経済を考える8-6

ケネーの範式の時代は、不生産階級の労賃は職人労働の再生産で、その為には主婦も子供も養える賃金はあるわけだ。

これが、工場生産に移行して労働が児童や女性による単価の低い労働に機械化で移行すると、剰余価値が生産される。その意味ではマルクスの生産資本段階で剰余が生まれるのではあるが、ケネーの言う通り、農業は、自然の力で商品自体が増殖するが、労働はその補佐でしかない。農業は労働と太陽や土の恩恵により価値が増加する。一方で不生産階級の特徴は、本質的に価値の増殖はできない。Aという原料を、労働でBという有用物に変えるだけで、それを行うのが労働であることに変わりがないが、機械により、部分的に労働を置き換えることで、労働だけで生産するより余剰が出る。その余剰とは機械の減耗を補充して余りある余剰であり、それが更に高度機械生産の根拠となる。

この余剰、剰余価値の生産をするか否か、ゼロなら

剰余価値は、全額賃金となり、賃金を平均的なその時代の再生産費に抑えて剰余価値をそこそこに抑えるなら、次世代の高度化にも対応できる再生産だが、市場を独占していないと、賃金をギリギリにした方が勝つ。ここで労使の対立関係があるが、生産を管理する部門を労使どちらが主導するかでその分配が決まる。

市場では、職人生産物が駆逐され切るまでは、職人生産物と工場生産物が共存しているが、剰余分の一部は運輸や商業資本の発達を通じた生産活動にも行き渡り、ここでの雇用と機械投資を生み、また一方の使い道として生産を上げる高度な機械と同時に商業システムを高度化する機械の生産をももたらす。剰余は健全に投資として活用されきる。

マクロ的には職人の人口減による労賃総量減と機械を使用する非熟練労働による労賃増加があり、後者が剰余価値を生む為に、この剰余が、市場の商品需要が一定でしかないとしても、機械生産による生産物比率の高まりは、剰余の使い道が高度な生産機械生産に振り向けられるので、また、ここにはより高度な技術が必要となるので、廃業した職人による生産材生産部門への移転が進むことになりやすいのではないか。

であれば、労働者階級は絶対的に貧困化するのかどうかも疑問だが、生産総量の問題が関係するかもしれないので、この検討はこの先にする。