経済を考える8-2

ロビンソンクルーソーの魚とりは、道具の高度化による生産性向上、即ち需要分の魚が取れる時間の短縮により彼の自由時間が拡大される。

彼の資源は個人的労働力のみなので労働時間減少が資本増加を促すからわかりやすい。

 

自由時間に道具を高度化するのに消費するか、自由な遊びで消費するかだが、前者は資本としての投資、後者は最終消費だ。

彼にとっての剰余価値は自由な労働時間の量とそこでの固定資産投資労働として現れる。

借りに、道具を高度化できたら、さらなる自由時間が後にえられるはずだ。彼の一人の暮らしには、交換に不可欠な貨幣は不要である。交換は時間と行動との交換だけだ。

 

たとえば、木の枝の先をナイフでささっと削って素潜りで魚とると、1時間で1匹の魚しかとれず1日で6匹の需要があった場合、6時間の労働でがんばったわけだが、やってられないので、

余剰時間で1時間かけて10日間で、タコ糸で漁網を作った。

網を使ってみたら1時間で2匹とれるようになった。

網が原前払い、固定資産になったわけだ。

 

彼の魚とり労働時間は、6時間から2時間に削減できたわけだ。とすると、漁網漁では、補修作業時間を無視すると、木の枝のモリでの素潜り漁の1時間で1匹から、投網漁で3匹なら、かれの労働価値は時給1匹が、時給3匹になるのだが、漁網という道具と組合わせて3匹だから、労働時間が半減したのは、漁網のおかげであり、彼の過去労働の影響だが、10日で漁網を作り直さねばならないとすると、1日で10×1/10で1労働時間の減価償却資産とともに作った成果だ。

したがって6時間労働で6匹が3時間労働で6匹になったわけだ。ここでかれの時間当たりの労働は同じ価値か、ということだ。過去労働のおかげで、3時間の剰余がでたわけだ。素潜り労働と投網労働の各々の1時間の労働は同一人がやっているが、価値が違わないと変だ。

6時間の素潜り漁労働=3時間の投網漁労働

同じ人の労働時間が異なるというのは、労働の価値が同一ではない、と見なければ辻褄が合わない。

素潜り漁労働は、投網漁労働の3/6=50%の価値しかない、ということだ。

 

ロビンソンでは、自分の過去労働だが、ケネーでは、長い農本社会の歴史ではもうすでに亡くなった祖先の労働成果物であったはずだ。この上に現在労働による余剰生産物や剰余価値生産物がある。

 

したがって、投網漁労働と投網製造の過去労働蓄積の現固定資産減耗が投網漁の原動力である。

 

では少し話を変えて、たこ糸から網を作って、市場で漁網を販売する製造業を考えてみよう。

糸は製糸業者から買入、漁網を職人のハンドメイドで完成させた場合と、パート雇用で、製造機械で完成させた場合の差は何か、ということだが、漁網を作っている原価は、誰のものが主かと言えば、現在労働者の労働で機械の過去労働の償却と、機械のエネルギー源の消費量や保守メンテナンス料だ。この場合の労働賃金は、単位時間当たりでは、同一ではない。たとえ、職人だと10時間、パートだと30分だとしても。

要は、労働が、固定資産の減耗や動力エネルギーに置き換えられると労働力の価値が下がる、ということだ。しかも、労働価値は、生産力が上がると、たとえば6時間の投網漁だと18匹取れるようになり、賃金は、1/2に下げても魚が9匹買えるわけ。

要は生産力が上がると、労賃を下げても労働力は再生産できるから、下げた労賃分が剰余価値生産となってきて、これが資本化するのではないか。

ただし、生産力の増加は、需要で止まるし、資本蓄積も率で低下する。機械化後は換金できないので恐慌の引き金を引く。

 

初めにGがあり、原料部分と固定資産減耗は生産後のGに移行する不変資本である。あとは、労賃と剰余が移行して、当初のGと交換できれば剰余価値はえられるのではないか。

交換は、尺度でしかないから、等価交換を前提にする。不等価の交換もあるし、これは強制的交換であり、長続きはしない。

マルクスは生産工程を入れて不等価交換を混ぜ込んだが、肝は生産工程の解析にあるのではないか。

生産工程で説明すると、非生産部門やサービス部門での資本形成が説明できないので、製造業労働者の理論に矮小化される弱点をもつ。

 

あとで修正する部分多いが投稿する。

 

WーW'工程の深掘りが必要だ。