ケネー範式分析-1

・別な角度から範式の生成と発展の歴史的経済把握を試みてみよう。ロビンソンではない集団社会だ。

 

まずは狩猟民族から、農耕民族への発展である。

 

採取経済である狩猟民族の段階でも、チームとして生きる狩猟活動が、しかも家父長制組織で行われたはずだ。

生産活動は、狩猟という男達の専業であり、リーダーの指示と計画により組織的に行われた。使用される道具は武器ともなり、総生産物の分配抗争は不安定な収獲により、常態化していたと考えるのが妥当だ。平和な狩猟活動は、その収穫の不安定さにより持続的には得られなかった、と考えるのが妥当だ。

 

また、狩猟成果物はルールにより家父長制のもとで分配され、女達は調理と子育てに分業化されていたはずだ。

総需要が、総生産を常に上回っており、集団は常に飢えていて、その集団をようやく維持していた状態が続いていて時折の生産過剰という不安定な状況があったに過ぎない。原始共産制社会である。

不安定な資源に依存し、移動を常に強制されたはずだ。

 

・その後の農耕技術の発展により、安定的な食糧生産を基礎とする定住生活ができたはずだ。

土地、が生産手段となる農業社会の登場である。

組織的な生産階級への進歩である。

 

・この土地は、生産手段であり、この土地での選択的な農業生産物を自然の力、即ち太陽エネルギーと水と大地の養分とにより定期的に目的農産物を生産する活動は、まずは、外敵から生産手段となる土地と収獲生産物を守る活動が必要になる。また、分配による内部対立を平定する内的権力も必要である。これらの作業は組織的なリーダーによる別階級=非生産階級の存在を必要としていたはずだ。

これらは専業化されるのだ。分業は生産活動だけでなく、生産組織の維持を目的とする権力構造が必要となる。

生産力が低いこの時代は、現代でもそうであるように、常に他者の生産物に依存する誘惑との戦いの歴史でもあり、生産力の低い飢えたもの達は、常に他人の懐に依存せざるを得ないのだ。逆に富んだもの達は、飢えたもの達からの盗難略奪から守る出費を余儀なくされるのだ。

 

・生産活動は、集団的組織的な協力共同作業である。これを生産階級と名付けるとすると、

収穫物即ち生産所得の分配は、協同ではなく奪い合いになる。

この対立関係は、余剰生産物に対してはこれを占有支配する階層が階級内部に常に現れる。

生産所得の分配は、内部対立を引き起こすのだ。

そこで、余剰生産物を収奪するものは、

 

 

 

・結論的には、ケネーの範式では、常に支配階級が、また、生産階級内でも非生産的なリーダーが存在することが前提とされた社会分業が存在していたし、必要だったと言える、ということである。

経済の側面だけから見ると、これは等価交換や市場経済からのアプローチではうまく説明ができない。

等価でも交換でもない必要なシステムそのものである。経済を権力抜きに取り出して説明しても無意味である、ということだ。

 

国体は分業の産物である、といえる。

存在するものは合理的である、という側面を持つのだ。

この農本社会は、農業技術を発展させながらも絶対主義的な封建制度として発展して頂点を築きつつ、生産階級に内包される余剰生産力の増加により、不生産階級の生産階級化という資本主義システムにその国体を変えていく歴史的必然性に止揚されるのである。

ある意味権力は、経済社会を超越して存在する仕組みそのものなのだ。