資本主義を考える-13

前章でほぼ輪郭は出来上がってきた。

 

ロビンソンクルーソーなら、1人で漁業でもやるしかないが、素潜り手づかみ漁では1日8時間やっても5匹しかとれない。ようやく1日分の食糧だ。

モリ突き漁にすればモリを作るのに1時間かけても、3時間の漁業で5匹とれるとすると、自分の自由時間=余剰時間が以前より4時間できることになる。

この4時間は別の生産活動に使うこともできる。例えば果物を採取に行くとか、家を補修したりとか。隣の島民と物々交換したりで総生産を拡大することも余暇時間として遊ぶことも可能だ。

総生産が拡大可能で、すると総消費も拡大する。

 

生産手段が、むき出しの人間労働だけ、だったのが道具使用労働になると、道具を作る労働時間が増えて(=精密には道具使用時間のうちの道具減耗分の道具生産労働時間分が新たに付加されるのだが)

今度は、生産手段は、道具なし人間労働から道具使用労働時間となり、道具減耗費生産分労働時間+道具使用労働時間の合計時間=総生産労働時間が以前より短縮されるのだ。

だからこそ道具を作る余計な時間を加えても道具使用労働にする意味があるのである。

総労働時間が長くなるだけなら、道具製造労働労働時間をあえて割く必要はないはずだ。

 

そこで短時間化して終わるもよし、ロビンソンで言えば、即ち余暇時間としてとしてもよし、漁業以外の生産時間にしてもよし、自分が労働者でもあり、資本家又は支配階級でもある自営業者だから、その剰余時間の利用法の選択は彼は自分で決められる。

生産量の増加もできるのだ。

漁獲量そのものを増やすことも可能だ。

隣の島の原住民でもいれば、その生産する穀物との交換の為、というように。商品用に過剰生産することも可能だ。

 

生産時間増加による生産量増は、それが総所得増になるから、総消費増になる。

より豊かになる、ということなのだ。

 

ただし、ロビンソンの場合は、労働時間をコントロールするだけだ。ここには階級社会はないから。

だから、いずれ道具をモリ突き漁業から、魚群探知機装備の船を持ち、漁網利用の漁業に生産手段を高度化したからといって、彼の場合は資本主義になるかといえばそうはならないのだ。

より裕福なロビンソンにしかならない。

せいぜい短時間で沢山の魚が取れ、これが他人の需要を満たすし、その分が自分の他の需要を交換で満たしてくれて、自分がより豊かになるだけなのだ。

 

道具使用の労働時間短縮で余剰時間で機械をコツコツと生産して、生産手段を高度化し、これに機械利用労働時間の配分を高めて直接の漁業就労時間を減らしてトータルでこれまた就労時間総時間が減って最終形は常に余剰時間増となるだけだ。

 

従って、資本主義というのは、道具使用生産レベルを機械生産レベルに自営業者が生産性を高めることは、必要条件であっても十分ではないのだ。

単に裕福な自営業者にしかならない。

その結果としての時間当たりの生産増は、所得増となり豊かな消費生活がおくれるようになる、というだけでしかない。他の自営業者がより良い道具を活用する自営業者より、相対的に貧しい、というだけであるが、これが最低賃金ではないが、生きるギリギリの所得があれば、何も問題は起きないのだ。

 

資本主義かどうか、には生産手段の機械化とかの生産手段のいわゆる進歩とかは、微量たりとも影響を与えないのである。逆立ちしてもロビンソンは資本主義にはなれないのだから。

敢えて言うなら、余剰時間を増やす、ことをのみ目的とする生産活動になったとき、に近いが、それともまた異なる。

 

結論を急ぐなら、この生産手段の人間労働に付随した道具労働から機械生産に付随した操作人間労働にすることによる圧倒的な生産時間短縮により、これを雇用労働で社会的平均的労働時間を労働させると、=労働所得を与えると、生産過剰となり、自営業者の道具労働生産所得を激しく奪って失業者に追い込み、この失業者を雇用し支配すること、即ち賃金労働者階級を生産手段に用いて不労所得を増殖させるシステム、が資本主義なのである。だからそのためには、道具による生産活動不能生産者=失業者を生産して雇用労働者に追い込む必要がある。

だから自分の機械使用労働分だけを失業した雇用労働者にやらせるのではなく、商品としてより多くの雇用労働者を資本家所得で雇用することが可能となるのだ。これで、資本家所得はさらに増えるし、失業者もその分ー機械原料や機械の製造業に移動する部分を除いて、直接雇用されるし、他の産業にも触手を伸ばして資本主義雇用をすれば、資本家所得は格段に増えるのだ。同様の失業者を更に算出しながら。

 

残余失業者は、資本家の自家消費を需要とする労働か、資本の増殖システムを拡大する目的の為に雇用動員するのが資本主義システムであるから、支配階級と非支配階級の生産関係を固定化する。

「階級形成を行うのが資本主義生産システム」

なのである。

資本家は、失業者を

自らの召使いサービス労働に雇う、か、

自らの自家消費の既存市場にはない豪奢な美術品や音楽演奏等を求めるなら、その職にも需要がでる。即ち生産所得が頂ける。この生産自営業者となる事も可能になることで、その所得で消費が可能になる。

また、機械生産が人手不足となるから、機械生産を資本主義雇用で生産力を拡大できる為、そうなるのが一般的であり、資本主義の発展は生産財、生産手段の主要部分である原料生産と機械生産、の工業化に著しい発展を伴う。

 

現実の社会は分業で生産して、生産物を過剰生産して流通に投入した生産物を相互に正確には社会的平均的必要労働時間どおしで交換することで分配して、自らが様々な商品を生産して所得化し、消費するのと同じ結果をより合理的に得る、のである。

 

集団社会で産業として分業生産している、ということは、他人の為に生産労働をして債権化してその債権を放棄する代償として、自らの債権分の消費にふさわしい他人の生産した商品を手に入れることで、自ら生産して消費するのと同様の行為、又はそれ以上の消費を成し遂げよう、というものだ。これが分業社会だ。

 

だから、債権の証明=労働時間換算時間量、とその交換の儀式は必要で、使用価値即ち目的物は人によりその種類や量が異なるし、必要な時間さえ、例えばもっと後で必要とか、ということで貨幣が使われるのだ。

貨幣には商品貨幣=金本位制、と法定貨幣とがあり、金本位制をとると、経済成長すると金の採掘量が債権債務証明量の増加に遅れをとることでの流通不調による不況=デフレが起こるので、信用が得られれば法定通貨が良いことになる。

しかしその欠点は法定している支配階級の存在とその強制力の維持力の届く範囲でのルールでしかない。

信用貨幣は権力問題を除外視できないのだ。経済活動や経済学は数学、論理学、政治学、哲学、様々な学問の混合学問であり、部分では完結できないのだ。純学問性は低いが、人は皆このために生きてるのだ。しかも身近なのによくわからない(^^)

 

話を戻せば、分業生産社会にあっては、これはロビンソンのような機能分化の許されない特殊なモデル社会を除けば、全てが集団社会であるのだが、分業化された生産労働がなされ、それは交換により総所得として表現する機会を得て、総消費物となった生産物と交換される、ということが理論的にも現実の経済生活でも当たり前なのだ。ロビンソンの場合と同じに。

 

ロビンソンなら、豊かな消費を目指して生産し、生産時間の短縮化をはかるのだが、短縮化によるより豊かな消費のための時間、を得ることである。

しかし集団社会での分業生産では、機械生産による機械操作労働時間により労働時間短縮効果を得た上でさらに労働力を賃金で雇用し、短縮せずに労働時間延長(=社会的な平均労働時間まで)することで、生産性競争に遅れた同業生産者の生産での生産商品量を奪うことができるから、より正確には、より早い資本の回収を通じて再生産循環を高速回転できることで、自営業者の生産循環を破壊することができる。

要は、機械導入により生産コストは下がっており、販売経費をかけたり販売価格を下げるなどして資本の回収を早めることもでき、そのことで需要を早く満たせる為に、自営業者側は販売少なく、資本回収遅く、再生産が遅れ、生産所得を資本主義の機械生産に明け渡す。

生産者は、市場から神の手により要求される機械生産や機械生産用原料生産に転業、業者移動するし、資本主義生産を主導する資本家に雇用されるのだが、マクロの総労働時間が減るから機械化の意味はあるわけで、そうでなければ導入の意味がない、

従って集団社会にあっては、機械化生産の結果は同業者の非機械化生産している既存の生産者から業種移転させてなお失業者を生み出すことになる。

失業者は、自らを商品におとしめて、機械化生産者の増加した生産所得の消費の為の生産に組み入れてもらうしか生存方法がないのである。

もちろんこの人達は、資本家の生産所得生産の為の労働力商品として直接に生産ラインに雇用して救済してもらう人も中にはいるのだが。

資本家所得は、機械による短時間操作労働になるのを、所定時間労働でタダ働きさせることで、生産コストの下がった商品を大量に生産できるので、生産過剰状態を経て供給側を自営業者的生産から、没落自営業者=失業者、生産手段自営業者、生産手段原料生産自営業者、にシフトさせ、更なる残りの失業者=道具としての生産手段をも放棄した=道具製造業者も没落するのだが、を商品の1つとして雇用する、そしてなお未活用失業者が残ることになる。

資本主義システムとは、自らの生産力増で、結果として他人の生産所得を自らに集中させる生産システムであることがわかる。

失業者は必ず存在し、この失業者を資本家は雇用してこのラインに製造労働者として、又は、機械製造、地下資源原料、動力エネルギー原料労働者に全てを振り分けて生産、所得集中すると、この消費材生産の他業者がこの経済圏ではいなくなり、均衡を崩す力の源、即ち生産所得をもつ自分以外の生産者がいなくなるまで資本家所得増加は続き、そしてついに独占状態になるのだ。

 

そのために不均衡を発展の原動力にしていた循環が、動的平衡になる。均衡してしまうのだ。

もう、機械、原料、動力エネルギー原料への移動労働者も、それを操作労働する失業者もいらない状態になる。

が、もう一方では失業者が取り残された状態になる。この取り残された失業者がいるからこそ、機械生産手段の導入に価値があるのだ。

この残余失業者に対して資本家が旺盛な自家消費をやめると、失業者は固定した生活苦が遅い、自殺した場合や国外に移民した場合は、彼らの生産所得は発生せず、その消費も減るのだから、その分の資本家の所得も減り消費も減る。国民総生産が減るのだ。

これを防ぐには、閉鎖経済社会条件なら、労賃を生活ギリギリまで減らしながら資本家所得を増やしても資本家が自家消費しない限り、需要が減り続けることになる。

不労所得者となった資本家が雇用しきる範囲でしか、結局のところ需要がないので、生産力がおちるだけになる。

 

発生させた失業者に労働所得を与えなければ生産量を減らして生産所得も減らすしかないのだ。ましてや機械を生産することは、ロビンソンでいえば、総労働時間を長くするだけの無意味な活動となる。

これが資本主義生産システムを終焉させるしかなくなる、ということなのだ。

 

資本主義の本質は富=生産所得の一元化の為の階級分化システムであり、全ての生産者を労働者階級にすることで生産所得を一元化させるシステムそのものであるところに本質があり、その意味では、果ては支配階級の生産の一元化の為のシステムに過ぎない。労働者階級は、その所得の一部を支配者である資本家からもらって生きる、召使いに過ぎない。

 

他人の生産所得を奪って自らの消費所得とするシステムであり、機械化はその為の道具でしかない、ということがわかる。

 

弱肉強食の生存競争をむき出しにしただけのシステムがその本質にはあり、生存本能そのものである為、悲しいサガだが、それだけに強力である。

常に、生産所得を持つ経済圏内外の領域を求めないと、閉鎖経済圏ではすぐにも吸い尽くすことになる。

こうして、野蛮な対外膨張主義となり、グローバリズムとなる思想でもある。

これに対抗できるのは、一国社会主義とかではなく、グローバリズムの労働者階級思想集団によるアンチグローバリズムの成長であるだろう。

世界は、支配階級である資本家と、圧倒的多数を占める資本家に雇用される被支配階級である労働者階級と、資本家所得の自家消費に依存する失業者に分化する。支配階級間に国境がある場合は、失業者には出兵による資本家債権の保護の為の雇用さえある。

経済のグローバル化を各国が認めた現段階でも、債権回収を拒否する国に対する圧力は、国家間の外交による規約による制御が働くが、それがなされなかった場合は、軍を動かすことになる。

話が蛇行したり重複しているが、徐々に前進しているので、次の章で再編してみる。