経済を考える9-2

もう一度原点に戻って考えてみよう

 

石炭の露天掘りで。

暖房需要と、蒸気機関エネルギー源需要で、露天掘り可能な場所での石炭を、生産して市場に持ち込む労働を考えてみよう。

100人の労働者を雇って、ツルハシ、シャベルで掘ってもっこで運び、集積場に集めて馬車で市場に運んで商品としてとして販売、投下資本を回収する。

 

この仕事を支えるのは、市場のより安価な石炭エネルギーを求める消費需要であり、この需要量が安定しているとすると、この需要を満たす露天掘り産業が複数できて需要と供給が均衡する。この時点で、単純再生産が維持される。

 

1年の単位で考えて、100人の労働者で1日100トンを生産できるとしよう。労働者の賃金、ツルハシ、シャベルともっこの消費額、採掘国有地の賃借料、馬車の維持費以降は、商人資本によるとして、石炭生産業自体が再生産できるか、ということでいうと、かかった経費の合計で販売できれば、不生産階級レベルの協同作業といえる。小さな社会主義世界だが、技術革新のインセンティブは働かない。

ここで販売価格は、商人の経費を上乗せするが、

賃金と道具の消耗品費用、賃借料などが商人への販売額と同等であればこの石炭産業は継続する。生活費を必要とする労働者がいる限り。

ここで、儲けを考える産業資本家がいて、そもそもこの動機が産業新規参入の動機なのだが、労働者の数を減らして、90人の労働者で1日100トンの生産を行うことを強いて、同額の、即ち100人で生産していたのと同じ生産量を可能にしたとすると、消耗品代や地代は固定費として残るが、商人への販売額は同じなので、10人分の賃金が剰余価値として産業資本家の手に入る。これも剰余価値だ。ただし、この剰余価値は労働者の賃金からの収奪であり、マルクス主義的な反抗の根拠となる型の剰余価値であり、略奪型である。労働者が退職しない程度のボーナスを剰余価値から部分投入してごまかすとしても。

問題は、どうやって100人を90人で済むようにしたかだが、1人あたりの労働時間を100/90時間、即ち1.11倍に伸ばして1人分の賃金しか払わないという労働強化による場合、産業資本家による10人分の賃金分の90人の超過労働させられた労働者からの略奪である。これは階級的な力関係による実行だから、90人の不払い賃金の割増分の返還請求権が発生し、民主主義国家なら労使協議、又は労使紛争を裁判も含む争議になる。日本はブラック企業の横行を許しており、労組も崩壊している無権利的な国家となっており、労働協約を労使で共に破っている珍しい先進国である。階級関係に卑屈な面もある。しかしここでの対立を激化させれば、益々労働者を海外に依存する悲しい結果をもたらすことを労働者が認識している面もある。が、人権軽視だし支配者に甘い。この甘さは資本の側がグローバル化すると露呈する。

 

話はそれたが、当初はこれで資本蓄積するが、それが続くかどうかだ。現代でもこの要素の比率の高い部分は残されてはいるが、もしこれだけなら革命の成功で解決する課題ではあり、これが資本主義の本質だとマルクスは考えたように見える。

が、一方で、そこで得た剰余価値と同額の露天掘り機を導入して、もし、その分の機械の減価償却と機械のエネルギー代の合計の金額が、10人分の賃金に相当する費用支出を伴うとして10人の首切りで10人の生産分と等価として導入すると、労働強化を伴わないで剰余価値は出ないが再生産が継続することになるから、争議の対象にならない。機械の導入自体が問題なのではない。ラッダイト運動は、この点では当たらない。

首を切られた10人の労働者は、機械製造業の労働者需要が発生するから、間接的に失業しなくて済む。それはこの企業が内部に石炭用機械製造部門を持つか外部かの違いでしかない。

この場合の経営者は、3k仕事の機械への代替と逆に喜ばれるかもしれない。矛盾はないからだ。しかし、温情は他社に遅れをとる。

 

実は労賃は意外に安く、機械とエネルギーは意外に高い。この時期を過ぎて、機械の能力が上がり、機械の価格も低下すると、10人分の労賃の価格で機械とエネルギー代金の合計が、20人分の労働者の生産力と同等になったとしよう。20人の首が切られ、80人の労働強化なしで100トンの生産量が得られる。

 

すると労働者には損害請求権は発生しないで、経営者は無理なく剰余価値を得られるのだ。これが資本主義の本質的優位性なのだ。剰余価値販売促進費に使えば市場流通を独占でき、石炭産業界でのシェアを上げられ、需要の大半を占め生産を独占でき、剰余価値を独占的に生産し続けられる。ただし、競合他社が同じ機械を導入しないことが前提だが。

他社も導入する導入合戦となると剰余価値は全社で得られ、剰余価値が得られる以上、この産業に新規参入が続き、供給側が増えて、需要が固定されていると供給過剰となり、需要の争奪戦に剰余価値を投入、販売価格は下がり、剰余価値が減り、なくなると飽和均衡になるところで販売価格低下は止まる。

 

資本主義的生産様式は、労働強化による剰余価値増殖が初期にはあり、現在も継続はしているものの、労働強化を伴わなくても、労働力を機械とエネルギーとで置き換えることで、機械の減価償却とそのエネルギー代の和が、労働力に勝る場合は、組成による剰余価値の生産が可能となる為、階級的な視点だけでは解決しない。資本主義的生産様式は、仮に労働強化部分を争議により革命により、労賃の正当な支払があった後も続く強力なシステムなのだ。

だから、本来、マルクス主義は、反労賃略奪と技術革新を社会発展と労働軽減の為に推進する、二つの旗を掲げないと資本主義から共産主義へとはならないはずだ。しかし、現実にできた過去の社会主義は、支配階級による労賃略奪と、生産材生産を実業のレベルを超えて重点生産し、更には鏡として派生するべき輸送、商業、各種サービス、の発展を阻害し、再生産回転を遅らせ、国民に結果としての技術革新の遅れと生産力特に消費材生産力の遅れを通じて豊かさを実感させることができずに、旧資本家階級の位置に共産党が置き換えられ、稚拙な経営がなされたことによる。民主主義軽視も作用している。

 

資本主義は、製造業ならWの組成で機械化を進めることで剰余価値を得て、Wに残余した剰余価値部分のGを生産に振り向ければ、生産物量の増加としてW'として現れ、G'として増加する貨幣資本を回収できるシステムだ。生産量が無理なく剰余価値の生産を伴いながら増加する、できる優れたシステムなのだ。