MCT-2

○資本主義から金融資本主義への移行の必然性を考える。

マルクス資本論

GーW(pm+A)…P…W'ーG'

 

W'ーG' 、ここでは、流通資本が関与することが抜け落ちているのだ。生産資本と流通資本は一体不可分である。商品をつくればその価値で売れて貨幣が手に入るのではあるが、これでは流通資本なしに生産資本だけで行ける、との誤解を生む。

命がけの飛躍、のような文学的表現は不要である。

 

商品をつくれば剰余価値は生まれる、が実現するかどうかは流通資本に頼らなければ作りっぱなしの価値が潜在する商品、でしかない。

商品は売るために作られたのだから。

そして生産資本を拡大して再生産して剰余価値を増やすのが目的なのだから。

 

まず、範式簡素化の為に、pの生産工程でmの価値増殖をするので、

W(pm+A+m)を生産資本の稼働と書きかえる。

 

流通資本段階では、商品W'を換金する為の流通資本の稼働と考えれば、

 

W(pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'

 

が相応しいと考える。このことで、流通資本による商品の価値通りの貨幣資本との交換が可能になり、商品や貨幣に労働させずともできるし、生産資本に全剰余価値を配分せず、流通資本分の価値を流通資本に配分でき、価値と価格の二元的表現を価値だけで一本化表現できる。

 

この仕組み理解の為に貨幣資本を復活させて考えてみた。

確かに流通は価値を生産しない。

生産資本で作られた剰余価値を実現するだけだ。

 

しかし生産資本で増加した価値W'は、そのままG'になってくれれば良いが、商品が商品姿態のまま自らの意思で広域化した市場に出かけ、貨幣所持者と等価交換してW'ーG'即ち剰余価値を含む全価値を貨幣資本に等価で変えて、今度は貨幣資本が生産資本のもとにまで引き返して自らを差し出す、という商品と貨幣に無償労働させること認めることになってしまうのだ。これは労働価値説に反する。

マルクスは流通資本での労働を無価値であり、労働と認めていないようだ。

 

労働価値説がここだけはげ落ちていて、マルクスは流通は価値を生まない、という観念が先行しすぎて流通には労働が必要という現実を、しかも剰余価値の中から、流通資本の変態転化を伴うという現実を評価できないでいたのだ。

 

もともと、労働力が商品化していない、自営業や職人生産なら、剰余価値生産はない。

 

pmもAで生産労働価値評価されるものであり、Aは労働時間価値そのもの。故にこの合計の労働時間価値に見合う商品が生産されるから、W'のうちのW分の価値は閉鎖経済域内で飛躍せずとも消費されうる。=Gの回収は困難を伴わない。

しかし、A=A+mの価値増殖を行えば分離した分を資本家がその商品姿態m価値分を全消費せざるを得ないことになるが、彼が必要なのは、消費財商品ではなく生産財、即ち原料や機械が需要物であり、生産の持続による剰余価値増殖が目的である。そして労働力商品は継続雇用により得られる。

 

流通資本段階の作業を担うのはやはり人であり、労働にたよらざるを得ないのだ。

運ぶ、市場に分配する、販売手段を構築し、所有権を移転する、など。

 

価値増殖された商品を換金するには、労働を伴わざるを得ず、剰余価値を実現する労働、即ち商人の仕事が歴史的にもある、ということだ。

 

彼らは価値を生産するのではなく、価値を実現することで生産資本の活動を継続拡大する役割を担うのだ。

もともと商品は自家消費ではなく販売する為に生産されているもので、商品段階で終わりではない。

mが大きくなるほど、そのm分の換金には、国内市場の資本主義化では不足するので、市場を国外にまで求めた流通活動が求められ、それは国外生産資本との競合と淘汰を生み出し、場合により対立を生む。

 

さて、生産資本Wは生産活動により消滅し、商品資本W'に剰余価値分価値増殖を埋め込んで変態する。

すべてが商品姿態となったので、生産資本は、原材料が底をつき、また、減耗した機械には布がかけられ、賃金をもらって解雇された生産労働者達の生産工場、倉庫に商品がある状態であり、継続生産即ち次期生産開始の為にはW(pm+A)が貨幣を経由しようとなかろうと、戻し、もたらさなければならない。

貨幣で戻されるなら原料と労賃に変えなければならない。

 

(W'-W)=剰余価値の範囲内での流通資本変態分を控除して、W+控除額の価値で、生産資本に流通資本から貨幣提供されることで、生産資本は流通資本に商品姿態のW'を全て渡して拡大再生産を開始できる。

ただしその拡大の規模は剰余価値mではなく、そこから流通資本分を減じた価値分に減っている、のである。

流通資本は、W'の商品を市場でG'と交換できるのだが、仕入れ段階でのW+控除額の貨幣を、前払いすることとなる。

 

流通資本の投下量W2=(pm2+A2+m2)を控除した額を生産資本に支払って商品を預かるのだが、その仕入れ代金は売り終わってからはじめて支払えるものだ。

 

流通資本のW2=(pm2+A2+m2)は、生産資本と同じく自己資本として考えるのなら、流通資本額(pm2+A2+m2)をW'から差し引いた額を生産資本に支払うことで、商品姿態W'量のまま商品を入手し、市場で販売して、G'を流通資本が得ることで帳尻は合う。前払い版と流通資本の充当補充分だ。

 

要はG'換金までの流通期間があるにもかかわらず、前払いとしての仕入れ資金、G'-W2(pm2+A2+m2)の貨幣資本が流通資本には追加で必要なのだ。G'に換金できるまでの間、信用で借りる必要があるのだ。

 

[G'-W2(pm2+A2+m2)]>Gならば、生産資本は次期の拡大再生産を継続できるのだ。

mは、全ては生産資本が生み出した剰余価値ではあるが、流通資本の活動の価値分減額されるのだ。

それが嫌なら生産資本自らが、流通資本の機能を担えばわかるはずだし、そうすることも可能であるが、その流通期間内の生産資本は停止することになる。剰余価値生産は、流通資本の稼働期間に流通資本からのm2としてのみ移転して発生しうることになる。mは移行して。

この間生産資本は停止しているので、過去生産した剰余価値は、流通資本の剰余価値としてのみ実現されるから、あたかも流通資本が剰余価値生産しているように見える、が過去の生産資本剰余価値の全てが価値移転したに過ぎない。

 

その時得るG'も貨幣蓄蔵を目的としないので、貨幣である必要はない。蓄蔵貨幣は何も生まないからだ。

 

貨幣を蓄蔵しても全く増えないが、生産資本組成すれば第二次生産での拡大剰余価値が得られるから、生産資本化をより早く求めるのが正当である。

 

以上から、流通資本は、自己資本W2(pm2+A2+m2)のほかに前払いの商品仕入れ代金、即ち

G'-W2(pm2+A2+m2)

なる前払いの追加(貨幣)資本を求められる。

流通資本に、信用資本とでも呼ぶべき(貨幣)資本が求められるのだ。

 

信用(貨幣)資本の流通資本側の創出、が発生するし、これを貨幣資本で賄うのはバカげている、蓄蔵貨幣で遊ばせることにしかならないのだ。

要は、信用ある債務証書で、しかも流通期間後の価値での前払いなので、期日を標準的平均的な流通期間に決済する約束手形による、しかもその期間前に決済したければ、割引く、そういう操作を可能とする第三者的金融機関の制度を求めることになる。

流通資本の追加資本分の信用供与、ここから流通資本の機能の一部が、金融資本として経済規模の成長に合わせて独立、拡大するのだ。

流通資本の存在が金融資本を求めるのだ。

 

もし、その手形、即ち期限付き債務証書が、生産資本間で流通できて、それにより生産資本組成できれば、貨幣など不要である。

生産資本は、拡大生産資本の再生産を求めているのだ。担保は剰余価値と組成商品現物があるので、信用は成立する。いかばかりの利子も剰余価値からもらうことになるが。

 

こうした信用による制度が安定して確立すれば、貨幣が価値をもつ必要は全くない。

しかし、社会的問題としての生産過剰や、流通域拡大の失敗によりG'転換が不調となると、信用による貨幣は、その価値を毀損するので換金、実物資本への着地を求めるので、信用収縮から恐慌を引き起こすことになることもある。W'がG'に帰結し続けるとは限らないからだ。

 

現代の資本主義は、こうした信用の上に立つ金融資本主義を基盤としている。

しかも、その信用供与という形で、不換紙幣を民間銀行により発行させていて、連鎖的信用恐慌に対応するために中央銀行を用意し、更に通貨を発行できる国家権力でそれを防衛していて、取り付き騒ぎには、不換紙幣の大量発行による恐慌回避を可能にしている仕組みを取っているのだ。

 

これが金本位制による、価値ある貨幣で信用ではなく交換で発行すれば、又は現物の物々交換であれば成長は鈍化するが、恐慌にはならない筈だ。借金による貨幣発行ではなく、交換によるものなので、等価の現物担保が常にある状態だから。

 

そして金融資本の成長も限られ、GーG'は、国家を相手とする高利貸し、などに限定されるはずだ。これも重税の根源とはなるのだが。

 

更に、生産資本も流通資本も、両資本間の信用決済だけでなく、それぞれを自己資本のみに頼るのではなく、剰余価値からの配当として、金融資本により両資本の生産、流通資本の組成に資本投入することで、剰余価値を拡大することができる。

他人資本の導入による規模の拡大=剰余価値の拡大。

GーG'が可能なように見えるが、全ては生産資本の拡大可能範囲と、それを循環再生産に導く流通資本とその拡大が、全ては労働価値増殖がこの根底に潜んでいるのだ。

 

こうして、剰余価値は、拡大しながらもそこに所有権を主張できる金融資本が剰余価値収奪の頂点に立つことになる。金融資本の不労所得者への剰余価値からの配当=所得移転=合法的収奪がその本質であり、このウエイトは益々高くなり、資本主義に寄生していつしか金融資本が頂点に立ち君臨する。

 

生産資本も流通資本も、拡大こそできるものの、金融資本への剰余価値からの価値移転は、階級制度が維持されれば、剰余価値収奪でき、その剰余価値に寄生して金融資本がその大半をものにすることができる金融資本を頂点とする金融資本主義が成立君臨することになる。

 

こうしてみると、生産労働者、流通労働者は、いつしか利子負担分までの剰余価値生産負担を負って、利子負担の為に働かされる状況になる。

要は格差拡大マシーンに労働者は投入されるのだ。

しかしながら、それを拒否するなら失業者となる道しかないのである。受け取るのは不労所得者であり、これが現代資本主義の社会、金融資本主義社会である。

 

しかも、ここでの最大の問題は、信用創造が「無」から生じさせることができることである。マルクス時代の金本位制による交換、によってではなく、剰余価値成長が見込めるなら、貸すよ!とした万年筆マネー、現代なら銀行通帳への数字記入、だけで金利を押し付け、剰余価値から収奪する不換紙幣の発行又は債務証書の発行において行われているのである。詐欺による収奪と何ら変わらない。

 

しかもここまでくると、生産資本は、市場を国外含む規模に拡大しなければ衰退するので、信用供与を受けて拡大し続け、生産、流通労働者は剰余価値生産のために労働し、その剰余価値の多くを金融資本に吸い上げられ続けることになる。

 

それを不労所得者への所得に分配することで、強い格差を生じ、不労所得者は、労働所得では得られないほどの膨大な所得移転を可能にして、所得格差を拡大し続ける、歪んだ社会を生み出すことになる。

 

資本主義は、金融資本主義に発展せざるを得ず、その結果は、ピケティの論を待たずとも、格差拡大主義社会へと変質していくのだ。

更にどう猛な拝金主義者達は、剰余価値率向上に向けて、労働者階級の非正規化などの多様な収奪方法を採用し続けるので、格差拡大は絶対的加速度的に進行する。

 

マルクス資本論では、生産資本家を工場所有者に見立て、太って葉巻をくわえ、シルクハットを被った浪費家、にシンボライズした風刺絵とともに描かれることが多かった。勿論本人がではないが。

現代資本論では、産業資本家は、所詮は寅さん映画のタコ社長に過ぎず、被搾取者の階層の1つでしかない奴隷頭に過ぎない、ということだ。

流通資本でも同じである。

この資本主義システムを利用し、不換紙幣発行による金融資本家の利子付き信用供与による収奪機構が諸悪の根源である。

 

金融資本主義は、格差拡大が目的である為、腐った、健全性を失った資本主義であり、それを終焉させなければならないのだが、全ての根源は階級制度の存在にあり、剰余価値の占有競争を行う金融資本にある段階でその意味ではマルクスの根幹思想は全く正しいまま、なのである。

 

金融資本主義の横行を許さない、不労所得を排除して階級制度を破壊する、又は緩和して先延ばしする方策は国民にとって必要となる。

当面は、金利に強い課税をかけなければならない。

 

実体経済は有限であり、経済成長はいずれは資源の不足となって現れるし、そもそも販売によるW'ーG'

変換は可能性に過ぎず、実現には域外市場の拡大が前提となる為、そこに摩擦が生じればそれがネックになる。貿易摩擦や植民地需要だ。

もしG'回収に失敗すると、流通資本は毀損し、信用供与が履行出来ずにショートし、生産資本に供与された手形は、その信用を失う。

こうして恐慌は、流通資本、生産資本の倒産と共に金融恐慌が発生することになるのが現代である。

 

自己資本が少なく、信用創造による他人資本部分が大きいほどレバレッジがかかる。

金融恐慌の規模はより大きい形で発生し、実体経済水準までの収縮が起こる。

この恐慌は、新たな追加信用供与で収まるが、その債務は現代では、信用通貨発行元の金融機関の貨幣収縮としておこるので、それを政府が債務保証することになる。生産過剰、流通資本過剰はレバレッジ分収縮する。バブルの崩壊という形で。

 

資本主義は、金融資本主義段階になると、社会進歩と豊かさの実現という使命を失い、非人道的で邪悪な格差拡大マシーンとしての機能となり、人類の精神性の喪失をも伴う悪の帝国となる。

もはや工場の資本家や、流通の勝利者が敵なのではない。

金融資本が歪みを作る根源であり、剰余価値の移行先となることで、資本主義生産システムは、金融資本に吸収されていることから、しかもその根拠が信用創造からの貨幣創造によるものであるのならば、生産流通労働は、収奪のための方便でしかなく、資本主義の健全性を阻害する。

 

資本主義でも剰余価値が、国家により吸収され、国民的な投資課題や、福祉的内容を持って還元されるならば、資本主義の健全性は、逆に維持すべきシステムである。

この課題は、国政や財政の場においての、実質的な労使対決が、産業資本段階での直接の労使対決に変わりうる、代行されるものであることがわかる。

労働者階級に多数の犠牲者をもたらすなら、先に国体変革を必要とするのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

MCT-1

資本論の現代資本論への再生

 

マルクス資本論を、書庫から取り出し、現代資本論として再生活用したい。

 

マルクスの労働価値説に基づく価値論での論理手法を引き継ぐ。

 

一方で訂正と修正が必要な大きなポイントが2つあり、現実と理論の激しい乖離をきたしているので、修正する。

 

それは「流通資本」に関わる部分と「貨幣論」に関する大きな欠陥である。後者は金本位制時代としての制約が大きいが、流通資本認識と併せて労働価値説による価値論の手法貫徹できなかった弱点でもある。

当時の資本主義が萌芽段階でその規模も小さく、それ故に流通資本や金融資本が現実世界で未発達だったことも踏み込みの甘さに影響したようだ。

マルクスの主要な範式は、

 

GーW(pm+A)…P…W'ーG'

 

少し変形させていただく。

GーW(pm+A+m)ーW'ーG'

ここで、問題にするのは、W'ーG' 部分である。

 

剰余価値' を含む価値増加された商品姿態がW'であり、商品なのだ。

商品は自分でその価値を市場に持って行き、貨幣と交換して、今度は価値増加した貨幣がG'が生産資本に自主的自覚的に戻る、ということになる。G'ーW'(pm'+A'+m')として拡大再生産に寄与してくれることになる。

残念だが、それを行うのは、Aである商人や流通資本が必要なのだ。そこに労働価値を認めれば、資本形成の必要からW'は減ってしまい、G'との交換が▼G'

でなければ辻褄が合わない、流通は価値を生まないから、W'ーG'を無人化しなくてはならない苦悩があり、私も長くわからなかった。

確かに、W'の' 分以上の流通資本を投下すれば、剰余価値は消え失せてしまい、生産資本は商品生産の意味を失う。

流通資本分の資本投下量は剰余価値以下であることで、生産資本は剰余価値の一部を受け取れるのだ。

 

マルクスは、生産資本による剰余価値の全てを使っての拡大再生産が可能と考えたようだが、そうはいかなかったことで、流通資本による剰余価値の減額を条件にW'ーG'が可能であったことに気づかなかったからこそ、金融資本の肥大化と金融資本主義への移行を想定することもできなかったのだ。

 

GーW(pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'

 

が正解である、ただし(pm2+A2+m2)<m

 

要は、追加の流通資本分の投下、それは期間をかけてW'をG'にする為の資本を剰余価値m分の中から捻出減額して追加資本投下することを認めねばならない。ここにA労働は存在する。

この流通資本のお陰でW'ーG'ができるのだ。

だから、生産資本に戻されるGは、G'の全てから流通資本に転換した分の価値が減額され、あとは当たり前だが、流通資本の減耗分の補充再生に充てられるのだ。

 

しかし、ここに問題が発生する。

剰余価値の商品姿態は、G'になってからでないと流通資本に変態できないはずだ、という当たり前の事実だ。

生産資本は、商品増に姿態変態するからわかりやすいが、流通資本は後払いでしか組成できないのだ。

無い物と交換して資本組成するには、前借りしか資本調達できないことだ。しかしG'貨幣資本分の前借りにより、流通資本を活動させるしかない。

 

その場合、生産資本が流通資本をも自ら行う場合は、剰余価値分を担保に資本を融資してもらわなければならないし、それでも流通活動期間分の生産活動は止まるから、生産活動の継続による剰余価値生産を続けたければ、流通期間分の資本の追加融資を必要とする。

生産期間と流通期間が順調に回り始めれば、剰余価値mを拡大し続けられる。

GーW(pm+A)…P…W'ーG'

では、W'ーG'の流通期間の追加流通資本のG2、流通期間の追加生産資本G3が必要となり、GではなくG2、G3の合計資本が必要になることになる。これにより、剰余価値mは、全て生産資本に還流することになる。

剰余価値mは、Gでは得られないことになる。

しかも、生産資本の生産商品が生活必需品なら、生活必需品のくくりで束ねて流通資本活動した方が合理的である。運輸、市場での分配作業、貨幣との交換作業などは生産商品を束ねて需要者に提供する方が合理的かつコスト負担も少ない。

独立した流通資本や商人に、その運営費にあたる資本分を控除した商品価値、ただし剰余価値額以内で売り、すぐに生産資本に変えて生産維持した方がいいから、控除した価値で商人や流通資本に販売して生産継続する。商人や流通資本は、ここでも先に前払いの資本が必要になる。G'回収は後となる。

だから、先にG'資本を借りて生産資本に流通資本分の減額分を支払い、流通活動を維持し、G'交換後に自らの資本の消費分を補填充当することになる。

これで生産資本も流通資本も活動継続できるのだが、流通資本が生産資本同様自己資本なら、G'ではなく、G'から流通資本分を減じた額を仕入れとして支払い、商品の所有権を移転してその商品をG'で売ることになる。

流通資本には、仕入れとしての前払いが必要となるが、それを信用の手形で支払うことで、それを生産資本が受け取り流通させて生産資本組成できれば済む。流通資本による手形発行が流通資本から分離独立して金融資本となり、これが利子で成長する、という構図である。

勿論利子は、商品姿態であろうと実体経済の担保を伴い、剰余価値に寄生する。

そして、生産資本や流通資本の巨大化に伴い、資本自体に他人資本として加わることで、剰余価値を拡大し金利剰余価値からより大きく収奪していく。

しかも、それには金貨幣などの実物商品資本ではなく、不換紙幣の発行による信用供与という形でレバレッジをかけての、実体のない貨幣発行によるGが用いられる。こうして金利が支払われる規模の生産資本と流通資本まで急成長できることになる。

 

考えようによるが、ここでは貨幣が貨幣でなく、生産資本が剰余価値を生むはずだ、という観念からのものであり、価値が実現する前に行う信用供与であるため、循環が滞れば一気に信用収縮する、という問題と、貨幣が必ずしも生産資本組成に必要なのか、という問題もある。

要は生産資本を担保に、ほぼ全てを信用で入手して生産活動できれば、プラスの剰余価値はえられる高い確率があるのだ。

 

W(pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーW'(pm'+A'+m')

 

これが現代資本主義生産の核心であると思う。

この全てにG金融資本が関与し、剰余価値に寄生する。勿論、外部金融資本に依存せずに、小さく、ゆっくりと自己資本だけで進める方法もある。

優良企業や協同組合がそれである。

金融資本を入れずに剰余価値だけで資本調達して回すことができる企業は、素晴らしいが剰余価値率が高いということは、労働分配率も極端に少ないのだ。

 

さて、振り返ると、生産資本で生産された剰余価値は、流通資本での剰余価値と分割され、更に金融資本の利子へとmは移行していきながら拡大する、という構図であることがわかる。

 

さて、こうした金融資本による信用供与により生産、流通資本の拡大により、いずれは商品は生産過剰となる。

もともと、W(pm+A)…p…W'

で商品に移行する価値は、pmの生産労働価値とpmによる生産労働価値の合計は、W'のWに価値移行したので、Wは、生産労働者の賃金との交換が容易にできるのだが、' =m分の商品は、分離取得した資本家が買ってくれなければ、経済圏の外で買わせなければ回収できない。資本家の需要は、次期拡大生産の為の生産資本であり、出来上がり商品ではない。

自給自足経済を営むものが経済圏内にいれば、その人を雇用して、賃金による購買力を持たせれば良いが、それも底をつく。経済圏外部に買わせる、ということは別の経済圏との軋轢も生むので容易ではない。相手の経済圏の生産資本を収縮させ、できれば倒すしかないといった植民地化による市場拡大により対応するしかなくなる。

流通資本への資本投下も増え、流通資本の剰余価値も増える(生産資本剰余価値の移転であり、剰余価値総額は増えない)が、生産資本の生産過剰により、丁度生産資本剰余価値と流通資本剰余価値が同価値額となる。

経済圏拡大が限界になると、不況に陥るのだ。

こうして、資本主義は、新しい生産資本組成がなければ衰退することになる。

 

現代の剰余価値の支配階級は金融資本家である。

現代は生産資本家が剰余価値支配者であった時代とは既に異なる。そう、金融資本が生産資本の剰余価値に端を発する全ての剰余価値の支配者となっている社会なのだ。

しかも金融資本主義段階での貨幣は、人々には最大の価値と映るのだが、その貨幣が信用媒介物でしかない幻想である信用貨幣による金融資本主義の時代である。

 

ある意味、実物商品貨幣では、実体経済の生産力に対して不足して、成長阻害要因になるので、お金など信用貨幣で代用できるから、代用したのだ。

ところが、そのことで鎖がはずれて膨大な規模のお金が作られるのだが、実体経済で使われる以上のお金は、使われずに貸し借りとして残り、支配権を維持して現在と将来の格差拡大を進めるだけで、このお金を作る理由づけのために生産、流通活動などの仕事が作られるように逆転し、縮小の道に入る。

 

要は将来の債権債務づくり、即ち格差拡大マシーンとして資本主義が機能する、それが金融資本主義段階であり、その仕事にのみ需要がある腐敗した社会となる。

 

貨幣は幻想である。

何故なら、不便を我慢しさえすればなくてもいい物々交換ですむ。交換に貨幣は必要?あれば便利、無くても済む存在、それが貨幣だ。

 

交換に時差がある場合でさえも貸し借りの約束で済む。ただし労働が無いと、交換する物がないのだ。

貨幣と労働との価値が逆転していることが明らかにされる社会、それが金融資本主義時代である。

 

商品の交換は、異なる具体的有用労働生産物どおしを、抽象的人間労働時間を尺度として交換することで、分業による豊かさが得られるのであり、労働生産物の交換による豊かさを得られる資本主義も、幻想貨幣による労働支配となった以上、貨幣の発行権、通貨発行権を労働者階級管理下とする、金融資本主義革命なるものが必要な時代に突入した、ということである。

 

 

資本論の用語を解説する。

 

GーW(pm+A)…P…W'ーG'

 

ここでGは貨幣資本。

はじめのWは商品資本だが、生産のための商品資本で生産資本と呼ぶ。

労働力商品が生産活動に起用されるのが特徴である。これが価値増殖の根源、可変資本として機能するからだ。「労働のみが価値を生み出す」

A労働力商品を交換価値として等価で起用し、pmと共にその使用価値が発揮される。=労働価値説を根拠とする。

pmは不変資本、労働対象の原料、労働手段の道具や機械を指す。労働対象は全価値、労働手段は部分価値として生産される商品に価値移行する。

Aは可変資本の労働力商品即ち賃金、Pは製造工程、

可変資本を製造工程で過剰に交換価値即ち賃金以上に働かせて、その過剰労働価値分が商品に価値移転する。

W'は製造された商品だが、販売の為の商品資本。

' は剰余価値、mとも表記し両者は同じ。過剰労働分の価値。

G'は貨幣資本、剰余価値増加後の貨幣資本。

 

 

 

 

デフレ克服を!

根本原因は、労働分配率低下を食い止める、ナショナルセンターがないことなのですが、貧困化が進行しています。
労使を合体する国には財政があり、予算があります。
予算委員会で、揚げ足取り的な低水準の議論ではなく、4条国債の発行増による福祉財源の増加を提案するか、財投債での教育研究投資予算化提案で、PBバランス論をかいくぐればいいだけでは?
軍事費を削って、でないと福祉予算が出せない(^^)とでも思っていますか?


現代貨幣は、信用と負債の関係であり、インフレにならないまでは、国債発行が不足していての日本のデフレです。
中野剛志氏や、MMTなどもっと勉強してくださいな。そして過去の誤りはそれとして国の予算を健全化しましょう、とりあえずMMTでの国民世論の形成を!

資本論の考察-9

金融危機サイクルの前に、現代版資本論範式のマクロ的考察を試みる。

W(pm+A +m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーW'(pm'+A'+m')

において、

W(pm+A +m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'

のプロセスを踏んでみよう。G'で期末として締める。

なぜなら、G'ーW'(pm'+A'+m')は次期生産の開始でもあるからだ。

 

総生産をお金の価値に換算したG'は、

左辺の2つの和、である。

ただし、pmもpm2も、労働生産物であり、その時間価値を示すし、労賃であるAもA2も時間価値を示すが、m+m2分の労働時間価値を生産していて、受け取れない、帰属が別、というだけである。

 

 

資本論の考察-8

貨幣資本Gを再登場させる。

交換は等価交換である。

WーWは物々交換であり、ここに貨幣は不要であり、WーGーWは、交換に時間差がある場合の交換である。

又は交換が複数の交換者を媒介とした交換であり、それも時間差原因の範疇である。

 

貨幣が金属貨幣のような価値商品の場合は、交換後に商品現物か、金属貨幣が交換者の手元には残る。金属貨幣には使用価値があるから、商品が残るわけだ。だがそれはWーGではなくWーWでしかない。

 

貨幣Gは、それを渡すものにとっては債務を渡すことであり、受け取る者にとっては債権を債務証書として受け取ることであり、将来の商品との交換を約束するものである。

もし、生産資本が持続的に剰余価値生産を可能にするなら、その資本Gに、将来の剰余価値から割引いて利子が受け取れるなら、利子付きで貸し付け、確かに生産資本は、剰余価値生産増加が見合えば、その増加の範囲内である利子でなら、借りた方が得、ということになる。

 

7章でも明らかにした通り、流通資本も同様であり、規模拡大して、生産資本の剰余価値以内での投資により、剰余価値の流通代行分の中から、移行剰余価値を拡大できる。

また、つなぎ資金の需要もあるのだ。

こうして、信用貸しは民間銀行を育てるが、その貸し付け=信用創造という貨幣発行の根拠は、生産資本稼働時の剰余価値であり、流通資本稼働時に移転した剰余価値剰余価値、からの利子収奪を根拠としている。

 

こうして拡大されきった生産資本の生み出す剰余価値は、流通資本の剰余価値にも移転され、金融資本の利子にも移転される。

しかし、その循環は、国内市場の拡大が有限であり止まった場合、やその範疇だが貿易摩擦で輸出制限された場合、生産資本で剰余価値生産が出来ずに返済が不能となり破綻すると、利子どころか元本割れとなり、金融機関の債権が不良債権化する形で恐慌、デフレとなる。

当然に資金需要もないので、民間銀行は貨幣、即ち債権発行が止まるのだ。

 

こうして、現代では金融危機として恐慌はサイクルして循環し、破綻の後でなお生産資本の縮小が続くことになる。

 

こうして生産、流通各資本で生み出された労働価値による剰余価値は、利子や地代として、不労所得に吸い取られる為に、「働けど働けど我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る」の激しい収奪構造にさらされるのだ。

そう、生産資本の労働価値に端を発する剰余価値は、太ってシルクハットを被り葉巻を吸う資本家の浪費に搾取されるのではなく、所詮は、生産資本の社長も寅さんのタコ社長、それを吸い上げる流通資本の社長も同じになり、通過発行する民間銀行を通じて不労所得者に吸い取られれる。

格差が生まれ、格差拡大システムとして資本主義生産システムが支配の道具として機能する為に、本来なら生活の為の労働が、格差拡大システム労働となる為、現代の労働疎外がおきる。

不労所得者に重税をかけて、資本主義生産システムを元に戻す=金融資本主義の呪縛から解放することが現代の革命となる。

国家は、労働者国民のためにあり、資本主義生産システムは、生産者の為にあるべきである。

資本論の考察-7

再度生産資本循環による拡大再生産の範式の精度を上げて考察を進めよう。

 

W(pm+A +m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーW'(pm'+A'+m')

なる生産資本循環が本質である。

生産資本→商品・流通資本→拡大生産資本 である。

 

ここに、貨幣Gは捨象できる。この循環を円滑に進めるための信用、の状態で構わない程度の存在である。

貨幣と資本は別であり、実体経済においてもっとも重要な資本は生産資本であるpmとAであり、

過去労働の結晶化された原料や燃料や工場やオフィス、機械等の生産手段と、労働力商品、となる実体経済物である。

拡大再生産は、生産資本の拡大をもたらさなければならないが、マルクスが分析不十分だった、商品・流通資本、以降の流れを考察してみよう。

その為に捨象していたGに登場願いながら。

 

まず流通資本に頼らずに生産資本自らが流通資本として機能するとする。

W'商品とは、生産資本が消えて

商品*流通資本形態として登場している。商品資本としてW'が存在しているが、循環しないで溜まった商品在庫として存在していて、流通資本と結合しなければならないが、その流通資本分は、W'の'以内である必要がある。' とは剰余価値部分である。

仮に生産資本の剰余価値を全て流通資本投下に要するとすれば、確かにW'ーG'の等価交換は可能だが、単純再生産となる。働いた分が補充される。

資本主義の動機は、m増殖である。

したがって、[mー(pm2+A2+m2)] > 0 であれば、この販売工程を含む生産資本にm2の形で剰余価値が発生するのである。生産資本部分の取り分のmはゼロでもm2の形で剰余価値は得られ、次期生産資本投下は拡大できる。m2の分は、拡大再生産投下の根拠ではあるが、資本家部分の消費投資により拡大する。

1. 蓄蔵すれば、単純再生産になる。

2. m2保持者が資本家自家消費を増やせば、生活格差となる。

3. m2保持者が生産資本、流通資本投下すれば拡大再  

    生産となる。

 

資本主義初期は、商品生産量増加即ち、商品資本増として現れるが、それは商人活動の活発化を要請するので流通規模拡大が必要であり流通資本増を求める。流通資本とは、pm2とA2であり、Aの生産性を上げるpm2投下によりA2を置き換えることで、m2が得られるのだ。

 

結果として、上記の場合はm2だけで剰余価値を実現するが、生産資本は使用価値の単品生産となるが、流通資本が単品生産集合の同一運輸販売を可能にすることで、流通資本依存分がより少ない形で、早い話が流通資本投下を最小にして依存し、mの受け取りを減らして、生産資本の消失を埋める再生産として得ることがより有利な判断となる。

流通資本との機能分離が有効である。

として分離すると、生産資本のmの分配は、

m-(pm2+A2+m2)に縮小して、m2が流通資本の剰余価値に移行し、トータルでの剰余価値は変わらないのである。

生産資本の増加は、単に再生産資金を割引いて受け取り、微量の再生産を可能にするだけでなく、m2による生産増要請があり、成長が保証される点で、大きくは流通資本の傘下に組み入れられる構造となる。しかし、より大きな問題は、Gの機能が信用貨幣として、負債であれば代行できる、変態間の機能でしかないので、まずは生産資本が、信用において貨幣を使用しないで生産資本を担保として生産活動する規模となり、商品・流通資本結合時も商品を担保とした信用仮りで生産資本に割引支払いをして活動でき、流通資本も流通資本を担保として信用仮りして、…信用が実体経済の規模で、生産資本も流通資本も包含して拡大することになる。

本来なら生産資本で生成する剰余価値は、金融資本の肥大化を生むことで、金利として剰余価値が回収されていくのである。

さりとて、生産資本、流通資本も剰余価値の一部は受け取りうるが、金融資本が生産資本、流通資本に変わって資本の頂点に立つことになる。

これが現代の資本主義、金融資本主義である。

 

 

 

 

 

 

 

 

資本論の考察-6

GーW (pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'

 

で、貨幣資本Gを生産資本Wへ、そして商品資本W'へ変態させると、生産資本W段階で剰余価値mを生み出すことができる。A労働力商品が介在するからだ。

 

しかし、それは商品資本W'へのm='分の価値増殖したものであるが、商品としてあり、需要者はA労働者の賃金と交換する消費財とm資本家と交換する生産財である。この関係は後で考察する。

 

いずれにせよ商品資本状態の資本を生産資本にまで再変態させないと、拡大再生産エンジンによる価値増殖が持続できないガス欠状態になり生産が止まる。

 

増加W'商品資本を生産資本に転化するには、商品を作るだけでは商品在庫となり、劣化価値減少するだけだ。

需要者の元に輸送し、需要者を探し分配交換しなければならない。

もっとも早く効率的なのは、生産資本生産物との直接交換である。(貨幣がここでも不要になる。)

流通資本が移動を介助する運輸だけで済むからである。

 

要は、商品資本段階では途中段階にすぎず、生産資本段階で作られた価値は、買ってくれる相手を見つけなければならない。商品は意思もなく自分で歩いて買う相手を見つけることはできないのだ。

そこには労働が必要で、生産資本が存在する場合は、一体不可分の流通労働の関与が必要なのだ。

最終消費されねばならず、最終消費とは商品資本が別の資本に変態しスタートすることでもある。

万物は流転するのだ。

 

生産資本は生産を止めて、新たに輸送手段を使い、生産雇用労働者に新たに賃金を払いながら市場に持っていき買い手見つけて貨幣資本と一旦交換し、その貨幣資本で生産資本である原料調達や何年に一度の機械を購入する積立金に内部留保してから、はじめて生産労働者として戻り生産を再開する、ということになる。

この一連の流れでわかるように流通資本の機能が必要である。生産資本は生産を起点とした資本循環、即ち生産資本に始まり、商品・流通資本、貨幣資本、生産資本組成への流れの循環を継続しながら生産資本段階で価値増殖を行うシステムである。

価値増殖は、流通資本段階でも可能だが、生産資本での価値増殖からの移転の範囲に限られるだけだ。

 

さて生産資本による生産継続のために、商品資本段階以降を流通資本に委ねる場合は、生産資本がmの範囲内でやらねばならない追加資本分

(pm+A)を、流通資本に委ねてその追加資本分をmから減額してW'δ▼、(ただし '  >δ▼)で貨幣資本化する。流通資本から、割引いた商品資本+要した流通資本の合計をもって、元の商品資本の価値W'と等価の貨幣資本G'を受け取り再生産する。

→原料調達による生産資本稼働の継続による剰余価値生産の継続、となる。

 

生産資本は、W'の価値から流通資本の平均必要額を減じた価値で流通資本に商品化した資本w'を売り渡し、流通資本は、市場でW'δ▼ーG'で販売して投資額を回収する。できればG'は掛売りでもよく、その証文でpmを調達して生産資本に届ければなお良い。

 

流通資本は主に輸送と商業資本であり、自営的な商人の規模では賄えなくなり、雇用による場合は、そこからも剰余価値mを発生できる。

しかし、それは元々は生産資本の剰余価値の一部でしかない、それが移転したものだ。マルクスの時代は、ここがとても小さかった、というだけのことだが、この発展が見れないと現代資本主義社会をマクロで捉えきれない。

また、貨幣についての重金主義的な商品貨幣の時代であった制約と本人寿命から、金融資本主義段階に進むことが予測できていない。

この間の変態移行は、全てWーWあり、それもWーGの媒介は必須ではない。信用でつなぐことができるのだ。経済成長はW内でのみ可能だ。

WーW'は生産資本段階内でのみ可能で、労働価値による価値増殖が根幹にある。

金属貨幣としての金は、希少装飾品等の使用価値としてのみ機能し、交換価値の機能は信用で100%代行しうる、ということになる。

金に意味はないのだ。交換媒体信用代行、でしかない。

現代資本主義社会は、信用貸借社会である。金融資本主義段階である。

 

 

重要なことは、W'なる商品資本に移行していた価値の内容は、Wの価値は労働力価値に再分配されうる価値であり、' 部分の価値は、労働力価値によって生ずるも、' 支配者たる資本家機能を有する者により消費されることが可能となるが、資本家と言う機能が労働者階級の外にあれば、自家消費が増えるが、中にあれば、国民内格差として現れる。