経済を考える、1975年以前

◆まとめ   1975年段階前の資本主義

・資本主義経済システムGーWーGでは、

貨幣資本Gー生産資本Wへの変換で

Wで剰余価値mを生産している。

また、WーGへの変換でもWでmを生産できる。

生産工程は、原料を機械を用いた労働により、目的生産物にするもの。また、商業活動でも製造物を原料として組成して貨幣という目的生産物を得る、これも全く原理は同じであるが、生産物という人為的製造物原料がないと成り立たない。

商業活動は、大量の、資本主義生産物の存在を前提とするから、派生して発展する産業であり、分業のないロビンソンクルーソーでは全く必要がないし、自給自足型経済でもその必要性は乏しい。しかし、商業活動は、生産活動を継続する為には、生産活動による剰余価値を確定する為には、必要な工程であり、中間消費しながら(経費支出)、中間生産(剰余価値生産又は労働力吸収)していて、大きなくくりでは、固定資産形成と減耗に類似している。この理解はマルクス主義者に大きく欠けているものだが。

 

・GーG'は、現実世界ではありそうだが、W変換を伴わずには剰余価値m=' はできない、必ずここの経過が必要となる。資本主義の目的は、mの生成である。

 

・現実の経済世界では、貨幣資本は法定貨幣の使用により、労働市場と財市場から入手して生産資本を組成する。

法定貨幣との財やサービスとの交換は等価であるとは言えないが、それは別の課題として後述する必要があるが、法定貨幣を市場に放って外部の市場相場で組成材料を買い取り、生産組成して生産物を外部市場にまた放出して法定貨幣に戻す、この作業を反復しながら剰余価値生産を継続するシステムが資本主義システムである。

 

・ ケネーの不生産階級の時代からの資本主義への移行を考えると、

まず、全体が不生産階級のみで生産活動されてる世界に、資本主義生産システムが導入された、としよう。

不生産階級は、農本主義の時代に、原料を目的生産物に変える工業活動を剰余生産を伴わずに行い、また商業活動でも目的生産物を貨幣に戻す活動として同じく行なってきた。働き者の職人や商人がいて剰余生産物が仮にできたとしても、当時は法人格は教会や支配階級により認められていなかったので、一代限りであり相続蓄積ができなかった為、世代がわりでまたゼロからのリスタートを余儀なくされていた面もあったようだ。こうして商工階層の台頭を抑えて秩序を保ってきたようだ。

・初期資本主義生産においては、投入する剰余価値生産物=固定資産の蓄積自体が少ないか、ないに等しいので、すでに生産階級内で剰余価値蓄積を所有している農業経営者からの資本により、機械やエネルギー原料を市場から仕入れて組成して、不生産階級生産物に対抗できる剰余価値生産を目的とした生産資本組成でその部門に新規参入すると、剰余価値からの販売価格低下の支出が可能で、市場を不生産階級生産物から資本主義的生産物に置き換える、即ち市場占有率を上げる流通経路が確保されるから、生産回転率も上げることができて、一定期間内に剰余価値は率下げても額を増やすことができる。農業経営者が資本家に転化したわけだ。

・とは言え、原前払い、資本蓄積、固定資産、機械化が当初はレベルが低く、工場と言っても労働力を置き換える為の固定資産やその稼働の為のエネルギー消費量が小さく、マルクスも、取るに足りない固定資産減耗とエネルギー消費量を原料と同じく不変資本に分類してしまうというやむを得ない過ちをおかしている。

可変資本が実質労働力だけなので、剰余価値は、労働力の収奪分としてしまった。ここから階級闘争の正当性を導いたが、高度機械化(による減耗とエネルギー消費量)が労働力支出を置き換えることが剰余価値生産の本質であることを観察できる資本主義水準ではなかったからなのだ。

工場とは言え、当時は失業者や婦女子をタコ部屋で奴隷のように働かせる、この中で儲けとしての剰余価値を得た萌芽時代は、批判されるべきシステムであったわけだ。不当に働かせて得た賃金部分を支配階級が略奪して剰余価値としていたにすぎなかったのだ。

 資本主義化の黎明期は、機械の水準もウエイトも低いから労働者の労働強化に頼る面がおおかったはずだ。これは、固定資産所有者として、生産資本組成の権限をもつ資本家が支配階級化することであり、労使の力関係は現代でも変わらず、この方法での剰余価値生産は今なお生き残っている。

マルクス主義は、この対抗軸として今なお存在する余地はある。だだし略奪部分の民主的適正配分の範囲であり、このシステムの優位性までをも否定するには及びえない。資本主義システムに支配被支配者があり、支配階級としての資本家が機能するならば、マルクス主義は支配被支配者の階級闘争として残り続けるわけで、これは資本主義ではなく支配被支配者の問題なのである。中世における生産階級と支配階級との関係性においても通じる思想である。形はどうあれ、収奪と被収奪、現代的には徴税者と納税者の関係性として現れるわけである。現代社会では、資本家も資本主義システムの上で収奪しつつも国家に税収奪を受けている上下関係があるが、昨今は、民主主義化している国家の上に、グローバル思想が世界支配的な思想が持ち込まれていていることに注意が必要である。EUでは、国家権力の一部さえもが持ち出されている。

民主主義思想の導入で支配被支配の関係が、より是正されれば労働からの収奪部分は、賃金の増額か労働者増加で補正されるが、それでも資本主義システムの本質的な優位性は残っており、見誤ってはならない。この状態を観察するには、格差を読み取れば良く、現代は格差は広がっているのでピケティーによらずとも、支配被支配に資本主義システムは利用されており、民主主義思想が徹底されることが今なお求められている。

・これまでの社会主義革命は、資本主義未発達国で、しかも民主主義未発達国でしか起きなかった。民主主義の思想と資本主義システムを保ち発展させた国での最大の問題は、高度大量生産が可能になったことが裏目にでる、即ち「需要の壁」の克服が最大問題となり、革命は回避される。この壁は、戦争や国の大型投資による統制的な経済政策でしのぐことが試みられてきたが、過剰生産、過剰固定資産形成の維持の範囲でその対処法が求められるために、先延ばしや一時的にしか克服できないできている。

自然の流れに添えば、最も有効な手段は過剰固定資産の一括償却、即ち恐慌の発生と同居すること、金融資本のデフォルトが最良の方策となる。固定資産減耗分の不補充又は減額補充で生産力を落としていくことが市場から求められている。これに時間をかけることで、恐慌による激変を緩和するしかない。

需要水準まで生産力が下がると、固定資産減耗分補充と固定資産のエネルギー消費量分補充、労賃の適正分回収のみの、剰余価値生産ゼロ状態での単純再生産に落ち着くはずだ。

これを新中世と名付けることができるだろう。

職人個人の不生産階級から、企業体としての不生産階級化による安定状態、動的平衡状態を維持することになるはずだ。

必要な分、即ち需要分だけ生産する、という非階級社会やロビンソンクルーソーのような個人なら当たり前の話だ。

何も魚群探知機入れても摂り過ぎれば腐らせるだけだ。出漁回数、労働時間を削減して需用量漁獲できればそれで良いのだ。資源の乱獲による枯渇を避ける意味でも。

 

・さて。たまには視点を変えて製造業ではなく、商業で考えて再度深めてみよう。

生産物を工場出値で売る、この時点で製造業は剰余価値を確定できるのではあるが、商業者はX量の商品を総額Y円で仕入れ、これを市場販売して貨幣資本を得る。販売で得る貨幣は勿論法定貨幣である。

蛇足だが、自由市場ではなく、管理市場であることに要注意だ。数学的な自由市場など存在してこなかった。常に国王マークの法定貨幣取引が強制されてきた。管理市場が現実で、自由市場は試験管の中での数学世界でしかない。話を戻すと、

商業活動で原料にあたるのは商品であり、目的生産物にあたるのは交換後の法定貨幣である。だからこれもGーWーGである。製造業と同じくW段階でmは発生する。

Wの組成は、原料が商品であり、運送経費と販売経費を付加して価格を付けて商業活動して貨幣を得るが、ここから仕入れ価格を返済した残りが粗利益である。ここから運送販売経費を引いて、固定資産減耗と人件費を引いてゼロなら不生産階級状態、プラスなら剰余価値が発生していたことになる。

剰余価値は、可変資本の組成にあり、機械の減耗と機械の消費エネルギーの和、と労働力との組成が合理的になされたこと、即ち効果的機械化による労働力削減が成功したことで剰余価値が得られる。商業活動で言えば、輸送をリヤカー人力からトラック+ガソリンに変えたりで人件費を節約。個店を大型店にしてセルフサービスを導入、売場面積当たりの従業員を減らし、またセルフサービスシステム導入して、パート労働化する。この人件費削減で剰余価値は得られる。

商業活動で、仕入れ商品額が生産資本組成に占める位置は大きいので、他人資本を信用で得るのが普通であり、販売後に剰余価値から利子で返済する。

Wが組成の成功で+mを内包することでWーGであるのに、Gの中からmを確保できる。これは固定資産減耗の補充後なので拡大投資が可能になる。機械化や店舗拡大を誘発するのだ。また、商業活動が盛んになると、より早い貨幣資本化が求められるから、値引き資金も必要なので、全てを投資拡大のみには向けられない。何れにせよ組成は過去労働からの蓄積物をより多く組成して労賃を節約することだから、この成果は資本家に属する。また、剰余価値の使用の組成も資本家に帰属すると考えるのが合理的である。

・こうして、資本主義化の進行は不生産階級労働者の大企業労働者化が終わるまで進行し、組成の合理性から、生産財製造業の発達と動力エネルギーの消費量拡大、運輸や商業、金融部門の大規模化、を誘発することを特徴とする。

地下資源の価格や石油の価格が上がる、即ち希少化と、生産資本の組成で、可変資本の割合が相対的に減るので、剰余価値は減るし、また、販売価格は上がり、購買力が落ちることで、即ち需要が減退することで回転数が下り剰余価値生産も減る。

剰余価値が発生する組成でさえあれば、生産期間、即ち一定期間内の生産回転率が高いほど剰余価値総額は増える。農業生産と異なり、期間内回転数は自然の影響は受けない。組成が、1回転あたりの剰余価値を産まなければ回転数が多くても意味はない。

・大企業は、剰余価値からの価格対応で優位販売力が得られるので貨幣資本を早期に大量に得られ、生産活動は連続的に2回転目に入ることができる。農業と異なり自然の影響、例えば一年に一回の生産回転に限定されるが、不生産階級の自然との関わりは原料以外の制約はなく、マクロ的な社会的影響としての需要の影響を最も受ける。

・市場占有が圧倒的になると、これは一方で中小企業、零細業の生産回転が減り、また止まることで労働市場に失業者として放出されて、中小零細業や職人生産の組成は減り、大企業労働者が増える。

剰余価値の使途は、次期生産の基盤作りとしての大型機械導入に固定資産減耗を超えて使われる。また、当初は販売価格の低下による次期生産を早める資金として当てられるが、市場占有が進むと必ずしも販売価格低下用に剰余価値の一部を割かなくて済むことから、高度機械化は進めて労賃減額は進めつつも、機械化投資は需要に制約され、中間生産と中間消費が減じてそのぶんが貨幣資本として蓄積される比率増となる。市場をその生産資本組成による大企業が支配すると、独占価格形成が可能にはなるが、市場での消費需要により、回転数が落ちることで剰余価値自体は増えない。また、他の生産組織は壊滅しており、これ以上の高度な機械化投資は不要であり、単純再生産の、ケネーの中世の生産階級になる。

・生産資本組成で剰余価値が得られる為には、原前払がポイントであり、このプロトタイプができれば生産物はこの生産ルートで流れるから大量生産が可能となるのであって、大量生産が剰余価値を増やすのではない。生産活動が高速に回転することで剰余価値が更に得続けられるのだ。

・資本主義システムはその威力から、飽和しやすく

需要の限界値への到達も早まる。単位時間あたりの需要の量に生産回転数が制約される。需要とは中間消費需要と最終消費需要であり、最終消費需要が主要な因子である為、国内市場が飽和すると、国外市場を拡大することで生産回転は確保されるが、フロンティアがなくなり固定した最終消費需要の補充生産回転となると、回転数は落ちて一定となり、剰余価値生産額は定常状態に入り、投資機会を失い貨幣資本のまま退蔵する。

・固定資産減耗と賃金に分配するだけで良いことになるし、資本即ち貨幣資本の希少性は失われて低金利となる。現代日本は賃金を増やさずに、生産共同体としての公器である企業に貨幣資本として蓄積されているので、過去の適正な賃金への累積的分配からの、家計累積貯蓄と併せて金余りとなり、剰余価値の行き場が失われている。

日本は資本主義システムは労働者階級には機能しておらず、企業に略奪されカンパしている状況である。生産資本組成を決定するのは企業経営者であり、株主即ち資本家の委託での経営せざるを得ず、剰余価値が増えない中で、労働者階級への支払いをそのままにして何とか株主に操を立てるので、格差は拡大し、優位性なき資本主義生産を低需要で低速回転させている。さらに日本は長時間労働が癖になっている。本来は労働時間の削減や賃金引上げ要求となるが、格差拡大で支配階級に分配を増やしており、金が余って尚金を欲しがる異常な支配を許している。

何れにせよ、過剰生産、需要の壁、剰余価値の貨幣資本としての退蔵、が1975年以降の課題として浮かび上がる。