マルクス主義経済学1

・GーW(pm+A)ーPーW'ーG'

で、WーPーW'の工程 が最大のポイントである。

 

P即ち製造工程を経ると、資本Gを製造組成段階のW即ち可変資本A即ち労働力商品=賃金とpm即ち不変資本=原材料や機械の固定資産減耗やエネルギー投入を調達し、それらの結合即ちP製造工程を経て価値がWからW'に増殖することになり、この'が剰余価値であり、労賃からの収奪そのものであるということになっている。

 

しかし、本来ならWーW、即ちW=Wのはずだ。

W'の産出ならW'=W'、投入もW'でないとおかしい。

投入原材料や固定資産減耗の価値は、労働力商品の運用で加工して、その和と等価で別の形態に移行して変化しているだけ、のはずなのだから。

 

では' はどこから生まれるのだろうか。

W=W'という不思議な等式は何なのか?

 

W'の産出を得るには、神の力、言い換えるなら自然の力等で付加されなければWはW'にはならない。 

 

自然を相手に農水産物を得る仕事なら、ケネーの通りの生産階級=農奴のように、種子と水、太陽エネルギー、地力の力を借りることで、剰余生産ができるかも知れないが、だからこそケネーは生産階級と呼んだが、一方で与えられた原材料を加工労働して別の有用物に変える職人仕事的な不生産階級の活動には、その自然の影響の余地はないはずだ。だからケネーは不生産階級と名付けた。工場生産であっても不生産、即ち余剰生産物のない非資本主義的生産なのだ。

少なくとも不生産階級=労働者階級の付加価値労働の前後、即ち産出と投入は等価であるはずだ。

 

ある貨幣資本を原材料αと労働力βの生産資本とを等価交換して、生産工程を経て結合させれば、α+βの価値のある製品を作れるに過ぎないはずなのだ。

仮に、この職人生産を工場生産で置き換えるには、原材料価値は変わらないから、可変資本であるβが小さくなる、省力生産ができるような生産組成システムが工場生産でないと職人生産に取って代わることはできない。また、更にその省力生産こそが剰余価値を産む生産組成システムであり、資本主義生産システムそのものである。

 

さて、W'が産出されるなら、原材料もpm'がなければW'に製品化できないし、同時に労働力AもA'がなければW'は産出できない。増産は、全ての生産要素の等しい増加率でしか得られないのだ。

 

要はW'が別種のW'に変化するP生産工程ということだから、W'の投入の組成段階で、既に剰余価値が潜んでいるはずなのだ。

言い換えるなら、WーPーW'、なら

Wの投入の中に' が既に内包されているはず、ということだ。

 

このうち、原材料は'分は増やさなくては製品増にならないから、生産組成段階のWは、pm+Aが、

pm=pm+ pm' でないとW'の製品化ができない。不変資本は不変なのだ。

 

分かりやすくする為に、例えば原材料10、労賃20で生産組成して、製造するとできた製品は30の価値がある。職人生産であろうと、工場で生産しようと。

マクロ的に、需要>供給ならば、30の価値は30のまま販売され(販売経費が別途加算されるが)、原材料仕入と加工労賃として生産循環しているのが、職人的生産である。

ケネーの範式では、だからこそ不生産階級なのだが、これを資本主義的生産とする場合は、ここで例えば6の剰余価値生産して、36の製品を作って換金するということだ。

36の製品に使用される原材料及び固定資産減耗=不変資本は10×36/30=12、だから原材料を2+しなければならない。すると、労賃が20のままでは投入が32になるので、労賃を2-して20-2=18、にすればよい。

しかし、職人的生産では、10の原材料他を20の労賃をかけて30の生産物を得るのだから、36の生産には12の原材料他と24の労賃を必要とする。

 可変資本=労賃を24かかるのを18で抑えるから6の剰余価値が生まれるのだ。

このことは、職人的生産の職人を3/4に削減して同量の生産できる事が条件となる。

そんな事が可能になる生産工程の生産要素の置き換えができない限り、36の生産をするには、24の労賃が必要なのだ。24の労賃を18で抑えることができないと剰余価値6は生まれない。18しかもらえない労賃で、24もらえる労賃分の仕事に集まる労働者はいるのだろうか?失業者ならいざ知らず、失業者でさえもこの就業だけでは食えないのだ。

とすれば、婦女子やルンペンのように、現在は扶養されていて、他を扶養し労働力の再生産の所得を必要とはしていない労働力予備軍、現代で言えばパート、アルバイトなどの非正規労働に頼って、労働力再生産までの賃金を必要としない階層により生産活動が組織されれば18の労賃での継続生産は可能になる。

職人の高い技術を要求せずに、作業工程を分解し単純化しコンベアー方式で協業すれば可能だ。

機械技術が乏しければ、低賃金人海戦術長時間労働で可能となる。女工哀史やイギリスにおける労働者階級の状態、これが初期資本主義の生産の特徴であり、奴隷労働による収奪で資本蓄積が行われ、マルクスの搾取論のままの生産システムであった。

 

いずれにせよ、24かかる労賃を、18で生産できる生産組成、正確には労賃18で24のうち6を剰余価値として収奪できる生産組成が設計されなければ資本主義生産の意味はない。

 

では、全てがこの女工哀史型の奴隷労働的な生産が主流だったのだろうか?

24かかる労働生産を18の労働で生産するのに、合理的な方法はないのだろうか?

 

結論は、可変資本の不変資本での置き換えにより、安定的な生産増加がもたらされるシステム作りであり、これこそが本来の資本主義システムであり、発展期の方法である、ということである。

初期のマルクスの時代は、不変資本の大半は原材料であり、可変資本の大半はむき出しの筋肉労働そのものである。

職人生産との差は少なく、可変資本の収奪を主流とする資本蓄積であったが、その後に得た剰余価値を社会的に需要ある機械生産に投資し、その機械を投入することで可変資本と置き換えることにより労働効率が上がり、その差額が剰余価値を生み出す、という方式で組成するようになれる。

この場合、当該生産工場の労働者は大幅に削減され失業者が増えるが、機械生産工場が増えることで労働人口は吸収されるので、労働移動だけで済む合理的で良い社会発展が得られるのだ。

労働者は、組合により、剰余価値からの分配にもありつけて社会的には中間層を形成でき、福祉国家的な恩恵に浴することもできるのだ。

 

例えば、12の原材料に6の工作機械投入による固定資産減耗又はリース代2と、機械の動力エネルギー4との合計で不変資本18として、可変資本を18-6=12として36の生産物が得られればW'は36で、投入の不変資本は18、可変資本は12、で30のWでできることになる。これが資本主義の合理性であり、工業化にその特徴があるが、人間の筋肉労働を機械に置き換える社会的生産性の向上がその本質である。

 

年に1、2回だが、利潤率の高い農業より、利潤率は低いが期間回転数の高い工業が優位となる社会が勝る、不生産階級の生産階級化、これが資本主義である。

余談だが、農本経済で社会主義政権化すると、工業化が支配階級主導の統制経済のもとで推進されるので、交換市場経済の経由がないことで、丁度、官僚主導の公社公団型の事業となり、効率が後回しになり、癒着や汚職の温床となり、民業を圧迫する独占型企業運営になりやすい。独占禁止法の適用を受けない巨大経営が登場するのだ。

たとえ巨大赤字がでても税収から補填されるなど、自助努力に欠けがちで健全な経済発展が阻害されるのだ。だから市場経済流通比率が高くなければ、また、その為には民間資本家主導の経済システムでないと脆弱になる。

また、その為には、商業発展が並行して必要であり、ここが弱い統制経済では生産と流通のバランスが健全に発展しないのだ。

商業の未発達こそが、旧社会主義政権の特徴であり弱点である。

この特徴は強制権力によって体制が維持されざるを得ないし、民主的政権、即ちブルジョアジーを含む広範な市場交換経済に依存して暮らす人々の参政権を排除した権力主導の交換経済に依存せざるを得ないのが現実であり、絶対主義的封建制が、国体とならざるを得ない。政治的にはルイ王朝や徳川政権の体制のままのクーデターでしかないのだ。

 

資本主義は、不生産階級の増大を産む。

社会発展のためには、農本主義後の必要な通るべき経済システムでしかないのだ。

農本主義での農業の生産増=剰余価値生産は、農業段階でだけ資本主義であったたいうことだ。しかしこの生産増は支配階級の強大化資金を与えるだけでなく、不生産階級の増大をもたらし、不生産階級の生産増が、それも機械導入による生産増が剰余価値生産物をもたらして工業化、商業化が進み、サービス化も進み、農業同様に市場交換可能な剰余生産物を目的として=資本増殖手段としての資本主義生産システムに移行すると、不生産階級は生産階級となる。

要は生産・不生産の垣根はなくなり、支配階級以外は剰余生産物の市場交換社会に移行するのだ。

これが資本主義社会であり、発展の当然の結果でしかない。

 

その後に起こる需要<生産、の段階での資本主義の矛盾に立ち向かうのが大変ではあるのだが。(^^)