経済を考える9-7

ロビンソンクルーソーの暮らしを見て、需要について考えると、彼の暮らしは、需要だらけである。

彼の需要が満たされるのは、供給力発展の段階で優先順位があるだけで、常に需要には届かない。

食糧、その為の道具づくり、小船作り、より快適な家、娯楽用品、発見してもらう為の狼煙台、水路づくり、これらをやり尽くすと、時間を持て余す状態になる。労働節約して、時間を次の需要の為に活用できない状態になるのだ。剰余価値生産が不要になるのだ。娯楽時間を広げることでしか楽しめることのない時代、必死な労働を必要としない時代になるのだ。

組織社会であれば、この状態を格差を広げることで需要あるボリューム層を残さざるを得ない。

 

ロビンソン労働は、小舟と渡投網漁で魚が短時間で取れる、その範囲で、また近場での農業も家庭菜園を大きくした程度で、島を歩いて果物を採集、その程度の短時間労働で快適なのだ。余った時間は毎日常にあり、道具や家具、家の補修は必要であっても、1日の数時間の必要な労働以外が余暇として残り、労働以外の過ごし方が求められる。それは一人暮らしで、分配での調整が不要であることによる。

 

資本主義システム社会も、再生産力の優位性で同じことが起こる。剰余価値生産を目的とした労働力を商品とした供給力生産の時代が終わってしまうのだ。

労働力が商品とならない時代に対応するシステムとそれでも短時間労働は必要で、ただこれは剰余価値の生産を求めない生産システムで対応でき、不生産階級化への戻りが生産システムとして採用され、これが持続する。そして娯楽として、これまで資本主義システムの時代に培った競争原理以外の価値観を持ち得なかったことで、慣性として残る価値の争奪戦のゼロサムゲームを継続することになる。それが剰余価値の金融化であり、金融資本の世界的な賭博場の運営であり、現代である。

この寺銭は、まだ持続する生産活動で剰余価値生産できる縮小した資本主義システムを一部に存続させれば良い。

問題は、既に商品となり生産手段の所有権を失っていて、労働力以外に商品として交換市場に持ち込める物を持たない労働者階級だが、この類は、蓄積剰余価値により生活保護を国が出費する担保があることの裏返しだから、これで最低限の生命は維持できるわけで、生産活動が短時間で終わるのだから、労働者の数も沢山は不要になる。人口減も消極的な対策にはなる。

 

資本主義経済が、生産さえ持続すれば、将来の生産力を上げる為の剰余価値を得続けることができるが、ある産業セクターで需要を満たしてしまったとすると、それ以上の生産は、需要が発生する、即ち生産物の減耗により発生する需要を超えて生産する必要がない。まして生産で得られる剰余価値の将来生産の為の蓄積が不要となり、貨幣資本のまま行き場を失うことになる。この行き場を需要不足に求める戦争や不毛な築城やピラミッド建設などへの投資で当てることもできるが、戦後に、又は築城後に矛盾を先送りにするだけだ。

従ってケインズも先送りの思想でしかなく、それも投資規模が小さすぎたので、戦争で解決するしかなかった。

戦争は、戦敗国には過剰な需要が発生し、焼け野原から健全な資本主義システムによる、新たな都市計画も進み発展し続けるが、戦勝国にはきつい生産過多の軍需生産システムが残る。これを民需に切り替えるとしてもまだ過剰は治らない。いっそのこと、戦敗国に援助として、できれば借金させて消費させるのが一番だ。

また、戦争やるくらいなら、人生をくだらんゲームで中断させるくらいなら、使いもしない大規模なビルや(中国)ピラミッド(エジプト)や築城(封建時代の日本やヨーロッパ)など、価値のないものと労働力商品を交換させる方がマシなのだ。それは、階級社会で資本主義でも何でも生産システムがあり、富が偏在するからこうなるのだ。でも先送りでしかない。本質は不生産階級への戻し、しかない。要は剰余価値を生まない生産システムに優位性があり、長く平和で退屈な中世を迎えるのが一番、ということになる。

 

ロビンソンは、1人なので労働時間の縮小と余暇時間の増大となる。これと同じにすることが解決の道なのだが、社会が階級社会であることから、労働者階級減による縮小した資本主義生産が維持され、剰余価値生産を最適化して追求することから、要は分配を不適正にすることで資本主義システムを維持しようとする主には支配階級の意図で剰余価値生産が継続し、支配階級間のゼロサムギャンブルによる支配階級間闘争として維持されることになる。

それが現代社会なのだ。

従って食えないけどがんばる労働者、がむしゃらに生産体制に残ろうとする労働者、競争に敗れ失業者となった労働者、無気力な非労働者群を一方では生み、一方では剰余価値争奪戦ゲームに明け暮れる少数の資本化集団とに激しく分かれることになり、ロビンソンのようにはならないのが現実だ。

 

この体制を擁護する、この段になっての自由主義経済標榜者の古典派や新古典派は権力論を見ないふりを決め込んでいて害悪とさえなっている。この上に自由にしたら、強欲者をのさばらせることを意味するのだ。かといって社会主義者がこのシステムの対案と、その実行力乏しいままに国権とると、新たな質の低い支配階級を形成する結果となる。マルクス主義はそうした輩に利用されてきた。

さりとて良心的なケインズも先延ばしだけで本質的には役には立たない階級社会体制維持派でしかないのだ。

こうして現代があり、

富めるものは貧しい者に施しを!を掲げる宗教、イスラム教が猛威を振るうことになる。

階級社会は、剰余価値即ち富と共に現れるが、本質的には資本主義とは無関係であり、封建社会にも原前払いとしてあった。

最も理想的には、ロビンソンのような、移行だが、不生産階級型中世の構造に移行できるのであればそれが一番だが、権力論をどうにかするしかない。

マルクスは、資本主義と共に発生増員される労働者階級を資本主義の墓掘り人と呼んだが、果たしてそうだろうか?また、そうなるだろうか?

はっきりしてるのは、資本を貨幣資本として持って、その増殖戦を続けてエスカレートさせることでしか余暇時間を消費できない連中が、ますますその蓄積が増えて、一方で労働者階級の取り分が減っていてその分が彼らの賭博場のチップ、となっているという事実である。

 

できれば有志を募り、不生産階級システム化のセクターを作り、剰余価値生産思想に毒された資本主義に対抗できる優位な生産システムを定着拡大することだが、支配階級に潰されるか否かである。

日本においていくつかの企業があるが、それは少なくとも投資家配当性向より、企業構成員の福利と人間的成長に価値観を持つ、自社株を共有する中小規模の組織を増やす運動である気がするが、アメリカや現支配階級が黙って見過ごしてくれるかは疑問である。労働者への分配増の為の会社づくりが求められる姿であり、権力とも合法的に戦い存在権を確保できないと、ということだ。なかなか難しい。

 

特にリスクを恐れる日本の国民性にあっては、また、デフレの先頭にありながら、アメリカ従属を願う国民性にあっては、アメリカの年次教書どおりに忠実に動く、政治家、官僚による運営を常態化させている現実からは、上記の方向は期待薄で、フランスやイギリス、イタリア、スペインなどの反ファッショ人民戦線政府を実現したヨーロッパの国から、この手の典型例は作られ、その経験を部分的に取り込むことしかできず、アメリカ資本主義に強く従属することになるだろう。