資本論の考察-1

資本論は現代も尚光り輝いている。

しかし、資本主義の発達と共に、その経済学批判の対象物が拡大し、現在では光を照らす部分は相対的に小さくなり、古典として扱われる始末だ。

結論は、生産資本による労働価値増である剰余価値は、大半が流通資本に移転し、両者の大半が金融資本に移転し、また、各資本からの収奪が税として国家に移転して不労所得者に移転し債権蓄蔵する格差拡大システムのエンジンと化してしまった。

このエンジンの使命が終わりつつある、ということだ。どこをどう変えるのか?が問題となっている。

 

資本論の要諦は、生産資本段階における労働価値増殖即ち剰余価値の発生強制とその収奪支配である。

 

この本質は何ら変わらないが、現段階の資本主義に対応する現代資本論を検討することはできるはずだし、もしマルクスが現代まで生きていたと仮定して、その精神を受け継ぎ、資本論の現代版を作ることは労働者階級にとって意味あるものになるはずだ。それは、何が真の敵、変えるべき問題点なのかを明らかにする為だ。

葉巻をくわえ、シルクハットをかぶり、太った贅沢な資本家像から、寅さんのタコ社長に資本家のイメージを変えなければならないのかもしれない。

もし、生産資本に資本家は、単に雇われ資本家でしかないのかもしれない。ただの奴隷頭としての地位かもかもしれないのだ。

もし、昔イメージの資本家が剰余価値の全て自家消費し贅沢三昧すれば、資本は浪費され、拡張主義的な販売競争は結果として起きず、ある意味中世の時代のような平和な単純再生産経済となる。

剰余価値は、資本として投下され更なる拡大生産資本を組成するからこその資本主義現代なのだ。

 

そこでまず、資本論の基本範式における、貨幣資本Gは金貨幣などの商品貨幣であることによる貨幣論の現代との決定的な違いにメスを入れ始めることにする。

 

・WーW

これは物々交換を示す。

お互いに違う過剰生産所有物を流通させて等価で交換することで、自家生産消費を超えた余剰生産物どおしの交換によってよりましな消費生活が得られる、というもの。これは生産分業を肯定するだけのことだ。

 

ロビンソンクルーソーRは、全ての需要物を自らの労働により得て生存するしかない=全てが自家生産消費=流通はゼロ、だが、フライデーFが登場すると分業が可能となる。

 

Rが野イチゴをFが魚を捕ることを得意としていて、そして余剰分を等価に交換することができれば、win-winである。

この程度の社会に貨幣は不要であり意味をなさない。交換尺度も話合いだけでもオーケーだ。信用さえあれば。

ただし、収穫期が異なるなど交換に時差が生じる場合は、Rは夏に野イチゴをとりFに信用貸しして与え、Fは負債を負う。この負債は秋に魚でRに等価分返済すれば解消される。消えて無くなるのだ。

貨幣ならどちらかの手に残るのだが。

等価分とは勿論抽象的人間労働時間尺度であるが。

丁寧にも、FはRに借用書、内容は「秋に魚を払う」というもの、を渡したとする。

 

さて、この島に更に火打ち石を余分に持つサンデーS、干し肉を余分にもつマンデーMが増えて、RはSに借用書を渡して火打ち石を得て、Sはその借用書で干し肉をMから得たとして、Mは、Fから秋に魚を受け取る債権を承認すれば、この借用書はすでに貨幣である。しかもその借用書は債権債務が履行されれば破り捨ててこの世から消えてなくなるのだ。

この貨幣は、金属貨幣などの商品貨幣である必要は全くない。

このロビンソン事例は、中野剛志氏による説明のままの引用である。

 

物々交換には、その連鎖に対しても金や銀などの商品貨幣は必ずしも必要ではないことがわかる。

故に貨幣の説明に、物々交換による必要性を充てるのは必ずしもふさわしいとは言えない。

 

物々交換が時間差で行われる場合、交換が終われば借用書としての貨幣はこの世から破棄され、消滅するのだ。貨幣は消えるのだ。ここが商品貨幣とは異なる。商品貨幣論では、交換用の金属貨幣の生産が必要条件となる。

債権債務の観点から資本論を再構成する必要がある。でないと資本論は、労働価値説が重金主義に誘引され歪められる。

金の価値は採掘精製等の生産労働価値に等しくそれ以上でも以下でもなく労働時間量により変動するものである。

変動する商品貨幣でしか貨幣不要の交換(変態の為の)が出来ないのであれば、貨幣は経済成長の障害とさえなりうる。

 

・WーGーW

労働して金をもらい分業による他者の生産した商品を買って消費して労働力商品を再生産する循環図式である。

この場合も、本質はWーWであり、AーWである。

 

労働力商品を稼働させる生産工程Pで、価値物Wを生み、他の生産物のWと等価交換するのである。

それを労働力商品の使用価値消費財入手=労働力の消費分を補填再生する、という持続的な循環を形成する。

 

ところが、労働力商品の特殊性を、階級支配の道具とした時、生産手段pmとの結合労働により、少生産労働時間化が可能になるも、同時間労働させることで生産物増をもたらすことで、かつその価値物を資本家という機能をもつ階級が占有する剰余価値生産が可能になる。=資本増殖。そこが問題なのだ。

マルクスの資本主義分析である資本論は、階級社会経済と階級闘争の必要性を資本主義経済システムからあばきだしたことである。

 

資本主義的生産システムが問題なのではなく、生産資本の専有権を主張する階級が、剰余価値生産物を占有することが問題であり、利子の形や地代の形でも剰余価値分を占有又は収奪するシステムとして利用されることが問題なのだ。その点ではマルクスの資本主義解明の努力は賞賛されるべきであり、階級闘争が必要であり、その根拠となるし、今もその価値を失わない。

いずれにせよ労働価値説に依拠する限り以下が可能となる。

 

W(pm+A)…P…W'  

WーW'   が成立してしまうのだ。

ここで貨幣は単なる負債媒体でしかなくても可能である。

もし、資本主義的生産が、機械使用による大量生産のシステムを指すのであれば、これが悪いわけではない。Pで付加される過剰労働分=剰余価値分が等価で賃金増となれば何の問題はない。

ただ、その発展のためには、賃金の一部を省力化の為の機械生産に人物金を移動させることが必要だが。それがA、労働者階級の意思で行われればよい。

資本家、経営者がその機能を持てば、分配問題で私利私欲を律せられる知的人道的な人がそのポジションにいるのなら、階級闘争はする意味はない。したがって、資本家、経営者にあたる人の倫理観が卑しくなりがちな人間というより動物の本性をむき出しにすると本来的な階級闘争が必要になる。

自立は必要だが、個人主義は民主主義とセットにしないと暴走し、路線を逸脱する。この辺りは徐々に深めるが、話を戻すと、

 

GーW(pm+A)…P…W'ーG'

なる表式においても、問題視されるGの初期の資本は、GーW ーG での  

GーW ーW'ーG' が目的ではあるが、

生産資本ー商品資本 変態による剰余価値生産が目的であり、この

生産資本段階でのWーW'が生産資本稼働のなかで得られ、流通段階では、W'ーW'が交換されるのである。

無限に近い連鎖の中でのG、貨幣は増えつつ消滅するわけだ。

WーW'  が本質であり、貨幣は交換媒体の意味しかなさない。資本論では、貨幣が商品資本の頂点に立ってしまっているのだ。

 

生産資本段階での増分価値即ち剰余価値は、労働量増により、流通用増加商品として現れるが、勿論商品貨幣Gを媒介としてでも、単なる負債によってでも追加労働支出=商業、運輸、所有権移転の労働が必要である。

何故ならここで立ち止まるなら、商品資本段階で停止したままなら、そのことで生産資本化への変態が得られないからだ。

工場の出口に商品の山ができた状態で、この商品をより増加した生産資本に変えてこそ、ここから剰余価値生産が再度可能となる。

この流通労働問題、商業価値論問題は、その評価が資本論の最も難解かつ謎であった。

マルクスも数式化できていないのだ。

そしてそれを教条主義として受け止めると、ソ連経済となる。戦時中のナチスの侵略から守る戦車を作り続けた、作っても作っても消費する戦車、必要なのは工場から戦地への輸送だけが必要であったから、運輸だけで、分配、交換を媒体する流通商業労働は育つはずもなかった。

戦後経済では、大量の農産物は計画生産できても分配機能がなく、大量の減耗や、山積みで駅で腐った野菜、結果として食糧不足、貧困が継続することになる。ソ連の失敗はここにある。生産資本の強大化偏重である。W'ーG'のまま、ということである。