資本主義を考える-8

・結局のところ、科学技術進歩としての生産手段の主に機械化による圧倒的な生産力により資本主義生産システム導入にいたる。

 

道具使用労働=生産手段を私的所有している自営業者労働は、もちろん、その中で使用道具の優劣や努力即ち労働時間の長時間競争はあったわけで、生産力の差、即ち労働所得の差即ち貧富の差は存在していたのだ。

貧富の差とは労働所得の差であり消費力の差である。

 

生産労働は、素手で労働集約的に家内労働レベルで生産していた時代でも、生産活動には道具程度は使用していた。

しかし人間労働が生産手段の大半を占めていたとはいえ、道具を製造して生産手段の一部に加える為の労働時間は必要であったはずだ。

道具はすぐには消耗せず、少しずつ消耗して労働と結合した道具使用労働が生産手段であったわけだ。

 

生産手段=道具減耗+労働時間、の結合労働時間である。

道具減耗とは、減耗分の道具製造労働時間そのものである。これに道具の原料生産に労働時間を要するなら道具製造労働時間に原料生産労働時間が加算されるだけだ。労働価値説の通りである。

 

例えば、素潜り漁で手づかみで魚をとる労働に代えて、木の枝を削ってモリを作って魚突きで魚をとる場合と比較して、単位時間例えば4時間/日の素潜り漁が限界とすると、4時間手づかみ漁で頑張るか、その内1時間かけて木の枝削ってモリを作り、3時間のモリ突き漁をやることで、漁獲量が多ければ道具使用労働の効果があり、この漁のスタイル、即ち生産手段を人間労働のみ、と比較してより有効な

モリ製造労働時間+モリ使用魚突き漁労働時間にした方が生産量が多いのである。

1時間で作ったモリ製造労働時間で3日の魚突き漁が可能で道具が壊れるのなら、1/3の減耗量労働時間がモリ製造労働時間なのだ。

 

機械との結合労働による生産活動は、機械の減耗費と操作労働時間が生産コストになるのだが、道具利用の生産活動より短時間生産が可能になる。

しかし、道具使用労働が、機械操作労働によって取って代わられると圧倒的な短時間生産化が可能となり、その生産力で自ら平均的な8労働時間を行なえば、何倍もの生産量が得られることで質的にことなる労働所得を実現することが可能となり、自らが労働せずに他人を労働力を商品として雇用してもなお自らの消費生活を可能にすることができる所得を得る自営業者となることができる。

これで初めて資本主義的生産が可能となるのだ。

 

それは一方で生産過剰となる圧倒的な生産力で、他の自営業者の生産物販売を阻害し自営業を放棄せざるを得ない低所得化に追い込み、生産活動を放棄させ失業者を作ることで雇用に応じる賃金労働者も得ることと表裏一体なのである。

 

資本主義的生産をしたくても、自らに代わって労働する賃金労働者が生産されなければ、ただただ

「豊かな消費力を裏付ける所得を獲得した自営業者が現れる」というだけである。

その結果として、富を持つもの=生産手段を所有する者と労働力を商品として交換に差し出す者に二極化するのだが、また、生産物やサービスを消費するのも労働者であり資本家であるのだ。

だが、資本家の消費は生産財生産と多少旺盛な自家消費でしかなく、生産財生産と消費の比率が上昇する。

 

失業者は自殺して総生産、総消費とも失いマクロ経済の規模を縮小する道を選択することも可能だが、機械使用自営業者に移行した生産所得は、自家消費か資本主義生産投資消費される為、その生産活動に労働力商品として自ら販売する=雇用されるか、自家消費の為の交換用消費材生産労働をやるか、サービス労働=召使い労働として雇用されるか、何れかを選択して、所得の消費との交換労働につくことになる。

ここで、機械や原料生産に業種転換した者は自営業者としての独立性を保てるが、機械導入自営業者の減耗費と労賃を除く所得に依存する雇用生産労働者とサービス労働者は、その依存性から労働者階級として格差のレベルを超えた支配、被支配の関係になる。労働者階級内では、雇用による生き残りをかけた非失業競争が繰り広げられることになる。

 

資本家が平均的な生活消費を超えて豪奢な消費材やサービスを好むのであれば、その生産やサービスを、資本家間競争を求めるのであれば、新たなより強力な生産手段生産労働に、また、過剰な生産物をより早く資本化する為の営業販売サービス部門や、資本家の所得をより増殖するための金融投資部門のサービス労働者に雇用されるのである。

 

帰結は、独占資本の形成であり、それ以外は途中段階での資本家、自営業者は何れは労働者階級となる。

資本主義の本質は、労働者階級がほとんどである階級社会を作る経済活動である、とも言える。

資本主義化とは、階級社会作りの活動としての深刻な側面を持つ。

 

・詰まる所、資本主義導入と発展は、失業者を作りながら、これを賃金労働者として資本の運用体系に雇用することになる。

 

失業者がいなければ、例えばある地域に自給自足で生きていて、それがたとえ多少不便で貧しくとも生活が自立して暮らせて、本人達が満足しているのであれば、あえて自らを商品化して時間売り労働する必要はないのだ。

自らの需要分を自らの労働によって生産供給しているのだから。

社会進歩=科学技術力利用生産で格差を作り、自営業者を没落させて賃金労働者を生み出すことに使うことで、支配、被支配の階級分化に帰結させるのが資本主義のシステムである。

 

しかし、生産手段生産までもを含む社会の全てが資本主義生産体系になったとき、それは資本家間の競争がなくなった時、であり完成した資本主義生産システムは拡大できずにその進歩を止める。止まる。

 

それは、もう没落する自営業者=独立生産単位や没落する資本家がもう残されておらず供給されないのだ。新たなフロンティアが資本主義市場に組み入れられなくなった時、世界は閉鎖経済となり、資本主義社会の終焉となる。

そして、支配と被支配の階級構造だけが残ったまま停滞する。単純再生産だけの新中世の時代となる。

 

もし、資本増殖が止まり、生産手段への投資という形での資本家消費がなくなれば、既存の償却資産分の再投資のみとなり、資本は増殖できない。

 

資本家は投資手段を失うので、自家消費しか所得の使い道がなくなる。

資本家の自家消費分の生産労働がおこなわれればうまく経済循環するが、不労所得を消費するだけの豊かな暮らしをする人、とその人の為に生産労働又はサービス労働労働する人がいる、というだけの社会になる。

これは、ケネーの経済表範式で描かれた循環経済社会で、農民の位置に労働者階級がはまる、だけである。

新中世の単純再生産社会が出現するのだ。

 

これを打ち破るには、資本家間競争の果てしない闘争の中で、資本家はグローバリズムにより、国家障壁をも壊しながら資本を輸出し、生産、消費市場を拡大しようとすることになる。

資本主義は、閉鎖経済ではなく、常に閉鎖を打ち破って倒すべき閉鎖経済の社会的存在を否定しなければ所得の拡大を産めないシステムであり、所得拡大を目的としたシステムであり、本質はグローバリズムである。

 

世界が市場となり、世界のどこでも生産が可能になり、最低コストの賃金生産や原料確保が可能になり、貿易が自由化され、市場が開放されこれ以上の生産性向上を求めることがもう不可能になると、

即ちこのグローバリズムが一巡すると、利潤は拡大出来ず、中世化した単純再生産社会となる。

 

現代社会は、グローバリズムによる資本の増殖収益に限界が現れ始めている状態である。

 

産業を飛躍的に発展させる技術革新があれば復活できるし、ITのように、生産の必要コストを削減する技術革新も有効ではあるが、省力化としてマイナスを減らすだけであり、プラスにはならないから限界もある。失業者を産むだけで、生産はしないから。

 

失業者を減らす仕事は、つねに資本増殖の為の仕事しかない。それは需要が資本増殖でのみ発生する階級社会となった結果である。

これ以上の資本増殖に健全な投資=資本主義的生産の為の就労環境が必要なく、自家消費にも限界があるほどに所得が資本の側に偏在しているからである。

 

この環境での、資本増殖は、労賃総額の支払い低下でしか得られず、結果はデフレ=需要不足のマクロ構造を生み出す。

投資の減退を産む資本の集中化の中で、資本は自家消費をも減らせば、死蔵する分がデフレの根源となる。これに実質賃金の低下が伴えば更にデフレが加速する。

 

資本は死蔵せず国外に持ち出されても同じである。

国外に資本輸出されれば、生産活動がより賃金の低い国外で行われるから、生産物の製造単価は下がり、市場占有率は上がる。

資本の生産手段と結合する国内労働が減るので、国内総労働所得は減るが、輸入商品が安価になる、という関係だ。

資本は国内からではなく国外で投資所得を得て、再投資に使われる。

で、国内には対外債権増殖がカウントされる。

 

グローバリズムの行き先について次章でさらに考察したいが、国内では新中世化して支配被支配の関係を残しつつ、資本輸出の資金源として、国内労賃を下げれる限界まで下げる。

これができるのは、国内での資本間競争が飽和し停滞していることにもよる。

労働者階級が結束して賃上げ要求するなら、移民労働者を国内に導入することになる。

反作用は、民族主義者が政権に登壇することになる。日本のグローバリズムは、この前段階である。