経済のポイント-5

・市場での売価は、

生産労働所得の総和、即ち原材料生産労働所得に加工労働生産所得に固定資産減耗分生産労働所得(厳密には過去固定資産労働所得)

これに運輸、商業サービス労働所得との合計額であろう。これを貨幣により交換するもの。

 

勿論、希少性など需給関係により特殊利得(需給バランスが取れている場合以外の、供給<需要、の場合による販売価格による利益もあるが、逆は過剰生産による値崩れで先の存続がなくなる)があるが、供給<需要、の場合は市場で供給が新規参入することで、需給バランスは均衡を超えた供給過剰になるが、徐々に供給が淘汰され、均衡に戻る。こうして経営的には希少性は重要だが、マクロ経済学的には、均衡の時点を問題にすれば良いことになる。

 

競争のある中では、製造原価を超える利得は、漸減し、紆余曲折の振幅振動しながら均衡する。

とすれば、生産活動を動機付ける利得を資本家が得続けるには、労働時間、労働日数を雇用単位とする労働力商品をフル活用し、タダ働き時間を織込むことであり、機械生産の補助労働として生産物の単位時間あたりの生産量を拡大し、即ち労働生産性を上げて、固定費としての労働力商品との賃金交換を維持しながら生産物量を増大させること、いいかえれば同じ生産量を生産継続するのに、より少ない総雇用賃金による機械化等で実現すると、(賃金+固定資産減耗費)<社会的平均的製造労働原価、となることにより、無理なく利益分を資本の側で労働所得分の一部を移転できるのだ。

ある意味、高度な生産設備をフル回転しながら奴隷的低賃金労働により生産することが、最も資本家への所得移転を増大する。勿論、生産設備の減耗分補充生産費用は人件費より多いのだが。

こうして生産力を拡大して労働所得を大きく得たのが敗戦後の日本とドイツ、そして現代では中国である。中国の労働所得の大部分は共産党幹部の支配する公司と資本提供する外資に吸い上げられ、大手企業は国有である為、幹部と国税に資金が配分され、この資金で一帯一路の国策や軍事支出を支え、国外にODA的貸付を行い過剰生産設備稼働率を上げ、現地に資材と失業者を送り込むことで生産需要を維持する現在の中国の姿がある。

これは2周回遅れの帝国主義そのものである。

中国の労働者賃金は、元々農業内過剰人口の放出された失業者であり元々所得がなかったので、奴隷並みの賃金での雇用が成立していたのだ。

グローバル経済化した冷戦後の社会で、世界の需要を一手に引き受ける近代的奴隷工場が国外資本で維持された世界経済の奴隷となったが、中国共産党が利権を離さず、独立した帝国主義化を進めた為、アメリカが介入しだした。

この中国成長モデルがいつ止まるのかも後に検討してみよう。

 

年度始めの生産組成で、機械化設備を擁した工場などの固定資産を最低数の雇用で市場の需要分を大量に生産する。

ただし、機械等の減耗分を自社か他社でかを問わずに生産したものを購入しなければならず、(=次期生産を同水準で行う為に)、このコストの額は、これによって社会的平均的に起用する労働時間を超えたタダ働き時間との比較で、より低い額となるのは当然のことだが、今期に上げた利潤の中から労賃と同様に拠出するのであるが、更なる利潤の残で資本家の自家消費増とともに、次期生産組成で更に労働者数を減らして高度機械に置き換える投資をも行うのだ。

 

社会全体で見れば、減らされた雇用分は、置き換える固定資産減耗分の生産労働にシフトする。

同様に固定資産生産労働でも、機械化を進めることで労働者の雇用総数は、常に減らされる圧力がかかる。生産が高度化するにつれ、総雇用労働時間が減ることで、失業者が出るので、一向に賃金は上がらない。当然のこととして、労働者階級の需給バランスを供給過剰にするからで、仮に労賃を上げても人口増を誘導して供給過剰になるのだが。

 

本来なら労働時間が短縮されるか、タダ働き時間を減らすことで、労働所得が上がり豊かさを実感できることになるのだが。

 

 

 

経済のポイント-4

・封建的農本時代でも、近代的資本主義時代でも原理は同じである。

前章で明らかにしたように、個別工場生産での原価分析は、資本主義の勃興時代の限界をもつ。

分業生産が市場での交換を前提とした商品生産となるので、販売できるか否か、は生産継続や拡大再生産ができるか否か、という問題でもあり原価構成に運輸や商業を伴う以上、生産原価と販売価格との間には差が生じる、ということだ。

工場の生産原価、とは工場出し値、であり販売価格は市場原価、となり運輸や商業、これには倉庫業コスト等も加わるのだ。こうしてみると、工場での生産原価の位置は相対的に大きくはない。

又、市場で交換するのは、買い手の所得との交換によるのだが、

その所得には、工場生産労働所得と運輸商業等サービス労働所得と、労働所得は全額は労働者に分配される社会主義システムではない資本主義段階での階級分配社会システムなので、

生産、サービスの労働所得からの資本家に移転した所得を減じた労働者の移転後労働所得

と移転所得、即ち資本家所得の内の自家消費分と資本家所得の内の次期投資分の投資支出との合計値であるが、また更に時間差所得の実行即ち、

労使を問わず、過去所得蓄積である貯蓄からの引き出し分マイナス貯蓄分や信用による将来所得の引き当て分マイナス貯蓄分

以上の総合計が市場での総支出である。

 

総生産とは、この総支出を支える総労働生産でありこの生産は手作業ではなく機械、工場等の固定資産減耗も生産手段として起用されていて、その結果としての総生産であり、これが所得を労働と資本に分配し、固定資産減耗補填コスト以上の補填を労働者の労働所得から移転するにしても、総生産、総所得となる。構成は消費の上記内容と同じであり、ただ、総生産には貸借部分はない。あるのは固定資産の現段階レベルによる労働生産性の問題だけだ。

 

いずれにせよ、市場では貸し借り即ち時間差支出もあるので、物々交換での説明は限界があるので、貨幣経済で検討する段階に移す。

 

 

 

経済のポイント-3

・階級概念がなければ、余剰生産物即ち利潤又は資本は発生しない。それは生産階級内で処分するだけである。結果は生産階級内の人口増か労働時間を短縮して単純再生産に、いずれにせよ単純再生産の循環となり停滞する。

 

・社会秩序には強弱があり生存競争があることで、格差が生じて階級制度が形成されるが、当面捨象しよう。

レオンチェフのインプット、アウトプットで経済活動を捉えてみよう。

 

・集団的分業経済社会では、

集団的生産は分業生産労働生産物を他の分業生産物と交換して社会的総需要を満たす為に、流通=交換過程が必要となりシステムに内包される。

 

まずは貨幣を考えずに、物々交換で考えよう。

分業生産物は、自家消費する分を超える過剰生産物を流通過程に移し、過剰生産物の一部を運輸、商業労働と交換する。

ここでの交換は物々交換ではない。生産物と労働そのものとの交換である。

そして残過剰生産物が市場で物々交換されて、過剰生産物は消費財となり、消費される。

 

消費される総生産物は、需要総量であり、ここには運輸、商業労働所得も市場で交換が可能である。

運輸、商業は生産労働ではなく価値物は生産していない。マルクスの時代の工場生産労働の価値のミクロ分析ではここは限界となる。

 運輸は、  A地点工場の生産物をB地点市場の生産物に、位置を移動する労働支出であり、

商業は、市場でのA所有権者をB所有権者に所有権移転する労働支出である。

それは例えば工場の出荷口で商業者に所有権を移転して、この生産物を自らの運輸手段で市場に運び、ここで消費者に販売=交換による所有権移転だ。

この作業は、生産者自らが生産から販売までを行うことも可能だが、例えば産地の特産品や手作り雑貨などを市場に運んで売るには、生産する以外の労働は必要であり、少量の生産物には可能でも、大量となるとやはり運輸業者のような専門の分野でないと、生産物生産用の資本回収に長時間を要して資本効率も悪い、ということになる。

マルクスの運輸と商業の位置付けの不十分さは、村の定期市レベルの生産力が画期的に増した黎明期であり、分業がその部門に至る前、といえる。

 

総生産物は、運輸、商業の機能を果たす労働支出に対する交換分も含まれた生産物でなければならず、総消費も同じである。ある意味、マルクスの歴史的限界の思想を教条的に適用したソ連社会主義の失敗の根源でもある。資本主義のシステムをマクロに見れば、生産原価を積み上げても、流通原価は生産原価の中では語りようがない限界のである。

生産力が増せば、分業分配する行為に労力間接コストが膨大にかかる、という問題が浮かばない。

生産点問題より、分業生産物分配問題の方が深刻化し、優先販売力=交換力=資本回収力=拡大再生産力となる程、生産原価は分業による競争生産の中で、その製造コストをいくら分析しても出てこない流通経費問題の方が大きくなる必然性は、工場生産段階の分析での価値やコストでは出てこない原価が存在するのだ。

 

・こうなると、巨大な工場で巨大な生産物を生産し、その巨大な生産物を広域に消費地市場に運輸し巨大な販売をする、という時、実は有史時代前からの貨幣は使用されていたのであり、物々交換はほとんど相対個人通しで偶発的瞬間的にはあったとしても、貨幣交換が行われてきたのが真実である。

それは、物に価値尺度機能を負わせる不便さ、時間差使用に物は適さない保存性問題、時間差軸での交換が一般的で、時点交換は特殊例に過ぎない、ということだ。

 

 

 

経済のポイント-2

・余剰生産物とは何か、という問題を深めなくてはならない。

余剰とは文字通り余分な、余った、ということとすると、何に対して余ったのか、ということだが、それは労働力支出に対する分配分が、支出以下であることによる。

余った、というのは集団的生産活動における

販売代金ー[原料代+(減価償却費+労働所得)]=利益

の利益である。

利益は、タダ働き時間の存在さえあれば、原料代と減価償却費をより多く加算しながら生みだすことができるのだ。

問題はこの利益が誰に属するか、だ。

タダ働きをやめることにする=階級を労働者階級だけにする、というならタダ働きではなく比例した労働所得になるだけのことだ。その為の過剰な生産は必要がない。

 

利益が労働者のみに属すれば、労働時間短縮か別の生産活動か余暇かを労働者自身が選べるのだが、収奪階級が存在すれば、その階級の処分できる利益、となる。

処分は、消費として別種の生産労働を誘発もできるし、機械生産等での固定資産に消費=投資すれば、次期生産から更なる利益をも生み出せる根拠がえられる。

 

貯蓄と同じで、

•総生産ー総消費=貯蓄(=余剰生産物)

であり、それは労働価値説をとるならば、

総生産物は総労働支出によるものであるから、過剰労働支出がなされたことに起因する、といえる。

ただこの場合の客観的な階級制度を無視した経済情報は、貯蓄の処分者がどれだけ自家消費に向けているか、が問題となるが。

本来なら生産労働所得であるはずのものをどう処分したか、だが機械投資などの公共的投資であるならば、その後の向上生産性分が、時短や賃上げに向かうなら、労働所得の後追い的支払いとしての正当性は保持できるのだが、実際はそうではない。

 

ロビンソンなら、自らの労働支出は、目的生産物量を得るまで行われ、目的生産物量が生産されれば、別の目的生産物量の生産労働に移ることになる。

過剰労働支出は、自らの判断で行わないようにコントロールでき、余った労働時間を別種の生産労働にあてられる。

過剰生産は必要ないし、弊害さえ生む。

それは不必要な労働支出であり、別種の目的生産物は数多あるのだから別種の需要物生産を阻害する無駄な時間であり労働資源の浪費なのだから。

 

生産の多様化に向かえれば、トータルでより高い水準の消費生活が得られるのだ。

 

また、彼の労働支出は、目的生産物を得る為だけでなく、より労働時間を短縮する為の道具作りにも当てられる。

生産手段の高度化、具体的には労働補助具である道具や機械の生産の為の労働支出も自らの使用可能労働時間の中で行う。

目的生産物量を得る為の労働補助具使用による労働時間が、不使用労働時間の場合より短縮できるからでしかない。

その場合にのみ労働補助具生産労働は価値をもつ。価値をもつことは実証を必要とするので失敗を含む実験的労働時間も必要となるのだが。

 

要は、ロビンソンの暮らしを豊かにするのは、自らの1日を単位とした可能な労働時間をどう支出するか、なのだが目的生産物を自らの肉体労働に頼ったものから、道具=労働補助具を生産する、より正確にはその労働補助具量を維持できる道具の減耗量分の生産労働支出を常に伴うことにより、短時間労働での生産水準を維持することができる。

 

目的生産物量生産に要する総労働時間は、

 

道具使用労働支出+道具減耗分の道具生産労働支出

 

であることがわかる。

この過程で余剰労働時間は発生し、これを道具の高度化に向けた実験研究にあてることも、娯楽や過剰な休息にあてることも可能だが、前者に当ててより高度な生産手段である道具を見いだせれば、更に余剰労働時間が得られる、この循環である。

 

余剰労働時間を消費にあてることも、生産手段生産や研究にあてることもできるのだ。

余剰労働時間を過剰生産に当てて、それを消費するだけの被扶養者扶養消費にあてることも可能であるし、その労働者階級人口も支配階級の移転所得を増やすことも可能であるし、生産手段生産労働者の雇用費にあてて、分業することも可能である。

この直間比率はマルクスの再生産表式を参照すれば良い。直間バランスで分業社会を維持することはロビンソンでは不可能だが、集団的分業社会なら同時並行が可能となるのだ。

 

ロビンソンなら、1日の可能労働時間を、食糧生産と、この生産労働時間支出を短縮できる道具減耗分生産労働時間と、これで得た余剰労働時間で、衣、住、生活インフラ、とより豊かな消費生活材生産に振り分けることができる。

ロビンソンは、道具=直接労働時間短縮の為の生産手段の高度化により、加速度的に豊かさを得られることがわかるし、実行できる。

更に、娯楽や放蕩や怠惰や休息時間の拡大が、モチベーションを維持する為の時間捻出も可能となる。またそれは自分で選べるのだ。

簡潔に言うなら、全ての労働所得は全てロビンソンが処分する支配権をもつ、ということだ。

 

以上を元に、ロビンソン段階の特殊例から集団的現実社会での経済モデルの検討に入る。

 

社会的生産活動は、分業化による労働所得の市場による交換を前提とした、需要に基づく各生産単位の過剰生産を前提とし、過剰部分を交換することにより、当該生産単位以外の過剰な生産物と交換できる、商品市場経済をもつことになり、それが必要にもなる。

過剰部分というのは、まずは、現物経済で考えるなら

 

1.自産業の労働生産物で自らの労働者需要を満たすことだが、それでは自産業の生産物しか享受できない。全需要に対しては労働量不足により生産量が足りないのだ。

 

2.交換のための商品を過剰に生産しなければならない。交換用商品は市場で交換されるから、その流通労働者の非生産的?労働にも更に分配されなければならない。その分配分をも過剰生産しなければならない。

 

3.また、当該産業の発展の為の生産手段の高度化による固定資産投資減耗分も確保しなければならない。これは資本家であったり、庄屋や借地農経営者であったりは、資本主義か農本主義(絶対主義的封建社会)かの生産システムの違いをとわず、その時代による経済体の代表支配者に分配されるが、ここへの分配分も生産しなければならない。そうしないと次期の生産性が落ちてしまうから。

しかし、この段階までは再生産循環、単純再生産維持である。

 

4.更に、ここから先の労働時間生産分はタダ働きである。

利益が出る根源となる労働時間分であり、賃労働でない無償労働すなわちタダ働き分である。

このタダ働きで生産された生産物分も、流通を経て利益となる。これが生産単位の長である資本家や借地農経営者に帰属される。これが剰余価値生産であり、この生産物の帰属が問題となる。

 

ロビンソンが道具使用労働で得た余剰時間にあたるが、ここでは利益貨幣として存在する。

これを生み出すのが、資本家でありまた借地農経営者であり、国王などの支配階級の生産目的である。

階級が労働者とは別に存在しタダ働きを強制するのだ。

 

4.こうして産業体とそれを束ねる国体が出来上がる。

農本社会なら、献納品は、現物でやることもあるが、保管管理が面倒だし、交換に時間軸が発生するので、貨幣経済が楽であり、貨幣経済に移行していく。

国家の発行する法定貨幣に交換等価性を証明する金銀などの商品貨幣は必要はなく、納税条件に法定貨幣を強制すれば、紙幣で十分になる。

国家には徴税権があり、それが国家の本質である。

国家が紙幣の税収回収分以上に乱発をすればインフレになるだけのことだ。

商品貨幣を使うと、資源採掘量や採掘コストが経済発展に追いつかなくなり、現物商品流通を阻害するので、デフレとなる。

仮に、法定貨幣=紙幣=借用書、を使っていても、経済発展すれば紙幣発行が追いつかずにデフレとなる。

その意味ではデフレは貨幣現象である。法定発行貨幣の不足する現代のデフレは、国家が保証する国家の借用書の発行不足であり、その意味ではインフレにするまで、即ち国=政府以外の経済主体である、家計と企業体の合計する貯蓄水準まで、国債を発行して公共事業や公務員給与含む国家消費を拡大することが求められている、のだ。

この国家の国債発行による消費は、企業による生産活動を誘発してしまうので、ここへの投資が必要となり、労働所得も発生するので、資金需要が起き、景気良くなり金利も上がる。税収も増えるから高金利国債も発行しにくくなる。

交換バランスがとれるようになるのだ。

 

脱線したので、

この話を、次の段階、即ち閉鎖経済=鎖国状態を前提とした集団経済社会に移す。

自由経済での資本の国家障壁を越えた現代社会がin vivo、なら、一昔前で、現代の米英のアンチグローバリズムは、鎖国閉鎖経済への回帰であり、in vitro的であるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

経済のポイント-1

・経済とは、資源を人の生存や欲望を満たす為に活用する、一連の人の財やサービスの生産、分配と消費行動を総称するものだ、と私は考える。

 

人は人生の大半を生産活動のために、即ち労働所得を得てより持続的に豊かに暮らす為に捧げるが、その割にこの経済の仕組みや原理がわかっておらず、生活費を稼ぎ死んでいく家計の経済主体者でしかない人が大半であり、そのこと自体当たり前なのだが、しかしその経済活動の客観的体系的理解が乏しいまま、人生の大半の行動を規定しているのにもかかわらず、ある意味経済奴隷として無事に生き、そして死ぬ。食うために働いて生きる。

私はその役割が終わったことで、疑問であった趣味の世界に集中できる余暇を得た。

学校教育では、経済学は専門で学ぶ人以外は、そのリテラシーは全く高くはない。教育者自体が経済と最も無縁な世界にいるのだから。

 

特に日本人は貧しく勤勉で謙虚、経済の知識には遅れを取っていて、武士の時代の古き精神主義や姿勢が尊ばれ支配する精神社会がDNAとして教育の場にさえ働く。

個人主義でなく調和や忍耐の精神、である。

「奉公と恩賞」的価値観が行動規範となり、このことを受け入れるしかないし、また身分制度はないので努力による改善が、自らの奉公のレベルを上げ、その先の恩賞に繋がりうる、と考えて行動する。

その為に恩賞総量を減らされることへの不満を自らの力不足と自傷的に捉えて処理しがちであるくらいだから、政治への関わりも少なく、またその期待も少ない。

勤労者国家であり、ノーベル賞受賞者は経済学部門において残念ながら日本人は皆無であり、経済学後進国の職人的労働者社会が形成されている。

 

過去から現在までは戦後復興経済では勤勉な職人、それでもよかったが、戦後復興キャッチアップの終えた時点で、最早この段階からの変化が求められた。

しかし豊かにはなるが、職人のままなので、職人を捨てて土地投資、株式投資の世界に誘導されると弱い。生産より慣れない投資でバブル発生してバブル崩壊。レジューム転換できないまま現在に至る。

 

バブル崩壊後は、自国生産より外国への生産点移動を繰り返し、結局は自国の生産基地と職人的生産活動を喪失して成長を止めて現在に至っている。

平和な時代での職人社会の限界を見せている。

次元の高い次世代型の新たな需要が必要なのだ。

 

戦略なき、哲学なき盲目的職人国家の限界が、30年近い無成長国家、収縮国家となり、世界の進歩とは対照的であり続けているのが日本の現在の姿。

個人主義思想の乏しい社会なので、社会的調和さえあれば、全体が貧しくなることにさほどの問題意識は薄いままでいられる。

「調和」が主たる価値なのだが、それは世界環境の競争加速の変化に対して無力となることでしかないのだが。

全体主義的な思想観が、この先を制御してしまっているようだ。自由主義個人主義が良い形で働かないと、無気力国家となる。

企業が貯蓄をしている、もうその段階に入っているのだ。

日本は既に新たなレジュームを必要としていてその模索、が今なお続いているわけだ。

 

新たなレジュームが必要な段階では、経済学の社会的平均的リテラシーを高めることは極めて重要であると考える。私もそれに参加したいだけなのだ。自らの勤労人生だけ、への反省も込めて。

 

日本は、戦後復興の需要過多供給力不足の中で、借款による外国資本を元に、元々の高い技術力と統制とれた勤勉な労働力駆使をして、国内需要の高さをバネに、また固定相場制の中で国外需要を取り込みながらキャッチアップし、技術を低賃金で具現化して輸出により労働所得を上げ続けて高成長し、経常利益を上げ続けてのし上がり、世界第2位のGDP国家となった。このモデルは、韓国、東南アジア、中国の発展モデルに現在まで引き継がれている。

 

しかし、平和な時代の、安価な石油原料と石油エネルギーの活用による加工労働で長時間勤勉に労働し、既存の国産石炭や農業生産物の切り捨て政策による経済効率最優先の経済政策を国是とした。

安全保障と市場はアメリカに依存した。

 

冷戦という軍事的平和と、アジアでのアメリカの反共戦争実行での戦争特需により加速度を得たもので、アメリカの側に組することである意味余計なことはせずにモーレツに働いてさえいればよかったのだ。

 

冷戦の終結、で世界は変わったのだ。

アメリカは、終結前から主敵をソ連から、日独に移行し始めた。冷戦後は更に鮮明になった。

その手段は、グローバリズムによる中国を中心としたBRICsの経済成長によるアメリカ金融経済の成長だ。しかし、この結果中国が育ちすぎた。日独は停滞、主敵の軸足を反中国に移し始める結果を招いた。

アメリカの対日貿易不均衡への不満、冷戦の崩壊、グローバリズムの資本のBrics投下、Bricsの日本モデル発、日本とドイツの中国への資本投下参加、中国の日本経済モデル化、世界的な資源不足による資源価格の高騰、中国の急成長と世界の工場化、そして帝国主義化、中国潰しによるグローバリズム弊害の見直し、保護主義の台頭によるグローバリズムの終焉。

 

石油価格の高騰とアンチグローバリズムによる保護主義の台頭、は経済効率優先国家、貿易依存度の高い国家にはその所得形成を大きく損なうことに。

資源を持つ自給自足型国家、又は閉鎖型経済圏が、開放型平和貿易優先国家に対して優位となるのだ。

平和の時代から国家対立の時代に、移行すると、

この後世界の主導権争いの中で、立ち位置が求められるのだ。

リカードの理論の前提となるのは、平和と保護貿易による自国産業保護を経済原理で否定すること、であるがここにアンチグローバリズムが、英米に台頭したのだ。

ドルは国際的基軸通貨であり、その影響は計り知れない。平和の時代が危うくなったのだ。

 

話を戻そう。

経済を考えるためには、試験管の中の世界、と複雑な現実そのものを見る世界とあり、in vitroとin vivo、である。

ロビンソンの発展形が現実の社会経済であるから、常にその対比で経済現象を比較判断をしてみるのがわかりやすい。

まずはロビンソンの、in vitroで見てみよう。

ロビンソンの暮らしなら、

生存のために自ら生産労働して得た生産物を自ら消費するか、余剰生産物は将来の為に貯蓄する。

本人のみの生産労働所得の獲得と消費と備蓄、である。

取り敢えずは食糧生産が最優先されるのが彼の現実生活だろう。

 

運悪く生産物が不足する場合は、蓄えからの消費に代えることもできる。

この場合は現在労働所得ではなく、過去労働所得の消費となる。

もし蓄積分の消費で不足する場合は、外部の経済圏から自らの労働所得での将来的債務を負って交換消費する。将来の労働所得で債務返済する義務を負うはめになる。日本の戦後復興などで見られた方法である。

ただし閉鎖経済圏で個人生活するロビンソンにはこの選択肢はないのだが。

 

消費とは、即ち労働力の再生産を充足する為の補充行動であるが、その消費需要を労働生産するのであるから、経済の本質は労働価値説が根幹となった生産と消費の循環的進行行動であると言える。

 

・個人生活ではなく、集団社会では、社会的総需要を社会的総生産で支えることになる。

 

現実世界では、少なくとも有史以来、集団社会で経済活動は営まれてきたし、種の保存の為にも扶養家族が最低限必要となるので家計を経済活動の最小単位としてきた。

ロビンソンのように個人が単位となるのは特殊な、瞬間的な異常事態でしかない。中長期の継続性が全くないのだ。再生産増殖が維持が課題化できないのだから。

 

家計は経済活動の基礎的単位である。

家計の基本価値は種族維持、持続的な労働力の再生産活動である。

家計の消費支出を支えるのに必要な個人を超えた規模の生産力は、

個人的労働より一族や村、企業などの集団による生産活動によって得られる。

分業的な専門的集団的生産労働の場に、生産資源を集中投下して共同生産する方が、総生産力が高いから、なのだが、その高い生産力は余剰生産物生産による分業的な高度生産を前提として交換過程により全需要を社会的に満たすことになる。

 

何故集団、専門化が生産力を増すのか?

それは生産手段を集中できるからである。

例えば、一人で素潜り漁を簡単なモリで行うよりも、船や漁網を製造するグループと少ない人数で直接船からの網による漁業労働するグループとに分けた方が、総漁獲量/1人当たりにした収量が、漁網生産者に分配してもなお多いのだ。

分業による機械などの生産手段を作り、機械が人に代わって人の労働を助けることで、一人以上の生産手段として労働が機能することによる。

したがって機械の減耗分以下の労働支出で機械が作れるのなら、直接労働の削減に貢献するので、削減分の労働時間の追加生産が可能になり、その分が剰余価値生産物を生むのだ。

もし、それが需要を超えた過剰生産となるなら、労働時間を短縮し、余剰労働時間を他の部門の機械製造などに労働力を分配して当てることができる。

生産工程は、協力共同が有効である。

 

しかしながら、協力による余剰生産物を生むことはできるが、分配という課題では、より多くとする皆の存在で常に対立構造となる。また、分配の為の経費支出すらも伴う。

 

たとえば農耕社会であれば、収穫期までの秋までは協力、秋のあとは分配対立となるし、狩猟民族なら獲物を取るまでは協力、取ったあとは分配対立となる。

生存権が得られる量の分配にありつけさえすれば、労働力の再生産が可能になり、余剰生産物の分配については、社会的な力関係論が作用することになる。政治が登場することになる。

 

生産、分配、消費の主たる活動領域としての経済圏の内部の分配を規定する力関係が、たとえば国境をもつ国家、即ち限定的な閉鎖経済圏の中で繰り広げられる。これを維持する上部構造を形成するのが国体である。

 

国家とは、分配の比率を恒常的に規定した組織体制を常に維持しようとし、またこの分配に異論を唱えるものとの闘いによる動的平衡を維持する為の体制スタイルなのだ。

 

国家の強制力とは何か?

これは徴税能力そのものである。

徴税能力が高ければ富国強兵も可能で、存続が保証されるだけでなく、経済圏外に対してもリカード的な等価交換をも強制でき、また等価交換を超える権益すら得られるのだ。後者の方が強いが。

 

経済学では自由市場による等価交換が数学的に語られることが多いが、また主流であるようだが、経済圏や国の力量差により圧倒的には不等価交換が交換の主流であり、徴税権に似た力関係が常に働く。

そして優位に立つ個人や国が実利を得てその差は自由に任せれば格差拡大するのは生存競争において当然である。

 

もし、国税地方税やヤクザのみかじめ料を超えるのなら、即ち労働所得の分配において、主要な余剰分配を国家権力がナンバーワンで得られるのであれば、国民は国家の奴隷となる。

一方で徴税の国民への再分配がより多ければ、国民主権性の大きい国体国家となる。

国家が徴税して再分配し、国民の消費需要に還元する民主的国家ならさほど問題ないが、ここに巣食って他人の労働所得を貪る非生産階級が常に存在してきたのもまた現実である。

 

もし、格差是正の再分配機能を弱めすぎるのであれば、弱肉強食推進拡大となり、国家の徴税権はその大義を失う。

民主国家なら平和革命が起こるし、非民主国家なら暴動や暴力革命を誘発する。

ジニ計数はそれを物語るものだ。

 

総じて集団的生産社会にはロビンソンという単純で特殊な例と異なり新たな分配問題が起こる。

 

個人での生産活動は、数多ある消費需要のうち、1つずつ生産してから別の生産に移るという方式の為に熟練度がなかなか上がらないデメリットと、一度に単品しか生産できない限界がある。

病気になれば医療や生活保障も受けられない。協力関係のない悲惨な生産世界に身を置くことになる。

交換による他人の労働生産物との交換ができないからだ。

交換のためには、過剰な生産物を生産して、村の定期市などで交換して生産物以外の消費需要物と労働所得とを定期市で通用する通貨により交換しなければならない。

これは、労働時間によらずに需給関係による需要の差によって不等価交換(=労働所得は結果でしかない)されるが、その後の生産参加が増えることで等価交換により近いレベルに収斂はしていくが。

圧倒的には、不等価交換が多い。

誰もが作れる農産物は、すぐに需要に対して過剰に生産できるので、生産労働の再生産費分の労働所得は得られにくい。労働所得は実労働より低くなるのだ。

 

また、定期市は、市の維持経費も支払わなければならないが、また大きい定期市ほど経費はかかるが、早くまた多様な交換ができるし、定期市が国の管理なら税としての所場代を払わなければならないのが常である。

この市を盗賊や、他国による占領支配を免れる為には、治安費も所場代に組み入れられるしかない。

恒常的な権力者による治安や防衛維持の為に、税が徴収され、権力者は官吏や軍を、知的には宗教者をも内包しながら、労働所得の部分を税として収奪し続ける。

定期市の胴元、が経済圏支配を最も容易にする。

この延長線上の定期市群運営の全体の胴元、が国家である、と考えるのが妥当である。

定期市を使わずに、生産物から強制的に徴税を土地の使用権を名目として行う事も可能だが、それは絶対主義的な封建時代のように、農業の余剰生産物だけが富の源泉である時代の農本主義時代の上部構造に過ぎない。

農産物が過剰生産されれば、この上部構造は徐々に希少価値要素からの工業製品やサービス労働からの過剰生産分、いずれにせよ余剰生産分からの徴税に軸足を移す。

 

こうして過剰な生産力からの徴税を背景として上部構造が出来上がる。上部構造とは徴税権力そのものである。

徴税は商品の等価交換としてではなく、片務的な不等価交換でしかない。

 

もしも、物騒な地域で盗賊の出没の激しい地域なら

経済圏の擁護又は拡大の為の権力者間の生存競争も激化するのである。

永遠の平和も永遠の戦争もない。

労働所得からの徴税権を巡った争いは続くのだ。

 

平和の時代も富国強兵として、次の戦争への準備がなされ、戦争を拒むのは従属し収奪される道を選ぶことでしかない。

 

・労働所得の過剰生産物の分配問題こそが永遠に続く課題となる、というわけである。

 

結論として、ロビンソンには、需要を超える過剰な生産活動、生産労働は不必要である。

社会経済でも、個別には、需要を超える過剰な生産活動、生産労働も不要である。

社会経済では、分業により生産性をあげることができるので分業が行われ、交換の為の流通により、総需要分の総生産が行われ、この中には流通の労働需要があるので、その産業に関わる人の需要分も生産増し、交換消費する=これがGDPそのものなのだが。

 

ここで、余剰生産物を更に生産する意味は、本来なら不要なはずだ。社会的に総労働時間が短縮できる機械生産を含む生産性の成果を短縮せずに、労働継続させることで発生する余剰生産物という形の労働所得を不等価交換により不労所得として占有できる社会の一部の非労働者の発生、高まる生産力の成果分を支配することができる支配者、即ち支配階級の発生そのものである。

余剰生産物の量のレベルが、支配階級のレベルを規定するのだ。

 

ロビンソンでない社会的経済にあっては、余剰生産物の存在と階級の存在とが同義である。それが結論である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新冷戦の登場=グローバリズムの終焉

・冷戦は、ソ連を盟主とした社会主義国陣営と、アメリカを盟主とした資本主義陣営との間で第2次世界大戦後、約半世紀にわたって行われ、1990年にソ連崩壊で終焉した。

   その特徴は、陣営内で安全保障=軍事も経済圏も共有する陣営間でそれぞれ「壁」「境界」を設けることでの陣地拡大戦を境界で繰り広げるものであった。

 

・第2次世界大戦の終了は、戦勝国ソ連と中国の社会主義をも含んで、米英仏との五カ国で拒否権をもち常任理事会を構成する国連システムで統治した為、国連は冷戦の経過措置としての機能に留まり、いずれは雌雄を決することになるが、核優位をもつアメリカは、朝鮮戦争当時は国連軍として参入しているので、中国、ソ連は拒否権発動していない力関係がわかる。

 

アジアは日本の敗北により、ヨーロッパの植民地支配の再復活が可能となったし、ドイツ周辺も旧資本主義の復活が目指されたが、戦後処理はソ連の東ヨーロッパ、ベルリンの半分が社会主義圏に組み入れられた。

一方アジアはヨーロッパによる旧植民地復活を拒否する民族独立闘争が社会主義的様相を一部伴った独立戦争として冷戦期間も境界で継続した。

17度、38度線と国内で経済圏を分割統治したのであるからイデオロギーグローバリズムに国の意思を超えて存在してしのぎを削ったことになる

 

大戦でヨーロッパは消耗し所得がアメリカに移転した。即ち英、仏、蘭、勢ではアジアの植民地を再支配するより、自国の復興がやっとであった。

 

戦後処理は、当初朝鮮だけでなく日本も北海道、東北をソ連、関東、中部、近畿をアメリカ、中国四国九州をイギリスと中国、との分割統治案があったが、日本を原爆で単独占領したアメリカによりアジアの戦後の再支配にはアメリカの意向が強く働いた。

結果、日本の分割統治は、東欧のルーマニアハンガリーソ連の統治とすることと引き換えにアメリカに委ねられた。

が、アメリカ除き、どこも自国の復興が精一杯、が正直なところだったろう。

 

・第2次大戦は、植民地再分割覇権戦争だった第1次大戦を通じて、ヨーロッパとその植民地の再分割覇権闘争であり、この戦争で死の商人となり、戦場化を免れたアメリカに生産所得移転が起こり、戦後はイギリスからアメリカに覇権が平和的に移行した。

 

戦後の世界のGDPの1/2はアメリカ1国であった。

 

アメリカは国内市場だけでは決定的に需要不足となる生産力を手に入れていたが、それはもろ刃の剣でもあり、戦後の過剰生産構造と復員兵による失業者増が課題となった。

現在の中国は別な意味で過剰生産構造になり、人民解放軍は失業者の受け皿ではある。

 

生産力とは所得を生めば消費支出力そのものである。生産過剰は、労働所得を生めないのだ。

 

大戦後のアメリカは、既に武器を売る相手も、物資を売る相手もいないのである。第1次世界大戦の終結時は、巨大な過大投資と販路の喪失がアメリカ発の大恐慌をもたらし、結果として資本主義陣営内発の第2次大戦を必要としたのだ。

アメリカは、孤立主義であり反戦の意思が強かった。これにより、ドイツはじめファシズムの台頭を許したし、アジアでは自国で忙しいヨーロッパの植民地支配にまで手が及ばず、日本の拡張を許した。

 

2次大戦後も経済規模の縮小か、経済圏の拡大か、の選択が迫られ、みずからソ連経済圏の拡大=社会主義国の拡大阻止とドイツや日本の敗戦資本主義国の非覇権的従属的復興、によるアメリカ経済圏の拡大の道を当然に選んだ。

 

しかし、それを阻害したのはアジアの民族独立運動であった。また、没落ヨーロッパの対戦前の植民地の独立社会主義化阻止の為のヨーロッパ勢支配地の代理戦争、直接参加でアメリカの生産力は維持された。

 

アメリカの世界経済への経済圏覇権の維持拡大の為にはは、冷戦を通じた経済圏覇権争奪闘争がアメリカの主要戦略となった。

これを支えた経済規模は、国際的なドル基軸通貨、法を体系化してイギリスと交代して世界経済の支配へと発展させることも忘れていない。世界自由化主義経済圏を支配しながら、独立社会主義系アジアを軍事的に叩くことで冷戦を有利にしようとした。

 

ドイツ、ヨーロッパの戦後復興と日本の戦後復興需要と、アジアや中南米の独立の弾圧戦争がアメリカの軍事需要を作ってきたのだ。

 

総括するならば、ソ連を主敵とし、その為には中国共産党とも強調するソ連打倒冷戦の上に世界経済圏支配=世界基軸通貨ドル圏を拡大することが戦後の主要戦略であったのだ。まずはソ連以外をドル圏にすることだ。

ベトナムでは、戦争ではアメリカはベトナムには勝てなかったが、現在ベトナムはドルがドンとともに流通する。ベトナムは為替の自由化に応じている為、既にアメリカの経済圏にシフトしている。中国の覇権主義に対する防衛的措置でもある。

もし、ドルが流通貨幣としてドンの価値を失うことになるならば、ベトナム労働党の政治権力のみが残ることになり、ユーロ圏のドイツ以外の国の状況に近くなる。主権は残すが経済圏はアメリカドル支配圏に従属する。

現代中国は同様であるが、人民元はドルペッグの元で許されてるに過ぎないのであるが、独自の野心を持ちはじめた。為替自由化に応ずるアメリカの揺さぶりに応ずれば大人しくならざるを得ないだろう。

 

・冷戦の過程で、即ちキューバ危機、朝鮮戦争ベトナム戦争があったが、一方では、日本とドイツは復興し、アメリカからの所得移転が進み、逆にアメリカ経済は戦費増大で危機に至る。

中国への懐柔政策、日本たたき、を経て軍拡競争でソ連を挑発し、結果はボロボロになりながらもソ連は自滅破綻し冷戦は崩壊した。

 

戦略的脅威は日本、ドイツ、となった80年代を経て90年のソ連崩壊にようやく到達した。

冷戦後はドイツはユーロ圏戦略をとり、日本はアメリカの圧力で所得移転は衰退した。

日本の台頭を抑えることに成功し、ユーロ圏潰しが目的となった。ユーロ圏は市場を中国に求めることになった。

 

中国は、アメリカを先頭とする投資資金、日本とドイツによる技術援助により資本主義経済圏の一員として復興し隆盛を得た。

アメリカの中国育成投資による日独の成長阻害作戦でもあった。この間ソ連IMF傘下にして骨抜きにした。

ドイツ、日本の対抗勢力であり、投資先を受け入れて復興目指し、世界覇権を目指す中国共産党は国家資本主義と化した。

これには冷戦終了によるソ連圏からの解放による帰属経済圏の喪失による中国共産党の自信喪失と絶望感、が大きく作用したのだ。もう社会主義では無理と悟ったのだろう。

 

・中国は、多数の奴隷国民を抱え、日本とドイツの技術とアメリカの資本投資を受け入れて世界の工場を作り、アメリカの支配する国際市場で製品を売りまくり、所得を中国共産党幹部が収奪する国家資本主義として勢力を拡大、世界レベル=グローバリズムを市場規模とする生産力投資を経て生産過剰となり、ついに一帯一路を含む新植民地づくりを進める覇権主義帝国主義となった。

ちなみに奴隷労働の一端は、沿岸部の工場労働者に若いウイグル人を大量に移動させる。長く止まることに重税を課す。で、ウイグルを高齢過疎化させ抵抗力を奪い漢民族を移民させる、工場ではオモチャ、衣料などの輸出産業でタコ部屋で食料は保証、囚人状態である。徹底した搾取が行われ、少数異民族は暴動が後を絶たない。

ウイグル人は、現在労働改造所に大量に移され、仕事は漢族が代理する、中国の低価格生産は、こうした無限の労働資源によって行われている。

 

中国は、まずはアメリカに追いつくまではアメリカとの対立は避け、2国支配に、その後はアメリカに代わり世界支配を目指すグローバリズムの独裁型の国家資本主義の落とし子となった。

中国はアンチグローバリズムではない。EUと中国こそが米英に代わってグローバリズムの旗手となっている。

日本は、牧歌的、倫理的に周回遅れでグローバリズムのままである。鎖国から開国へ、の視点である。

 

アメリカから中国への所得移転が中国の奴隷労働により継続し、ここに発生する労働所得を資金源とする中国共産党のグローバル支配なる覇権主義帝国主義が登場し、顕著となり、ついに新冷戦、アンチグローバリズム時代がスタートしたのだ。

 

域内のマーケット分割も終え、規模をドイツからEUとしたドイツは、技術だけでなく中国を市場とする巨大な生産力と所得も手にしているが、中国の投資市場はもはや終了し、規模縮小が迫られている。

 

アンチグローバリズムは、まずはイギリスのブレグジットEU離脱に始まり、アメリカの保護主義の台頭、ヨーロッパの保護主義政党の台頭、と新冷戦のイズムが台頭拡大している。

世界経済の現在の基本は、労働所得が中国に偏り、しかも中国投資が過剰生産になっていることだ。

従って世界経済がデフレ化するので、各国の労働所得は拡大しない。中間層的な先進国労働者は、強い製造業を国内に有しなければ、輸入品の販売にしか仕事もなくその労働所得は限られている。

今必要なのは、中国にある生産手段を大幅に縮小して過剰生産力をなくすことでしかない。ひとつは中国国内での破壊行為である。または販路を広げる輸出先を減らすことにより、国内に矛盾を押し込むことである。

各国の労働所得を中国の奴隷労働と中国共産党国家=帝国主義、から奪い戻すことである。

日本で言えば、中国投資をやめて、生産工場を国内に戻すことで、労働所得を奪い返すことが求められる。メイドインジャパンの復活である。

鎖国じみてはいるが、エネルギーや食糧は輸入せざるを得ず、その為の輸出産業は必要であることは当然だろう。

一帯一路か、覇権主義阻止か、が迫られている。

後者なら、大不況を中国が国内解決しなくてはならない。元々投資回収を超えた投資が行われたのだからその悲惨さは計り知れない。

 

社会主義圏の崩壊、グローバリズム、ときて一巡して中国をはじめ資本主義国家間の覇権闘争に戻ったたわけである。

この新冷戦が旧冷戦と決定的に異なるのは、同一経済圏内=グローバリズム内での覇権闘争である。

当時のイギリス支配に対する後発組のドイツや日本の挑戦と類似している。

第1次大戦前夜の様相と共通するのだ。

 

万一、冷戦ではなく米中が軍事的に直接対決すれば、日本やドイツに漁夫の利がでてくるが、これを回避する為、中東、南米、アフリカなどの経済圏争奪戦が当面は繰り広げられる。

 

中国は、発展途上国に対して、高利の借款、インフラの為の鉄、コンクリートの輸出販売、作業労働者=国内失業者の輸出を繰り返しながら、租借地を抑える方式=一帯一路が行われるが、貸し付けるのはドル建てであり、ドル不足をきたすアキレス腱をもつ。

AIIBも資本提供国がいない。投資してください!が中国のニーズである。

アメリカはここを狙う。アメリカは中国投資も止めはじめた。焦げ付くことが明らかな無謀な投資だから。

しかし、中国はこれをしなければ、重厚長大産業の多額の借金を残して工場の稼働を落とし、固定資産を除却損し、借金の返済だけを残す、バブル崩壊となる。

外貨保持を裏付けとした内陸投資の資金は底をつき投資課題が国内にはなく、例えば30億人もの住宅や地下鉄を羊しかいないど田舎にも作り、回収見込みない投資として経済を活性化したその手段が尽きたからこその一帯一路である。

地方と企業は膨大な借金を抱える投資をGDP成長司令を出す党中央に迎合する投資資本主義を進め、融資が国内でも止まったのだ。

3700兆円の負債を抱えている。奴隷労働だったから所得は低く、消費は限界である。投資と輸出、の両方をアメリカが絞りはじめたのだ。

 

バブルを自ら崩壊させて日本の道を歩むのか、軍事衝突を起こしてまで覇権めざすのか、今その岐路に立つ。

日本に3兆円の通貨スワップを申し出てきた。日本は受け入れてしまったが。資金の枯渇は明らかだ。

まあ、3兆円失って中国の日本資産を失えば済む話だが。中国の資本主義的覇権主義を支えているのは、アメリカからの経常利益と、ドルペッグ制、WTO加盟=資本主義経済圏下の輸出である。

貿易戦争がアメリカにより仕掛けられて、金融貸付を拒否され、ドルペッグ制でありながら覇権を目指さざるを得ない状況に追い込まれた。

 

バブルをみずから崩壊し日本のように自爆する道か、ドルから切り離した中国元を基軸通貨とする経済圏を軍事的優位の元に築くか、二者択一が迫られている。これはまだ先にしかできないので、絶妙のタイミングでアメリカは攻勢をしかけた。

 

二者とも、習近平の崩壊になるのではないか。

問題は、為替を自由化するかどうかだが、自由化して共産党の存在を形として残すのか、共産党も崩壊するのか、その選択権は中国共産党自身が選ぶことになるが、問題はこのプロセスでの日本の関わり方だが、財界主導であることから、中国からの儲けに深く関わっている現状があり、日本は政治主導にはなれない国なので、振幅の激しい結果を受け入れるだけになるのではないか。

日本も国内需要を背景に、減税を原資とした消費好況を作りつつ、中国の二者択一のどちらにも対応できる経済構造の下地を作るべきである。

自然の脅威でもないのに、想定外として責任を逃れてなお給料を欲しがる官僚や政治家は、今この作業を始める必要がある。

中国やアメリカの市場をあてにした経済政策を変える必要があるのかもしれない。

 

資本主義を考える-16

・循環型単純再生産が続く均衡型中世型経済システムに変化をもたらすのは、道具との結合労働という古来の生産手段を、「機械使用労働」という新たな圧倒的な生産手段の劇的変化によるものである。

 

・まずは鉄製の機械の製造需要が均衡経済のバランスを崩す。機械主体の労働に代わることで、消費材生産の労働時間が大幅に短縮されるのだ。

その為には、既存の機械製造労働が、鍛冶屋レベルの手工業が担っていたとすれば、残業生産や鍛冶屋増加を必要とするし、その原料である鉄鉱石採掘労働も増加する。

・ここで増加した労働時間は、その分の生産所得を市場販売又は相対取引で得るのだ。

仮に、機械使用労働になったことで、消費材生産労働時間が短縮されると、そこには残余労働時間が発生する。

また、機械を購入する業者は、機械使用に伴う全減耗分を負債として機械、原料、製造業者に支払う。実際の負債は、機械使用に伴う機械の減耗費分を支払うのであるが、残余労働時間発生させることができるので、これを使用する他の消費材生産労働への従事を可能ならしめるので、ここでの生産所得が発生するのだ。生産物は市場に出されて所得と交換される。

 

変化部分だけまとめると、

機械と機械原料の生産労働増加、

生産物の市場持ち込み、又は相対取引

機械購入業者からの機械製造業者への所得移転

機械製造業者による消費拡大

機械導入業者の生産労働時間の短縮化と余剰労働時間の発生

余剰労働時間で機械製造業者の所得拡大分の消費材生産による労働所得の発生

この労働所得で機械減耗分の負債を埋めるのだが、負債を埋めて更に残余の労働時間があるからこそ機械を導入するのだ。更なる残余の労働時間は、機械導入業者の自由時間であり、剰余価値労働時間である。この時間を自家消費にして召使い労働で消費するもよし、投資拡大労働に振り向けて、機械製造労働にあてるもよし、その場合は循環経済の規模そのものが拡大再生産構造になる。

 

残余労働時間の支配権は、機械導入業者にあり、これがセルフemployの自営業者なら労働時間の短縮となる。ここで生産過剰の方向性を選べば、即ち短縮された労働時間の残余労働時間を同じ消費材の生産に向ければ、需要を超えた生産となるのだが、他の遅れた道具生産業者より販売で先行できるので一部を失業者にさせることができ、これを消費材商品として雇用できると、資本主義生産システムとなる。階級制度を作れるのだ。

資本家は残余労働の支配権をもてるのだが、即ちタダ働きさせる労働時間を資本家が支配するのだ。

ただ働らき支配権が資本であるので、その生産所得の支配権をもてて、労働価値説を実行することになる。

 

科学技術の進歩による生産手段の高度化による果実を、分け合うのではなく独り占めすることが資本主義であり、これを否定したければ、2つの方法からの選択となる。1つは科学技術を生産手段の高度化につなげずに規制すること。

もう一つは、労働者階級による推進である。ここでは、導入リスクを除外すると、減耗費分の労働時間追加を自ら受け入れて、尚残余時間分を正当に分配に活かすことだ。

ここで戻して導入リスクと残余労働時間のみとを分配することだ。

余暇時間としてもいいし=労働時間短縮、がしかし、導入リスクヘッジの為の教育学習時間に当ててもいい。要は自由ではあるのだが、リスクが存在する以上は、リスクは共同体管理下に置くべきで、この生産管理を行う者の取り分とするのが発展的な共産主義社会には望ましい、ということだろう。

 

まずは仮説を先行して資本主義後の社会を夢想してみた。

資本家に本来その機能があるのだが、資本主義の階級支配が長く継続したことでか、資本家が世襲的に階級支配権を持つようになり、日本のように事業体がリスク投資を怠り、生産性が向上しなくなり、減耗分以下の投資しかできない縮小再生産社会となっていて、幕末状態である。資本主義から経済発展を引けば、固定階級社会だけが残るのだ。

 

デフレ経済から脱出出来ず、非正規制度や長時間労働による収奪しながらも投資せず、貯蓄している現状を見るとき、資本主義のダイナミズムは日本では終わり、無投資の階級固定社会になりつつある、ということを特に日本には感じる。

 

知的な労働者階級による=下級武士による明治維新的な階級シャッフルによる老朽化制度改革は必要である。

生産性本部なるものをまともな経済学者を軸に組織化する必要があるのではないだろうか。

 

資本主義を周回遅れで経験し、今頃帝国主義やってる中国とは対照的であるが、中国はいずれ破綻するが、それまでに「非階級の資本主義社会」を建設できないものか?