資本主義を考える-11

・ケネーの範式では、貨幣を捨象して考えると

生産階級は、20の農奴食糧と種籾と、100のうちの10、即ち1/10の固定資産減耗=生産手段との農奴の結合労働によって、10を減耗させながら

50の生産物を得る。

ここで得る20の剰余生産物は、農奴を監視収奪する借地農経営者が取得し、生産手段の所有権がここにあれば、農奴には賃金=生存用食糧を与え、生産手段所有権を盾に余剰生産物20を自らの所得、とすれば資本主義システムの資本家そのものの機能である。

実際は、借地地代として支配階級に全納税しているにすぎない。

この絶対主義的な収奪システムがある限り、資本蓄積が借地農経営者には生じ得ない。支配階級がその所得を農業の拡大再生産、即ち不生産階級に支払って農機具や肥料の生産、農薬の生産、農業施設建設、開墾による農地増、などを行えば増産でき、増益ができるが、豪奢な自家消費に集中しているので、資本家として機能しなかっただけのことだ。

 

島国などでなく、大陸で領地紛争が頻発すると、軍用鉄器生産に入れ込むので、消費増となりますます所得は増えず借金が増す。

しかし、戦勝すれば開墾にあたる新農地と新農奴=生産手段、が得られるが、マクロ社会的には±ゼロ、ゼロサムである。

競争社会である以上、参戦はせざるを得ない。

 

100の固定資産のうち、1/10を生産手段として減耗しているのだから、100の固定資産蓄積投資は過去に形成していたことになり、投資力が停滞して減耗補充のみとなっている発展力が=増産力が落ちていた単純再生産社会となり、成熟していたことがわかる。

 

また、過去には、農機具の発達時期があり、ここに消費分を投資に振り向けた社会が存在していたこともわかる。

税収奪を弱めた賢明な?或いは甘い?支配階級がいて、生産階級内に余剰生産物が減耗分を差し引いてもなお残があり、その残を階級内で消費しきらなかった未来志向があり、固定資産即ち生産手段を拡大蓄積した歴史があったはずなのだ。

100はその証である。

減税してその分を投資による固定資産増にすることでも税収は増えるのだ。現代日本の逆構造だが。

 

支配階級には20の剰余生産物が納税されるが、彼らは自家消費専任者集団であり、その消費のうち、食糧以外は、残余食糧所得と非食糧生産物との交換で消費材を仕入れて消費する。

その消費材は、不生産階級によって労働生産された加工変形生産物10と食糧との交換となる。

 

加工変形生産物を生産するには、原料が必要であり、10の原料は生産階級から得る。-10借り状態。

対支配階級に、5の原料と加工賃5で10の価値物を生産する。同様に5の原料と5の加工賃で10の価値物を作り生産階級に代物返済する。2階級に対して、10の原料で10の労賃を付加して10ずつを販売、10は原料費、10は労働力再生産費として得るが食糧消費して終わる。

要は日暮しの労働者としての自営業市民である。

 

こうしてみると、ケネー範式における中世の絶対主義的農本社会でも、生産手段の利用による農業生産で剰余価値生産がなされていたことになり、言い方を変えれば、農業部門だけの部分資本主義、が農本社会の特徴である。

不生産階級に剰余価値生産はない。が、前章の通り、不生産階級の2階級への需要に対して、機械化投資を行うことによる過剰生産により、生産量増=販売量増=所得増が得られる。

資本主義システムへの移行は、しかしながら動的平衡が保たれる単純再生産社会にあっては生まれる余地はない。需要がなければ投資分が欠損金を産むだけになる。

需要拡大、即ち有効需要、即ち閉鎖経済圏では有効需要は増加はしないのだ。

農産物について言えば、人口が停滞していれば生産増の必要がない。仮に機械化投資をしても、輸出できなければ、富裕者と失業者が増えるだけで所得の移転が起きるだけで、ゼロサムである。機械化投資分が負い目になるだけだ。

 

生産力を背景とした国外輸出がどうしても必要になる。特定の産業に独占価格が形成されても、需要は増えず、他の産業を衰退させるだけだ。

要は消費所得の総体が変化しなければゼロサムであり、格差の拡大でしかなく、生産性上でより有効な投資は、労働時間の削減となってあらわれるのであるから、マクロでは需要に変化なければ失業者や生活保護必要者を増やすことと並行することになる。そうでなければ所得は増加し得ない。

資本蓄積は雇用減を一方で作り、その失業者増圧力こそが生産性向上そのものだからである。

また、移転した所得は、その所得との交換を求める労働がなければ、総需要が減退する。

 

ケネー範式での不生産階級は、手工業者の集まりであるが、ここに機械生産を伴う資本家階級による生産システムが入ると多数の失業者(と機械生産労働者)が現れ、過剰生産力のはけ口を国外需要に依存することになる。

不生産階級を代表するのは、絶対主義王制ではなく、生産管理できる資本家グループであり、ここに権力と収益が集中するので、国際的覇権主義が生まれる。また、失業者の処理には、覇権主義の軍隊への徴兵がもたらされることになる。

 

これをも拒否するならば資本は増殖できず、不生産階級が全て資本家の雇用になると、資本主義の発展は止まり、過剰な生産手段が重荷になる。この生産手段投資が債務を負ってなされていたならば衰退は加速する。

絶対主義支配階級には既に上限の農産物生産力があり、税収も一定。

比べて不正産階級は統合が進み資本家と労働者と失業者増に。資本家も対外膨張を考えないと、失業者分の本来所得分を自家消費しないと総販売量が減ることになり、投資できずに自家消費が増えることで没落基調にならざるを得ない。

また、生産階級も絶対主義王制で発展性なく固定するので、この中に機械化による省力化は、同様に失業者を生み、不生産階級に放出され、失業者増となる。この場合、生産階級と不生産階級の区別は必要なく、資本家、労働者、資本家収益分の失業者(資本家自家消費分の雇用は生まれるが)、旧支配階級、の混在した国家となる。

一巡すると投資がないので、金融機関も衰退する。新たな支配階級となった資本家グループを支配の頂点としつつも投資による生産力増に伴う所得増の道がなく、覇権主義的、又は輸出入貿易による所得移転の期待を実現するしか道はない。

 

他国を踏み台にする覇権主義債務超過にさせ紛争になると軍事力を背景に債権回収をはかることになる。国内的には、独占価格での収益維持や労賃の節約=(総賃金の減額=非正規構成増を含む)対策が進むが、それ自体が需要を削減する。

この手を緩めれば矛盾は先送りされるが、暗い新中世となる。社会不安や治安の悪化で所得を守るだけの資本家と、まともな給料もらえるのは一部の正規社員のみで、ほとんどがブラック企業になって企業存続を優先せざるを得ない。

打開策を覇権膨張にせざるを得ないのは中国を見ればわかる。

支配階級とそれ以外、が激しい格差で維持される中世が、

資本家階級とそれ以外の更に激しい格差で維持される新中世となる。

生産階級と支配階級だけの新中世、支配階級の所得の投資がなく、消費だけが失業者を救済するものの、所得を消費しきらない限り、失業者が残る。

 

覇権主義の実行による経済発展か、新中世か、どちらを選ぶかだ。

また、資本家は貿易摩擦により、資本輸出による生産手段投資の国外化による収益を求める。

国内生産手段に投資の意味はなく、補充のみてあり、補充すら行わなければ失業者が溢れ、一方では国外収益だけがある。国内労働者不要論となる。

 

国外戦争を嫌う健全な日本人にとっては、資本輸出を嫌う闘争が求められるし、資本輸出が債権回収不能となろうと、軍事力で回収するのを嫌がるとすると、国内の仕事はなくなる。

国外債権の回収、の仕事が中心になりかねない明日を憂う。

 

資本輸出は、資本の自由ではあり、規制しなくてよいが、外国で再投資するなら勝手にすればよいが、日本に持ち帰る時に、再投資分も収益として高税をかけないと国内に持ち込めないようにしないと。

そして、国内の民間投資には雇用の観点から税制を優遇し保護すべき。そして、輸入品に一定の税をかけて国産=国内投資と国内雇用の補助金として再分配する、要は保護貿易になれば、国内経済は安定化する。アンチリカード政策は、グローバリズムの弊害が高まり、覇権主義がぶつかり合う時代には、自立性経済に投資を官民でやる政策こそが経済を成長させ、国際的地位衝突を決定的にしない策である。

極めて不合理ではあるが、国内の弱体産業を育成した方が良い。なぜなら雇用が奪われないから。