経済のポイント-2

・余剰生産物とは何か、という問題を深めなくてはならない。

余剰とは文字通り余分な、余った、ということとすると、何に対して余ったのか、ということだが、それは労働力支出に対する分配分が、支出以下であることによる。

余った、というのは集団的生産活動における

販売代金ー[原料代+(減価償却費+労働所得)]=利益

の利益である。

利益は、タダ働き時間の存在さえあれば、原料代と減価償却費をより多く加算しながら生みだすことができるのだ。

問題はこの利益が誰に属するか、だ。

タダ働きをやめることにする=階級を労働者階級だけにする、というならタダ働きではなく比例した労働所得になるだけのことだ。その為の過剰な生産は必要がない。

 

利益が労働者のみに属すれば、労働時間短縮か別の生産活動か余暇かを労働者自身が選べるのだが、収奪階級が存在すれば、その階級の処分できる利益、となる。

処分は、消費として別種の生産労働を誘発もできるし、機械生産等での固定資産に消費=投資すれば、次期生産から更なる利益をも生み出せる根拠がえられる。

 

貯蓄と同じで、

•総生産ー総消費=貯蓄(=余剰生産物)

であり、それは労働価値説をとるならば、

総生産物は総労働支出によるものであるから、過剰労働支出がなされたことに起因する、といえる。

ただこの場合の客観的な階級制度を無視した経済情報は、貯蓄の処分者がどれだけ自家消費に向けているか、が問題となるが。

本来なら生産労働所得であるはずのものをどう処分したか、だが機械投資などの公共的投資であるならば、その後の向上生産性分が、時短や賃上げに向かうなら、労働所得の後追い的支払いとしての正当性は保持できるのだが、実際はそうではない。

 

ロビンソンなら、自らの労働支出は、目的生産物量を得るまで行われ、目的生産物量が生産されれば、別の目的生産物量の生産労働に移ることになる。

過剰労働支出は、自らの判断で行わないようにコントロールでき、余った労働時間を別種の生産労働にあてられる。

過剰生産は必要ないし、弊害さえ生む。

それは不必要な労働支出であり、別種の目的生産物は数多あるのだから別種の需要物生産を阻害する無駄な時間であり労働資源の浪費なのだから。

 

生産の多様化に向かえれば、トータルでより高い水準の消費生活が得られるのだ。

 

また、彼の労働支出は、目的生産物を得る為だけでなく、より労働時間を短縮する為の道具作りにも当てられる。

生産手段の高度化、具体的には労働補助具である道具や機械の生産の為の労働支出も自らの使用可能労働時間の中で行う。

目的生産物量を得る為の労働補助具使用による労働時間が、不使用労働時間の場合より短縮できるからでしかない。

その場合にのみ労働補助具生産労働は価値をもつ。価値をもつことは実証を必要とするので失敗を含む実験的労働時間も必要となるのだが。

 

要は、ロビンソンの暮らしを豊かにするのは、自らの1日を単位とした可能な労働時間をどう支出するか、なのだが目的生産物を自らの肉体労働に頼ったものから、道具=労働補助具を生産する、より正確にはその労働補助具量を維持できる道具の減耗量分の生産労働支出を常に伴うことにより、短時間労働での生産水準を維持することができる。

 

目的生産物量生産に要する総労働時間は、

 

道具使用労働支出+道具減耗分の道具生産労働支出

 

であることがわかる。

この過程で余剰労働時間は発生し、これを道具の高度化に向けた実験研究にあてることも、娯楽や過剰な休息にあてることも可能だが、前者に当ててより高度な生産手段である道具を見いだせれば、更に余剰労働時間が得られる、この循環である。

 

余剰労働時間を消費にあてることも、生産手段生産や研究にあてることもできるのだ。

余剰労働時間を過剰生産に当てて、それを消費するだけの被扶養者扶養消費にあてることも可能であるし、その労働者階級人口も支配階級の移転所得を増やすことも可能であるし、生産手段生産労働者の雇用費にあてて、分業することも可能である。

この直間比率はマルクスの再生産表式を参照すれば良い。直間バランスで分業社会を維持することはロビンソンでは不可能だが、集団的分業社会なら同時並行が可能となるのだ。

 

ロビンソンなら、1日の可能労働時間を、食糧生産と、この生産労働時間支出を短縮できる道具減耗分生産労働時間と、これで得た余剰労働時間で、衣、住、生活インフラ、とより豊かな消費生活材生産に振り分けることができる。

ロビンソンは、道具=直接労働時間短縮の為の生産手段の高度化により、加速度的に豊かさを得られることがわかるし、実行できる。

更に、娯楽や放蕩や怠惰や休息時間の拡大が、モチベーションを維持する為の時間捻出も可能となる。またそれは自分で選べるのだ。

簡潔に言うなら、全ての労働所得は全てロビンソンが処分する支配権をもつ、ということだ。

 

以上を元に、ロビンソン段階の特殊例から集団的現実社会での経済モデルの検討に入る。

 

社会的生産活動は、分業化による労働所得の市場による交換を前提とした、需要に基づく各生産単位の過剰生産を前提とし、過剰部分を交換することにより、当該生産単位以外の過剰な生産物と交換できる、商品市場経済をもつことになり、それが必要にもなる。

過剰部分というのは、まずは、現物経済で考えるなら

 

1.自産業の労働生産物で自らの労働者需要を満たすことだが、それでは自産業の生産物しか享受できない。全需要に対しては労働量不足により生産量が足りないのだ。

 

2.交換のための商品を過剰に生産しなければならない。交換用商品は市場で交換されるから、その流通労働者の非生産的?労働にも更に分配されなければならない。その分配分をも過剰生産しなければならない。

 

3.また、当該産業の発展の為の生産手段の高度化による固定資産投資減耗分も確保しなければならない。これは資本家であったり、庄屋や借地農経営者であったりは、資本主義か農本主義(絶対主義的封建社会)かの生産システムの違いをとわず、その時代による経済体の代表支配者に分配されるが、ここへの分配分も生産しなければならない。そうしないと次期の生産性が落ちてしまうから。

しかし、この段階までは再生産循環、単純再生産維持である。

 

4.更に、ここから先の労働時間生産分はタダ働きである。

利益が出る根源となる労働時間分であり、賃労働でない無償労働すなわちタダ働き分である。

このタダ働きで生産された生産物分も、流通を経て利益となる。これが生産単位の長である資本家や借地農経営者に帰属される。これが剰余価値生産であり、この生産物の帰属が問題となる。

 

ロビンソンが道具使用労働で得た余剰時間にあたるが、ここでは利益貨幣として存在する。

これを生み出すのが、資本家でありまた借地農経営者であり、国王などの支配階級の生産目的である。

階級が労働者とは別に存在しタダ働きを強制するのだ。

 

4.こうして産業体とそれを束ねる国体が出来上がる。

農本社会なら、献納品は、現物でやることもあるが、保管管理が面倒だし、交換に時間軸が発生するので、貨幣経済が楽であり、貨幣経済に移行していく。

国家の発行する法定貨幣に交換等価性を証明する金銀などの商品貨幣は必要はなく、納税条件に法定貨幣を強制すれば、紙幣で十分になる。

国家には徴税権があり、それが国家の本質である。

国家が紙幣の税収回収分以上に乱発をすればインフレになるだけのことだ。

商品貨幣を使うと、資源採掘量や採掘コストが経済発展に追いつかなくなり、現物商品流通を阻害するので、デフレとなる。

仮に、法定貨幣=紙幣=借用書、を使っていても、経済発展すれば紙幣発行が追いつかずにデフレとなる。

その意味ではデフレは貨幣現象である。法定発行貨幣の不足する現代のデフレは、国家が保証する国家の借用書の発行不足であり、その意味ではインフレにするまで、即ち国=政府以外の経済主体である、家計と企業体の合計する貯蓄水準まで、国債を発行して公共事業や公務員給与含む国家消費を拡大することが求められている、のだ。

この国家の国債発行による消費は、企業による生産活動を誘発してしまうので、ここへの投資が必要となり、労働所得も発生するので、資金需要が起き、景気良くなり金利も上がる。税収も増えるから高金利国債も発行しにくくなる。

交換バランスがとれるようになるのだ。

 

脱線したので、

この話を、次の段階、即ち閉鎖経済=鎖国状態を前提とした集団経済社会に移す。

自由経済での資本の国家障壁を越えた現代社会がin vivo、なら、一昔前で、現代の米英のアンチグローバリズムは、鎖国閉鎖経済への回帰であり、in vitro的であるから。