需要について-1

・ロビンソンクルーソーは単純だ。

自らの需要の内、自らの優先順に限られた睡眠時間以外の活動時間を労働時間配分して需要を満たす。

 

満たせなかった需要は、繰越すか夢と諦めるかだ。

生産性を上げて短時間生産が可能になれば、満たせなかった繰越需要分の生産活動にあてるか、余暇時間を増やすかを選択できる。

自らの労働のみが需要を満たす手段である。

労働によって満たせる需要を有効需要と呼ぶことにする。需要>労働、の関係が常に働く。

 

・集団社会では、集団構成員の個々の需要は、個々の労働で満たすか、分業と交換による社会的生産活動で満たすかだが、実際には組み合わせた方法で需要は満たされている。

 

これをマクロ的客観的に見れば、個々の需要を実現する労働時間と分業生産活動での労働時間の合計値が社会的総生産となり、社会的総需要を満たすことになる。

社会的総需要は、集団構成員個々の需要の合計値を個々の生産活動を含む社会的総生産活動で満たせる範囲で満たせるに過ぎないのであり、その意味では需要は有効需要という語で説明するのがふさわしい。

 

・個々の生産活動であり個々の需要を満たす部分は分業ではないのであり、交換を必要としない部分。

交換に時間差を伴わないので、貨幣という債権債務証書との交換も必要はない部分である。

従って、GDPの集計だけでは総生産力は貨幣換算されていない個々の生産分はカウントされていないので根本的には不十分であるといえる。

家計セクションがカウントしきれないのだ。

例えば、家庭菜園での収穫物やその労力、外食でない主婦労働による調理労働や、亭主の生活使用時間を削減しての洗濯や衣食住に関わる家事雑務の下請けで亭主の社会労働時間をより多く確保すること、を労働時間として本来ならカウントしなければならない。交換による貨幣数値を換算するだけでは、生産力は正しくはじけないのである。

 

・さて再度、需要について考察する。

需要を個々の人により、分業せずにそれぞれ生産する集合体とする分業ゼロ%、の方法もある。それは自給自足とよばれ、自給自足の共同体である社会も理論的には存在しうる。

生産力は、経験や研究活動や道具の進歩や頑張りにより拡大した先には剰余生産物が得られる。

この段階で階級が発生しうるが、これはまた後ほどに深掘りする。

100%を分業によるのは、共産主義である。私有財産を必要とせず、生産手段が社会化しているからだ。

資本主義はその経過段階であると考えられる。高度な生産段階であるが、生産手段が私有財産のままで、階級分化が存在するからだ。

資本主義の分業率は高い。それは生産性が上がることで労働時間当たりの生産物が増えるからなのだが。貨幣を使用して生産物総量が増えるから、貨幣も増やさなくてはならない。過剰生産物は域外に輸出できれば、域外の労働所得が手に入る。が、輸出できなければ過剰生産となり、生産縮小となり、資本主義生産システムは機能不全を起こす。

 

さて、需要は労働生産物により満たされるのではあるが、それはサービスであろうと物であろうと。

労働によらずに需要を満たす方法は無いのか?

他人の労働物を不等価で交換することがそれである。1つは贈与、1つは略奪である。

略奪には合法的、非合法的があり、合法的略奪は再分配目的であることが条件となる税収、非合法は犯罪としての略奪である。

それ以外に、商業流通上の希少性によるものや、優先換金の為の値引き、等もあり非対称性を伴う交換が現実には多々ある。

要は生産されたものが、利益幅以内で営業経費=中間生産中間消費を伴いつつ基本的に不等価交換される、というのが資本主義での交換様式である。商戦を伴うのだ。

 

・また、現在経済だけでなく、需要をみたすのに、過去生産の債権や将来生産の債務を利用して物やサービスを交換入手することも可能だ。

将来生産の債務をもって交換する場合は、信用のレベルにより金利が発生する。それだけだ。

現在の労働と分業生産物とが等価交換される、というのは一面の数学的標準スタイルではあるが、現実は過去の蓄積生産手段による生産力の上に、将来の生産力予測と、これに現在生産所得の階級格差分配が加わるので複雑である。

条件を固定して数学的に結論を得る近代経済学では現実の役には立たない。経済学には論理学と哲学を働かせないと。