経済のポイント-1

・経済とは、資源を人の生存や欲望を満たす為に活用する、一連の人の財やサービスの生産、分配と消費行動を総称するものだ、と私は考える。

 

人は人生の大半を生産活動のために、即ち労働所得を得てより持続的に豊かに暮らす為に捧げるが、その割にこの経済の仕組みや原理がわかっておらず、生活費を稼ぎ死んでいく家計の経済主体者でしかない人が大半であり、そのこと自体当たり前なのだが、しかしその経済活動の客観的体系的理解が乏しいまま、人生の大半の行動を規定しているのにもかかわらず、ある意味経済奴隷として無事に生き、そして死ぬ。食うために働いて生きる。

私はその役割が終わったことで、疑問であった趣味の世界に集中できる余暇を得た。

学校教育では、経済学は専門で学ぶ人以外は、そのリテラシーは全く高くはない。教育者自体が経済と最も無縁な世界にいるのだから。

 

特に日本人は貧しく勤勉で謙虚、経済の知識には遅れを取っていて、武士の時代の古き精神主義や姿勢が尊ばれ支配する精神社会がDNAとして教育の場にさえ働く。

個人主義でなく調和や忍耐の精神、である。

「奉公と恩賞」的価値観が行動規範となり、このことを受け入れるしかないし、また身分制度はないので努力による改善が、自らの奉公のレベルを上げ、その先の恩賞に繋がりうる、と考えて行動する。

その為に恩賞総量を減らされることへの不満を自らの力不足と自傷的に捉えて処理しがちであるくらいだから、政治への関わりも少なく、またその期待も少ない。

勤労者国家であり、ノーベル賞受賞者は経済学部門において残念ながら日本人は皆無であり、経済学後進国の職人的労働者社会が形成されている。

 

過去から現在までは戦後復興経済では勤勉な職人、それでもよかったが、戦後復興キャッチアップの終えた時点で、最早この段階からの変化が求められた。

しかし豊かにはなるが、職人のままなので、職人を捨てて土地投資、株式投資の世界に誘導されると弱い。生産より慣れない投資でバブル発生してバブル崩壊。レジューム転換できないまま現在に至る。

 

バブル崩壊後は、自国生産より外国への生産点移動を繰り返し、結局は自国の生産基地と職人的生産活動を喪失して成長を止めて現在に至っている。

平和な時代での職人社会の限界を見せている。

次元の高い次世代型の新たな需要が必要なのだ。

 

戦略なき、哲学なき盲目的職人国家の限界が、30年近い無成長国家、収縮国家となり、世界の進歩とは対照的であり続けているのが日本の現在の姿。

個人主義思想の乏しい社会なので、社会的調和さえあれば、全体が貧しくなることにさほどの問題意識は薄いままでいられる。

「調和」が主たる価値なのだが、それは世界環境の競争加速の変化に対して無力となることでしかないのだが。

全体主義的な思想観が、この先を制御してしまっているようだ。自由主義個人主義が良い形で働かないと、無気力国家となる。

企業が貯蓄をしている、もうその段階に入っているのだ。

日本は既に新たなレジュームを必要としていてその模索、が今なお続いているわけだ。

 

新たなレジュームが必要な段階では、経済学の社会的平均的リテラシーを高めることは極めて重要であると考える。私もそれに参加したいだけなのだ。自らの勤労人生だけ、への反省も込めて。

 

日本は、戦後復興の需要過多供給力不足の中で、借款による外国資本を元に、元々の高い技術力と統制とれた勤勉な労働力駆使をして、国内需要の高さをバネに、また固定相場制の中で国外需要を取り込みながらキャッチアップし、技術を低賃金で具現化して輸出により労働所得を上げ続けて高成長し、経常利益を上げ続けてのし上がり、世界第2位のGDP国家となった。このモデルは、韓国、東南アジア、中国の発展モデルに現在まで引き継がれている。

 

しかし、平和な時代の、安価な石油原料と石油エネルギーの活用による加工労働で長時間勤勉に労働し、既存の国産石炭や農業生産物の切り捨て政策による経済効率最優先の経済政策を国是とした。

安全保障と市場はアメリカに依存した。

 

冷戦という軍事的平和と、アジアでのアメリカの反共戦争実行での戦争特需により加速度を得たもので、アメリカの側に組することである意味余計なことはせずにモーレツに働いてさえいればよかったのだ。

 

冷戦の終結、で世界は変わったのだ。

アメリカは、終結前から主敵をソ連から、日独に移行し始めた。冷戦後は更に鮮明になった。

その手段は、グローバリズムによる中国を中心としたBRICsの経済成長によるアメリカ金融経済の成長だ。しかし、この結果中国が育ちすぎた。日独は停滞、主敵の軸足を反中国に移し始める結果を招いた。

アメリカの対日貿易不均衡への不満、冷戦の崩壊、グローバリズムの資本のBrics投下、Bricsの日本モデル発、日本とドイツの中国への資本投下参加、中国の日本経済モデル化、世界的な資源不足による資源価格の高騰、中国の急成長と世界の工場化、そして帝国主義化、中国潰しによるグローバリズム弊害の見直し、保護主義の台頭によるグローバリズムの終焉。

 

石油価格の高騰とアンチグローバリズムによる保護主義の台頭、は経済効率優先国家、貿易依存度の高い国家にはその所得形成を大きく損なうことに。

資源を持つ自給自足型国家、又は閉鎖型経済圏が、開放型平和貿易優先国家に対して優位となるのだ。

平和の時代から国家対立の時代に、移行すると、

この後世界の主導権争いの中で、立ち位置が求められるのだ。

リカードの理論の前提となるのは、平和と保護貿易による自国産業保護を経済原理で否定すること、であるがここにアンチグローバリズムが、英米に台頭したのだ。

ドルは国際的基軸通貨であり、その影響は計り知れない。平和の時代が危うくなったのだ。

 

話を戻そう。

経済を考えるためには、試験管の中の世界、と複雑な現実そのものを見る世界とあり、in vitroとin vivo、である。

ロビンソンの発展形が現実の社会経済であるから、常にその対比で経済現象を比較判断をしてみるのがわかりやすい。

まずはロビンソンの、in vitroで見てみよう。

ロビンソンの暮らしなら、

生存のために自ら生産労働して得た生産物を自ら消費するか、余剰生産物は将来の為に貯蓄する。

本人のみの生産労働所得の獲得と消費と備蓄、である。

取り敢えずは食糧生産が最優先されるのが彼の現実生活だろう。

 

運悪く生産物が不足する場合は、蓄えからの消費に代えることもできる。

この場合は現在労働所得ではなく、過去労働所得の消費となる。

もし蓄積分の消費で不足する場合は、外部の経済圏から自らの労働所得での将来的債務を負って交換消費する。将来の労働所得で債務返済する義務を負うはめになる。日本の戦後復興などで見られた方法である。

ただし閉鎖経済圏で個人生活するロビンソンにはこの選択肢はないのだが。

 

消費とは、即ち労働力の再生産を充足する為の補充行動であるが、その消費需要を労働生産するのであるから、経済の本質は労働価値説が根幹となった生産と消費の循環的進行行動であると言える。

 

・個人生活ではなく、集団社会では、社会的総需要を社会的総生産で支えることになる。

 

現実世界では、少なくとも有史以来、集団社会で経済活動は営まれてきたし、種の保存の為にも扶養家族が最低限必要となるので家計を経済活動の最小単位としてきた。

ロビンソンのように個人が単位となるのは特殊な、瞬間的な異常事態でしかない。中長期の継続性が全くないのだ。再生産増殖が維持が課題化できないのだから。

 

家計は経済活動の基礎的単位である。

家計の基本価値は種族維持、持続的な労働力の再生産活動である。

家計の消費支出を支えるのに必要な個人を超えた規模の生産力は、

個人的労働より一族や村、企業などの集団による生産活動によって得られる。

分業的な専門的集団的生産労働の場に、生産資源を集中投下して共同生産する方が、総生産力が高いから、なのだが、その高い生産力は余剰生産物生産による分業的な高度生産を前提として交換過程により全需要を社会的に満たすことになる。

 

何故集団、専門化が生産力を増すのか?

それは生産手段を集中できるからである。

例えば、一人で素潜り漁を簡単なモリで行うよりも、船や漁網を製造するグループと少ない人数で直接船からの網による漁業労働するグループとに分けた方が、総漁獲量/1人当たりにした収量が、漁網生産者に分配してもなお多いのだ。

分業による機械などの生産手段を作り、機械が人に代わって人の労働を助けることで、一人以上の生産手段として労働が機能することによる。

したがって機械の減耗分以下の労働支出で機械が作れるのなら、直接労働の削減に貢献するので、削減分の労働時間の追加生産が可能になり、その分が剰余価値生産物を生むのだ。

もし、それが需要を超えた過剰生産となるなら、労働時間を短縮し、余剰労働時間を他の部門の機械製造などに労働力を分配して当てることができる。

生産工程は、協力共同が有効である。

 

しかしながら、協力による余剰生産物を生むことはできるが、分配という課題では、より多くとする皆の存在で常に対立構造となる。また、分配の為の経費支出すらも伴う。

 

たとえば農耕社会であれば、収穫期までの秋までは協力、秋のあとは分配対立となるし、狩猟民族なら獲物を取るまでは協力、取ったあとは分配対立となる。

生存権が得られる量の分配にありつけさえすれば、労働力の再生産が可能になり、余剰生産物の分配については、社会的な力関係論が作用することになる。政治が登場することになる。

 

生産、分配、消費の主たる活動領域としての経済圏の内部の分配を規定する力関係が、たとえば国境をもつ国家、即ち限定的な閉鎖経済圏の中で繰り広げられる。これを維持する上部構造を形成するのが国体である。

 

国家とは、分配の比率を恒常的に規定した組織体制を常に維持しようとし、またこの分配に異論を唱えるものとの闘いによる動的平衡を維持する為の体制スタイルなのだ。

 

国家の強制力とは何か?

これは徴税能力そのものである。

徴税能力が高ければ富国強兵も可能で、存続が保証されるだけでなく、経済圏外に対してもリカード的な等価交換をも強制でき、また等価交換を超える権益すら得られるのだ。後者の方が強いが。

 

経済学では自由市場による等価交換が数学的に語られることが多いが、また主流であるようだが、経済圏や国の力量差により圧倒的には不等価交換が交換の主流であり、徴税権に似た力関係が常に働く。

そして優位に立つ個人や国が実利を得てその差は自由に任せれば格差拡大するのは生存競争において当然である。

 

もし、国税地方税やヤクザのみかじめ料を超えるのなら、即ち労働所得の分配において、主要な余剰分配を国家権力がナンバーワンで得られるのであれば、国民は国家の奴隷となる。

一方で徴税の国民への再分配がより多ければ、国民主権性の大きい国体国家となる。

国家が徴税して再分配し、国民の消費需要に還元する民主的国家ならさほど問題ないが、ここに巣食って他人の労働所得を貪る非生産階級が常に存在してきたのもまた現実である。

 

もし、格差是正の再分配機能を弱めすぎるのであれば、弱肉強食推進拡大となり、国家の徴税権はその大義を失う。

民主国家なら平和革命が起こるし、非民主国家なら暴動や暴力革命を誘発する。

ジニ計数はそれを物語るものだ。

 

総じて集団的生産社会にはロビンソンという単純で特殊な例と異なり新たな分配問題が起こる。

 

個人での生産活動は、数多ある消費需要のうち、1つずつ生産してから別の生産に移るという方式の為に熟練度がなかなか上がらないデメリットと、一度に単品しか生産できない限界がある。

病気になれば医療や生活保障も受けられない。協力関係のない悲惨な生産世界に身を置くことになる。

交換による他人の労働生産物との交換ができないからだ。

交換のためには、過剰な生産物を生産して、村の定期市などで交換して生産物以外の消費需要物と労働所得とを定期市で通用する通貨により交換しなければならない。

これは、労働時間によらずに需給関係による需要の差によって不等価交換(=労働所得は結果でしかない)されるが、その後の生産参加が増えることで等価交換により近いレベルに収斂はしていくが。

圧倒的には、不等価交換が多い。

誰もが作れる農産物は、すぐに需要に対して過剰に生産できるので、生産労働の再生産費分の労働所得は得られにくい。労働所得は実労働より低くなるのだ。

 

また、定期市は、市の維持経費も支払わなければならないが、また大きい定期市ほど経費はかかるが、早くまた多様な交換ができるし、定期市が国の管理なら税としての所場代を払わなければならないのが常である。

この市を盗賊や、他国による占領支配を免れる為には、治安費も所場代に組み入れられるしかない。

恒常的な権力者による治安や防衛維持の為に、税が徴収され、権力者は官吏や軍を、知的には宗教者をも内包しながら、労働所得の部分を税として収奪し続ける。

定期市の胴元、が経済圏支配を最も容易にする。

この延長線上の定期市群運営の全体の胴元、が国家である、と考えるのが妥当である。

定期市を使わずに、生産物から強制的に徴税を土地の使用権を名目として行う事も可能だが、それは絶対主義的な封建時代のように、農業の余剰生産物だけが富の源泉である時代の農本主義時代の上部構造に過ぎない。

農産物が過剰生産されれば、この上部構造は徐々に希少価値要素からの工業製品やサービス労働からの過剰生産分、いずれにせよ余剰生産分からの徴税に軸足を移す。

 

こうして過剰な生産力からの徴税を背景として上部構造が出来上がる。上部構造とは徴税権力そのものである。

徴税は商品の等価交換としてではなく、片務的な不等価交換でしかない。

 

もしも、物騒な地域で盗賊の出没の激しい地域なら

経済圏の擁護又は拡大の為の権力者間の生存競争も激化するのである。

永遠の平和も永遠の戦争もない。

労働所得からの徴税権を巡った争いは続くのだ。

 

平和の時代も富国強兵として、次の戦争への準備がなされ、戦争を拒むのは従属し収奪される道を選ぶことでしかない。

 

・労働所得の過剰生産物の分配問題こそが永遠に続く課題となる、というわけである。

 

結論として、ロビンソンには、需要を超える過剰な生産活動、生産労働は不必要である。

社会経済でも、個別には、需要を超える過剰な生産活動、生産労働も不要である。

社会経済では、分業により生産性をあげることができるので分業が行われ、交換の為の流通により、総需要分の総生産が行われ、この中には流通の労働需要があるので、その産業に関わる人の需要分も生産増し、交換消費する=これがGDPそのものなのだが。

 

ここで、余剰生産物を更に生産する意味は、本来なら不要なはずだ。社会的に総労働時間が短縮できる機械生産を含む生産性の成果を短縮せずに、労働継続させることで発生する余剰生産物という形の労働所得を不等価交換により不労所得として占有できる社会の一部の非労働者の発生、高まる生産力の成果分を支配することができる支配者、即ち支配階級の発生そのものである。

余剰生産物の量のレベルが、支配階級のレベルを規定するのだ。

 

ロビンソンでない社会的経済にあっては、余剰生産物の存在と階級の存在とが同義である。それが結論である。