経済を考える5

村の定期市では、W→G→W、即ち、商品→貨幣→商品なる交換を通じて、商品が社会的に交換分配される。過剰生産物を市場で販売換金し、その金で他の必要な商品を買い消費する。これは、労働者、生活者即ち家計部門の行動パターンだ。

 

まず、第1の疑問は、村の定期市で交換用に持ち込まれる貨幣Gは、誰からどのように市(いち)に持ち込まれるのであろうか、という疑問である。

村の定期市は、道の駅だったり、物産市、フリーマーケットなどを思い浮かべて考えると、現代では国定貨幣で取引決済が行われるが、村の定期市ではどうだったのだろうか。

 

定期市が村であっても市(いち)である以上は物々交換では取引主体間での交換は極端に制限されるから、貨幣機能がすでに備わっていたはずである。貨幣なき市、はあり得なかったはずだ。

果物、野菜、穀物、容器、食器、調理器具、各種道具類、寝具、服、靴、などと並んで商品貨幣の金や銀が売られていたのであろうか?だとすると、買うためにはまず金や銀保有者に対して商品を売らなくてはならないし、金や銀の提供者にそれだけの需要はあるのだろうか?ないはずだ。

 

定期市には市の内外を問わず銀行機能があり、そこで金利とともにまず貨幣を借りる、と考えるのが自然だろう。また、反復して流通している間に、売り手が貨幣を貯蓄し保有していくというのが一般的だろう。過剰生産物の量が少ない場合は、自給自足を補う範囲で、貯蓄に回す貨幣の量は限られるが、市場経済は分業による生産性向上をもたらすから、貨幣の流通上の必要量も貯蓄に回される貨幣量も増大し貨幣需要が高まる。村の定期市が規模も小さく身内ばかりの構成であれば貨幣なくとも貸し借りの記録や口約束でも足りるが、市場経済は合理的で交換を早めることで参加主体も増え、取引量も増えるから、やはり貨幣使用が拡大されると考えるのが妥当だ。

担保をつけた借用書にサインして借り、返済は己の商品の販売後に返却する、というのが自然な発想だ。

銀行に信用があるのか、銀行は貸すのに貸し倒れのリスクがないのか、の問題がある。

銀行に信用なければ、貸す金は商品貨幣である金や銀が一番、次に兌換紙幣、不換紙幣の順。借り手に信用なければ、連帯保証人つけるか担保証券を抵当にとるかだ。また、貨幣需要の高まりの中で、商品貨幣が不足することになるが、これは兌換紙幣の発行や信用貨幣の発行でことたりることがわかる。

商品交換に必要な貨幣量は市場を駆け巡るが、市場外からの調達必要な増加分以外は市場に留まるので、市場に追加的に投入される増加分だけの通貨発行で商品貨幣を投入すれば良いことになるはずだ。

 

また、アメリカ史では、イギリスから独立した後、銀行があちこちに生まれ、それぞれの銀行券を発行したが、銀行倒産もあり不良債権化したことも多かったが、州の自治を基本とした為、中央銀行設立は日本より遅くなったし、FRBも連邦銀行共同体であり、日銀と異なり国家から独立したものである。

自治意識が強く市場が安定的で平和で強大であれば、更にイギリスへの納税分が独立後の自由アメリカに置き換えられるだけなら独立のメリットがないと考えるわけで、貨幣供給は州の範囲での銀行の不換紙幣発行で事足りるし完結したいと考えるのは当然だ。中央銀行の必要性は少ない。ただ、市場が内需型から国外の輸出入増大による為替業務の増大、銀行倒産などが州内で支えきれない脆弱性があれば、中央銀行ニーズが起きるのではないか。

独立意識が強ければ、国家に依存する統制経済的姿勢と納税負担を減らすべきと考えるはずだが、日本人は親方日の丸、長いものには巻かれろ、の非独立国民性なので中央銀行の秩序を欲しがり、しかも政府国家の子会社としての日銀によるお上に依存したがる。要は自由市民自営業者的民主主義国家か、国家統制会社労働者型平等主義国家かの差が日米にはあるような気もする。米国の国内市場自体が大きいことも影響しただろう。

いずれにせよ、話を戻せば定期市が存在するところには、金融機能の発達がそれなりにはあったと考えるのが自然で、また、村の定期市の規模の増大は、詐欺や盗難や訴訟の増大を生むし、その為の内政や戦争による略奪や破壊の影響にも対処せざるを得ないので権力の支配下であることがほとんどで、その権力維持経費は、市場未発達、生産力縮小時代は日本における米のような現物での税収奪が基本となり、これを市場で換金する逆の税の流れがあり、江戸時代まではこのスタイルだ。市場経済の発達が貨幣による納税を可能にする。商人のみが貨幣に関わる貨幣の乏しい経済社会だったといえる?

市場経済が未発達な封建的な農本社会でさえ、国家権力の統制下にあったわけで、市場経済が発達したところに根拠を置く古典派、新古典派の経済学で権力の真空を前提とした自由主義市場経済には、国家による必要な統制経費や、それを支える官僚機構や軍の維持経費が市場経済の純粋な等価交換を語っても現実との乖離が広がることになるだろう。

経済学の目的が経世済民から、数学ゲームに陥る危険があり、そのことに注意すべきである。

市場原理主義は強者のみが旨味を得る格差や、信用の失墜、失業、恐慌といった現実をあり得ないこととして捉えざるを得ない限界があるわけだ。アメリカの大恐慌時代に主流派であった古典派に指導を受けた為、レッセフェール、市場原理主義で臨み放任したことで、恐慌は荒れ狂い失業者の群れと信用収縮、取り付け騒ぎ、銀行倒産を産み、結果が世界経済を混乱させ、ドイツを狂わせ、第二次大戦後へと破滅の道に進んだ。救ったのはケインズ主義。

グローバリズムは格差の拡大と弱者の切り捨てを伴い、大量の国際的難民失業者を産む側面もあり、彼らの国際移動の自由化とのセットにならざるを得ない。資本の移動により事業化と雇用が進む為、平均的な国家の労働者は賃上げなき時代を、仕事なき時代を迎え、治安やモラルの悪化をもたらす一方で、資本移動を受けた国は圧倒的な経済力を得ることになる。この現実にアメリカ国民自体が耐えられなくなっているのが現実なのだ。この経済学思想は、ケインズ主義の否定を新古典派の復活でなしとげたアメリカの進んできた結果でもある。