資本論の考察-3

・W'  の換金活動を担う商業は、生産であり消費である。もし、' を超える支出で商業活動を行うなら、生産資本段階での剰余価値生産の意味は失われることになる。したがって生産資本との関係での商業活動はその範囲以内の発展にとどまる。本来なら生産資本で変態させた商品は生産資本所有者自身が販売することも可能だ。

 

商業には、GーG' のような高利貸し的な発展もあるのだがこれもあとで検討する。

 

商業を考察すると、輸送と商品販売による換金が主な仕事となる。要は商品資本となった商品の分配を担うのだ。

その目的は、生産資本は一旦失われて増加した商品資本に変態したのだが、それは可変資本の稼働増による価値増殖を伴うWーW' である。

ここで商業活動は、

W'  をG'δ-と交換してpm+Aを付加して輸送し販売してG'を得る。

ここで、W'+pm+A(+m)=G' となる。

 

資本論の定式

GーW (pm+A)...p...W' ーG'

は、実は

GーW (pm+A+m)ーW'・(pm+A+m)ーG'

が正解ではないか?

 

ここでは、商業活動が雇用を伴えば=労働力が商品となれば、ここでも剰余価値が発生することになる。

これは運輸資本や商業資本としても増殖拡大できることになる、ということである。

 

今回は資本論貨幣論との関連で変態をG貨幣の雑念を捨象することで考察を試みた。

 

マルクスの時代は、3巻でマルクスのメモ原稿を元にエンゲルスが寄稿し信用にも踏み込んではいるものの資本主義的生産の規模があまりに小さく体系化は未完成。

資本主義システムにおける貨幣は、瞬時に持ち手を変えるので、貨幣としての存在意義は低い。

信用による手形のような借用書、口約束で足りるレベルで変態により生産資本、商品資本、に移転して止まらない範囲であれば貨幣資本の独立の意味はない。

 

商業資本は、生産資本に対して、流通段階で商品から貨幣に転換するに必要な資本=pm+Aを減じた手形を発行して商品生産物を受け取り、販売してG'を得る。差額が利益となり、pm+Aを減じて尚利潤が得られるのは商人のスタイル。商業資本は生産資本稼働時と同じくAをA+m、と増殖できるのだ。

要はW'  で終わり、ということではない。

商品は、自ら歩いて遠い等価交換市場に行って自らが貨幣と等価交換して生産資本の所まで持ち帰ってくれれば別だが。

増加した生産資本の剰余価値は商品資本段階で、まだ価値として実現してはいないのだ。

 

W'  は価値増殖しているものの、生産資本としては作りっぱなしの工場搬出口の商品と生産資本不足による次期生産の停止でしかなく、貨幣資本を経由して増加生産資本に戻さなくては剰余価値増殖が止まる。

商品資本としては価値増殖されてはいるが、=商品量としては労働力商品の特殊性により増加した商品ではあるが、価値はまだ実現できていない。価値の実現には輸送や商業活動分の減額が必須なのである。

自らが生産資本の活動停止させながら、商品は自ら歩いてとりあえず貨幣資本との交換に旅立ってくれないことで、輸送や店での販売等に費用がかかるのだが、その費用分を商人に任せて、それを減じた額の貨幣資本に転換して生産資本転換させ生産を再開継続することで剰余価値生産の持続が可能となる。

 

マルクス資本論は、作りっぱなしの商品資本としての価値増をもって止まっているのだ。商品自体に価値の実現を委ねて剰余価値分を100%実現=貨幣資本回収させる、という根本的矛盾をもち、ここでは労働が必要にもかかわらず労働価値説から逃避しているのだ。

 

マルクス資本論を否定する必要は全くない。労働力が商品として提供されることで、剰余価値を生み出し得るし、階級が形成される。しかしそれは生産点だけではなく販売点でも、ということだ。

 

資本と労働との階級分離は発展拡大する。それを生産点のみに矮小化して解釈することは、現代社会の資本主義システムの分析を矮小化することになり、これはマルクスに責任を求めるのではなく、現代資本論研究者に求めるべきで、マルクス階級闘争の必要性は立派に生き続けているのだ。格差拡大の更なる発展という形で。