市場経済システム-1

・自然人は、ロビンソンをみればわかる。

自らが労働し、労働分の有用物を手に入れ、それを消費して暮らすだけだ。

勿論消費財だけでなく生産財=道具類も労働で得て、労働生産性を高めるから、より短時間でより多い消費財を生産できるようにはなる。

自営業者レベルではあるが、頑張れば最高レベルも夢ではない。その範囲でではあるが。

 

ロビンソンでさえ、過去資産である生産手段を利用した生産性が現在の生産力なのだが、将来に、より短時間で又はより多い生産物が欲しいなら、その分の生産財生産労働を付加しなければならない。

そうでなくとも、現在労働を支える過去労働蓄積物である生産財は、現在労働に付加して減耗するから、現在労働でその分を補填しなければならない。

が、必ずしもそれは強制ではなく任意である。

将来の需要拡大期待がなければ、刹那的に減耗に任せることも可能である。いずれにせよ

市場経済も貨幣も不要である。何故なら分業がない経済システムなのだから。

 

一方で社会として分業生産にあたるのであれば、過去の社会的遺産である生産手段を活用した労働により生産物を得るのはロビンソンのそれと同じであるのだが、現在生産力が社会的生産手段を使用した労働による生産性であるので、社会的生産手段の減耗分の補填は、農本社会にあっても分業による主たる生産者である農民でさえも支払わねばならない。

 

現生産性をもたらす労働と区別されるが協調して使用される生産財とは、農機具であり、土地等である。土地は確かに減価償却はしないが、農業生産にあっては生産手段の主力であり、収量を維持したければ施肥による補填等は必要である。収量増を期待するのであれは尚更である。

それと農民労働力の再生産分の消費補填も必要となる。土地と農民の労働力が主要な生産手段である。

ここで、現生産力を支える減耗分の補填は、誰かに徴集され適正に配分されなければならない。

しかも減耗分分配を超えた収穫量は、徴集するものとの間で分配競争とする事が可能な余剰生産分である。だが、拡大再生産を次期生産に期待するのであれば余剰生産物をもって生産手段増に分配しなければならない。しかし、その余剰生産物増分の生産手段増分の帰属が農民か支配階級かによって階級間利害は異なるが。

過去の社会的資産を持つもの、所有権を権力で証明するもの、が生産手段の所有者であり、特に農本社会にあっては、土地の所有権が決定的要素となる。ということなので、余剰生産物は、100%とはいえないまでも、生産手段の所有者を証明する支配階級が、その余剰生産物に依存するのだから、その範囲が生産手段減耗分にまで及び、補填分にまで及べば生産力は衰退し、減耗分を超えることを許せば次期生産力が増すことになる。

ただし、農民が農機具や、開墾のエネルギー等に使用消費すれば、である。この生産財に消費するか否かは、生産増分が自分の取り分になることが可能かどうか、である。

 

全ては支配階級の意思と、生産階級の許容力に依存する綱引きの引き合いである。

それにしても、決定づけるのは現生産力そのもののレベルでしかないのだが。

日本の過去歴史では農地が小刻みで生産性に限界があるから、極貧となり支配階級も強くなりたければ激しい収奪をするしかなく、貧しい支配階級となる。支配階級間の闘争も国内の再分割戦でしかなく、他国の支配階級による影響が少なかったことで国境は維持されたにすぎない。競争力が乏しいので、競争から協調へ流れやすい国民特性はあるからガラパゴス化しやすいがそれでまた保ちやすい。

 

階級構成があれば、社会的な生産階級自らの消費分以上の生産をして差し出すのであり、差し出された支配階級は、これを生産階級に代わって消費する。すると単純再生産となり、中世の停滞経済が維持されるのだ。凶作と豊作とを繰り返しながら。

 

富は、農本社会なら支配階級へ流れ、支配階級の消費経済を生み出す。この消費経済には、あえて市場は必要ではない。生産階級からはみ出された不生産階級とも相対取引だけで済む。

市場経済は、あっても村の定期市レベルの規模で、それ以上は必要ないのだ。

農家の副業的な手工業生産物通しの交換の場、籐のカゴや藁の縄、織物など。地域の特産品もあるがその生産量も微々たるもので、副業生産物通しの交換レベルであり、常設の市場を維持できるものではなく、経済の主役足り得ないはずだ。

だが、このレベルでさえも交換を容易にする為に、初めから貨幣が使用されたはずだ。貨幣なしでは市場での交換機能が果たせないのだ。

この場合、貨幣自らがその役割にふさわしいもの、貴金属が選ばれる為、商品貨幣が使用されていたはずだ。貨幣なき市場、物々交換などは架空の世界か、極めて稀な世界であり、市場交換には貨幣経済が欠かせないことで、次第に本来不必要な非市場流通も貨幣経済に移行していく。

年貢も貨幣で行い、農産生産品現物は、商人に買い取らせるのだ。生産物の価値を計り、その分を貨幣で支払い、輸送して保管して販売することで貨幣を得る商人の登場である。ここで市場流通経済ができあがるのだ。

 

本来の生産階級と支配階級との関係では、強制的片務の労働所得収奪であり、市場は介在しない。

ここに貨幣経済が導入されたならば、商人が介在して、運輸を伴い、集荷と分配が行われ、支配階級への納税は、現物農産物から、商品貨幣経済へと移行する。

要は農村から貨幣で集荷して、農村は貨幣で納税する。商人は集荷した農産物を市場に出して、支配階級からの直接、間接、即ち直接には食料を貨幣との交換で販売し、間接には官吏への賃金、不生産階級への発注代金を貨幣で支払うので、商人は市場で貨幣を得てそこから手数料を差し引くのである。

 

支配階級は、貨幣経済とすることで面倒な、集荷や価値評価、保管や伴う減耗、保管倉庫の建設や維持管理の手間から解放されて商人に雑用を押し付ける事ができるし、保管管理は貨幣だけで済むのである。まあ、日本の支配階級でさえ、保管までは直営でやっていたにせよ、藩票などの貨幣代替の法貨紙幣でやっていたわけで、藩票を回収して米倉をその分開いていたはずだ。