経済を考える8-9

8-7を補足する。

当時はイギリスの資本主義は萌芽の時代で、マルクスの分析通り、石炭エネルギーによる蒸気機関を利用した機械生産を導入しながらも、機械の剰余生産効果は低く、それでも生産力は職人不生産階級のそれと比べて圧倒的であっただろう。機械による生産の割合の低い分、略奪型に頼らざるを得なかったはずだ。というのも、機械の比率を上げる為には、機械自体の生産の成果がある程度産業に蓄積してからの効果であるからで、機械自体の生産体制が整うまでは、その資本となる剰余価値生産が極めて少ないからだ。その時期を短期間に通過するには、労使の権力関係に依存した略奪型資本主義の併用、依存は強くならざるを得なかったはずだ。

 

マルクスの資本主義分析は、残念ながらその時期の限界性あるものであった、と推察されるから、略奪型資本主義の資本論、にならざるを得ないが、当時の先端の現実分析であったこと、他に近代型の資本主義がなく、しかも略奪型資本主義自体が存在しない農本社会が圧倒的だった為、この限界性ある理論が受け入れられたし、労働者の置かれた悲惨な状況も確かにあったのだ。

 

さて、職人生産の時代、すなわち道具を駆使する程度の不生産階級による非食料品の生産体制は、労働力、すなわちエネルギー消費しながら物を有用に変化させる機能を継続再生産することであった。

非食料品生活必需品需要に応えるものであり、支配階級、生産階級、自階級の需要に応えるものであった。労働力を機械の減耗とエネルギー消費と剰余価値生産に置き換えていくことで、剰余価値生産財生産に置き換え、生産材生産にも機械導入でという連鎖によってマクロ的に成長することで、職人生産が機械生産に取って代わられ、機械生産による生産も、より高度な機械生産に置き換えられるので、消費需要が一定なら、より高度な機械生産が需要を独占する生産体制となる、置き換え競争は続く。より高い剰余価値生産目指して競争が続くが、その剰余価値はより高度な機械生産に投資されないと、剰余価値生産が継続できない。この流れを考えるとき、生産体制の高度化のニーズが生産資本組成Wに内包されるはずだ。

貨幣資本Gが、剰余価値gを産み、その剰余価値が貨幣資本として活躍されないと、新たなgを生まない。

しかし、最終消費需要に支えられるこの生産体制の伸びは、需要すなわち置き換えられた労賃減と、他の労働に転換した労賃増の合計の総供給を超えられない。このあたりもあとで検討しなくてはならないかも。