経済と権力、草稿

・まだ、歴史上たかだか150年程度の資本主義の経済システム上に我々はいる。

その威力と功罪とは別に、過去の主流の農本経済システムから資本主義が芽生え、本流として発展成長していく経緯を紐解くことが現在の位置や評価に客観性をもたらす上で有効である。

 

資本主義社会を歴史の過程として捉えることが、資本主義後の未来をも明らかにすることにも繋がる。

しかも現代資本主義は、先進国の金融資本主義化と停滞又は退潮傾向に特色があり、発展途上国にその地位を譲り奪われ、いずれは周回遅れの途上国にも成長停滞と退潮をもたらすことが想定される。

既に第一次二次大戦前に一度行き詰ったことがあったのだが。

そして戦争経済で生産活動を統制経済的に再燃させ、これはケインズ理論そのものだが、そして破壊により、生産活動がまた需要となり、再発展した。

 

現在の途上国も先進国同様に生成、発展からいずれ衰退のサイクルをたどるのではないか。

資本主義で有効需要を失うレベルに発展した後の衰退と、ポスト資本主義、を考察することが私の最終目的である。

 

・まずはフランソワ・ケネーの経済表範式モデルから深めるのが妥当だ。

農本封建社会の中から資本主義発展の萌芽を歴史的必然として捉えらところから始めよう。

先進国も例外なく150年前まではケネーの範式モデルの国体であった。    普遍的モデルといえる。

 

・私は、少なくとも資本主義発展は経済発展の必然であると捉えている。

まずは不生産階級増加による工業発展である。

工業製品供給不足の農本時代からの進歩である。

マルクスもこの時代に労使分配をめぐる階級対立から資本主義を批判していて、これはこの通りだが、商業以降の発展に及ばず、ましてや供給過剰問題は恐慌での生産縮小のみで描こうとしている。しかし、国があり貿易があり、内需でも市場経済参加消費者増加があれば、恐慌は必ずしも必然ではなくなる。

これらの発展を超えて過剰生産にはなるのだが、小宇宙の範囲での恐慌は普遍的とは言い切れないのだ。

工場生産での分配対立の範囲を超えていない。

 

具体的には、不生産階級による工業化の著しい発展であり、交換を前提とした工業生産による流通発展を支えるシステムによる資本の拡大再生産が資本主義である。

その為の流通、商業、信用、金融、サービスの発展をも誘導するシステム全体である。

 

 仮に農本社会段階で資本主義に発展余地を多く残す状態で社会主義政権に移行して社会主義国家を目指したとしても、それは上部構造が革命思想集団に取って代わっただけなので、その思想はどうあれその上部構造自体が農本経済システムの下部構造の生産する余剰生産物の収奪によってその多くを支えられており、野心家、又は新しい別種の専制君主となることで、せいぜい工業化発展を国家統制的に官主導で移行させる任務を担うことでしかないだけのことである。

これは資本主義ではなく、統制経済での工業化である。この段階では、商業も信用や金融も育ちが悪い。市場経済が未成熟なのだ。現代中国は前期の農民の工場労働者化を他国の技術支援と資本導入で進め、製品を輸出し外需に頼るというビジネスモデルを成功させたが、後期の市場流通、商業資本増加、信用、金融は矛盾を抱えることになった。工場労働者は低賃金であることが条件のため、所得が上がらず、所得を上げようとするとこのモデルは成立しないのだ。従って消費所得が少なく、市場経済による消費に沿った内需生産消費ではなく、投資拡大による経済成長であった。ここに後期の弱点がある。投資も生産も官主導、というスタイルだ。仮に日本の2倍の生産力としても、10倍の人口だから、1/5のレベルだ。

規模が大きくなると統制経済ではついていけないのだが。

 

要は、工業化が支配階級の手で進められるのか、交換市場を通じて伸びるのか、の差だ。

日本は朝鮮戦争を通じて外需を頼りに過剰生産投資=所得倍増計画により所得を上げ、その所得を背景に資本主義が成長した。冷戦とアメリカ所得のお陰。

日本の資本主義は戦後である、と言えるのではないか。

 

 その意味では、国家社会主義労働者党=ナチスや昭和初期の日本も同様であった。

特長は官主導、国家主導の統制経済による工業化推進である。

ある意味農本時代の君主と変わらないが、強兵の為の工業生産を進めるが、市場原理の資本主義発展とは異なる。

国家需要の為の工業生産増であり、古典派経済学はお呼びでないのである。

税と工業製品との等価交換?でしかないのだから。

資本主義生産階級内の資本形成が不十分で、要はブルジョアジーが育ってないのである。

ブルジョアジーとは、資本を持ち資本を投下して生産販売計画と、固定資産を持つものといえる。

労働者を雇用して利潤をあげる人のことである。

 

それくらいなら、ヨーロッパやアメリカ型の市民型、市場主義型での資本主義発展の方が人権上もはるかにマシだろう。アメリカは第二次大戦前は冷蔵庫やミシンや日用品やお菓子などの民生需要の生産を多く行っていた。これも大戦参加で、軍需製品を国債との交換で半強制的に軍需生産転換する事にさせられたが。

第一次大戦でのヨーロッパでの民生需要の為に世界の工場として、軍事品だけでなく民生品も多く生産し、一次大戦が終わり過剰生産状態になり、大恐慌となった。軍需需要に支えられて重化学工業が巨大に発展したが、一次大戦終了で平和となり民需経済に転換もしたが、供給過剰はおさまらず、第二次大戦開始ででの生産需要に救われたのだ。

 

資本主義自体も労働者からの収奪で資本形成されるが、国家ではなく企業体内に階級対立を伴いながらも資本蓄積するブルジョワジーの成長を伴う。これが国家君主の権力支配にも対抗しうることで、共和制を要求する側に立ちうるのだから、要はブルジョア民主主義革命が資本主義発展期にできて、国家権力を制限して、ブルジョア主導の国家国体を作れるか、が1つの試金石となる。

これがないと市場原理の資本主義は育たない。

国家管理の官主導の工業生産であれば、国内民需は無いに等しいのだから、他国の戦争特需に期待するしか需要がないのだ。

 

話はそれたが、資本主義発展の後発組は、不生産階級が職人レベルで貧困で、従って資本家階級も未成熟か小さいので、どうしても支配階級による国家主義になるのではないか。少ない税徴収による重化学工業化による軍需品生産に偏向するわけだ。

これは、正確には工業化であっても資本主義化ではない。

純化すれば、共和制に自らできなかった国は、市民社会未成熟、人権未成熟国家なので、資本主義発展の段階で市民主義や国民主権市場経済発展や商業、運輸、サービス、信用、金融が未成熟になる。日本もこれだった。

戦争経済による工業化は、巨大独占企業を作るだけで、軍需産業と国が癒着することになるから、商業資本、市場経由の資本主義は育たない。

もし、戦争が他国でも自国でも無ければ、民需中心の生産体系が市場を通じて出来上がり、生産過剰になった時点で動的平衡状態になる。

即ち単純再生産になるのだ。この体系では、生産性向上を可能にする新規機械生産やサービス労働等に労働移動し、単純再生産となる工程を繰り返す。

 

仮に旧ソ連や中国のように農本国家で社会主義政権ができても、国家統制型の統制経済工業化すら行わないのであれば、旧カンボジアのように国家は黄昏を迎え滅びるのは、他の国々があるからで、農奴の逃亡と同じ事、国から労働者が流民難民となり、逃げ出すだけである。経済発展そのものを否定した、鎖国的な遅れた世界を国民が望むのならそんな国家も存続はしうるのだが。ただそれは文化水準の低さ以外の何者でもない。資本主義は通るべき発展の過程なのだから。

 

・ケネーモデル=経済表範式はフランスルイ王朝にのみ適用されるモデルではない。世界の資本主義前の農本社会、封建時代に普遍的な国体経済システムモデルとして有効なのである。

全人口の80%が農業生産労働を行い、年間総生産物50のうち、20が税として収奪される支配階級の権力維持に消費される社会である。20は翌年の年前払いとして生産階級内の中間消費として保存されること、だが10は固定資産減耗分補充として流通を経由して生産階級内で資本化される。%の配分は多様性あるものの、農本経済の基本システムである。

 

・要は、余剰生産物ある社会は必ず余剰生産物の占有権を巡り階級社会が形成されるということであるが、また、モデルでは支配階級に20、自己資本補充に10使っているが、不生産階級が生産階級の為に15、20分の固定資産形成をしてあげれば、それは食糧生産増となり、ますますの不生産階級を増やせるわけで、生産階級から不生産階級への人口移動が可能となり不生産階級を大規模化できる。

しかし、この場合支配階級の取り分を減らすことになる。これを納得しない権力と生産階級の領主と不生産階級の工業化に成功し、資本蓄積できた成長したブルジョアジーとの労農同盟により、君主に議会などの制度を押し付けたり、君主を廃止して共和制にするなど、要はブルジョア民主主義革命をなしとげなければ資本主義ではない、君主による統制経済となる。

不生産階級による工業化は、君主かブルジョアジーかということだ。

君主なら資本主義でもないし、古典派経済学は通用しない。古典派経済学は君主の意思の下位になり、等価交換は成立しないのだ。

ブルジョアジーが君主を倒すか、権力を大きく制限できれば、初めてブルジョアジーの資本=固定資産のプロレタリアートによる共有管理が課題となるのだ。

経済の面では、君主は誰がやっても同じで、異なるのは余剰生産物のうちどれだけを支配階級が浪費するか、でしかない。

 

 ・上部構造としての権力についてだが、 余剰生産物20が支配階級の原資であるが、この余剰生産物の所有権獲得を巡って権力闘争が発生するが、この権力の空白は歴史的にはほぼない、といえる。

牧歌的な権力の及ばない地域は無かったとは言い切れないものの、国、という領域に編入されれば国民、領民には生存と同時に負債が国家により付与される。負債とは納税義務のことである。この義務の為に生産労働して余剰生産をしなければならない。

この負債との交換として労働による余剰生産物を差し出すのであるから、古典経済学は数学的な意味しか持たず、経済の本質を描ききれない。

等価交換、ではない略奪が交換の衣を着て交換経済にそっと入り込むのだから。

古典経済学は、せいぜいロビンソンのような社会的でない非階級社会に限っては通用するものなのだ。

 

・不生産階級は、生産階級から派生したと考えるしかない。生産階級と支配階級だけでも構わないが、その場合は、機能分化前段階で生産階級内で中間消費を増やしながら=納税額を落としながら、農閑期には領主の城建設の土木建築作業に動員されたり、戦争に動員される。しかしこれらは工商の機能としての分離により、二次三次産業分野を育成する方が発展の為には合理的だ。二次産業は過剰な非機械的人間労働に頼る農業の過剰人口からの食い扶持の削減により生み出される。専業農家から溢れた人間達だといえる。

 

・20の余剰生産物は、その食糧や原材料に依拠して生活できる人口を支えることができる。

生産階級外人口は単に消費生存するのではなく権力維持の為の生産労働も行う新たな不生産階級という名の生産階級を作るが、農業生産性の高まりにより、その数量に伴う人口構成比率は増し、不生産階級が年前払いだけでない原前払い即ち生産階級同様に固定資産という資本を持つに至る。固定資産は資本の形を変えたものである。

この資本は、生産階級の固定資産形成同様に階級内内部留保であり、労使の共同製作物であるが、庄屋や領主同様に、経営者が所有権を有する。

とはいえ労働により生み出されたものである。経営という労働もあり、生産管理の支配権巡り分配権の執行は異なるが。不生産階級のように、職人や商人にその機能が依存し相続権が認められなければいつまでたっても原前払い=固定資産形成又は内部留保は得られない。

法人として永続性が付与されることが前提だ。

だらだら書いたが、支配階級は誰でもよく、即ち徴税が低く、人権を認め、資本主義生産がきちんと進むのであればだが、その意味では生産階級、不生産階級は、国家主義ではなく本質的にインターナショナリズムを信奉するインターナショナリストであるはずだ。

次高は、不生産階級の対支配階級、対生産階級との関わりと、その成長の意味を考えてみる。