資本論の考察-6

GーW (pm+A+m)ーW'*(pm2+A2+m2)ーG'

 

で、貨幣資本Gを生産資本Wへ、そして商品資本W'へ変態させると、生産資本W段階で剰余価値mを生み出すことができる。A労働力商品が介在するからだ。

 

しかし、それは商品資本W'へのm='分の価値増殖したものであるが、商品としてあり、需要者はA労働者の賃金と交換する消費財とm資本家と交換する生産財である。この関係は後で考察する。

 

いずれにせよ商品資本状態の資本を生産資本にまで再変態させないと、拡大再生産エンジンによる価値増殖が持続できないガス欠状態になり生産が止まる。

 

増加W'商品資本を生産資本に転化するには、商品を作るだけでは商品在庫となり、劣化価値減少するだけだ。

需要者の元に輸送し、需要者を探し分配交換しなければならない。

もっとも早く効率的なのは、生産資本生産物との直接交換である。(貨幣がここでも不要になる。)

流通資本が移動を介助する運輸だけで済むからである。

 

要は、商品資本段階では途中段階にすぎず、生産資本段階で作られた価値は、買ってくれる相手を見つけなければならない。商品は意思もなく自分で歩いて買う相手を見つけることはできないのだ。

そこには労働が必要で、生産資本が存在する場合は、一体不可分の流通労働の関与が必要なのだ。

最終消費されねばならず、最終消費とは商品資本が別の資本に変態しスタートすることでもある。

万物は流転するのだ。

 

生産資本は生産を止めて、新たに輸送手段を使い、生産雇用労働者に新たに賃金を払いながら市場に持っていき買い手見つけて貨幣資本と一旦交換し、その貨幣資本で生産資本である原料調達や何年に一度の機械を購入する積立金に内部留保してから、はじめて生産労働者として戻り生産を再開する、ということになる。

この一連の流れでわかるように流通資本の機能が必要である。生産資本は生産を起点とした資本循環、即ち生産資本に始まり、商品・流通資本、貨幣資本、生産資本組成への流れの循環を継続しながら生産資本段階で価値増殖を行うシステムである。

価値増殖は、流通資本段階でも可能だが、生産資本での価値増殖からの移転の範囲に限られるだけだ。

 

さて生産資本による生産継続のために、商品資本段階以降を流通資本に委ねる場合は、生産資本がmの範囲内でやらねばならない追加資本分

(pm+A)を、流通資本に委ねてその追加資本分をmから減額してW'δ▼、(ただし '  >δ▼)で貨幣資本化する。流通資本から、割引いた商品資本+要した流通資本の合計をもって、元の商品資本の価値W'と等価の貨幣資本G'を受け取り再生産する。

→原料調達による生産資本稼働の継続による剰余価値生産の継続、となる。

 

生産資本は、W'の価値から流通資本の平均必要額を減じた価値で流通資本に商品化した資本w'を売り渡し、流通資本は、市場でW'δ▼ーG'で販売して投資額を回収する。できればG'は掛売りでもよく、その証文でpmを調達して生産資本に届ければなお良い。

 

流通資本は主に輸送と商業資本であり、自営的な商人の規模では賄えなくなり、雇用による場合は、そこからも剰余価値mを発生できる。

しかし、それは元々は生産資本の剰余価値の一部でしかない、それが移転したものだ。マルクスの時代は、ここがとても小さかった、というだけのことだが、この発展が見れないと現代資本主義社会をマクロで捉えきれない。

また、貨幣についての重金主義的な商品貨幣の時代であった制約と本人寿命から、金融資本主義段階に進むことが予測できていない。

この間の変態移行は、全てWーWあり、それもWーGの媒介は必須ではない。信用でつなぐことができるのだ。経済成長はW内でのみ可能だ。

WーW'は生産資本段階内でのみ可能で、労働価値による価値増殖が根幹にある。

金属貨幣としての金は、希少装飾品等の使用価値としてのみ機能し、交換価値の機能は信用で100%代行しうる、ということになる。

金に意味はないのだ。交換媒体信用代行、でしかない。

現代資本主義社会は、信用貸借社会である。金融資本主義段階である。

 

 

重要なことは、W'なる商品資本に移行していた価値の内容は、Wの価値は労働力価値に再分配されうる価値であり、' 部分の価値は、労働力価値によって生ずるも、' 支配者たる資本家機能を有する者により消費されることが可能となるが、資本家と言う機能が労働者階級の外にあれば、自家消費が増えるが、中にあれば、国民内格差として現れる。