資本主義分析-8

・前章とは異なり、8店のかき氷店が当面継続し、取り敢えずA店のみでかき氷機が導入されて1日稼働して生産過剰になった状態の切片を考察してみる。

 

・A店の生産販売増による変化を考える。

カンナ式の時は、日産で考えると、

5杯/1h×労働時間8h=40杯

ここでの、対A店への原料供給は

90円×40=3600円 →  90×320=28800円

増分は、28800ー3600=25200円、

生産手段は、

10000/1000×40=400円 → 80000/1000×320=25600円

増分は、25600ー400=25200円、

労賃は8000 →  8000円、で増分はゼロ、

 

ここで、増分の合計は、25200+25200=50400円で、これは、原料採取部門と鍛冶屋生産部門への中間消費材としての支払いが発生するもの。これらの部門の労働所得として、彼らから最終消費として市場に投入される資金となる。

また、この中間消費材によりかき氷生産は

40杯→320杯に320ー40=280杯、生産増することができて、280×300円なら84000円にあたる生産物を市場に、持ち込み販売することにより得られる。

しかし、市場の交換所得増分50400円は、得られるが、84000ー50400=33600円分は、市場の購買所得の不足となり、売れない可能性がある。

市場の交換所得分が全てかき氷の消費のみを増加させることも可能性としてはあるが、他の消費材の需要に向かい、その消費材の生産増を導くのが普通だ。

 

・結論としては市場が閉鎖的市場であれば、例えば外国市場に売りつけたり、とかの可能性がなければ、ちなみにかき氷は輸出可能性のない内需商品であり、かき氷機なら輸出の可能性はあるが(^^)、生産性向上は需要不足、供給過多になりやすくなる。

 

・現実の世界なら、残りの7店のうち、1〜2店は、同じくかき氷機を導入してA店との競争になりますます需要不足となるので、より早くより多く販売することが求められる。競争社会が始まるのだ。もはやカンナ式の旧来のかき氷店の存在余地はないと言える。

 

一方で、剰余価値の多さ=33600円、から製造原価は、量産することで確保できる最大値であり、競争が同質間競争なので、この33600円は、AB両店で奪い合うことになる。原価が300円でなく195円になることで、かき氷の値段は300円から限りなく195円に引き下げられるか、市場の末端まで行き渡るように商業=営業経費、輸送経費をかけて更に値引き販売となる。

結論は値引き販売合戦での剰余価値の放出であり、商業運輸経費と関わる労働の増大である。

労働需要は、常に発生するのであり、生産物は過剰になり安価になる。自営業者は減り続け、労働者階級は増え続け、剰余価値の投資内容により発生する労働需要に吸収される。

 

労働需要は、生産材生産と原料生産に顕著となり、自営業者はその部門に労働者階級として雇用される賃金の方が、自営業による労働所得を超えることになり、労働者階級の国家に移行していく。

 

労働者の賃金所得が、労働者の生産物を消費するので、賃金所得と資本家の不労所得の合計以上の消費=生産が不能となる。富が偏在する社会にあっては、資本家消費に限界がある。デフレ生産調整社会が発生する。現代日本である。

消費も投資もできない金融資本が退蔵資本となり、経済循環を阻害するのだ。

労働者階級に、蓄財の減少とローンの負担を負わせら為に消費は低迷、生産減少、賃金低下又は非正規労働者の増加で覆い隠す、一方で法人の金融資産が増加し、非正規や老人含む低所得者への公的税支出が債務として国家に負わせられるが、その債務は退蔵金融資産に担保されていて滅亡しない社会が現れるのだ。

民間法人の投資抑制を打開するには、国による投資の拡大しかなく、将来的インフラ投資による生産増であるのだが、その意味ではコンクリートから人へ=教育研究、の投資方向への変更だけでなく、情報通信やロボット、宇宙空間の開発などを、法人税の引き上げか、国債発行による公的投資拡大で乗り切るしかない。

少なくとも担保は、企業や資本家の退蔵金融資産であり、機能させられない企業の資金を活用することである。企業も資金活用能力の欠如を階級社会であることに甘えている企業指導者の無能に支配されているのだから、国債発行で将来的な企業の退蔵金融資産を現在労働の需要に振り向けることが必要だ。

将来に禍根を残すのだが、将来を失うのは国民ではなく、現在の退蔵金融資産保持者、資本家であり法人であるのだ。何故か?それは国債担保保持者であるから。

日銀の国債買取の現在の方針は、その意味では愚策であり、資産バブルを醸成するのみで、現在経済を改善し得ない。国民が生産労働に活かされずに低賃金低消費=低生産=低賃金、の悪循環を断ち切る経済政策たり得ない。

 

飛躍したこの結論が、日本経済の低迷を打破して将来に明るさをもたらす方策であることに確信はあるが、またその経済的根拠もあるものであるが、かき氷屋の世界の発展形態から今後は個別課題として、またマクロ経済として証明しなければならない。

ピケティーのあまりにも当たり前の結論をありがたがる経済のリテラシーレベルを覚醒する必要がある。

労働者階級に、経済理論のリテラシー改革を提起する必要がある。

 

かき氷経済モデルからは、資本主義はやはり

社会の為、人の為のシステムではない。

格差拡大による、人間を商品や金の対象として貶めるある意味情けないシステムである。

しかし、人間は弱く、旧社会主義システムは人が人を支配する、更に情けないシステムとなった。

やはり、中世の自営業集団による共同社会が好ましく、人を雇って生産手段と組み合わせるのではなく、A店は、努力やアイデア私的財産として報われていいのではあるが、丁度弁護士や医師や職業による賃金差はあってよいのだが、法人格による相続税のがれは、人間集団組織運営が退廃社会を生んでいるようにも見える。組織運営論を深める必要もある。

この後はまた視点を変えてみたい。