経済を考える8-10

剰余価値学説批判として まとめ

 

GーW  、貨幣資本を生産資本に転換するにあたり、

等価交換で、原料Pmと原料を新たな有用物に変える労働力Aとに交換して生産活動に入り新有用物としてG貨幣資本に戻す。

ここで、の生産経費は、原料代と労賃である。この労賃が回収できて再生産循環ができるのが、ケネーの不生産階級だ。剰余価値は発生しない。

 

ここで資本主義、すなわち剰余価値生産が内蔵されたシステムを検討しよう。

原料は同じ、その原料を加工して、製品を作るが、労働者による生産を、工場での固定資産減耗と機械のエネルギー消費に置き換えることができた組成で生産資本化ができた場合、

即ち、Aを、A1(Aよりかなり小さなAである機械操作人)と、機械の固定資産減耗、機械の操作によるエネルギー消費、に置き換えた合計が、Aを下回る組成ができたとき、即ち、剰余価値mをWの組成に加えないと等価交換GーWが成立しなくなったときに剰余価値は発生し、バランスをとる。

生産活動はその組成において実践的に実行されるだけであり、生成物Wを放出する。そのWは、運輸、商業経費の付加による価格形成により正当に貨幣資本に交換されるが、仕入れとして生産直後の製品自体を商業資本により、等価交換しても差し支えない。立派に生産資本に剰余価値は蓄積されている。

というもの。

この理論の利点は、運輸、商業の製造業から派生する主要なサービス業種でさえ剰余価値を生産できる、という理論的裏付けの証でもある。

剰余価値が、たとえ生産資本への組成後による労働者の労働によって初めて発生するとしても、生産資本の組成を資本の管理側で発生させる頭脳労働によるものならば、既に発生する根拠が埋め込まれており、残念だが資本に帰属する価値であるから、これは階級闘争による労働者の帰属を正当化し得ない。

 

1回のGーW変換で、原料が製品に化ける、化けさせるのだが、できる製品の量は原料を超えない。

化けさせる労働力、または労働力代替品が節約、省力化されないと剰余価値がGーW  のWでは付加されるmは生じない。

 

生産資本の組成での生産活動Pの後のW'なる商品増は、原料増を伴ってのみ発生する。確かに労賃からの収奪、労賃以上に働かせることは、そしてそれを略奪することは、労使という階級対立の中で現実に行われる野蛮な略奪行為で、現在でも続く問題ではあるが、原料が製品に変わるわけだから、そこで原料増を前提とする議論は場外乱闘でしかない。

しかし、製造業は静かにそして着実に剰余価値を生産活動が続く限り育んでいる。

剰余価値はどう使われるのか、それは市場放出の際の放出価格の低減補助金として、市場占拠用に活用され、また、高度な機械の導入資本として次の回転に使用される原前払増加として活用される。これが資本主義の本質なのだ。

更に加えるなら、剰余価値生産の為のこのシステムは、機械の特性による利点、寝ないで済む、文句をいわない、などや、均質性にバラツキが少ない、筋肉を超えた力をも発揮できる、早く持続し続ける利点もあり、G-W回転数を上げることができ、単位時間あたりの生産量を飛躍的に拡大できる利点があり、副産物的な利点による効果も大きすぎるものがある。欠点は機械の製造費が高いことだ。それと、雇用継続の社会的プレッシャーが、常に経営者にのしかかることだ。ここを割り切れれば、恐ろしい社会が生まれる、それが現在だ。

 

結論は、

GーW(Pm+A)…P…W'ーG'

は、現代も続くが初期には主流の略奪型資本主義

正解は

GーWーG

の変換過程で、Wの生産資本段階で、mを醸成するのが、製造業、WーGのWでmを醸成するのが、流通業商業である。ということで、現実の資本主義は、階級間の力関係で、略奪型部分も含むので間違いやすい、ということでしかない。

これで、8の課題は終わるが、マルクスの示した表式も、資本主義発生の時期から、今日の日本にさえ続いている、併用されながら資本蓄積効果を上げている。だから新モデルだけでは現状を評価できない。要は、権力構造によるシステムを利用した略奪型資本主義も併用されているわけだから、マルクス主義的な階級対立理論を武装解除する必要はない。

システムを紳士的にのみ稼働させるだけでも剰余価値を生み出し続けることができるが、今やシステムの目的が資本の増殖のみになり、かつその資本増殖がままならない状態で、グローバル化の時代になり、資本主義的生産様式が機能不全というか、限界に達しつつある。変わるだろう次のシステムの予測を考察する時代にあると思われる。

 

しかし、マルクスの当時の表式理論だけでは、略奪型資本主義の統制を国家を利用した規制で中止させ、紳士的な資本主義システムにする、にとどまるという限界も指摘せざるを得ない。日本では少なくとも有効である現実がある。

後進国で、社会主義経済化の実験がいくつか行われたが、結果として紳士的な資本主義システムを目指さざるを得ず、飛び級が有効ではなく、戻り級しているわけで、今後は先進国と共に資本主義後の検討に入ることになるだろうと。

要は、資本主義の合理的システムが、何によりどこに限界を生じさせ、どう変わるか、主体的に変えられるのか否かをケネーやマルクスの論理で、場合によりケインズの力も借りながら検討しなくてはならない。

まだ、誰からも答えが示されてはいない。

 

 

 

 

 

 

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