経済を考える9-4

グローバル経済を考えてみる。

 

結局のところ、先進国には剰余価値が余って、国内投資が最早効率的にできなくなっている。合理化できる労働力に変わるもの、がITの発展ののちに見えないからだ。多分ないだろう。

日本は国内市場が飽和していて、需要不足、生産力過多なのだ。不効率なセクターを外注するだけになっているかも。

デフレ経済では、その能力の故に世界の先頭を走っている。

 

労働を機械化で置き換え、労賃の節約分が剰余価値だとこの間の検討でわかった。その剰余価値は、機械やエネルギーの生産需要に投資され、節約された労働がこの生産部門に移行できるから、資本主義が国家の中で発展性をもち、システムの優位性が維持されてきた。

これが国内投資に向かわないとなると、国内労働者は削られ損になる。しかし、世界全体としては雇用が広がり、資本主義生産が拡大再生産されるから、原前払いも他国で蓄積されるだけの話だ。それを国内に戻して活用されれば良いが、普通は他国で再投資されて競争力をつける。

 

よく考えてみよう。機械化で剰余価値が生まれたのだ。機械化とは蓄積された剰余価値の具現化された資産であり国富でもある。これがなければ剰余価値を生むだけの生産力は得られなかったのだ。

この剰余価値を国外に移転すると、国内生産労働は拡大を停止しつつ、国外生産の方が高度な機械化装備で雇う人数も少なく単価も安いからこの流れは止まらない。

拡大の停止というのは減耗分は補填することだ。しかし、日本における高度成長期は、数字を見てモデル化してみると、固定資産減耗80に対して投資が130兆円だったりしたから、資金需要が起きて、金利も高くて6とか8%だったりしたわけだ。主には国民の預貯金を部分担保に銀行が金利を得るために信用創造貸し、即ち貨幣を創造したわけだ。日本の金融業は、金融庁護送船団方式に支えられて高度成長に成長しただけだから、何のノウハウもない、

昨今は100兆円の減耗に対して80兆円の固定資産投資にとどまる状況で逆転している。そう、20兆円は差引で正味として国外投資に出ているわけだ。これが累積して世界最大の債権国になった。ということは、生産も停止ではなく、国内生産を減らしながら、国外生産をそれ以上に増やしているわけだ。

 

だから国内総生産は上がらずに国民総所得は上がり、それは資本家層即ち法人企業の法人所得となるが、国外投資に利用される為、国富が減り、多国籍企業としての海外固定資産が増えていて、トータルでは増えている、という構造が常態化している。三面等価理論が成立しなくなる構造だ。

 

国外で剰余価値生産はより多く生産されるから資本家は困らない。その国外剰余価値も国外での再投資により高度な機械化も、国外で進めた方が剰余価値を生むから、製造業は国外で拡大再生産循環に入り、国内労働者だけで見ると総所得は減り、単価が下がった輸入品が無関税で入るから、購入するだけの消費者となるが、所得減はそれを超える。

せいぜい、内需として残る三次産業、運輸や商業、金融セクターでの労働に縛られる。極論すれば、一二次産業の就業者減による国内所得減で、少し安い輸入品が入ることになる。トータルでは、先進国では仕事が減るから生活は苦しくなる。もし、途上国に移動した資金での労賃相場が、国内より高くなれば、国内に工場が戻ることになる。

いわゆる先進国病が日本の現状なのだ。

 

資金の移動で工場を国外に移動するなら、労働者も工場のある国に移動する。ただし、より貧しい国からの労働者移動であり、移民問題が発生する。

例えば日本で仕事ない場合なら、中国で1/3の給料を求めて労働移動すれば、所得が得られ、中国で消費すれば、何とか暮らせるのだ。だがその流れは主流にはならない。

だからグローバリズムは、先進国の高度な教育を必要とする水準での労働力再生産が国内では需要が少なくなるから、先進国の労働者階級にとっては不利益を被るが、発展途上国にとっては仕事が得られ、トータルでは労働者階級にとっても良いが、深刻なのは先進国の労働者階級だ。

 

日本の場合は、周回遅れでグローバル推進もやむを得ないとする論調が強い。だから、これから実質化して日本のトランプが現れる。

国内の雇用の情勢では、少子化団塊世代のリタイアによる生産人口減が激しく、移民を受け入れないで、雇用形態の階層別多様化、正規、アルバイトの間に非正規の、契約社員や派遣などの導入でしのげているが、平均的労賃は低下するから、少しの正規、過半数の非正規となる。

日本は労働者階級を高度労働者を限定的にしか雇わない、平均的な労働者には過酷なシステムとなる。

 

先進国は、すでに経験していて、結果は半数近い国民に反自由貿易、反移民が支持されているのはその結果である。グローバル的自由経済より、国による法治規制国家の復活、移民排斥となり、今がある。

しかし、社会主義国家群が崩壊した現在、もうこの流れは不可逆であり、壊れた経済基盤を政治権力では立て直せない。せいぜい浮浪者的移民を国内に呼び込み、中国的生産価格と労賃を機械化の上に乗せることなのだが、それは中国がその手の生産システムを放棄した場合に限られるか、中国生産物の価格牽制の為に導入されるから、グローバル化の納得を国民で再認識する単なる過程を経験すんことになるだろう。

 

自由貿易経済圏内に1つの政府を選挙で選ぶことしか解決の道はなく、国別に主権があると自由貿易にはならない。この矛盾を抱えながら、国際分業が進む。

日本の位置は、金融セクターは、アジアならシンガポールであり、上海、であり。

欧米ならイギリスシティであり、アメリカウォール街である。

このセクターは、W生産資本の組成の設計を司る戦略司令部なので、補充の意味のわからない日本には不向きで、アジアでも華僑系、米英はユダヤ系である。

日本は、第二次産業剰余価値を生み出す為の高度な機械の生産材生産のセクターが、優位。トヨタなどの凄さもあるが、国内での車需要もないし。いずれ生産業に優位性は限定される。

日本は、高度な生産材生産のセクターをドイツと取り合う関係になるだろう。二国とも製造技術者としては優秀だが、ドイツは、サービス残業によりかかるいい加減さがないぶん日本より上で、それは技術者ではなく生産管理部門の優位性でしかないが。

生産労働力は、アフリカ、中南米、アジアから供給される。

こうして世界グローバル資本主義が回転するが、アメリカは、ITと軍事力を併せ持つ為に圧倒的に優位に立っていて、グローバリズムはアメリカ支配圏の確立、の過程であり、アメリカの支配スタンダードの確立過程である。トランプ後に逆説に存在領域がないことを確認した後に加速しそうだ。

 

現代資本主義は、アメリカの崩壊によってしか変わることはない。アメリカのルールとしてのアメリカ製資本主義でしかないから。その後が、中世のような、不生産階級だらけで、それを宗教的に合理化する社会経済となるのか否か、はわからない。アメリカの後で権力と知力を握る人や組織が、国の形をとろうと取るまいと、アメリカを倒せるレベルが登場した時に新しい、資本主義に変わる仕組みが登場するかのうせいがある、ような気がする。

現代資本主義システムは、アメリカの資本主義システムルールでしかない、アメリカの後は、〇〇型資本主義システムかも知れないし、資本主義でないシステムが育つのかも知れない。

 

 

経済を考える9-3

剰余価値生産の分類パターンを考えてみる。

 

第一次産業

自然に直接働きかけて有用物にする労働なので、

原材料はないか、ないに等しい。原料調達部門だから。Pmを自然から選択的に得る仕事である。

農業の場合は種子がそれだが、種子に労働を加えて産物を作るのではなく、自然の力の利用と制約を受けて選択的に原料を得る重労働である。

水産業も、強いて言えばエサ、鉱業はない。

要は、原料自体を取り込む活動なので、その活動は、人の筋肉労働か、それを代替する機械化労働となるのが特長である。機械化の効果は大きいが、レベルを考えなければ誰でもできるから、人件費を超えての機械化は経済面でのハードルは高い。

 

第二次産業

いわゆる製造業であり、Aという原材料をBという有用物に変える産業で、原料を別なものに変化させるので、原料のウエイトは大きく、それを労働と機械化労働による。原料以上の生産物はできない。不可価値業種なので機械化を進めやすく、進めるほど剰余価値生産できるが、すなわち生産量を上げられるが、需要を満たすと規模が縮小するため、需要との戦いとなる。

 

第三次産業

第二次産業で変えられた有用物を、貨幣など資本に変える活動を担う産業で、第一次第二次産業の活動を継続させる活動であり、筋肉労働のウエイトは運輸除き小さくて、知的頭脳労働によるところがより大きい産業。ここの労働は、知的労働の代替として、ITの発達により労働が合理化されやすい。

 

第四次産業はあるのだろうか?機能としては、三次産業が、一次二次の再生産用の為の活動になるので、それ三次産業以上は存在意義がない。

あえて言えば、支配階級か、生活保護者のように生産産業に帰属しない消費のみを担う階級の増加だろう。生産に加わってないので所得は発生せず、収奪するだけの一方通行だが、その範囲で消費はするので、生産活動にはその範囲で寄与する。所得は収奪によるもので、収奪される側の消費を減らして、ゼロサムとなる。

日本の高齢者の場合もこの対象となるが、生産活動中に蓄えられた所得の範囲内で支出が済めば問題はない。

生産力が各産業で増大すると、この階層に富の一部が分配されることにならざるを得ないのではないか。日本の場合でも、支配階級が大きくなっている。

 

本題は、

第一次産業は、

GーW(Pm+A)変換で、

Pmはゼロ、むき出しの労働力なので、機械化により生産性効果を上げる要素が強い産業である。需要は、一次生産物の現物としての最終消費需要と、二次産業用の加工原料となる中間消費材需要との合計となる。

機械化が極度に進むと、丁度チリの銅山の採掘作業のように、大型掘削機と大型パワーシャベルとGPS制御での無人大型トラックで採掘輸送すると、中央制御盤を監視して生産量をコントロールするごく少数の労働力の使用に限定される。このスタイルに向かい行き着くと、ここには所得発生は、剰余価値を取得する経営者に限りなく限定されていく。

 

第二次産業は、Pmとしての投入原材料を有用物に変化させる活動なので、原材料のウエイトは大きい。また、変えるエネルギーを有効な機械化作業に移行すると剰余価値生産ができるから、ここでも機械化により、人間の労働力は減り、労働所得も減る。

主にはプラント作成する初期の労働力が必要で、生産は機械が行うようになる。

こうして機械化による労働力の置き換えが進むから賃金所得は減る。この置き換えも第一次産業と同様に、人の筋肉による作業部分の置き換えが中心である。

 

第三次産業は、一次二次の生産物を換金して再生産

生産活動を可能にする作業で、ここにも機械化の波は押し寄せることで剰余価値を生む。マルクス時代ではなかった世界だ。三次産業の機械化には、大型の輸送運搬用の自動車や商業施設などのハード部分の機械化と同時に、換金作業に伴うコンピータなどの事務用機器も導入され、ホワイトカラー層が中間層だった時代が、過去のものになりつつあるのが現代。

ここでの原材料は、商品であり、輸送と商業が労働力を使って行われ、機械化合理化により剰余価値を算出しながら、貨幣資本に等価交換する。AをBに変える加工作業ではなく、生産物を資本に変える機能を果たす。この産業は必須である。一二次産業の発展規模に制約されるところまで成長できる。

こうしてみると、マルクスは二次産業の加工労働のみの表式を、人間労働と機械の「労働」合計を見ずに、原材料に機械労働の機械減耗とエネルギー消費を分類してしまう誤解により、一次、三次産業の説明ができなくなることを誘導してしまったわけだ。

 

さて、歴史的には一次産業、二次産業を補佐すべき鏡像であるはずの三次産業が、先進国では異様に増えている。資本主義的生産様式に必要な部分は、運輸と商業のみである。せいぜい、このGとWの循環過程を支える、金融の部分を循環内に加えることである。

全ての産業で、剰余価値の拡大を目指していて、機械化による人減らしで、まずは労働力においての筋肉労働を機械化して削減、剰余価値を拡大して一二次産業の生産力を高め、運輸、商業にも拡大して合理化した後、頭脳部分の機械化、すなわちITの普及により、全産業のホワイトカラー層を最低限に置き換えた。いわゆる中間層が減った、というやつだ。

このことで、資本主義的生産様式全体、すなわち狭義の第三次産業まで、を支える労働人口は削ぎ落とされて、広義の三次産業にはき出しているが、これを便宜的に第四次産業と呼び狭義の第三次産業と区別すると、各種のサービス業種が入った産業となり、ここには、資本主義内の剰余価値生産に届かない不生産階級をも含むことになる。ここは、第三次産業を支える為のサービス労働であったり、例えばビルメンテナンスから、プログラマーまで様々だし、対労働者の家政婦業から司法書士や弁護士に至るまで様々である。

第三次産業までを支える労働人口が減るほど、四次産業が増えるので、また、この中には失業者から高額所得者まで含むことになり、この階層が増加する。

生産階級には属さない不生産階級労働力はIT導入により、知的労働者を含めて不生産階級化している、というわけだ。資本主義的生産様式は、残念ながら圧倒的な不生産階級を算出する生産システムだ、ということになる。

この中で、IT部門は知的労働者を第四次産業に退場させることで圧倒的な力をもつので、狭義の第四次産業といっても過言ないが、従ってここでの最大任務は、知的労働者が担っていた生産資本Wへの貨幣資本の最適化転換の組成を割り出す作業で、圧倒的な剰余価値をこの業種が代行することで得られることは疑いない。金融商品の組成技術で使われたが、金融商品の組成はゼロサムの成長、即ち賭博場での確率計算に近い。生産資本に転換すれば剰余価値を生む、その価値が金融上の利潤をうむのだから、安定収益はこちらの方が上であると考えられる。発展途上国の生産資本の投資に組成するしかないから、直接に途上国投資の組成に関わった方が得では?

ゲーム市場等でも稼げるが、それより市場規模ははるかに大きい中間消費に使った方が儲かる、というふうに考えている。

 

資本主義的生産様式の循環に、狭義の第四次産業までを含んだものが、ケネーでいう現代版の生産階級にあたるから、その影響で狭義の不生産階級が人口構成としては増えている。ここに次世代の経済のエンジンが潜んでいる気がする。

剰余価値は一方で失業者を生み出すが、その失業者の中で生産階級の剰余価値増に貢献する産業部門が、不生産階級から生産階級に昇格していくのであろう、というのが今の心境だ。

 

経済を考える9-2

もう一度原点に戻って考えてみよう

 

石炭の露天掘りで。

暖房需要と、蒸気機関エネルギー源需要で、露天掘り可能な場所での石炭を、生産して市場に持ち込む労働を考えてみよう。

100人の労働者を雇って、ツルハシ、シャベルで掘ってもっこで運び、集積場に集めて馬車で市場に運んで商品としてとして販売、投下資本を回収する。

 

この仕事を支えるのは、市場のより安価な石炭エネルギーを求める消費需要であり、この需要量が安定しているとすると、この需要を満たす露天掘り産業が複数できて需要と供給が均衡する。この時点で、単純再生産が維持される。

 

1年の単位で考えて、100人の労働者で1日100トンを生産できるとしよう。労働者の賃金、ツルハシ、シャベルともっこの消費額、採掘国有地の賃借料、馬車の維持費以降は、商人資本によるとして、石炭生産業自体が再生産できるか、ということでいうと、かかった経費の合計で販売できれば、不生産階級レベルの協同作業といえる。小さな社会主義世界だが、技術革新のインセンティブは働かない。

ここで販売価格は、商人の経費を上乗せするが、

賃金と道具の消耗品費用、賃借料などが商人への販売額と同等であればこの石炭産業は継続する。生活費を必要とする労働者がいる限り。

ここで、儲けを考える産業資本家がいて、そもそもこの動機が産業新規参入の動機なのだが、労働者の数を減らして、90人の労働者で1日100トンの生産を行うことを強いて、同額の、即ち100人で生産していたのと同じ生産量を可能にしたとすると、消耗品代や地代は固定費として残るが、商人への販売額は同じなので、10人分の賃金が剰余価値として産業資本家の手に入る。これも剰余価値だ。ただし、この剰余価値は労働者の賃金からの収奪であり、マルクス主義的な反抗の根拠となる型の剰余価値であり、略奪型である。労働者が退職しない程度のボーナスを剰余価値から部分投入してごまかすとしても。

問題は、どうやって100人を90人で済むようにしたかだが、1人あたりの労働時間を100/90時間、即ち1.11倍に伸ばして1人分の賃金しか払わないという労働強化による場合、産業資本家による10人分の賃金分の90人の超過労働させられた労働者からの略奪である。これは階級的な力関係による実行だから、90人の不払い賃金の割増分の返還請求権が発生し、民主主義国家なら労使協議、又は労使紛争を裁判も含む争議になる。日本はブラック企業の横行を許しており、労組も崩壊している無権利的な国家となっており、労働協約を労使で共に破っている珍しい先進国である。階級関係に卑屈な面もある。しかしここでの対立を激化させれば、益々労働者を海外に依存する悲しい結果をもたらすことを労働者が認識している面もある。が、人権軽視だし支配者に甘い。この甘さは資本の側がグローバル化すると露呈する。

 

話はそれたが、当初はこれで資本蓄積するが、それが続くかどうかだ。現代でもこの要素の比率の高い部分は残されてはいるが、もしこれだけなら革命の成功で解決する課題ではあり、これが資本主義の本質だとマルクスは考えたように見える。

が、一方で、そこで得た剰余価値と同額の露天掘り機を導入して、もし、その分の機械の減価償却と機械のエネルギー代の合計の金額が、10人分の賃金に相当する費用支出を伴うとして10人の首切りで10人の生産分と等価として導入すると、労働強化を伴わないで剰余価値は出ないが再生産が継続することになるから、争議の対象にならない。機械の導入自体が問題なのではない。ラッダイト運動は、この点では当たらない。

首を切られた10人の労働者は、機械製造業の労働者需要が発生するから、間接的に失業しなくて済む。それはこの企業が内部に石炭用機械製造部門を持つか外部かの違いでしかない。

この場合の経営者は、3k仕事の機械への代替と逆に喜ばれるかもしれない。矛盾はないからだ。しかし、温情は他社に遅れをとる。

 

実は労賃は意外に安く、機械とエネルギーは意外に高い。この時期を過ぎて、機械の能力が上がり、機械の価格も低下すると、10人分の労賃の価格で機械とエネルギー代金の合計が、20人分の労働者の生産力と同等になったとしよう。20人の首が切られ、80人の労働強化なしで100トンの生産量が得られる。

 

すると労働者には損害請求権は発生しないで、経営者は無理なく剰余価値を得られるのだ。これが資本主義の本質的優位性なのだ。剰余価値販売促進費に使えば市場流通を独占でき、石炭産業界でのシェアを上げられ、需要の大半を占め生産を独占でき、剰余価値を独占的に生産し続けられる。ただし、競合他社が同じ機械を導入しないことが前提だが。

他社も導入する導入合戦となると剰余価値は全社で得られ、剰余価値が得られる以上、この産業に新規参入が続き、供給側が増えて、需要が固定されていると供給過剰となり、需要の争奪戦に剰余価値を投入、販売価格は下がり、剰余価値が減り、なくなると飽和均衡になるところで販売価格低下は止まる。

 

資本主義的生産様式は、労働強化による剰余価値増殖が初期にはあり、現在も継続はしているものの、労働強化を伴わなくても、労働力を機械とエネルギーとで置き換えることで、機械の減価償却とそのエネルギー代の和が、労働力に勝る場合は、組成による剰余価値の生産が可能となる為、階級的な視点だけでは解決しない。資本主義的生産様式は、仮に労働強化部分を争議により革命により、労賃の正当な支払があった後も続く強力なシステムなのだ。

だから、本来、マルクス主義は、反労賃略奪と技術革新を社会発展と労働軽減の為に推進する、二つの旗を掲げないと資本主義から共産主義へとはならないはずだ。しかし、現実にできた過去の社会主義は、支配階級による労賃略奪と、生産材生産を実業のレベルを超えて重点生産し、更には鏡として派生するべき輸送、商業、各種サービス、の発展を阻害し、再生産回転を遅らせ、国民に結果としての技術革新の遅れと生産力特に消費材生産力の遅れを通じて豊かさを実感させることができずに、旧資本家階級の位置に共産党が置き換えられ、稚拙な経営がなされたことによる。民主主義軽視も作用している。

 

資本主義は、製造業ならWの組成で機械化を進めることで剰余価値を得て、Wに残余した剰余価値部分のGを生産に振り向ければ、生産物量の増加としてW'として現れ、G'として増加する貨幣資本を回収できるシステムだ。生産量が無理なく剰余価値の生産を伴いながら増加する、できる優れたシステムなのだ。

 

 

 

 

経済を考える9

これからの課題は、資本主義後の世界の考察です。

 

ケネーが農本主義時代を、マルクスが農本時代の不生産階級の成長による資本主義時代の萌芽時期を、見事に表式で示しました。

2人の素晴らしさに脱帽です。頭もいいね、マルクスはインテリにバカにされないように教養をひけらかしすぎで難解だけど、ケネーは小さな図だけに近いのに、物凄い内容、対象的だけど、どちらかといえばケネーのファンです。

 

マルクスの表式に今回手直しをさせてもらい、現代の表式にしときました。

と言ってもマルクスの後継としてのGーWーG でしかないけど。でも、ここを資本主義後の起点にでき、ケネーの範式並みのこと、是非やりたいです。

 

研究会サークルでもあればいいのになー。

 

でも、興味ある人少ないし、金儲けにもならないし、やっても自己満足にしかならないし、みんなそんな暇もないし。です。

そもそも私の説に賛成賛同する人がいるか自体が疑問です。で、賛同者が現れるまでは我が道をいきます。そのうち探しては見ますが。

 

さて、GーWーGーW…が無限に続き、常にW段階でのみ剰余価値を産み、また産まず(不生産階級も存在しながら)このミクロ的なパターンが、複数同時に進行してマクロを形成し、ここに国家などの支配階級の関与が複雑に絡み、影響しあっています。

肝は剰余価値は、労働により間接的にも直接的にも産まれる、ということであり、労働には、機械化による効率化、置き換えも含まれます。

直感的には、機械化はサポートのレベルから、労働の主体を占めるようになり、人間労働がサポート、最低限あるだけ、のようになるでしょう。

 

労働のというか、経営側に属していたWの要素の組成を設計する頭脳労働さえも、既に機械であるコンピュータにかなり代替しています。

資本主義の限界を探る上では、人間労働の機械労働化の極限の想定から始めましょう。

 

経済を考える8-10

剰余価値学説批判として まとめ

 

GーW  、貨幣資本を生産資本に転換するにあたり、

等価交換で、原料Pmと原料を新たな有用物に変える労働力Aとに交換して生産活動に入り新有用物としてG貨幣資本に戻す。

ここで、の生産経費は、原料代と労賃である。この労賃が回収できて再生産循環ができるのが、ケネーの不生産階級だ。剰余価値は発生しない。

 

ここで資本主義、すなわち剰余価値生産が内蔵されたシステムを検討しよう。

原料は同じ、その原料を加工して、製品を作るが、労働者による生産を、工場での固定資産減耗と機械のエネルギー消費に置き換えることができた組成で生産資本化ができた場合、

即ち、Aを、A1(Aよりかなり小さなAである機械操作人)と、機械の固定資産減耗、機械の操作によるエネルギー消費、に置き換えた合計が、Aを下回る組成ができたとき、即ち、剰余価値mをWの組成に加えないと等価交換GーWが成立しなくなったときに剰余価値は発生し、バランスをとる。

生産活動はその組成において実践的に実行されるだけであり、生成物Wを放出する。そのWは、運輸、商業経費の付加による価格形成により正当に貨幣資本に交換されるが、仕入れとして生産直後の製品自体を商業資本により、等価交換しても差し支えない。立派に生産資本に剰余価値は蓄積されている。

というもの。

この理論の利点は、運輸、商業の製造業から派生する主要なサービス業種でさえ剰余価値を生産できる、という理論的裏付けの証でもある。

剰余価値が、たとえ生産資本への組成後による労働者の労働によって初めて発生するとしても、生産資本の組成を資本の管理側で発生させる頭脳労働によるものならば、既に発生する根拠が埋め込まれており、残念だが資本に帰属する価値であるから、これは階級闘争による労働者の帰属を正当化し得ない。

 

1回のGーW変換で、原料が製品に化ける、化けさせるのだが、できる製品の量は原料を超えない。

化けさせる労働力、または労働力代替品が節約、省力化されないと剰余価値がGーW  のWでは付加されるmは生じない。

 

生産資本の組成での生産活動Pの後のW'なる商品増は、原料増を伴ってのみ発生する。確かに労賃からの収奪、労賃以上に働かせることは、そしてそれを略奪することは、労使という階級対立の中で現実に行われる野蛮な略奪行為で、現在でも続く問題ではあるが、原料が製品に変わるわけだから、そこで原料増を前提とする議論は場外乱闘でしかない。

しかし、製造業は静かにそして着実に剰余価値を生産活動が続く限り育んでいる。

剰余価値はどう使われるのか、それは市場放出の際の放出価格の低減補助金として、市場占拠用に活用され、また、高度な機械の導入資本として次の回転に使用される原前払増加として活用される。これが資本主義の本質なのだ。

更に加えるなら、剰余価値生産の為のこのシステムは、機械の特性による利点、寝ないで済む、文句をいわない、などや、均質性にバラツキが少ない、筋肉を超えた力をも発揮できる、早く持続し続ける利点もあり、G-W回転数を上げることができ、単位時間あたりの生産量を飛躍的に拡大できる利点があり、副産物的な利点による効果も大きすぎるものがある。欠点は機械の製造費が高いことだ。それと、雇用継続の社会的プレッシャーが、常に経営者にのしかかることだ。ここを割り切れれば、恐ろしい社会が生まれる、それが現在だ。

 

結論は、

GーW(Pm+A)…P…W'ーG'

は、現代も続くが初期には主流の略奪型資本主義

正解は

GーWーG

の変換過程で、Wの生産資本段階で、mを醸成するのが、製造業、WーGのWでmを醸成するのが、流通業商業である。ということで、現実の資本主義は、階級間の力関係で、略奪型部分も含むので間違いやすい、ということでしかない。

これで、8の課題は終わるが、マルクスの示した表式も、資本主義発生の時期から、今日の日本にさえ続いている、併用されながら資本蓄積効果を上げている。だから新モデルだけでは現状を評価できない。要は、権力構造によるシステムを利用した略奪型資本主義も併用されているわけだから、マルクス主義的な階級対立理論を武装解除する必要はない。

システムを紳士的にのみ稼働させるだけでも剰余価値を生み出し続けることができるが、今やシステムの目的が資本の増殖のみになり、かつその資本増殖がままならない状態で、グローバル化の時代になり、資本主義的生産様式が機能不全というか、限界に達しつつある。変わるだろう次のシステムの予測を考察する時代にあると思われる。

 

しかし、マルクスの当時の表式理論だけでは、略奪型資本主義の統制を国家を利用した規制で中止させ、紳士的な資本主義システムにする、にとどまるという限界も指摘せざるを得ない。日本では少なくとも有効である現実がある。

後進国で、社会主義経済化の実験がいくつか行われたが、結果として紳士的な資本主義システムを目指さざるを得ず、飛び級が有効ではなく、戻り級しているわけで、今後は先進国と共に資本主義後の検討に入ることになるだろうと。

要は、資本主義の合理的システムが、何によりどこに限界を生じさせ、どう変わるか、主体的に変えられるのか否かをケネーやマルクスの論理で、場合によりケインズの力も借りながら検討しなくてはならない。

まだ、誰からも答えが示されてはいない。

 

 

 

 

 

 

経済を考える8-9

8-7を補足する。

当時はイギリスの資本主義は萌芽の時代で、マルクスの分析通り、石炭エネルギーによる蒸気機関を利用した機械生産を導入しながらも、機械の剰余生産効果は低く、それでも生産力は職人不生産階級のそれと比べて圧倒的であっただろう。機械による生産の割合の低い分、略奪型に頼らざるを得なかったはずだ。というのも、機械の比率を上げる為には、機械自体の生産の成果がある程度産業に蓄積してからの効果であるからで、機械自体の生産体制が整うまでは、その資本となる剰余価値生産が極めて少ないからだ。その時期を短期間に通過するには、労使の権力関係に依存した略奪型資本主義の併用、依存は強くならざるを得なかったはずだ。

 

マルクスの資本主義分析は、残念ながらその時期の限界性あるものであった、と推察されるから、略奪型資本主義の資本論、にならざるを得ないが、当時の先端の現実分析であったこと、他に近代型の資本主義がなく、しかも略奪型資本主義自体が存在しない農本社会が圧倒的だった為、この限界性ある理論が受け入れられたし、労働者の置かれた悲惨な状況も確かにあったのだ。

 

さて、職人生産の時代、すなわち道具を駆使する程度の不生産階級による非食料品の生産体制は、労働力、すなわちエネルギー消費しながら物を有用に変化させる機能を継続再生産することであった。

非食料品生活必需品需要に応えるものであり、支配階級、生産階級、自階級の需要に応えるものであった。労働力を機械の減耗とエネルギー消費と剰余価値生産に置き換えていくことで、剰余価値生産財生産に置き換え、生産材生産にも機械導入でという連鎖によってマクロ的に成長することで、職人生産が機械生産に取って代わられ、機械生産による生産も、より高度な機械生産に置き換えられるので、消費需要が一定なら、より高度な機械生産が需要を独占する生産体制となる、置き換え競争は続く。より高い剰余価値生産目指して競争が続くが、その剰余価値はより高度な機械生産に投資されないと、剰余価値生産が継続できない。この流れを考えるとき、生産体制の高度化のニーズが生産資本組成Wに内包されるはずだ。

貨幣資本Gが、剰余価値gを産み、その剰余価値が貨幣資本として活躍されないと、新たなgを生まない。

しかし、最終消費需要に支えられるこの生産体制の伸びは、需要すなわち置き換えられた労賃減と、他の労働に転換した労賃増の合計の総供給を超えられない。このあたりもあとで検討しなくてはならないかも。

 

経済を考える8-8

剰余価値は、労働に代替する機械化の発展により生み出される、とすると、GーW の貨幣資本の生産資本への転化で、その組成段階で予定剰余価値が計画され、P生産の実行でW内で生産後の商品の形で生産されるから、Gの成果でしかない。労働者階級が握るべきは、GのWへの転化の内容に意見参画することだろうが、生活費を寄こせとなるだけなら、旧資本家と同レベルとなり、支配階級にとって変われない新たな資本家階級との交代にしかならない。

 

生産して新規の商品に変化した生産物は、その段階で、即ち出荷待ち商品の内に、剰余価値は含まれている。これは、未支出のGとしておいても良いし、原料と、新労働組成即ち機械とエネルギーの増として1回転の規模をあげても良いが、製造業ならば、初めの未使用Gとして取り置くよりも、精算後商品の増としてGと交換してもらった方が良い。

では、機械と生産による剰余価値とは、何か?素手による職人10人による1日の生産量と、工場による1日の生産量が変わらなかった場合は、工場の剰余価値は、そのまま、組成メリット分となる。工場1日で職人集団3日分生産なら継続生産なので3倍得られる。この得られた剰余価値は、資本として再投資されることによって更に単位あたりで増殖できるが、その為には、さらなる効果的機械投資の増が求められる。資本家の最終消費ではない。

しかしながらここまででは、製造後商品に需要がある場合で、ここまでだとセーの法則の範囲である。

1日で30職人分の製造量があったとしても、これを換金して、新たな生産資本組成で生産するには、WーGの等価交換により、貨幣資本に等価で戻さなくてはならない。蔵出しの商品に市場への輸送と商人への換金機能と、これらの活動を継続再生産するには、滞留時間分の銀行からの信用による繋ぎ資金も必要だ。製造業は、普通は資本を製造業に早く戻したいから蔵出し価格で商人に販売して、それでも製造業に剰余価値は得られているが、商人が運輸コストと販売コストを加えて販売価格とする。その労働支出と原料にあたる輸送機械の減耗補充費やガソリン代、消耗部品代は、回収して活動を継続しなければならい。不生産階級で剰余価値産まないのが商人、剰余価値を産むのが、流通資本や商業資本であり、これも機械化による生産性向上により得られる。

物は使ってないが、物作りは需要の為だから生産力が上がれば、こちらも製造業と変わらない資本主義システムである。サービス業種が価値を産まないと考えるなら、製造業が製造輸送販売業を肩代わりするしかないから、もし、労働者が同一賃金なら、製造業と同レベルの賃金総額と同額の賃金支出を伴うまでの規模と生産性までサービス業種も成長することになるしその必要がある。鏡の裏と表、実数と虚数の関係に近い。需給関係によるが、成長期は製造業が大きくなるが、成熟期は販売量の競争が製造業の存立を決める為に、サービス業種が大きくなる。この傾向はグローバル化で、製造業コスト競争となり、更に拍車をかける。