経済を考える9-7

ロビンソンクルーソーの暮らしを見て、需要について考えると、彼の暮らしは、需要だらけである。

彼の需要が満たされるのは、供給力発展の段階で優先順位があるだけで、常に需要には届かない。

食糧、その為の道具づくり、小船作り、より快適な家、娯楽用品、発見してもらう為の狼煙台、水路づくり、これらをやり尽くすと、時間を持て余す状態になる。労働節約して、時間を次の需要の為に活用できない状態になるのだ。剰余価値生産が不要になるのだ。娯楽時間を広げることでしか楽しめることのない時代、必死な労働を必要としない時代になるのだ。

組織社会であれば、この状態を格差を広げることで需要あるボリューム層を残さざるを得ない。

 

ロビンソン労働は、小舟と渡投網漁で魚が短時間で取れる、その範囲で、また近場での農業も家庭菜園を大きくした程度で、島を歩いて果物を採集、その程度の短時間労働で快適なのだ。余った時間は毎日常にあり、道具や家具、家の補修は必要であっても、1日の数時間の必要な労働以外が余暇として残り、労働以外の過ごし方が求められる。それは一人暮らしで、分配での調整が不要であることによる。

 

資本主義システム社会も、再生産力の優位性で同じことが起こる。剰余価値生産を目的とした労働力を商品とした供給力生産の時代が終わってしまうのだ。

労働力が商品とならない時代に対応するシステムとそれでも短時間労働は必要で、ただこれは剰余価値の生産を求めない生産システムで対応でき、不生産階級化への戻りが生産システムとして採用され、これが持続する。そして娯楽として、これまで資本主義システムの時代に培った競争原理以外の価値観を持ち得なかったことで、慣性として残る価値の争奪戦のゼロサムゲームを継続することになる。それが剰余価値の金融化であり、金融資本の世界的な賭博場の運営であり、現代である。

この寺銭は、まだ持続する生産活動で剰余価値生産できる縮小した資本主義システムを一部に存続させれば良い。

問題は、既に商品となり生産手段の所有権を失っていて、労働力以外に商品として交換市場に持ち込める物を持たない労働者階級だが、この類は、蓄積剰余価値により生活保護を国が出費する担保があることの裏返しだから、これで最低限の生命は維持できるわけで、生産活動が短時間で終わるのだから、労働者の数も沢山は不要になる。人口減も消極的な対策にはなる。

 

資本主義経済が、生産さえ持続すれば、将来の生産力を上げる為の剰余価値を得続けることができるが、ある産業セクターで需要を満たしてしまったとすると、それ以上の生産は、需要が発生する、即ち生産物の減耗により発生する需要を超えて生産する必要がない。まして生産で得られる剰余価値の将来生産の為の蓄積が不要となり、貨幣資本のまま行き場を失うことになる。この行き場を需要不足に求める戦争や不毛な築城やピラミッド建設などへの投資で当てることもできるが、戦後に、又は築城後に矛盾を先送りにするだけだ。

従ってケインズも先送りの思想でしかなく、それも投資規模が小さすぎたので、戦争で解決するしかなかった。

戦争は、戦敗国には過剰な需要が発生し、焼け野原から健全な資本主義システムによる、新たな都市計画も進み発展し続けるが、戦勝国にはきつい生産過多の軍需生産システムが残る。これを民需に切り替えるとしてもまだ過剰は治らない。いっそのこと、戦敗国に援助として、できれば借金させて消費させるのが一番だ。

また、戦争やるくらいなら、人生をくだらんゲームで中断させるくらいなら、使いもしない大規模なビルや(中国)ピラミッド(エジプト)や築城(封建時代の日本やヨーロッパ)など、価値のないものと労働力商品を交換させる方がマシなのだ。それは、階級社会で資本主義でも何でも生産システムがあり、富が偏在するからこうなるのだ。でも先送りでしかない。本質は不生産階級への戻し、しかない。要は剰余価値を生まない生産システムに優位性があり、長く平和で退屈な中世を迎えるのが一番、ということになる。

 

ロビンソンは、1人なので労働時間の縮小と余暇時間の増大となる。これと同じにすることが解決の道なのだが、社会が階級社会であることから、労働者階級減による縮小した資本主義生産が維持され、剰余価値生産を最適化して追求することから、要は分配を不適正にすることで資本主義システムを維持しようとする主には支配階級の意図で剰余価値生産が継続し、支配階級間のゼロサムギャンブルによる支配階級間闘争として維持されることになる。

それが現代社会なのだ。

従って食えないけどがんばる労働者、がむしゃらに生産体制に残ろうとする労働者、競争に敗れ失業者となった労働者、無気力な非労働者群を一方では生み、一方では剰余価値争奪戦ゲームに明け暮れる少数の資本化集団とに激しく分かれることになり、ロビンソンのようにはならないのが現実だ。

 

この体制を擁護する、この段になっての自由主義経済標榜者の古典派や新古典派は権力論を見ないふりを決め込んでいて害悪とさえなっている。この上に自由にしたら、強欲者をのさばらせることを意味するのだ。かといって社会主義者がこのシステムの対案と、その実行力乏しいままに国権とると、新たな質の低い支配階級を形成する結果となる。マルクス主義はそうした輩に利用されてきた。

さりとて良心的なケインズも先延ばしだけで本質的には役には立たない階級社会体制維持派でしかないのだ。

こうして現代があり、

富めるものは貧しい者に施しを!を掲げる宗教、イスラム教が猛威を振るうことになる。

階級社会は、剰余価値即ち富と共に現れるが、本質的には資本主義とは無関係であり、封建社会にも原前払いとしてあった。

最も理想的には、ロビンソンのような、移行だが、不生産階級型中世の構造に移行できるのであればそれが一番だが、権力論をどうにかするしかない。

マルクスは、資本主義と共に発生増員される労働者階級を資本主義の墓掘り人と呼んだが、果たしてそうだろうか?また、そうなるだろうか?

はっきりしてるのは、資本を貨幣資本として持って、その増殖戦を続けてエスカレートさせることでしか余暇時間を消費できない連中が、ますますその蓄積が増えて、一方で労働者階級の取り分が減っていてその分が彼らの賭博場のチップ、となっているという事実である。

 

できれば有志を募り、不生産階級システム化のセクターを作り、剰余価値生産思想に毒された資本主義に対抗できる優位な生産システムを定着拡大することだが、支配階級に潰されるか否かである。

日本においていくつかの企業があるが、それは少なくとも投資家配当性向より、企業構成員の福利と人間的成長に価値観を持つ、自社株を共有する中小規模の組織を増やす運動である気がするが、アメリカや現支配階級が黙って見過ごしてくれるかは疑問である。労働者への分配増の為の会社づくりが求められる姿であり、権力とも合法的に戦い存在権を確保できないと、ということだ。なかなか難しい。

 

特にリスクを恐れる日本の国民性にあっては、また、デフレの先頭にありながら、アメリカ従属を願う国民性にあっては、アメリカの年次教書どおりに忠実に動く、政治家、官僚による運営を常態化させている現実からは、上記の方向は期待薄で、フランスやイギリス、イタリア、スペインなどの反ファッショ人民戦線政府を実現したヨーロッパの国から、この手の典型例は作られ、その経験を部分的に取り込むことしかできず、アメリカ資本主義に強く従属することになるだろう。

 

 

 

 

経済を考える9-6

ケネー範式をもう一度よく観察してもう一歩深めてみよう。

 

生産階級の仕事は主に農業であり、生存している生産階級、支配階級、不生産階級の総人口を支える生活必需品を生産している。

特長は、生産物は原料を増やしたものであり、変化や加工はされていないことだ。だから、労働の質は自然の力による植物の成長を補助するタイプの労働であり、不生産階級とは全く異なる労働の質である。補助労働で労働価値以上の太陽エネルギーによる恵みを生産物に反映させられるからだ。

年前払には、種蒔き用の原料穀物と、生産階級農民の自家消費食糧を含んで20が昨年の生産物から取り分けられている。

他に過去労働の集積物である、原前払の100を生産投入して、年労働に加算して減耗分10を生産物から割いて補填している。

年前払で生産資本組成しているが、それに原前払を加えることで、50の生産物を得る仕組みだ。しかし翌年用年前払に20、原前払補填に10を補填しているから、30を投入して50を得るから、20が余剰生産物となる。この20は、支配階級に没収され、10を支配階級の食糧に、間接的に10を不生産階級の食糧に最終消費させて人口総体を維持させる。30の投入のうち10の原前払補填は、自力ではなく不生産階級の年前払10を非食糧用の加工原料として渡して、原前払10の補填として受け取っている。貨幣はこの際反対向きに動いているだけなので省略できる。

 

生産階級は、20の経費と過去労働物10の価値、計30の価値と引換に50の生産物を得るのだが、20は剰余価値として生産される。たまたま支配階級に略奪されているだけだ。だから、結果として新しい剰余価値は生産されない、単純再生産モデルとなっているわけだ。

太陽のエネルギー、水の利用、施肥、耕運、などの補助的生産労働が労働の主な内容であり、また、耕運、播種、水利土木作業、肥料作り、病害虫防除、などや馬車などの運搬作業が主な労働になる。

自然の力や、過去労働からの恩恵が、自分達が暮らせるだけの食糧以上の余剰生産物を産み出す。

しかし、補助的労働の一部は過去労働からの恩恵である10の労働追加を忘れてはならない。この10がなければ20の純生産物は得られないはずだ。

この生産階級の労働においてさえ、純生産物即ち剰余価値は得られているから、ここが、補充のみに使われあとは召し上げられているわけで、開墾のような別の投資に振り向けられれば、不生産階級を増やせる生産物増が期待できることで、更に原前払の総量を増やせるわけだ。だから、減税と支配階級の縮小は強い成長のインパクトになる。

拡大再生産モデルができるわけだ。剰余生産物は自然のエネルギーの取り込み、でしかないと考えても良いだろう。労働はそれを引き出し、過去労働は更に引き出す。

 

では不生産階級のそれはどうだろう。原材料を加工生産物に変えるだけで、自然の恩恵は全くない。石炭採掘などの一次産業でさえ、採掘労働での原料化でしかなく、労働そのものの価値が生産物に移行するだけで、自然の恵みは全くないので、剰余価値の生まれる根拠は全くない。ケネーはそれで不生産階級と呼んだわけだ。

資本主義社会は、不生産階級の生産階級化である。

不生産階級がどこで剰余価値を得るシステムになるのか、だ。

加工原料を生産物に変える労働に、まだないが労働蓄積物を加えて労働力組成した結果で、当量の生産物が得られて、蓄積物の減耗を補填して余りある状態が必要だ。

スタートは、マルクス通りのWーPーW'であることに疑いの余地はない。原前払は、可変資本の労働組成といっても、労働力しかない、原始的生産様式の段階だからだ。

これも、現時点で単純再生産となっている生産階級の原前払の存在も同じである。過去に過重な労働があったに違いないが、過重労働は長続きはしない。明日をより楽に生産する為に頑張るのである。

要は、ロビンソンのように、魚を木のモリで突きながら、一方で投網も作るのである。この結果、投網が完成し投網漁ができるようになると、余剰時間が木のモリ漁の時より、例え投網の減耗補修時間が加算されたとしても余剰時間増となって剰余価値が発生するのだ。

したがって不生産階級も生産階級化する始めは、過重労働か、女子供の非生産人口や失業者や浮浪者などの利用をやって剰余価値を得ただろうし、この価値を機械化に投資して、その労働人口をも更に減らして機械に置き換えて剰余価値を増加し蓄積したはずだ。

 

しかし、この後で生産階級の時のそれと同じく、労働力組成に過去労働の産物を追加投入できることで、同じ生産物を得るのに少ない現在労働力組成でできるように労働の質が変化した時に、剰余価値はWで発生し、Gで回収することになるのだろう。

 

労働の質の変化とは、現在労働の質の(量も)変化となるはずで、過去労働産物とのミックス労働が、剰余価値+生産物、となる労働のタイプである。

新しいタイプの省力化された労働のタイプで、過去労働の蓄積産物投入分の返済をして尚余りある場合に、将来労働のタイプを作る為の貯金ができる、そういうことだ。次世代生産はそれを拡大再生産すれば良い。原始的なマルクス時代の資本主義分析での略奪的生産を加えれば、更に加速できる、というわけだ。しかし、これは民主主義や労働者の尊厳を奪う為、資本の側の恥ずべき行為ではある。失業者や犯罪者、浮浪者を使うのならその限りではないが初期、一時的措置でしか許されないはずだ。

 

今回は前に立ち返り、再確認をした。

不生産階級の剰余価値生産の根源と、生産剰余価値が過去労働蓄積産物であること、即ち、今回発生する労働蓄積産物は将来生産に使われるべきことの性格を規定してみた。何故ならこの歴史的な循環で剰余価値生産が継続拡大されるから、なのである。

それが健全な?資本主義生産システムなのだから。

 

それは、現代の経済問題、即ちグローバル化による再生産過程の切断と接ぎ木状態になることによる問題、また、剰余価値生産が減る、また止まることの問題の検討の為に必要なのだ。もし、剰余価値生産に限界を生じ、生産階級が不生産階級に戻るのであれば、資本主義システムの停止を意味するから、この300〜400年間の資本主義は、またそのシステムは死滅し、新たなシステムが登場しなければ、中世のケネー的な表式の世界に戻る他はないのだ。

 

また、過剰に格差化した、蓄積剰余価値が一人歩きしている。金融資本の問題もある。

 

ただ、現代は発展を知的労働を機械労働に置き換えることで延命できていて、喫緊の課題ではないが、その先を考えるのは楽しい作業ではある。

 

 

 

 

経済を考える9-5

ケネーの範式で、生産階級は、人口の80%近くを占める農民に限られていて、この階級だけが原前払い、即ち過去労働からの蓄積物である生産用の固定資産、現代用語で資本、を活用して、余剰生産物を生産していた。

不生産階級は、年前払いのみの資本、即ち経費分しか蓄積がなく、生産活動で生存できるだけの収入しか得られなかった。

それは、自然自体の生産力に依存できずに、労働のみの価値しか持ち得なかった業種だったからだ。

不生産階級の剰余価値生産生産の可能化、即ち、新生産階級への昇格、が資本主義化であったわけだ。

 

Aなる原料をBなる有用生産物に変化させる加工労働が自然の生産性に頼れないこの階級の特徴であり、その分、労働効率向上のみを剰余価値生産の根拠とすることになる。

A-B、これを可変資本、即ち労働力で行うわけだ。

GーW-G変換で、貨幣資本を生産資本に組成するとき、原料Aが、生産物Bになるのに必要な原料Aと労働力商品を市場から調達組成するのだが、労働力商品のうち、原前払い利用での混成労働による生産性向上効果で、少ない現労働で過去労働との混成で生産物Bが得られる労働力として編成されれば、固定資産減耗即ち過去労働への返済と将来労働の為の蓄積固定資産増分の貨幣資本残分が生産資本内に蓄積する、即ち剰余価値が生産される、というのが私流の理論だ。

この残分を貨幣資本として使い切れば、即ち原料増と労働力量と固定資産減耗量と同エネルギー量に同率配分すれば、原料増分の生産物増となり販売後の貨幣資本増となって現れるから、また、この方が

生産資本内残存貨幣資本<生産後の増額貨幣資本

なので、

WーW'ーG'にした方が(W-δ)ーWーGよりよい。

わずかの差ではあるが。

剰余価値は、将来の労働効率向上のための原前払いに投入することで、次回生産での労働効率を上げられる、即ち高度機械生産投資に活用されると健全な資本主義発展が得られる。生産効率向上への貯金、それが剰余価値の価値である。

 

しかし、社会的需要に資本主義的生産が到達すると、生産過剰となる。この業種での拡大再生産を必要としなくなる為、剰余価値が行き場を失う。

マルクスの再生産表式での、生産材生産が生産時減耗分の補充生産のみに縮小する。また、消費材生産も縮小する。が、最終消費分の需要分生産の段階まで縮小した後に、定常生産状態で安定するが、剰余価値生産も縮小して安定するが、結果としてどうなるのか?剰余価値を将来固定資産増に行う組成がない、即ち、労働者階級の雇用用途が減るので失業率がアップ、または賃金の引下げ、又はその組み合わせとして、総労働者の総賃金の低下をもたらし、これが更に需要そのものを減退させる。

一方で、下がったとはいえ生産継続すれば剰余価値は発生しているので、貨幣資本の滞留として現出する。

資本主義のシステム優位性は、発展段階の前期資本主義の健全さだが、ここの臨界点でその健全さを失う。発展が止まるのだ。これだけ大きな生産力拡大が自由主義経済?で無秩序に増加すると、生産材生産部門から縮小が始まる恐慌経済を頻繁に繰り返すことになる。

消費の為の生産、が、生産の為の消費、となる。

無理やりの消費は、グローバルな国外貿易の為の支配権の及ぶ国外市場や支配権及ぶ低価格原料調達先を求めるし、失業者の削減と生産回転維持拡大の為の戦争の常態化か、ケインズ流の負債発行による失業者の救済としての無利益生産、などの政治的調整が求められる。ただ、不健全なのは戦争による廃墟から、強い需要が再生し再開する、また、戦勝国もより過剰な生産設備需要に応えた結果、平和移行後で大規模な生産縮小を迫られるに至ることだ。

アメリカはソ連共産主義国を仮想敵とした冷戦により、支配権及ぶ市場獲得のためにも軍需生産回転継続の為にもアジアでの戦争を継続して高度な生産力を維持してきた。

第二次大戦後、現在は後期資本主義に到達しており、日本はその先頭集団になった、なってしまったということだが、後期資本主義のケインズにかわる処方箋が必要ではないか。ただ、生産力の現状維持又は低下を受容することになるが、その場合、平和路線なら実質的な失業増と国民総賃金の低下を受容せざるを得ないが、生産労働人口減の背景が軟着陸を期待させる。

 

 

 

 

経済を考える9-4

グローバル経済を考えてみる。

 

結局のところ、先進国には剰余価値が余って、国内投資が最早効率的にできなくなっている。合理化できる労働力に変わるもの、がITの発展ののちに見えないからだ。多分ないだろう。

日本は国内市場が飽和していて、需要不足、生産力過多なのだ。不効率なセクターを外注するだけになっているかも。

デフレ経済では、その能力の故に世界の先頭を走っている。

 

労働を機械化で置き換え、労賃の節約分が剰余価値だとこの間の検討でわかった。その剰余価値は、機械やエネルギーの生産需要に投資され、節約された労働がこの生産部門に移行できるから、資本主義が国家の中で発展性をもち、システムの優位性が維持されてきた。

これが国内投資に向かわないとなると、国内労働者は削られ損になる。しかし、世界全体としては雇用が広がり、資本主義生産が拡大再生産されるから、原前払いも他国で蓄積されるだけの話だ。それを国内に戻して活用されれば良いが、普通は他国で再投資されて競争力をつける。

 

よく考えてみよう。機械化で剰余価値が生まれたのだ。機械化とは蓄積された剰余価値の具現化された資産であり国富でもある。これがなければ剰余価値を生むだけの生産力は得られなかったのだ。

この剰余価値を国外に移転すると、国内生産労働は拡大を停止しつつ、国外生産の方が高度な機械化装備で雇う人数も少なく単価も安いからこの流れは止まらない。

拡大の停止というのは減耗分は補填することだ。しかし、日本における高度成長期は、数字を見てモデル化してみると、固定資産減耗80に対して投資が130兆円だったりしたから、資金需要が起きて、金利も高くて6とか8%だったりしたわけだ。主には国民の預貯金を部分担保に銀行が金利を得るために信用創造貸し、即ち貨幣を創造したわけだ。日本の金融業は、金融庁護送船団方式に支えられて高度成長に成長しただけだから、何のノウハウもない、

昨今は100兆円の減耗に対して80兆円の固定資産投資にとどまる状況で逆転している。そう、20兆円は差引で正味として国外投資に出ているわけだ。これが累積して世界最大の債権国になった。ということは、生産も停止ではなく、国内生産を減らしながら、国外生産をそれ以上に増やしているわけだ。

 

だから国内総生産は上がらずに国民総所得は上がり、それは資本家層即ち法人企業の法人所得となるが、国外投資に利用される為、国富が減り、多国籍企業としての海外固定資産が増えていて、トータルでは増えている、という構造が常態化している。三面等価理論が成立しなくなる構造だ。

 

国外で剰余価値生産はより多く生産されるから資本家は困らない。その国外剰余価値も国外での再投資により高度な機械化も、国外で進めた方が剰余価値を生むから、製造業は国外で拡大再生産循環に入り、国内労働者だけで見ると総所得は減り、単価が下がった輸入品が無関税で入るから、購入するだけの消費者となるが、所得減はそれを超える。

せいぜい、内需として残る三次産業、運輸や商業、金融セクターでの労働に縛られる。極論すれば、一二次産業の就業者減による国内所得減で、少し安い輸入品が入ることになる。トータルでは、先進国では仕事が減るから生活は苦しくなる。もし、途上国に移動した資金での労賃相場が、国内より高くなれば、国内に工場が戻ることになる。

いわゆる先進国病が日本の現状なのだ。

 

資金の移動で工場を国外に移動するなら、労働者も工場のある国に移動する。ただし、より貧しい国からの労働者移動であり、移民問題が発生する。

例えば日本で仕事ない場合なら、中国で1/3の給料を求めて労働移動すれば、所得が得られ、中国で消費すれば、何とか暮らせるのだ。だがその流れは主流にはならない。

だからグローバリズムは、先進国の高度な教育を必要とする水準での労働力再生産が国内では需要が少なくなるから、先進国の労働者階級にとっては不利益を被るが、発展途上国にとっては仕事が得られ、トータルでは労働者階級にとっても良いが、深刻なのは先進国の労働者階級だ。

 

日本の場合は、周回遅れでグローバル推進もやむを得ないとする論調が強い。だから、これから実質化して日本のトランプが現れる。

国内の雇用の情勢では、少子化団塊世代のリタイアによる生産人口減が激しく、移民を受け入れないで、雇用形態の階層別多様化、正規、アルバイトの間に非正規の、契約社員や派遣などの導入でしのげているが、平均的労賃は低下するから、少しの正規、過半数の非正規となる。

日本は労働者階級を高度労働者を限定的にしか雇わない、平均的な労働者には過酷なシステムとなる。

 

先進国は、すでに経験していて、結果は半数近い国民に反自由貿易、反移民が支持されているのはその結果である。グローバル的自由経済より、国による法治規制国家の復活、移民排斥となり、今がある。

しかし、社会主義国家群が崩壊した現在、もうこの流れは不可逆であり、壊れた経済基盤を政治権力では立て直せない。せいぜい浮浪者的移民を国内に呼び込み、中国的生産価格と労賃を機械化の上に乗せることなのだが、それは中国がその手の生産システムを放棄した場合に限られるか、中国生産物の価格牽制の為に導入されるから、グローバル化の納得を国民で再認識する単なる過程を経験すんことになるだろう。

 

自由貿易経済圏内に1つの政府を選挙で選ぶことしか解決の道はなく、国別に主権があると自由貿易にはならない。この矛盾を抱えながら、国際分業が進む。

日本の位置は、金融セクターは、アジアならシンガポールであり、上海、であり。

欧米ならイギリスシティであり、アメリカウォール街である。

このセクターは、W生産資本の組成の設計を司る戦略司令部なので、補充の意味のわからない日本には不向きで、アジアでも華僑系、米英はユダヤ系である。

日本は、第二次産業剰余価値を生み出す為の高度な機械の生産材生産のセクターが、優位。トヨタなどの凄さもあるが、国内での車需要もないし。いずれ生産業に優位性は限定される。

日本は、高度な生産材生産のセクターをドイツと取り合う関係になるだろう。二国とも製造技術者としては優秀だが、ドイツは、サービス残業によりかかるいい加減さがないぶん日本より上で、それは技術者ではなく生産管理部門の優位性でしかないが。

生産労働力は、アフリカ、中南米、アジアから供給される。

こうして世界グローバル資本主義が回転するが、アメリカは、ITと軍事力を併せ持つ為に圧倒的に優位に立っていて、グローバリズムはアメリカ支配圏の確立、の過程であり、アメリカの支配スタンダードの確立過程である。トランプ後に逆説に存在領域がないことを確認した後に加速しそうだ。

 

現代資本主義は、アメリカの崩壊によってしか変わることはない。アメリカのルールとしてのアメリカ製資本主義でしかないから。その後が、中世のような、不生産階級だらけで、それを宗教的に合理化する社会経済となるのか否か、はわからない。アメリカの後で権力と知力を握る人や組織が、国の形をとろうと取るまいと、アメリカを倒せるレベルが登場した時に新しい、資本主義に変わる仕組みが登場するかのうせいがある、ような気がする。

現代資本主義システムは、アメリカの資本主義システムルールでしかない、アメリカの後は、〇〇型資本主義システムかも知れないし、資本主義でないシステムが育つのかも知れない。

 

 

経済を考える9-3

剰余価値生産の分類パターンを考えてみる。

 

第一次産業

自然に直接働きかけて有用物にする労働なので、

原材料はないか、ないに等しい。原料調達部門だから。Pmを自然から選択的に得る仕事である。

農業の場合は種子がそれだが、種子に労働を加えて産物を作るのではなく、自然の力の利用と制約を受けて選択的に原料を得る重労働である。

水産業も、強いて言えばエサ、鉱業はない。

要は、原料自体を取り込む活動なので、その活動は、人の筋肉労働か、それを代替する機械化労働となるのが特長である。機械化の効果は大きいが、レベルを考えなければ誰でもできるから、人件費を超えての機械化は経済面でのハードルは高い。

 

第二次産業

いわゆる製造業であり、Aという原材料をBという有用物に変える産業で、原料を別なものに変化させるので、原料のウエイトは大きく、それを労働と機械化労働による。原料以上の生産物はできない。不可価値業種なので機械化を進めやすく、進めるほど剰余価値生産できるが、すなわち生産量を上げられるが、需要を満たすと規模が縮小するため、需要との戦いとなる。

 

第三次産業

第二次産業で変えられた有用物を、貨幣など資本に変える活動を担う産業で、第一次第二次産業の活動を継続させる活動であり、筋肉労働のウエイトは運輸除き小さくて、知的頭脳労働によるところがより大きい産業。ここの労働は、知的労働の代替として、ITの発達により労働が合理化されやすい。

 

第四次産業はあるのだろうか?機能としては、三次産業が、一次二次の再生産用の為の活動になるので、それ三次産業以上は存在意義がない。

あえて言えば、支配階級か、生活保護者のように生産産業に帰属しない消費のみを担う階級の増加だろう。生産に加わってないので所得は発生せず、収奪するだけの一方通行だが、その範囲で消費はするので、生産活動にはその範囲で寄与する。所得は収奪によるもので、収奪される側の消費を減らして、ゼロサムとなる。

日本の高齢者の場合もこの対象となるが、生産活動中に蓄えられた所得の範囲内で支出が済めば問題はない。

生産力が各産業で増大すると、この階層に富の一部が分配されることにならざるを得ないのではないか。日本の場合でも、支配階級が大きくなっている。

 

本題は、

第一次産業は、

GーW(Pm+A)変換で、

Pmはゼロ、むき出しの労働力なので、機械化により生産性効果を上げる要素が強い産業である。需要は、一次生産物の現物としての最終消費需要と、二次産業用の加工原料となる中間消費材需要との合計となる。

機械化が極度に進むと、丁度チリの銅山の採掘作業のように、大型掘削機と大型パワーシャベルとGPS制御での無人大型トラックで採掘輸送すると、中央制御盤を監視して生産量をコントロールするごく少数の労働力の使用に限定される。このスタイルに向かい行き着くと、ここには所得発生は、剰余価値を取得する経営者に限りなく限定されていく。

 

第二次産業は、Pmとしての投入原材料を有用物に変化させる活動なので、原材料のウエイトは大きい。また、変えるエネルギーを有効な機械化作業に移行すると剰余価値生産ができるから、ここでも機械化により、人間の労働力は減り、労働所得も減る。

主にはプラント作成する初期の労働力が必要で、生産は機械が行うようになる。

こうして機械化による労働力の置き換えが進むから賃金所得は減る。この置き換えも第一次産業と同様に、人の筋肉による作業部分の置き換えが中心である。

 

第三次産業は、一次二次の生産物を換金して再生産

生産活動を可能にする作業で、ここにも機械化の波は押し寄せることで剰余価値を生む。マルクス時代ではなかった世界だ。三次産業の機械化には、大型の輸送運搬用の自動車や商業施設などのハード部分の機械化と同時に、換金作業に伴うコンピータなどの事務用機器も導入され、ホワイトカラー層が中間層だった時代が、過去のものになりつつあるのが現代。

ここでの原材料は、商品であり、輸送と商業が労働力を使って行われ、機械化合理化により剰余価値を算出しながら、貨幣資本に等価交換する。AをBに変える加工作業ではなく、生産物を資本に変える機能を果たす。この産業は必須である。一二次産業の発展規模に制約されるところまで成長できる。

こうしてみると、マルクスは二次産業の加工労働のみの表式を、人間労働と機械の「労働」合計を見ずに、原材料に機械労働の機械減耗とエネルギー消費を分類してしまう誤解により、一次、三次産業の説明ができなくなることを誘導してしまったわけだ。

 

さて、歴史的には一次産業、二次産業を補佐すべき鏡像であるはずの三次産業が、先進国では異様に増えている。資本主義的生産様式に必要な部分は、運輸と商業のみである。せいぜい、このGとWの循環過程を支える、金融の部分を循環内に加えることである。

全ての産業で、剰余価値の拡大を目指していて、機械化による人減らしで、まずは労働力においての筋肉労働を機械化して削減、剰余価値を拡大して一二次産業の生産力を高め、運輸、商業にも拡大して合理化した後、頭脳部分の機械化、すなわちITの普及により、全産業のホワイトカラー層を最低限に置き換えた。いわゆる中間層が減った、というやつだ。

このことで、資本主義的生産様式全体、すなわち狭義の第三次産業まで、を支える労働人口は削ぎ落とされて、広義の三次産業にはき出しているが、これを便宜的に第四次産業と呼び狭義の第三次産業と区別すると、各種のサービス業種が入った産業となり、ここには、資本主義内の剰余価値生産に届かない不生産階級をも含むことになる。ここは、第三次産業を支える為のサービス労働であったり、例えばビルメンテナンスから、プログラマーまで様々だし、対労働者の家政婦業から司法書士や弁護士に至るまで様々である。

第三次産業までを支える労働人口が減るほど、四次産業が増えるので、また、この中には失業者から高額所得者まで含むことになり、この階層が増加する。

生産階級には属さない不生産階級労働力はIT導入により、知的労働者を含めて不生産階級化している、というわけだ。資本主義的生産様式は、残念ながら圧倒的な不生産階級を算出する生産システムだ、ということになる。

この中で、IT部門は知的労働者を第四次産業に退場させることで圧倒的な力をもつので、狭義の第四次産業といっても過言ないが、従ってここでの最大任務は、知的労働者が担っていた生産資本Wへの貨幣資本の最適化転換の組成を割り出す作業で、圧倒的な剰余価値をこの業種が代行することで得られることは疑いない。金融商品の組成技術で使われたが、金融商品の組成はゼロサムの成長、即ち賭博場での確率計算に近い。生産資本に転換すれば剰余価値を生む、その価値が金融上の利潤をうむのだから、安定収益はこちらの方が上であると考えられる。発展途上国の生産資本の投資に組成するしかないから、直接に途上国投資の組成に関わった方が得では?

ゲーム市場等でも稼げるが、それより市場規模ははるかに大きい中間消費に使った方が儲かる、というふうに考えている。

 

資本主義的生産様式の循環に、狭義の第四次産業までを含んだものが、ケネーでいう現代版の生産階級にあたるから、その影響で狭義の不生産階級が人口構成としては増えている。ここに次世代の経済のエンジンが潜んでいる気がする。

剰余価値は一方で失業者を生み出すが、その失業者の中で生産階級の剰余価値増に貢献する産業部門が、不生産階級から生産階級に昇格していくのであろう、というのが今の心境だ。

 

経済を考える9-2

もう一度原点に戻って考えてみよう

 

石炭の露天掘りで。

暖房需要と、蒸気機関エネルギー源需要で、露天掘り可能な場所での石炭を、生産して市場に持ち込む労働を考えてみよう。

100人の労働者を雇って、ツルハシ、シャベルで掘ってもっこで運び、集積場に集めて馬車で市場に運んで商品としてとして販売、投下資本を回収する。

 

この仕事を支えるのは、市場のより安価な石炭エネルギーを求める消費需要であり、この需要量が安定しているとすると、この需要を満たす露天掘り産業が複数できて需要と供給が均衡する。この時点で、単純再生産が維持される。

 

1年の単位で考えて、100人の労働者で1日100トンを生産できるとしよう。労働者の賃金、ツルハシ、シャベルともっこの消費額、採掘国有地の賃借料、馬車の維持費以降は、商人資本によるとして、石炭生産業自体が再生産できるか、ということでいうと、かかった経費の合計で販売できれば、不生産階級レベルの協同作業といえる。小さな社会主義世界だが、技術革新のインセンティブは働かない。

ここで販売価格は、商人の経費を上乗せするが、

賃金と道具の消耗品費用、賃借料などが商人への販売額と同等であればこの石炭産業は継続する。生活費を必要とする労働者がいる限り。

ここで、儲けを考える産業資本家がいて、そもそもこの動機が産業新規参入の動機なのだが、労働者の数を減らして、90人の労働者で1日100トンの生産を行うことを強いて、同額の、即ち100人で生産していたのと同じ生産量を可能にしたとすると、消耗品代や地代は固定費として残るが、商人への販売額は同じなので、10人分の賃金が剰余価値として産業資本家の手に入る。これも剰余価値だ。ただし、この剰余価値は労働者の賃金からの収奪であり、マルクス主義的な反抗の根拠となる型の剰余価値であり、略奪型である。労働者が退職しない程度のボーナスを剰余価値から部分投入してごまかすとしても。

問題は、どうやって100人を90人で済むようにしたかだが、1人あたりの労働時間を100/90時間、即ち1.11倍に伸ばして1人分の賃金しか払わないという労働強化による場合、産業資本家による10人分の賃金分の90人の超過労働させられた労働者からの略奪である。これは階級的な力関係による実行だから、90人の不払い賃金の割増分の返還請求権が発生し、民主主義国家なら労使協議、又は労使紛争を裁判も含む争議になる。日本はブラック企業の横行を許しており、労組も崩壊している無権利的な国家となっており、労働協約を労使で共に破っている珍しい先進国である。階級関係に卑屈な面もある。しかしここでの対立を激化させれば、益々労働者を海外に依存する悲しい結果をもたらすことを労働者が認識している面もある。が、人権軽視だし支配者に甘い。この甘さは資本の側がグローバル化すると露呈する。

 

話はそれたが、当初はこれで資本蓄積するが、それが続くかどうかだ。現代でもこの要素の比率の高い部分は残されてはいるが、もしこれだけなら革命の成功で解決する課題ではあり、これが資本主義の本質だとマルクスは考えたように見える。

が、一方で、そこで得た剰余価値と同額の露天掘り機を導入して、もし、その分の機械の減価償却と機械のエネルギー代の合計の金額が、10人分の賃金に相当する費用支出を伴うとして10人の首切りで10人の生産分と等価として導入すると、労働強化を伴わないで剰余価値は出ないが再生産が継続することになるから、争議の対象にならない。機械の導入自体が問題なのではない。ラッダイト運動は、この点では当たらない。

首を切られた10人の労働者は、機械製造業の労働者需要が発生するから、間接的に失業しなくて済む。それはこの企業が内部に石炭用機械製造部門を持つか外部かの違いでしかない。

この場合の経営者は、3k仕事の機械への代替と逆に喜ばれるかもしれない。矛盾はないからだ。しかし、温情は他社に遅れをとる。

 

実は労賃は意外に安く、機械とエネルギーは意外に高い。この時期を過ぎて、機械の能力が上がり、機械の価格も低下すると、10人分の労賃の価格で機械とエネルギー代金の合計が、20人分の労働者の生産力と同等になったとしよう。20人の首が切られ、80人の労働強化なしで100トンの生産量が得られる。

 

すると労働者には損害請求権は発生しないで、経営者は無理なく剰余価値を得られるのだ。これが資本主義の本質的優位性なのだ。剰余価値販売促進費に使えば市場流通を独占でき、石炭産業界でのシェアを上げられ、需要の大半を占め生産を独占でき、剰余価値を独占的に生産し続けられる。ただし、競合他社が同じ機械を導入しないことが前提だが。

他社も導入する導入合戦となると剰余価値は全社で得られ、剰余価値が得られる以上、この産業に新規参入が続き、供給側が増えて、需要が固定されていると供給過剰となり、需要の争奪戦に剰余価値を投入、販売価格は下がり、剰余価値が減り、なくなると飽和均衡になるところで販売価格低下は止まる。

 

資本主義的生産様式は、労働強化による剰余価値増殖が初期にはあり、現在も継続はしているものの、労働強化を伴わなくても、労働力を機械とエネルギーとで置き換えることで、機械の減価償却とそのエネルギー代の和が、労働力に勝る場合は、組成による剰余価値の生産が可能となる為、階級的な視点だけでは解決しない。資本主義的生産様式は、仮に労働強化部分を争議により革命により、労賃の正当な支払があった後も続く強力なシステムなのだ。

だから、本来、マルクス主義は、反労賃略奪と技術革新を社会発展と労働軽減の為に推進する、二つの旗を掲げないと資本主義から共産主義へとはならないはずだ。しかし、現実にできた過去の社会主義は、支配階級による労賃略奪と、生産材生産を実業のレベルを超えて重点生産し、更には鏡として派生するべき輸送、商業、各種サービス、の発展を阻害し、再生産回転を遅らせ、国民に結果としての技術革新の遅れと生産力特に消費材生産力の遅れを通じて豊かさを実感させることができずに、旧資本家階級の位置に共産党が置き換えられ、稚拙な経営がなされたことによる。民主主義軽視も作用している。

 

資本主義は、製造業ならWの組成で機械化を進めることで剰余価値を得て、Wに残余した剰余価値部分のGを生産に振り向ければ、生産物量の増加としてW'として現れ、G'として増加する貨幣資本を回収できるシステムだ。生産量が無理なく剰余価値の生産を伴いながら増加する、できる優れたシステムなのだ。

 

 

 

 

経済を考える9

これからの課題は、資本主義後の世界の考察です。

 

ケネーが農本主義時代を、マルクスが農本時代の不生産階級の成長による資本主義時代の萌芽時期を、見事に表式で示しました。

2人の素晴らしさに脱帽です。頭もいいね、マルクスはインテリにバカにされないように教養をひけらかしすぎで難解だけど、ケネーは小さな図だけに近いのに、物凄い内容、対象的だけど、どちらかといえばケネーのファンです。

 

マルクスの表式に今回手直しをさせてもらい、現代の表式にしときました。

と言ってもマルクスの後継としてのGーWーG でしかないけど。でも、ここを資本主義後の起点にでき、ケネーの範式並みのこと、是非やりたいです。

 

研究会サークルでもあればいいのになー。

 

でも、興味ある人少ないし、金儲けにもならないし、やっても自己満足にしかならないし、みんなそんな暇もないし。です。

そもそも私の説に賛成賛同する人がいるか自体が疑問です。で、賛同者が現れるまでは我が道をいきます。そのうち探しては見ますが。

 

さて、GーWーGーW…が無限に続き、常にW段階でのみ剰余価値を産み、また産まず(不生産階級も存在しながら)このミクロ的なパターンが、複数同時に進行してマクロを形成し、ここに国家などの支配階級の関与が複雑に絡み、影響しあっています。

肝は剰余価値は、労働により間接的にも直接的にも産まれる、ということであり、労働には、機械化による効率化、置き換えも含まれます。

直感的には、機械化はサポートのレベルから、労働の主体を占めるようになり、人間労働がサポート、最低限あるだけ、のようになるでしょう。

 

労働のというか、経営側に属していたWの要素の組成を設計する頭脳労働さえも、既に機械であるコンピュータにかなり代替しています。

資本主義の限界を探る上では、人間労働の機械労働化の極限の想定から始めましょう。