経済を考える6-1

さて、経済を考える上で、改めてロビンソンクルーソーを考えよう。

初めに身の回りにあるものを使って、まず魚や貝を取り、島内の果物や食べられる野菜を集めただろう。エネルギー支出分を超えるエネルギー補充食糧を労働で確保したら、需要ははじめて次の段階に移ることができる。

釣りの道具や、モリを作っただろう。また、採取経済から農業生産に、また家の補修やざるやカゴなどの家具、家財を作り、船を作る。たまにはホビーも、と。

数ある需要を満たす上で、限られた労働力エネルギーを効果的に使うことが求められるから、まずは食糧増産に関わる道具や、安定生産、大量生産のための農業化に時間を投入することで余裕時間をさらに捻出でき、次の段階の需要の中からの単なる選択ではなく、広い選択が可能な生活へと向かうだろう。

 

しかし、この生活もロビンソンの老いと死で全てが終わる。労働力が世代交代しながら永続化しないからだ。老いて死ぬまでの必要な食糧をはじめとした備蓄を用意する水準は、現在労働で必要な生産力だ。ロビンソンクルーソーでは無理だが、世代交代による再生産の為の労働水準を求めるなら、増産食糧に、妻と子供の食糧需要が需要として増えるので、さらなる増産のための労働が求められる。これに適した家族労働に支えられた子だくさんの家族農家経済が長い歴史を作ってきた。農業生産では拡大再生産が極めて困難な水準の余剰生産物しか期待できず、それとて支配階級に収奪されたからだ。支配階級も収奪できる余剰生産物の範囲でしか存在できなかったから、戦争で領土を広げるしかなく、その為には専業の兵を養う余剰生産物を必要とした。しかし、経済学的には領土は広がるものと、狭くなるものが共存するのでマクロではゼロサムなのである。

 

さて、家族一族を基礎単位とした農業の合間で行われていた鋤や鍬などの農機具づくりや、補修。生産物輸送の為の荷車や牛や馬、肥料や現代の段ボールにあたる箱づくりなどを自給自足的にやっていた時代から、土地を開墾し広げながら専業化した農家と、農地を失った人たちによる手工業的な不生産階級とに分業化していく。分業化は生産力拡大の成果である。彼ら不生産階級の食糧根拠は余剰農産物であり、専業化できたのも農業生産力が上がり彼らを養うことが可能となった証である。

 

しかしながら長い人類の歴史は家族や一族による農業への依存と子供を育てるだけでいっぱいいっぱいの長い歴史があり、余剰時間、余剰生産物は極めて少なかったが故に、集団社会での王の個人的な需要を満たす為の余剰労働と農家内労働の分業化を可能にする不生産労働者しか生み出しえなかった時代が長かったともいえる。

 

ケネーの分類する不生産階級は、手工業労働者であり、農機具や荷馬車などの生産階級の為の関連の仕事や、王の為の調度品や装飾品、金属細工等であり、また余剰農産物との交換を担う商人であったが、この仕事は生産階級即ち専業の農民の余剰農産物で維持される範囲で存在し得たわけである。余剰農産物を社会の富として非生産階級に役立てる為の収奪システムが支配階級の機能であり、これは不等価というより一方的な交換である。しかし、他国からの侵略を守り、不逞の輩から身も守ってくれる。余剰農産物収奪システムの擁護の範囲でだが。農民が鎌を持って他民族の侵略に立ち上がるのに代えて、兵隊とその管理システムの専業化が支配階級の必要性と言えなくもない。しかし、すべての根拠は余剰生産物に帰するのだ。以上の関係は、とてもシンプルなケネーの経済表範式に表されている。

 

話はそれるが、ケネー時代の豊かな農業生産国フランス農民は国民の80%、その他には支配階級として王や貴族、教会があり、また、不生産階級として商工業者がいたが、農業余剰農産物の流通と交換でこのシステムを成りたさせている。世界に共通する封建主義時代のシステムであり、日本の江戸時代とも何と似ていることか。

 

ケネーはフランスルイ王朝に、重金主義から重農主義への政策変更を進言している。ルイ王朝の専属医であり、彼の宮廷ロビーにはアダムスミスも学びに訪れており、彼は経済学の父となるが、経済学の母と言われるケネーを知る日本人は少ない。経済学という言葉は、農本社会に工業化社会がとって変わらないと生まれる必然性はなかったはずだ。農業は年を単位とする生産システムだが、工業は年に何回も回転できる生産システムである。工業産業化により、資本主義システムに移行できる。経済学は資本主義を学ぶ学問であるともいえる。

フランスは土地が肥え、農産物輸出していた大国で、ドイツやイギリスは土地が痩せていたが、

現代アメリカの農民は人口の1%。で農産物を輸出している農業大国。労働を高度化できるわけで、工業化の成果を農業に持ち込み更に生産性をあげた。今日のメキシコ移民問題も、安価な大量の小麦輸出によるメキシコ農民の没落移民がアメリカに流入しているに過ぎない。日本の高度成長を支えたのも、安いアメリカ農産物輸入による農業労働者の都市移動が発展の支えとなっている。

 

話を戻すと、ロビンソンクルーソーの暮らしは消えていくものでしかない。人間集団として世代交代を含む暮らしを前提としなければならないが、しかしながら余剰時間の捻出という大きなテーマをわかりやすく導いてくれる。ロビンソンクルーソーの個人版から、世代交代を含む集団社会版に思考を進ませなければならない。