マルクス経済学、結論

マルクス主義経済学は、資本主義システムのモデル式として

GーW(pm+A)ーPーW'ーG'  

と表現した。

資本主義生産システムは魔力のある経済のエンジンである。ことの本質は、下部構造は農本主義、上部講構造は絶対主義的封建時代から、下部構造は資本主義、上部構造はブルジョワ民主主義に、旧態の君主制や王政を象徴形骸化しながら進行していったが、ケネーの示す不生産階級の職人生産様式が、マルクスの言う資本主義的工業生産様式に移行する変化が上部構造をも変えていったのだ。

 

資本主義は弱肉強食を地でいく抑圧と収奪の仕組みでもあり、安価な商品を大量生産しながら生産活動が剰余価値、即ち資本を生む魔法の杖でもある。

この悪魔的なシステムは、不生産階級の職人的な生産活動を駆逐していった。不生産階級的生産は均衡生産であった。長く続いた中世を支えたシステムであった。資本主義は、

「不均衡」な生産体系であるのが悪魔的なのだ。

即ち消費の為の生産ではなく、生産活動による資本蓄積、格差拡大や弱肉強食を自己目的化する為の生産である為に、最も大切な人類の生存や発展より、資本拝金主義による滅亡をもたらすエンジンでありながら、その仕組みの解析はマルクス時代の資本主義の先進国イギリスの18世紀初頭のまま基本の理論体系は放置されている。

 

第二次大戦後は、核の冷戦による2体制均衡の上に健全な前期資本主義が戦後復興として築かれた。冷戦により、資本主義は社会主義以上に福祉国家として機能することが求められ、ケインズ主義が発展を推進した。

1970年代に、戦後復興需要が終わり、ケインズ主義が機能しなくなり、新自由主義による金融資本主義に脱皮、ソ連崩壊による冷戦後は、体制グループを捨ててグローバル金融資本主義に脱皮して現在に至る。冷戦崩壊とグローバリズムにより、中国は国家資本主義に変質、こうして周回遅れの覇権主義的国家資本主義も誕生した。

資本主義エンジンは、こうして脱皮を繰り返しながら生存維持しているのに、マルクス経済学理論は18世紀イギリスと崩壊した旧社会主義のままで引き離される一方で、これから先の資本主義の脱皮や滅亡、それに代わる新たなエンジンの有無を予測することもできないでいる。

 

話を戻そう。早く現代の分析に至らねば。まずはマルクス時代の工場ミクロ的な初期資本主義の分析評価から再スタートしてみよう。

 

ここで Gは貨幣資本、Wは商品、pmは不変資本、Aは労働力商品=可変資本、Pは生産工程である。

Wは前者も後者も 商品であるが、その性格上は、前者は生産資本、後者は商品資本と呼ぶ。' は剰余価値であり、mと表現することもある。

 

マルクス主義支持者でありながら、マルクスの表式の弱点をまず洗い出したい。その理由はマルクスを現代に呼び込みたいからだ。18世紀の限界に置いてきぼりにされているのが不満なだけなのだ。

 

この表式での不思議は、生産量の増加、である。

価値量の増加とも言え、生産前と後とでは異なる、ということだ。

資本主義前でも、工業生産品は職人の手によって行われていた。その形は

 W(pm+ A)ーGーW(pm+ A)

の繰り返しなのだ。自営業者的である。原材料を労働加工して市場で貨幣と交換し、その貨幣で原料代を払い、生活消費材を得て生きる、この繰り返しである。原料は無視できる単純再生産、生活の為に働く、であり、    Wー GーW    である。

労働力商品として自ら生産活動して市場から貨幣を得て貨幣を生活必需品と交換して労働力を再生産する、ということだ。他人の労働生産物と自分の労働生産物を労働時間価値同士で交換して生存するし、生存してきたのだ。

経済学の母、フランソワ・ケネーは、この生産様式を不生産労働と呼び、この生産様式を行う労働者を不生産階級と呼んだ。剰余生産物を産めないのだ。

 

ここに、資本主義が登場する。マルクスは圧倒的な工場生産力とその生産量を、可変資本の加重労働による搾取として階級闘争による分配是正の根拠としたのだ。

 

しかし、 GーWー W'ー G'  は不払い労働の積み重ね、ということになり、Wー GーW  より劣る労働者の賃金、ということになり、この生産様式より劣後のシステムと言えるし、そもそもWーW' は不等価交換であり、等式ではない。不等価交換は続かない特殊例であり、普遍的ではないのだ。

 

 GーWー G  が繰り返される中で剰余価値mが作られることが資本主義の凄みであり、悪魔的なのだが、このmがどこから生まれるのか、が問題である。

 

貨幣資本は貨幣資本のままでは、一円たりとも増殖しない。生産資本に変換して生産活動する中で貨幣資本は増殖できるのだ。より正確には、生産物を貨幣資本に商業を通じて戻すことで剰余価値が生産できるのだ。

生産資本は、前時代の不生産階級生産同様に、原料を労働力で別の目的物として生産し貨幣資本と等価交換するのだが、原料は変化しようがないのであり、剰余価値を得たければ可変資本の削減によるしかなく、労働力商品の生産単位当たりの削減によりしかも生産物が予定通りに生産できた場合に、そう言い方を変えれば、生産組成段階で剰余価値は生産工程で内部発生するのである。

しかし、労働力を削減すれば生産量が不足となり、交換される貨幣も減るだけである。これを乗り越えるには、マルクスが誤って分類した不変資本の一部である機械使用=固定資産減耗、と機械を動かす為の動力エネルギー代、を可変資本に分類すること、が問題の本質である。

機械を導入すると、機械と動力代が付加され生産コストは更に上がるのだが、このコストを超える労働者の削減ができるなら、剰余価値はこの生産工程で発生するのだ。これが本質なのだ。

もし、剰余価値分を生産工程に原料として追加投入すれば、生産量増大となるだけのことだ。マルクスの表式はこの状態を表しているに過ぎない。

 

剰余価値を発生できない、と考えられてきた不生産労働を資本の力で剰余価値を生産できるのだ。

 労働者階級の失業分利益のAから後で述べるpm2分の経費を引いたのが剰余価値であるから、そのことさえ無視すれば、とてつもない社会発展の原動力エンジンとなる。集団的職人仕事で剰余価値が生み出せるのだ。

 

マルクスは、前期資本主義が軌道にのる前の資本主義。機械と動力エネルギーで置き換えずに、失業者や婦女子を低賃金でこき使うレベルが当たり前の初期資本主義の分析だった。

 

しかし、失業者は機械自体、エネルギー自体を生産する産業に吸収される。

資本主義発生期の機械も貧弱で動力エネルギーを石炭や薪に頼った蒸気エネルギー時代から一歩前に進めば、圧倒的な生産力を実現できる魔法の杖となることができたのだ。前期資本主義や戦後の復興型資本主義の魔力には凄みがあるのだ。

 

機械と動力エネルギーの生産工程での結合は、目的物に変えられるもの、ではなく変えるもの=労働力として機能している。人間労働の補助ではなく人間が機械労働の補助労働になることで、主従が逆転して雇用が少なくなることで、生産労働は人間労働からよりコストの低い機械労働生産に置き換えられる。人間労働は機械と動力エネルギーに駆逐されるのだ。

 

さてここで、生産物への移行価値は剰余価値分減額しているのに、貨幣資本に転換するときには、外部市場での価値、その裏には既存の生産システムが職人労働なら、その生産システムでの価値と等価?交換される。その差額が剰余価値として資本主義生産システム側に蓄積されるのだ。マルクス表式はミクロの世界であるが、交換はマクロの話である。ミクロでは完結できないから、マルクスも再生産表式等も開拓していたのだが。

 

であれば、その裏が、即ち交換相手の生産様式が全て資本主義的機械生産であるのなら、価格カルテルでも行わない限り剰余価値は生まれないか少なくとも低減していく。資本蓄積を目指して生産新規参入競争も起こり、その競争が貨幣資本への転換の速さを競うから、剰余価値低減の価格競争となる。

早い話が安売り合戦だ。これを止めるには流通を支配する独占や寡占にするか、販路を=市場を拡大するしかない。規模と生産力を拡大した結果としてより大きい市場を必要とするようになるのだ。

 

マルクスを擁護すれば、当時の工場生産は一部に機械はあるものの、圧倒的には人力であり、労働強化が基本であり、エネルギーも恐らくは蒸気機関の走りであり、小道具にしか値しかなかったはずだ。

 

話を戻す。

Pの生産工程は、原料と労働エネルギーの結合工程であり、人力エネルギーを消費するのが労働力である。これを機械と動力エネルギーに代替することで、人力を省力化するのだ。

このことをわかりやすくする為に、不変資本のうち原料をpm1、機械の減耗と動力エネルギーの合計をpm2と区分してマルクスの資本主義システム表式を変形すると、

GーW(pm1+ pm2+A)ーPーW'ーG'

とできる。

しかし、この式にも問題がある。

原材料を加工労働する生産工程を経ると、原材料と加工労働を超えた価値物が生産されることになる。

職人労働なら、フランソワ・ケネーの経済表範式での不生産階級=労働者階級の生産様式では、超えないので、単純再生産が繰り返されるだけだ。農漁業と異なり、自然力は工場生産には介在しないのだ。

 

 GーW1[(pm1+(pm2+ A2)+m]ーPーW2ー G

が正解だと思う。ここで、A2は削減後の労賃、mは勿論剰余価値である。

ただし、 元の式ならA=(pm2+ A2)+m

で、m=0、が不生産労働システム

       m>0なら資本主義生産システムである。

 

W1[(pm1+(pm2+ A)]ーPーW2

は、貨幣の商品との交換であり、できた商品を貨幣化するので、上式は大きくWとしてくくれる。

即ちGーWーGを繰り返しながら、富=剰余価値を増殖し続ける、このまま未来永劫に続けることが可能なら、資本にとってこの上ない夢の貨幣資本増産システムだし、雇用継続の生活安定なのだが、ここからは悪魔と化す。不均衡の故の悪魔への変質だ。

資本主義前期の夢が、夢だったと目覚める後期資本主義となる。必ず。

資本主義は消費需要を超えた生産の維持を必要とする、均衡を崩すシステムなのだ。需要不足=生産過剰なのだ。走り続けないと転倒するシステムなのだ。しかし資本増殖を維持する為には生産し続けたい欲求があり、労働者も、雇用継続欲求があり資本に従う。しかも剰余価値生産が可能な間は新規参入が続き市場は飽和し需要不足となる。

市場の拡大か、又は失業社会問題を伴う投資即ち金融資本の生産資本化を止めるか、既存の生産資本=固定資産を破壊して、需要水準にまで縮小して均衡ラインにするか、しかない。

平和を求めるならデフレ経済を甘んじて受けて、賃金水準を落とし失業者を増やし、赤字国債を発行しつつ過去の良好な均衡時代の備蓄を消耗しながら均衡点を探る。この場合は労働者を淘汰殺戮し労働人口減で対応するしかない。

平和に頼らなければ、外国市場の強制開拓、経済圏の拡大、戦争経済による強制的な破壊=需要作り、の方法をとる。

「不均衡」で発展したことのツケを払うのが後期資本主義時代だ。しかし、その前に、マルクスの手法とケネーの循環論で資本主義マクロを分析しよう。

次回からは資本主義分析となる。

 

マルクス主義経済学研究の結果は、方法論は正しいが、生産手段と労働の比で、生産手段のレベルが低すぎる資本主義初期の時代の制約と、過度の階級闘争への傾斜の結果として、生産手段の分類を不変資本にのみ分類することで、可変資本の低減と、その差による剰余価値の生産工程=労働と生産手段の結合での発生を正しく評価できなかったことにある。