資本主義を考える-16

・循環型単純再生産が続く均衡型中世型経済システムに変化をもたらすのは、道具との結合労働という古来の生産手段を、「機械使用労働」という新たな圧倒的な生産手段の劇的変化によるものである。

 

・まずは鉄製の機械の製造需要が均衡経済のバランスを崩す。機械主体の労働に代わることで、消費材生産の労働時間が大幅に短縮されるのだ。

その為には、既存の機械製造労働が、鍛冶屋レベルの手工業が担っていたとすれば、残業生産や鍛冶屋増加を必要とするし、その原料である鉄鉱石採掘労働も増加する。

・ここで増加した労働時間は、その分の生産所得を市場販売又は相対取引で得るのだ。

仮に、機械使用労働になったことで、消費材生産労働時間が短縮されると、そこには残余労働時間が発生する。

また、機械を購入する業者は、機械使用に伴う全減耗分を負債として機械、原料、製造業者に支払う。実際の負債は、機械使用に伴う機械の減耗費分を支払うのであるが、残余労働時間発生させることができるので、これを使用する他の消費材生産労働への従事を可能ならしめるので、ここでの生産所得が発生するのだ。生産物は市場に出されて所得と交換される。

 

変化部分だけまとめると、

機械と機械原料の生産労働増加、

生産物の市場持ち込み、又は相対取引

機械購入業者からの機械製造業者への所得移転

機械製造業者による消費拡大

機械導入業者の生産労働時間の短縮化と余剰労働時間の発生

余剰労働時間で機械製造業者の所得拡大分の消費材生産による労働所得の発生

この労働所得で機械減耗分の負債を埋めるのだが、負債を埋めて更に残余の労働時間があるからこそ機械を導入するのだ。更なる残余の労働時間は、機械導入業者の自由時間であり、剰余価値労働時間である。この時間を自家消費にして召使い労働で消費するもよし、投資拡大労働に振り向けて、機械製造労働にあてるもよし、その場合は循環経済の規模そのものが拡大再生産構造になる。

 

残余労働時間の支配権は、機械導入業者にあり、これがセルフemployの自営業者なら労働時間の短縮となる。ここで生産過剰の方向性を選べば、即ち短縮された労働時間の残余労働時間を同じ消費材の生産に向ければ、需要を超えた生産となるのだが、他の遅れた道具生産業者より販売で先行できるので一部を失業者にさせることができ、これを消費材商品として雇用できると、資本主義生産システムとなる。階級制度を作れるのだ。

資本家は残余労働の支配権をもてるのだが、即ちタダ働きさせる労働時間を資本家が支配するのだ。

ただ働らき支配権が資本であるので、その生産所得の支配権をもてて、労働価値説を実行することになる。

 

科学技術の進歩による生産手段の高度化による果実を、分け合うのではなく独り占めすることが資本主義であり、これを否定したければ、2つの方法からの選択となる。1つは科学技術を生産手段の高度化につなげずに規制すること。

もう一つは、労働者階級による推進である。ここでは、導入リスクを除外すると、減耗費分の労働時間追加を自ら受け入れて、尚残余時間分を正当に分配に活かすことだ。

ここで戻して導入リスクと残余労働時間のみとを分配することだ。

余暇時間としてもいいし=労働時間短縮、がしかし、導入リスクヘッジの為の教育学習時間に当ててもいい。要は自由ではあるのだが、リスクが存在する以上は、リスクは共同体管理下に置くべきで、この生産管理を行う者の取り分とするのが発展的な共産主義社会には望ましい、ということだろう。

 

まずは仮説を先行して資本主義後の社会を夢想してみた。

資本家に本来その機能があるのだが、資本主義の階級支配が長く継続したことでか、資本家が世襲的に階級支配権を持つようになり、日本のように事業体がリスク投資を怠り、生産性が向上しなくなり、減耗分以下の投資しかできない縮小再生産社会となっていて、幕末状態である。資本主義から経済発展を引けば、固定階級社会だけが残るのだ。

 

デフレ経済から脱出出来ず、非正規制度や長時間労働による収奪しながらも投資せず、貯蓄している現状を見るとき、資本主義のダイナミズムは日本では終わり、無投資の階級固定社会になりつつある、ということを特に日本には感じる。

 

知的な労働者階級による=下級武士による明治維新的な階級シャッフルによる老朽化制度改革は必要である。

生産性本部なるものをまともな経済学者を軸に組織化する必要があるのではないだろうか。

 

資本主義を周回遅れで経験し、今頃帝国主義やってる中国とは対照的であるが、中国はいずれ破綻するが、それまでに「非階級の資本主義社会」を建設できないものか?