経済を考える8-7

さて、GーW  変換を深掘りする。等価交換である。

 

G貨幣資本ーW生産資本への変換と生産活動Pまでの製造業工程を細かく見てみよう。

マルクスは、貨幣資本としてのGをWの不変資本Pmと可変資本Aとの生産資本に等価で変換してP生産活動を行う。

製造業は、ある材料を労働により有用な生産商品にして等価で生産資本を回収して再生産できるようにする。これが、剰余価値を産まないで再生産のみを可能にする生産水準が不生産階級だから、剰余価値を産んでいる水準の生産が資本主義生産。

等価交換なのにどこから剰余価値が生まれるのか。

等価交換でありながら剰余価値が生まれる価値以上の労働があった、即ち生産工程でWーW'がないと説明できないから、生産工程が価値を産むとした。出来上がり商品増の価値増加部分が無賃労働に帰属するとした為、

GーWーGではなく、GーWーW'-G'とした為に、製造業唯一主義、製造業労働価値説を生み出した。

結論は、やはりGーWーG  だったのだ。

マルクスは労働力商品の資本側からの搾取として捉え階級闘争の必要性を科学的社会主義として導いたわけだが。ここからは、サービス業の剰余価値生産を説明できできない。サービス業の価値も説明できない、この理論闘争は現在も続いているが、現実から無視されかかっているだけで、理論的には置き去りにされている。

初期資本主義の野蛮さでしかなく、反乱が主流になる前に健全化されて逆に発展した。理論が間違っていたからだ。にもかかわらず、マルクスの功績は画期的であり、尊敬に値する論理性ある科学的なものなので、後継者の理論研究の不足であり、革命宗教理論のままにして放置した後継者に問題があった。

 

ミクロ的に見て見よう。

不変資本Pmは、原材料、エネルギー費用、機械の減耗費用、工場施設等の減耗費用が、A賃金という労働力の再生産費用を伴って製造段階Pで化合させて生産物を生産する。この製造業の流れを継続したいなら、製造後商品にこれらの価値が移転していなければならない。ではどこに剰余価値が潜んでいるのか?探してみよう!

 

原材料やエネルギー費用は、確かに不変資本として同価値が製品に移行し、即ち再生産費用としても回収すべきだが、また労働力もその再生産費用を回収しなくてはならないが、ここでの労働力の支出は素手で行うのではなく、全部移転しない過去資産の固定資産を活用しての生産水準なので、その意味では固定資産増の減耗分もPm分に含めて回収べき費用ではある。

 

不変資本は、先ほど原材料とエネルギーの費用と述べたが、原材料はエネルギーを使ってそのものを製品に変化させる、と考えるべきもので、原材料が多ければ投入エネルギーも大きい、という関係にある。不変資本に分類するのは、いかがなものか?

回収しなければならない経費支出ではあるが、自ら変化させられるもの、ではなく変化させる為の力なのだ。

機械の投入エネルギーは機械の食糧にあたる。機械は減耗とエネルギー消費を行う労働力の代替物であり、変化前の原材料とは異なり、変化させる側にある性質のものである。

労働力もエネルギー支出して、減耗するその再生産費用と共に賃金として受け取るわけだ。その意味では、機械など、エネルギー消費でものを変える労働と同質の側面をもつ。

 

素手で労働を行うなら、例えば針金からクリップを作る場合、価値の移転は、針金代と、労働力商品の再生産費用の和が製造後の価値として、というより価値額で販売できれば、彼の生活は成り立つ。

金持ちが職人を大工場で雇い、 そこでクリップを大量生産しても、何も変わらない。剰余価値は生まれない。ここでできるのは、金持ちが職人労賃で1.2倍の労働を強いて、1.2倍の製品を、1.2倍の貨幣資本を回収すれば、0.2の剰余価値を手にすることができる、というものだ。極端に言えば、これがマルクスだ。確かに階級制度が問題だ。しかし、これは階級制度の略奪を資本主義的生産システムに持ち込んだ訳であるから等価交換ではない。それに、1.2の生産物には、1.2倍の原料投入が必要になる。これでは、働きすぎで労働力の再生産ができない職人をバラバラにいさせるか、一箇所に集めたかの違いでしかなく、マクロではなにも違わない。こんな目に合うなら、中長期には職人が去るだけだ。第一集まらない。集まる必要もないから破綻する。資本主義初期には、日本の女工哀史、イギリスにおける労働者階級の状態、少し前の中国だ、固定資産減耗のというか機械化比率が低すぎるので長続きはしない。この方式での略奪的不等価交換、がマルクス剰余価値の説明だ。まだ、初期で機械生産による置き換えが未発達だし、エネルギーも高価だったかも。

 

大工場にする意味は、職人による生産スタイルを、機械という、固定資産減耗とエネルギー消費する人間労働の代替物を導入し、置き換えられる部分に、機械操作という、ペンチで針金を切断して短時間で大量に丸めるクリップ職人(たとえである)に変わり、高速切断機と丸め加工機、の機械操作のできるクリップ職人としては未熟練な少数労働者と、電気代に組成Wの組成を組み替えて、職人集団を集めて同量の生産物を得るのに対し、少なくて済む費用支出で同量の生産が可能な時、ここに内的に剰余価値が生まれるのだ。

ラッダイト運動に、その意味はあるのだ。

増産の増分に剰余価値がある、労働時間の延長に発生根拠がある、というのはあるが主要ではない。機械が摩耗するものの疲れないぶん、寝なくても良いぶん、労働時間が3倍になる?機械労働者を雇ってそこにエネルギー食糧と摩耗代償金を払うだけ、しかも逆らわないし。

三交代でやれば圧倒的な増分を得るが、それは剰余価値の発生根拠とは無縁の話。生産サイクルがより短時間になるだけで回転数があがるからだけだ。

また、天候の影響や、種子のDNA情報による限界もないから圧倒的な生産量を産むが。

 

機械の減耗+機械のエネルギー代が、労賃のそれと比較して機械<労賃となるから機械を導入するわけで、その差が剰余価値となる。

確かにここで削減される人は、マクロ的には他の不生産階級や生産材製造業の労働者となるから、必ずしも否定的なばかりではない。農業部門の増産なくても、職人が、機械生産労働者になれば問題はない。

PmとAに分けて考えるのではなく、Aは労賃と機械の減価償却と機械のエネルギー消費に置き換える、

即ちA1+Pm2+Pm2のエネルギー費用、を可変資本のAに分類して考えるべきだ。

固定資産減耗でも工場施設の償却経費等はPm1としてもいいはずだが、大工場でないと機械の導入運用ができないから、可変資本に分類すべき。

こう分類した後で、可変資本から剰余価値が生まれる、と規定すべきで、労働者の長時間労働の中の不払労働が本来労働者に帰属すべき剰余価値というのは歴史的にはあるし、そうした略奪型資本主義は労使関係の不平等性や社会的認知度により現在も存在している。が、それはいつの世もある権力関係の歪みであり、資本主義の本質ではない。

日本や中国の資本主義には、この略奪型が多く存在し、ドイツにおいては少なく、純粋資本主義により近い形でありながら堅実に発展している。