鍛冶屋では8店分のカンナは製造中止になり、かき氷機1台のみの生産に移行する。

A店生産力は、40/h×8=320杯を300円販売=96000

・労賃は

8000円         8人64000円から大幅に減少 1/8に。

・原料は、

90×40×8=28800円  で変わらず

・減耗費は、

80000/1000×40×8=25600円   3200円から8倍に増。

計は、8000+28800+25600=62400円

 

62400/320=195円  製造原価は105円/1杯下がった。

にもかかわらず、300円での販売を継続できるので、

300×320=96000、の販売は、市民社会のこれまで市場流通での需要による。

96000ー62400=33600円をA店が所得化できる。

解説、

・この時点では、8000円の賃金を8時間のかき氷機労働で得た上に、33600円の別所得を得た富裕な自営業主でしかない。

・8店で稼いでいた労賃から自分の労賃を減じた64000ー8000=56000は、閉店に追い込まれた7店で稼いでいた労賃であるが、そのうち33600円は、A店にかき氷機労働による8倍速の生産性向上労働で、所得移行した部分である。では56000ー33600=22400の労働所得残は、どこへ行ったのか?

 

原料は、生産数が320で同じなので変化していない。

減耗費は、

8店の時は、3200円  カンナ8つの減耗費計

A店は、かき氷機減耗費25600円、差額は22400で、かき氷機製造する鍛冶屋に22400円の労働所得増に移行したのだ。

A店以外の7人の得ていた労働所得56000円は、鍛冶屋に22400、かき氷機A店に33600として移行し、7人は失業者となるが、鍛冶屋の仕事増とかき氷店の33600円の市場での消費の為の生産活動への参加により、全てが吸収される。

 

もともと、市場は7人分の56000円の消費と交換できるかき氷以外の消費材生産労働分と交換して消費して均衡が得られていた。

この消費がA店の33600円の所得の豊かな消費増が市場に持ち込まれるので、7人のうちから、鍛冶屋に転職した2.8人=8000×2.8=22400円以外の4.2人は、33600円/8000=4.2の交換労働として、A店経営者の為の消費材生産労働に従事することになる。これは生活必需品から外れる可能性はある性格だが。

 

次に、33600円のA店の純所得の活用方法について検討してみよう。かき氷機労働は自ら8000円の労賃を算入して尚、33600円の純所得、その使途だ。

 

・贅沢浪費による勝ち組ステイタスの実感

これは、失業者7人が、かき氷機製造の2.8人の移行により、正確には4.2人が、A店の店主の贅沢浪費消費材の生産労働に移行することで労賃を得ることになる。

 

・貯蓄

これは、失業者を4.2人生み出し、これを生活保護費消費等で救済すると、A店からの法人税課税税収がなければ、国家が税収不足となり、赤字国債を発行して救済することになる。が、A店の貯蓄という形で担保はあるので、国内消化の国債の範囲である。

日本の現在の姿だ。交換能力のある貨幣を退蔵凍結しているので、将来消費の形で現在生産活動を縮小する。生活保護だけでなく、非正規や残業等に対する支払いの拒否、社会補償費の削減、等労働者は貧困化する。が、資本家企業は預貯金が溢れて投資=消費をしない。

 

・資本主義化

A店は、自営労賃8000円以外に、33600円の純所得をがあったわけで、1人失業者から雇用すると、3.2人の失業者は残るが、本人は、不労所得として33600円を得ている。これを、更に失業者から雇用してかき氷機も増やして、即ち原料生産増、鍛冶屋生産増に失業者を移転しながら生産増=不労所得増をもたらすのが普通である。

しかし、ここでは既に需要は均衡して限界になっていることを想定している。輸出=国外市場を相手にして、他国のカンナ生産かき氷屋を失業に追い込みながらの純所得の拡大を行うこともここでは除外している。

この二つが資本主義経済を発展させるのだが、そのためには、原料を生産物量増分必要とするので、安く叩ける市場の開拓=輸入の拡大も必要だ。

これを除外すると、かき氷屋以外の消費材生産業への生産手段の機械化高度化、生産材生産業界、例えば鍛冶屋の機械製造の生産手段機械化に資本の活用を図って失業者を移行雇用することで、そこから新たな純所得を得る投資活動に振り向けられるのだ。

しかし、これも一巡するとさすがに停滞する。全てが資本主義化して、生産物の需要に達して供給過剰になって均衡に戻す状態、これも現代日本の状況である。原料輸入市場、例えば石油を自国に有利に買い叩き、量を得ることが加工生産業では必要だし、国外販売市場も必要だが、戦争や紛争を避ける日本はこの道を戦後に捨てた。やむを得ない選択ではある。

 

資本主義の本質は、均衡生産システムを不均衡にして所得格差=再分配を作る、資本家サイドのシステムである。

この格差は広がる一方の経済システムなので、一方で相対的に貧困な労働者群と、金余りでこれ以上の生産拡大が社会的に困難な実需、との金融資本の需給バランスの中で、先進資本主義国は金融資本主義の性格をより色濃くすることになる。生産手段の生産=工業化による健全な実需による純所得の拡大が飽和している、資本主義的生産システムの限界に来ている末期的症状であるとも言える。

 

他人の労働権を科学技術を使って奪い、そのことで労働所得を移行して、市場からの製造原価以上の所得を獲得して、労働者の労働所得の交換の場=市場では不等価交換により、労働所得を合法的に移転する、弱肉強食的、非人道的な個人主義的なシステムなのだ。

本来なら、革新的な技術開発者に相応の対価をもたらしながら、労働時間の削減や製造原価低下分の販売価格の低下、という神に恥じない当然の社会的貢献を実現すべきであると思うが、資本家の個人所得の増加、支配権獲得による資本家所得減税、税逃れ、とグローバルに資本収益が図られ、格差は拡大し、移民が増える。

確かに旧社会主義国には、イノベーションがなく中世経済への回帰が起こった弱点はある。

共同体意識や協同組合意識が国民に生まれ、実感できる程度には格差の是正、所得の再分配の思想が普及する必要はあるかと思うが、それを支える経済システムはなく、宗教や政治に委ねられる限界があり、資本主義に、ましてや現代では金融資本主義から移行できる経済システムの登場が待たれる感がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

価格形成と生産手段

・ここに、300円のかき氷が売られている。

また、10000円のかき氷用カンナも販売されていたとする。

このかき氷もカンナも、生産費用は、原料費+加工労賃、と考えられる。この生産費用が回収されることが生産活動を継続できる条件である。

加工労賃には、労賃だけでなく道具類の減耗費も加わっている。

更により正確には、+運搬費+商業経費、で販売価格が形成される。

 

市場取引は分業による労働時間の等価交換であると考えるなら、他人の世話にならずに全部を自分で労働してカンナをも製造することは可能である。

しかし、個人が全てにおいて専門技術を使えるわけではないので、分業での社会的平均労働時間を超える労働時間を個別に投入することにならざるを得ないので、しかしながら交換は、個人的労働支出ではなく社会的平均的労働時間で交換される為、分業による方がより少ない価格で目的生産物を得ることができると考えるのが普通だ。

 

さて生産活動で、原料Aを加工生産物Bにするには、加工労働が生産工程で発揮されなければならない。

 

原料 Aをかき氷の主要原料「氷塊」で考えると、天然氷をノコギリで切り出して運び保管する労働時間計により販売価格が得られる。保管と運搬は除外して考える。

ここでは、原料は、自然から得るのでこの天然氷を切り出す作業ではゼロ、原料は無い。

ノコギリの製造時間であるが、そのノコギリの製造に関わり原料である鉄鉱石原料の採取労働時間と柄となる木材加工の労働時間と加工組立の作業時間と鉄鉱石加工労働時間が必要な単位あたりで総和されるのだが、1本のノコギリの製造に要したその労働時間分のうち、減耗費分が氷塊切り出し労働に加算された分が氷塊の商品販売価格、即ち関与労働時間換算合計表示貨幣額となるのだ。

 

カンナ使用労働は、5杯/1時間の製造能力=fなので、8時間かかって40杯を生産できる。

f=5、=時間当たりの生産能力。f×8h=40杯

f=5×8、ならf×?=40 で、?=1h

ここで、仮にf=1なら、これは素手での労働を仮定する、=道具不使用労働、のだが、f×?=40

素手なら40労働時間必要だったはずだ、との理論計算になる。これがカンナとの結合労働で、8時間に短縮された、と考えてみる。

 

ここで、カンナを8倍性能のかき氷機に変えると、

f=40とすると、カンナ労働がパワーアップして、

f×?=40となるので、?=1h

 

カンナ生産は1日8時間労働で、原料単価90円とする

5×90×8+5×?×8+8000=300円売価×40杯

5×?×8=12000ー8000ー3600=400  ?=400/40=10

カンナは10000円の製造費で、1杯のかき氷製造で1/1000を減耗するとすると、10円の減耗費がかかる。

90+10+1000/5杯=300円

1杯300円で売れば8時間労賃の8000円が得られるわけだ。

カンナの減耗費は、製品1個あたりで10円だったことになる。これで8時間生産すると40杯で、減耗費計は400円となる。

 

これを、カンナからかき氷機にすると、

fは、5から40に8倍速の製造性能になるので、40杯の製造は1時間で終わる。

8倍速のかき氷機は、カンナ10000円に対して8倍の80000円かかったとし、減耗率は1/1000でカンナと同じ材質の鉄を用いたとすると、減耗費も1杯当たりで

80000×1/1000=80円に増える。

1杯当たりの製造原価は、

90+80+8000/40×8=90+80+25=195円でできることになる。300ー195=105円/1杯の剰余価値が生まれる。

5杯/1時間できる製造能力で、1日カンナ労働すれば

90×40+10×40+8000=12000円かかり、

300円で40杯=12000円で売って、8000円の労賃が得られる。それが、

40杯/1時間できる製造能力を得たことで、労賃8000円/日で労働者を雇用してかき氷機生産させると、

90×40×8+80×40×8+8000円=

28800+25600+8000=62400の原価で

40×8×300=96000円で売れるから、

96000ー62400=33600円の利益がでる。

検算は、

(300ー195)×40×8=33600 でOK

 

減耗費は、

10000円のカンナ製造は、1日で

10000/1000×5×8=400円

これが、

80000/1000×40×8=25600円に膨れ上がり、

 

原料費は、1日で

90×5×8で、3600円が

90×5×8×8=28800円に膨れ上がる。

 

25600+28800=54400円に相当する原料と生産手段の生産増から、カンナ時代の製造費、

減耗費10×40=400

原料費90×40=3600

 

を差し引くと、純増は、

減耗費25600ー400=25200円の増

原料費は、28800ー3600=25200円の増

合わせて50400円の純増になる。この原料と減耗費分の生産手段の生産増がかき氷の製造増によりもたらされる。

それで300×(320ー40)=84000が得られる。

96000ー12000=84000だから、検算はOK

 

収支差額を考えると、

カンナ労働をかき氷機労働に変えると、

原料生産部門に、+25200

生産手段生産部門に、+25200

計+50400円の他部門追加生産労働需要増により、

生産量は、40から40×8=320に280杯の増加となるので、280×300=84000円の売上増になる。

このうち、84000ー50400=33600は剰余価値となる。何故なら、かき氷生産増のうち50400は、原料増加と高度化した生産手段製造費分=減耗費増分で支払い経費が生じるからだ。

また、50400円の追加されたかき氷製造以外の労働時間増は、かき氷製造労働時間から弾きだすのだ。

本来なら40杯/8時間の製造能力の労働時間は、8倍速320杯を得るのには増加分で320-40=280杯分の労働を削減する。280/40=7×8時間=56000円、このうち50400円は、別労働に労働者として吸収される。

 

33600は、

33600=40×8×(300-195) 

即ち生産手段の高度化による労働生産性向上による生産増と更に製造原価減の効果である。これを消費者=労働者に還元しなかったことにより、労働者階級には生存持続権を維持したままとしての実質賃金の引き上げをせずに成果物を資本家が貨幣資本化したのだ。

また、消費材生産労働時間を、生産材生産労働に振り向け、そのことによる生産増効果を実現する為に原料生産にも振り向けることになる。

 

製造原価が195円×=62400でできるものを

300円×320=96000で売れることにより、

96000-62400=33600円の労賃支払い後の剰余価値を産む。

かき氷製造以外の部門の労働時間を50400時間増やすことで、かき氷生産を日産40→320杯に、その労賃込みの原価を300円→195円にすることができるが、

ということだが、この収入増は、原価が下がったのに、カンナ製造の原価を消費者に押し付けており、

これは、消費者からの所得移転である。

 

84000円のかき氷販売増を50400円の原価費用増で済ませたことで、消費材製造部門に33600円の所得を資本家にもたらしたのだ。

その所得は、195円で300円で売れる商品を作れるようになった、資本家の勝利である。

資本主義でなければ、50400円の費用増分が回収できれば良いのだが。即ち195円での販売が可能だったのを消費者=労働者所得に還元することで、105円を他の消費材消費に向かわせることができるわけだから、全ての労働者の生活向上に向かわせることができるのだが。そのモラルの前に、他人より自分の幸福を求める普通の人間が多ければ、より正確には、他人から所得を移転させても自らが儲かりたい人々の群れであるならば、神の手により、所得は偏在していくのだ。

封建時代=農本主義社会には、単純再生産と農業資本主義による支配階級維持の黄昏の中世時代を維持する為の、宗教のイデオロギー統制は必要悪であった。

資本主義化は、この理由により、消費材生産の全てのジャンルに、また、生産材生産の全てのジャンルに、原料生産の全てのジャンルに拡大し、資本家の所得を拡大する。

拝金主義と宗教イデオロギーの摩擦が起きるのだ。しかし、経済システムが資本主義であれば、キリスト教は邪魔になるが、異教徒には金利を取ることを許すユダヤ教が金融業を発展させる。

過剰生産になると、最早資本主義生産を拡大再生産できなくなる。この段階が、金融資本主義への変質の時代であり、ユダヤの台頭を余儀なくする。

金融資本主義の時代をユダヤイデオロギーが支配し、反ユダヤの思想が対抗台頭するのだ。

 

まだ組み立てが危ういが、

結論は、

過去労働で生産手段=道具を生産するのだが、その道具の性能がx倍になれば、当然にその道具使用現労働が1/xになる。

その為、現労働時間がその分減って短時間での生産が可能になるにもかかわらず、市場調達した契約労働時間を働かせることで、無償の労働時間が発生する。

この労働時間分は、原料増と道具の減耗増を伴うので、消費材生産労働が減り、その労働分が、原料と生産材生産労働に移行するだけである。しかしながら、消費材生産性向上による原価減分を、労働者所得から収奪できるので、労働者の総所得から資本家に所得移転を生じさせる。それは、生産性向上前の価格で労働者は買い続けることになる。

 

この剰余価値獲得を目指して、市場から労働力商品として労働時間調達する仕組みが資本主義生産システムである。

労働者階級は、自らの再生産費を回収でき、資本家は投下資本以上の剰余価値生産物を得る、ウィンウィンの生産システムとなる。しかし、労働者階級は、いつまでも最低生活を維持することになるが。

 

資本主義生産システムには、道具、即ち生産手段、減耗固定資産、原前払い、との結合労働による現労働時間の短縮が得られなければならない仕組みなので、生産手段が道具との結合労働である事が前提条件であるり、また労働力を労働市場から時間で購入できる事も必要条件であることがわかる。

 また、結果は格差となる。

資本家と労働者の格差は広がる一方で、ユダヤ思想による金融資本主義時代をやがて迎えることになるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義分析-6

・かき氷屋 さんAの-4からの続きだ。

いよいよ、これまでなかった資本主義生産様式が、かき氷屋 さんAによって採用されることになる。

 

中世の市民社会モデルの手工業者と商人とからなる単純再生産交換経済を基礎とする均衡社会は、かき氷屋さん Aのかき氷機の発案と、これをカンナ製造職人即ち鍛冶屋に製造発注したことから社会経済システムは不均衡化の時代に突入するのだ。しかしこれはモデルであっても可能な、自然な進歩の結果でしかなく必然性があったのだ。

 

・復習だ。

かき氷機前の3店のかき氷店のカンナ式かき氷機使用での生産販売は、

カンナ式のカンナは、製造費が10000円で、1000杯の使用で滅失する為、10000/1000=10円の減耗費。

労賃は8000円/日必要。で時給=1000円。

カンナ労働だと、5杯/1時間が生産量。

 

90円原料費+10円減耗費+200円労賃の単価製造で、

8時間労働で40杯生産が可能。

8時間=1日で、

3600円原料費+400円減耗費+8000円人件費

=12000円の経費回収には、300円/杯で販売。

これで労賃8000円が得られて自己再生産できる。

店舗労働が継続できる。

これがケネーの不生産階級の生産活動の姿だ。

 

かき氷機投入で、

カンナ歯を4枚で回転労働にすることで、8倍の生産力を得ることが可能に。5杯×8=40杯/1時間

かき氷機製造費は、100000円、1000杯の使用で滅失するので、100000/1000=100円の減耗費を要する。

労賃は、時給1000円。

 

90円原料費+100円減耗費+25円労賃の単価製造で、8時間労働で320杯生産に。

かき氷機投入で40杯生産するには、

3600円原料費+4000円減耗費+1000円人件費

=8600円の経費、8600/40=215円

だが、1日なら8時間労働で、

5×8×8×300=96000円の売上だが、

3600×8+4000×8=60800円は、支払い経費である。

96000ー60800=35200が労賃となる。

この段階では、より豊かな市民でしかなく、消費材を豊富に購入することで、豊かな生活を楽しめる条件が得られた自営市民に格上げされた、というだけだ。

ただし、この前提は、215円の製造単価で300円で売れる場合だが、もともと、かき氷屋の維持費は、8000円/日の労賃回収であり、3店で経営していたのだからこれで成り立っていたことになる。この額での需要はあったのだから、カンナがかき氷機に変わろうと、それは買う側からの問題にはならない。

ただし、生産量が増えることで、潜在需要がなければ、上記の計算は成り立たない。

日産40杯の生産で社会的均衡を保とうとすれば、

40×90円原料費+40×100円減耗費+40×25円人件費

=3600+4000+1000=8600

300円×40杯=12000、12000ー8600=3400円/1時間

労賃は、不足だ。過剰投資だが現実は、生産スピードの早さで、他の2店に並ぶ客を引き寄せて優先販売できるのだが、すると他店は廃業するしかない。

潜在需要がなければ、結果は同じである。

仮に潜在需要がなく、他店が廃業すると、

40杯×3=120杯が総需要、

120×300ー(120×90+120×100)=13200円、の労賃は有難いが、資本主義化はできないし、廃業で2失業者となる。

しかし、鍛冶屋は、対かき氷屋には、

40×3=120×10000/1000=1200円/日、分のカンナ製造需要があったが、これが、

40×2=80×10000/1000=800円と、40×100000/1000

=4000円の合計=4800円の製造需要となり、

いずれは120×100000/1000=12000円需要になる。

すると、鍛冶屋は12000ー1200=10800円の製造需要増となるので、廃業かき氷店の1人は、鍛冶屋に転業が可能、となる。

仮に、かき氷潜在需要が十分にあれば、

40×8×100000/1000=32000円/日、2人の廃業失業者を吸収でき、更に原料増に伴う、

(320ー120)×90=1800円/日の合計で33800円の労働需要が生じる。原料増はさておき、かき氷機製造需要は、場合により、既存鍛冶屋への労働者雇用に伴う資本主義生産化も可能にする、ということだ。

 

 A店のかき氷機導入での影響は、社会的均衡を崩す悪弊を撒き散らすことになる場合もあるが、生産の高度化と労働需要の変化、場合により、かき氷機製造の資本主義生産化をもたらす可能性もある。

閉店に追い込まれ、自由市民から労働者階級になった失業者は、かき氷機製造という形で、かき氷販売に間接的に関わった仕事にシフトした、ということになるのだ。

 

・独占販売する かき氷機生産するA店、で新たな均衡で落ち着くのか?というと潜在需要との問題もあるが、同じくかき氷機を導入したC店が新規参入することもありうるのだ。

理由は、215円の製造費で300円という、或いは独占販売による独占価格を形成し、350円とかで販売する権利があったからである。

300円という価格は、カンナ製造の市民社会の自営業者の労働再生産費用としての価格であり、現在は215円の生産コストである。85円の利益を求めての新規参入の隙があるのだ。

この場合は、更なる潜在需要があれば、85円の利幅を維持するのが可能だが、潜在需要の限界による値下げ競争での販売競争による死闘となる。

ここで、新種のガソリンを燃料エネルギーとする発電機による自動かき氷機ができたり、出来た氷をセルフサービスでカップに受けてもらえば、監視作業だけで済む生産工程が得られるのだ。

こうして、労働需要自体が生産手段としての労働時間を削減する生産材生産労働へと形を変えて、生産材生産の機械化へと更に進むのである。

 

ここで、話を戻して、

かき氷屋さん Aの予期せぬ?労賃がかき氷機導入で35200円得られたが、このうち8000円は生活費だから27200円を得た。これを資本として、もう一台かき氷機を導入し、労働者を2人雇用し、2台を稼働させる資本組成とすると、

90原料+200減耗費+25円労賃=215円投資で8時間労働させて、320杯×2=640杯生産すると、54600円の剰余価値が生産できる。要は需要次第だ。

お金がお金を産み、怖いのは新規参入者と需要の限界である。

かき氷機はフル回転し消耗が激しくなるので、かき氷機生産工場にも投資枠を広げる。機械生産だ。すると、かき氷機以外でも機械生産材需要は高まるので、機械工業生産により、消費材生産業種の機械化により、またその生産に資本主義生産で応えれば

全産業が資本主義生産での生産様式となり、生産物価格は下がり、実質賃金は上がり、資本主義社会が出来上がる。チェーンストアが増えるが、人手や接客業など、機械化の及びにくい範囲を除いて資本主義生産が行き渡ると、生産材生産需要は有限であり、必ず壁に突き当たる。

貨幣資本として回収された資金に、生産材投資先が見つからず、金融資本主義が実態経済で働かなくなるのだ。

 

しかし、かき氷機導入により、確かに資本主義は芽生えることは可能であれば、それ以外の業種のどこからでも資本主義化は必然として生まれ育つ、ということはわかるのだ。

 

 

資本主義分析-5

・かき氷店の資本主義的生産様式への変化の前に、生産手段に使用される機械と人間労働について更に掘り下げてみたい。

 

例えば、人は労働を通じて、人にとっての有用物をつくりだすのだが、それは労働対象物=原料、を労働手段である道具や機械を使い人間労働と結合した生産手段化による生産工程を経て目的生産物に変化させるものだ。

1単位の原料を1単位の生産物に作り変えるのである。針金をペンチで適当な長さに切って、丸めてクリップ📎を作るというように。これを反復して量産するのだが、この作業を1台で一連の人間労働が連続的に代理機能できるように作業機を作り、人間は直接作業労働から機械操作間接作業に移行し、作業機に作業を行わせる。

 

現在の労働を(機械の作業+間接労働)に置き換える。

これは別労働又は過去労働生産物で、現労働に置き換えて現労働を減らすことでなければ、またそれも現労働を過去労働時間減耗費より減らすことでないと機械投入の意味はない。

機械自体もその目的の為に生産される目的生産物であるのだ。機械は労働力再生産の為の消費材ではない。

機械生産に労働時間を投入し過ぎれば、これまた機械が高価になることになり、投入するに値しない。

カンナ生産の場合、1単位のかき氷原料を1杯のかき氷商品にするのに、

90円原料費+10円減耗費+200円労賃=300円の単価製造で、8時間労働で40杯生産が可能。時給は1000円とする。

3600円原料費+400円減耗費+8000円人件費

=12000円の経費回収には、300円/杯で販売。

これで労賃8000円で自己再生できる。

これがケネーの不生産階級の生産活動の姿だ。

かき氷機投入で、

90円原料費+100円減耗費+25円労賃の単価製造で、8時間労働で320杯生産に。

かき氷機投入で40杯生産するには、

3600円原料費+4000円減耗費+1000円人件費

=8600円の経費、8600/40=215円

減耗費を10倍にして+3600円にして、人件費をマイナス7000円にしたこと、要は過去労働生産物で、現労働時間を短縮したことになる。

 

道具や機械などの生産材の使用価値は、生産工程に投入されることで生産手段の必要生産時間を短縮することにある。現労働時間に頼らない生産方法だ。

生産材は、過去労働時間の投入による生産物であり、その交換価値は製造時の投入労働時間である。

 

これを現生産手段に投入して、即ち過去労働時間を投入することで現労働との結合、生産手段の必要時間総体を削減することで生産手段を構成する労働生産時間を短縮するのだ。

 

投入は過去労働時間生産物であるが、現生産物に移行する価値額は減耗費換算労働時間分である為、現生産手段としては、現労働時間を短縮しつつも、減耗費労働時間分を価値移行するので、生産材の使用価値は、その機能としては減耗費以上の現労働時間削減が必要条件となることである。

 

1つの原料を1つの目的生産物に変える生産工程で、

一つ目の生産には、かき氷機は、減耗費労働分ではなくかき氷機として全過去労働時間として現人間労働と結合して作用する。

また、二つ目の生産には、減耗残として作用するのではなく元の全過去労働時間分として人間労働と結合して作用するのだ。原料やエネルギーは、そのものが生産物に全価値移行するが、人間も生産材もそのままの形が残った姿で原料の変化の為の労働支出をするのであり、1個目も2個目もn個目も同じ作用をもたらし、減耗した、償却した償却残として作用がすり減って減退したものを使用しているわけではない。人も機械も生産手段として機能するのだが、それが融合形の一体化された生産手段となっている。過去労働生産物との現労働の結合形の新たな生産手段となって機能しているのだ。

 

かき氷機の場合は、カンナ結合労働の場合より、8倍の生産スピードに新結合生産手段化するこで、現在労働時間をカンナ労働の1/8に短縮できるのだ。

かき氷機が価値として製品に移行するのは、あくまで再生産費=労働時間は換算分であり、積立金の回収であり、機能はあくまで過去労働時間生産物として機能するのだ。しかし、減耗費分はかき氷機の投入継続の為の積立金として生産物価格に移行して回収しなければならないだけだ。

 

結論としては、最終的には、道具生産は、高度な機械も同じであるが、迂回的生産活動であり、これ自体は消費材生産活動ではないが、消費材生産を短時間化することで、現労働時間での消費材生産増をもたらすので、消費材需要の範囲での壁の問題はあるが、迂回労働時間とのトータルでは、より少ないトータル労働時間での消費材生産を可能にする。

トータルとは、迂回労働時間+現労働時間の和が、迂回労働時間を経ない場合より少なく、そのことは迂回労働時間に、更に迂回労働時間、機械生産を機械化する生産手段の高度化等により、更にトータル労働時間を削減することが可能となる、ということだ。

 

これ自体は文明であり、自然科学上の発展であるのだが、これは角度を変えて見ると現在労働の価値を高めることになり、また、高めたことにより現労働の再生産費を超える余剰価値を生むのであり、この価値は機械化を導入した生産手段によりもたらされる為、価値生産物の帰属を巡る分配時の紛争の種を蒔くことになる。

 

・結論として、労働とは仕事である。
物体に一定の力Fを加え続けて、その力の向きに距離s だけ動かしたとき、その積 Fsを、力が物体にした仕事Wという。
W=Fs 
原料を物体とすると、これを生産手段Fsで、Fの力をn時間かかってsに動かしたとするとWの仕事をした、といえる。
このWが目的生産物の必要量とすると、それにはs時間を要する仕事量だ、といえる。
Fが大きければ、sは小さくてもWが満たされる。

生産手段が人間だけなら、2人投入すればFは2倍、ならsは、半分の時間で終わる。
生産手段が人間と人間のF機能の代理機械との結合により一体化して生産手段として作用機能している。
機械を投入して人間労働のFの機能部分に付加でき、又はF以上の力の発揮が可能な機械が投入できれば更に短いsでこの生産手段で生産物がえられる。
sを短くできれば、=生産時間を短縮できれば、それで通常時間の仕事を継続できれば生産物増となる。
ただし、この増加した生産物は市場で相場で換金されれば原料増と機械稼働時間増にかかわる減耗費分の控除は必要だが、それを減じた額が労賃増として本来得られるが、資本主義システムで経営されれば、労賃は既に商品として購入されているだけで済むので、労賃増ー商品労賃=剰余価値として機械投入者の手に入る、ということだ。


これでみると、人間労働のF機能を代理する機械も人間労働を通じての生産物であるので、これ自体が労働時間価値物であり、製造コストが低い程=製造時間が短い程、また減耗費コストが低い程、またF機能が高いほど、剰余価値生産は高く得ることができる、ということである。

 

 

 

 

 

 

 

資本主義分析-4

・かき氷屋さんの資本主義

 

資本主義生産システムのエンジン、心臓部にあたる生産工程での生産手段の役割について掘り下げてみたい。

労働も生産手段ではあるが、私はこれを可変生産手段と呼ぶことにする。

しかし、問題にしたいのは不変生産手段と命名する道具、機械、固定資産、ケネーなら原前払い、即ち償却資産であり、機能を発揮すれば減耗=減価償却を生ずる、資本主義のエンジンであり、心臓部である。

 

身近な事例として、中世の架空の城下町でのかき氷屋さんの製造販売で考える。もちろんお伽話でまだなかったはずだが、事例として許されたい!(^^)

 数件のかき氷屋さんがある資本主義発生前の、手工業的な市民社会モデルに存在する、商店の1つである。市民社会は職人的な専門業者の集合体である。

パン屋、鍛冶屋、仕立て屋、居酒屋、家具屋、時計屋、大工、靴屋、帽子屋、雑貨屋、酒屋、材木屋、本屋、皆小さな稼業で自分の労働で稼ぎ、その分で生活する人たちだった。

現代の商店街をイメージしてほしい。

 

生産力、という点ではドングリの背比べ、道具程度の財産があるだけだ。やっとの生活費を稼ぐ力しかない。

かき氷屋も架空だが、ここの1つの人気業種としてあったと想定する。

人気はあったので4店舗が共存共栄していた、とする。

 

かき氷屋さんはA店以外も3店あり、皆同様の生産工程で、かき氷を製造販売していた。

 

かき氷店 A店   個人の自営

 原料は、氷塊と氷蜜とグラス、計 90円/杯。
道具は、工具であるカンナ式の削り機。

               カンナは10000円、1000杯で摩滅交換=減耗

               費は10円/杯。減耗費に研ぎ代含む。
労賃は、時給1000円で8時間労働=8000円/日

              労働は、カンナ労働で、1時間に5杯生産

              の生産力、1000÷5=200円/杯

              製造原価は、90+(10+200)=300円/杯

              ()は、原料ではなく生産手段計の意味。

              8時間で5×8=40杯/h、40×300円=12000円

              だが、(原料費90+減耗費10)×40=4000は、

              支払わねばならない12000-4000=8000円

              が日当としての労賃となる。

              これより、高い価格で売れば、この額で販  

               売する他店が売れるだけだ。

              この価格は持続再生産補償費として

              労働力放出の対価賃金と仕入れ原料と  

              カンナの減耗費として市場から回収。

 

製造工程と製造能力については、

                カンナとの結合労働で、原料氷塊を腕の前  

                後運動で削る。12分/杯の製造力。=5杯/h。

                往路は歯の当たった面で削れ、復路は戻す

                だけの作業でロス時間が生じるが、生産手

                段のうち、道具としてのカンナより、人力

                にほとんどを頼る組合せである。

 

・ここで、A店のみが、カンナ式労働による生産力に不満で、カンナの歯を4枚刃を十文字形に取付けて氷を上から押さえて回転させ、歯車で手動回転エネルギーを伝達させて削る「かき氷機」を考案し導入するとする。


歯が4枚で4倍の削り能力が往復の片道ではなく連続回転するので、4×2=8、で8倍の生産力が可能になったとする。

道具は、かき氷機、100000円で1000杯で摩滅交換=
                         減耗費=100円/杯と+90円増になる。
                         労働は、かき氷機ハンドル回転労働

                         に変化 するが、1時間に5×8=40杯の

                         生産が可能になる。

                          1000÷40=25円/杯、に175円減る。

                          製造原価は、90+100+25=215円/杯

                          で、85円/杯の製造原価減=利益増。

                        1日の生産力は、40×8=320杯×300円

                         なら、=96000円が売上に。

このうち、320×(90+100)=60800は経費で失うから、

96000-60800=35200が利益である。自営なら8000円が35200円になるのだ。ウハウハである。(^^)


市場価格は、カンナ製造での労働補償費として他の労働生産物の労働時間と等価交換されるので、300円での販売が可能になるのだ。

個別の生産費と等価での交換ではない。だからこそ剰余価値が生まれるのだ。社会の平均的生産手段での生産方式が自営システムでのカンナ生産であるなら、生産コスト回収としての300円が市場価格となる。

カンナでなく、かき氷機で作ったかどうかは取り敢えずは問題にならない。価格は市場という外部要因により決定する。

 

・では8000円の労賃をかき氷機で稼ぐのには、何時間の労働時間が必要か?

x時間とすると、8000=40×x(300-90-100)

40x=8000/110、x=8000/110/40、x=1.81818時間

より簡単には、

8000/32500×8だ。

 

半端だが、2時間弱で8000円分の労賃が得られることになる。

これは賃金分で、8時間の残りが資本家の為の労働であり、収奪されている、というのがマルクス流の資本主義の剰余価値の解釈である。

だがこの時点では、資本主義ではない。

 

残念だが資本主義では、労働者は8時間8000円の1日当たりの必要再生産費労働契約により労働市場から調達された可変生産手段である。即ち商品である。

不変生産手段である道具や機械や工場などの固定資産は労働者同様に減耗するが、この形を変えずに人間労働と同様に減耗する生産手段を誰が生産投入したのか、が問われるのだ。これが生産性に寄与するのだ。これも資本主義ではこれ自体商品なのだ。

事例の場合は、自営労働者が導入しているので、剰余価値収奪論は成立しない。

 

明らかに、かき氷機のお陰で労働時間が大幅に短縮されており、不変生産手段である固定資本型の生産手段による生産工程での労働時間の削減である。

これこそが資本主義生産システムを可能にし発展させているエンジン部の形なのだ。

 

だが、現時点では、稼ぎのいい自営業労働者の誕生の範囲であるが、この後、再生産費の1日8000円を超える部分を備蓄にするのではなく、また、自らの労働によってではなく、機械などの固定資産と同様に、労働市場から労働者を商品として雇用し結合労働させることで剰余価値生産させる、即ちお金を働かせてお金を稼ぐことを思いつき、それを実行することで資本主義生産システムは歴史的にこの架空の世界でだがスタートするのだ。

 

解説

・8時間カンナ方式の労働による生産物販売で、原料やカンナの減耗費を払った残りの8000円は8000円分の生活消費材を購入することで、生活できる、即ち

生産手段の労働力部分を再生産できるのだ。

 

これを、自営業者のまま、不変生産手段=道具をカンナからかき氷機に置き換えると、35200円の「労賃」が入る。8000円で生活できるので27200円を貯蓄できるのだ。これをタンス預金にすれば死蔵するが、これを元手に、職人的生産を、資本主義的生産様式に変えることができる。お金を働かせるのだ。

 

・自らは生産労働に参加せずとも、労働者を日給8000円で3人雇用できる。労働力=可変生産手段と機械類=不変生産手段を商品として生産資本化した生産様式を資本主義生産様式、といえる。かき氷機も3台仕入れることになる。

前貸し資本増加は信用で後払い、労賃は生ものなのでそうもいかないが、資金繰りで売上換金しながら優先支払いすれば良い。

ここでの利益は、35200×3=105600円という膨大な利益が得られる。

また、かき氷機を電動式にすれば、更に生産性が上がる。労働市場外の非正規弱者の被扶養者を低賃金で雇用できるからだ。

こうして不生産的生産様式から資本主義的生産が生まれるのだ。

 

・とはいえ、まずは上記の前提として、かき氷需要に制限がないことが条件となる。それ程に資本主義生産様式の生産力は破壊的に大きいのだ。

A店は1日40杯、他の同業者が仮に3店あったとすると総生産は160杯はあったことになる。需要枠はここまではあったのは明らかだが、潜在需要がどれほどあるのかは生産量を増やしてみないとわからない。

A店が、かき氷機導入の結果、総生産は440杯に。

320+40×3

これだけ売れるのかどうか自体が問題。

もし、需要がそれ以下なら8000円の日当が得られないA店以外の店には、3つの選択肢が残る。

8000円以下の日当で、窮乏生活に耐えるのか、

店をたたんで労働者として労働市場に登録するか、一か八か、かき氷機を導入するか、だ。

3店がこの道をそれぞれ歩んだとする。

窮乏生活は限界に達し、労働者登録することに。

労働者登録者は、A店に雇用され、後に労働者登録した人は、B店に雇用される。いずれにせよカンナ方式の店はいずれは消滅する。

総生産は320×2=640、ここまでのマーケット需要はない。従って、生産調整に入るが、当初は販売合戦で在庫をより早く吐こうとしたが、結果、値引き競争になる。更に余った在庫の換金ができない=売れないので、商品資本を貨幣資本にできないことで、ようやく生産調整に入るのである。

しかし、マーケット規模が小さければ統合される。

これについては、均衡論の研究結果が必要だ。

社会的総生産以上の総消費はない、ということであり、いずれはマーケットはグローバルボリュームにまで広がることになることで、統合ではなく A.B2社は、共栄存続をめざすのだが。

また、生産材の生産性は、総消費の枠に同様にはまる範囲でしか生産拡大はできない。

 

・カンナ方式の生産には、他の産業としてのカンナ製造の職人生産が行われていることが前提であるが、この業者の生産物が減り、かき氷機の生産を新たに要求されるので、結果的にはカンナ製造者がカンナからかき氷機製造にシフトすることになる。

かき氷機の大量生産は、かき氷需要に規定されて生産過剰になるまで生産継続する。

また、かき氷機による生産力向上は、氷塊、氷蜜、グラスのような原料生産の生産需要も高まる。

かき氷🍧産業だけの問題では済まないのだ。

原料から生産材、廃業による労働者の産出と、破壊的な影響を外部との関係でもたらす。

 

こうしてみると、神の見えざる手により、社会の総需要の枠で生産活動は合理的に発展するのだ。

資本主義生産システムは、その強大な生産力から、その動機は利潤を目的とする生産であるから、自らの強力な生産力が需要不足=生産過剰という深刻な病にいずれは悩まされることになる、ということである。

 

・かき氷は、どうしても必要な食品ではない。嗜好飲料やお菓子などの補助的な食品の類である。無ければ他の菓子や嗜好飲料で代替できる面もある。

 また、趣味や娯楽としての側面もあるので、ブームや気温、季節により需要も変化する、と考えられるが、潜在需要、マーケットボリュームを確かめるには過剰生産による販売高実績により、後付けでこれこれの需要があった、と結論づけるしかないことになる。需要もまた社会的なものであり、社会に与える影響についても検討せざるを得ないのだ。

 

・次回は、資本主義の心臓部である生産手段生産の、役割を明確にする為にも、Aかき氷店のかき氷機導入が、同業者以外に与える影響について考察したい。