資本主義を考える-16

・循環型単純再生産が続く均衡型中世型経済システムに変化をもたらすのは、道具との結合労働という古来の生産手段を、「機械使用労働」という新たな圧倒的な生産手段の劇的変化によるものである。

 

・まずは鉄製の機械の製造需要が均衡経済のバランスを崩す。機械主体の労働に代わることで、消費材生産の労働時間が大幅に短縮されるのだ。

その為には、既存の機械製造労働が、鍛冶屋レベルの手工業が担っていたとすれば、残業生産や鍛冶屋増加を必要とするし、その原料である鉄鉱石採掘労働も増加する。

・ここで増加した労働時間は、その分の生産所得を市場販売又は相対取引で得るのだ。

仮に、機械使用労働になったことで、消費材生産労働時間が短縮されると、そこには残余労働時間が発生する。

また、機械を購入する業者は、機械使用に伴う全減耗分を負債として機械、原料、製造業者に支払う。実際の負債は、機械使用に伴う機械の減耗費分を支払うのであるが、残余労働時間発生させることができるので、これを使用する他の消費材生産労働への従事を可能ならしめるので、ここでの生産所得が発生するのだ。生産物は市場に出されて所得と交換される。

 

変化部分だけまとめると、

機械と機械原料の生産労働増加、

生産物の市場持ち込み、又は相対取引

機械購入業者からの機械製造業者への所得移転

機械製造業者による消費拡大

機械導入業者の生産労働時間の短縮化と余剰労働時間の発生

余剰労働時間で機械製造業者の所得拡大分の消費材生産による労働所得の発生

この労働所得で機械減耗分の負債を埋めるのだが、負債を埋めて更に残余の労働時間があるからこそ機械を導入するのだ。更なる残余の労働時間は、機械導入業者の自由時間であり、剰余価値労働時間である。この時間を自家消費にして召使い労働で消費するもよし、投資拡大労働に振り向けて、機械製造労働にあてるもよし、その場合は循環経済の規模そのものが拡大再生産構造になる。

 

残余労働時間の支配権は、機械導入業者にあり、これがセルフemployの自営業者なら労働時間の短縮となる。ここで生産過剰の方向性を選べば、即ち短縮された労働時間の残余労働時間を同じ消費材の生産に向ければ、需要を超えた生産となるのだが、他の遅れた道具生産業者より販売で先行できるので一部を失業者にさせることができ、これを消費材商品として雇用できると、資本主義生産システムとなる。階級制度を作れるのだ。

資本家は残余労働の支配権をもてるのだが、即ちタダ働きさせる労働時間を資本家が支配するのだ。

ただ働らき支配権が資本であるので、その生産所得の支配権をもてて、労働価値説を実行することになる。

 

科学技術の進歩による生産手段の高度化による果実を、分け合うのではなく独り占めすることが資本主義であり、これを否定したければ、2つの方法からの選択となる。1つは科学技術を生産手段の高度化につなげずに規制すること。

もう一つは、労働者階級による推進である。ここでは、導入リスクを除外すると、減耗費分の労働時間追加を自ら受け入れて、尚残余時間分を正当に分配に活かすことだ。

ここで戻して導入リスクと残余労働時間のみとを分配することだ。

余暇時間としてもいいし=労働時間短縮、がしかし、導入リスクヘッジの為の教育学習時間に当ててもいい。要は自由ではあるのだが、リスクが存在する以上は、リスクは共同体管理下に置くべきで、この生産管理を行う者の取り分とするのが発展的な共産主義社会には望ましい、ということだろう。

 

まずは仮説を先行して資本主義後の社会を夢想してみた。

資本家に本来その機能があるのだが、資本主義の階級支配が長く継続したことでか、資本家が世襲的に階級支配権を持つようになり、日本のように事業体がリスク投資を怠り、生産性が向上しなくなり、減耗分以下の投資しかできない縮小再生産社会となっていて、幕末状態である。資本主義から経済発展を引けば、固定階級社会だけが残るのだ。

 

デフレ経済から脱出出来ず、非正規制度や長時間労働による収奪しながらも投資せず、貯蓄している現状を見るとき、資本主義のダイナミズムは日本では終わり、無投資の階級固定社会になりつつある、ということを特に日本には感じる。

 

知的な労働者階級による=下級武士による明治維新的な階級シャッフルによる老朽化制度改革は必要である。

生産性本部なるものをまともな経済学者を軸に組織化する必要があるのではないだろうか。

 

資本主義を周回遅れで経験し、今頃帝国主義やってる中国とは対照的であるが、中国はいずれ破綻するが、それまでに「非階級の資本主義社会」を建設できないものか?

 

 

 

資本主義を考える-15

・中世の絶対主義的王政の支配する農本社会では、余剰人口は、自営的安定的な不生産階級即ちその日暮らしの手工業的自営業者による都市市民を育成した。

ここにこの経済循環システムを根底から変革する資本主義生産システムが登場したのだ。

 

それは、消費材生産活動において、生産手段に道具程度から機械を使用する操作労働に変えることにより、労働時間の大幅な短縮化が機械減耗分の生産労働時間を加算してもなお総労働時間短縮が実現できたのだ。

機械導入自営業者は、余剰時間をロビンソンの場合同様もたらすのだが、そのことによって別の生産や、より豊かな消費が実現する自営業者となることもできたのだが、圧倒的な生産力増で意識的に過剰生産する事で、需要を独り占めできる武器として使う道を選択する事もできるシステムなのだ。=支配階級化の武器となる。

 

後者を選択すると、他の自営型生産を駆逐でき、需要を独り占め、即ち自立型自営業者を壊滅させる道を選ぶ利己主義的使用により、自営業者から生産所得を奪い、人間の尊厳をも奪う失業者という被支配階級に落とし込める。

豊かな自営業者として止まらずに、他の機械導入しない手工業的自営業者を失業者にまで追い込むことで生産所得を一極化、即ち資本増殖するのだ。

 

例えば地方では、商店街と大規模小売店の戦いがある。

商店街は、それ自体で日暮し的な生産所得があり何世帯もの貧しいがささやかな生活があるのだが、大規模小売店の登場でシャッター通りとなり、大規模小売店にパートとして雇用されるようになる。が、引き取られずに失業破綻する商店主もあり、社会は不安定化する。生産所得が大規模小売店に集中するむき出しの生存競争である。社会進歩も競争も必要だが、弱肉強食までは行かせない政治力がないと、ほとんどの人が資本の奴隷となることになる。

 

生産所得の一極集中による自営業者の失業者化、から雇用労働者への転身をせまるのである。

自営業者時代は、道具程度を自己所有していたので、需要側の所得との交換による生産所得は自らのものであったのが、機械導入自営業者の場合も同じで、短時間労働がロビンソンのごとくもたらされるだけなのだが、過剰生産にする事で他の自営業者から競争により生産所得を奪い、持続困難にして失業者化して、雇用労働による生産を行うと、吸収した所得の全ては、資本主義導入自営業者のものとなる。

活動域内市場が小さければすぐに壁にぶつかる。需要を独り占めにすると、資本増殖は止まる。

どういうことか?

過剰生産の必要はなくなり、競争相手がいなくなり需要側の需要分の生産量に落ち着く。

機械生産してるから、減耗分の補充生産労働時間+機械操作生産労働時間で全需要分が生産できるようになる。

この生産所得による他の産業の資本主義生産への投資がなくなると、資本家自家消費の需要が消費材消費や召使い消費による所得移転での循環構造になり、中世の絶対主義王制の消費の為の生産と生産階級への固定資産減耗補充の為の生産と変わらない状態になる。

要は、支配階級に資本家が入れ替わり、単純再生産循環社会となるので中世にもどるのだ。

ここに至ると、資本主義生産は、支配と非支配の関係性のみが残り、社会の科学技術進歩としての側面はなくなり、単に階級関係、生産所得の賃金と資本の不公平な分配制度だけが残る。

それが嫌なら、閉鎖経済圏を打破して新たな市場拡大で対応するしかない。需要の拡大である。

 

まずは。ローカル、リージョナル、ナショナル(国家)と活動規模は拡大して、その度に壁に成長が阻まれるが、それは拡大することで矛盾を先送りできる。

果てはグローバルであり、その先はない!のだ。

グローバルが行き着き、行き詰まりを見せて、新たな保護主義の勃興が始まったのが現代である。

最早、社会主義圏のような資本主義未到達地域の独自経済圏もなく、世界的に総需要を超える資本主義的生産力による生産過剰の時代になってしまったのだ。

生産を縮小して固定資産は減耗補充のみ、ここで拡大しすぎた生産手段の縮小によるたそがれか、生産手段を維持して需要を拡大する為の覇権主義化=植民地化か、が、争われる時代になっている。

前者を選択して保護貿易を認めて、貿易を必要最低限に抑えて覇権戦争を回避することが求められる。

 

過剰生産物を輸出すれば、国内の自営業者ではなく、国外の自営業者=生産所得を失業者化でき、国外市場の需要を取り込める。一旦壁は崩れて更に発展、大規模化が進む。生産工場を国内に持つ先進国と、生産所得を奪われる植民地、連邦が出来上がる。

イギリスの姿である。連邦化を資本主義生産システムで完成していった。

 

国内市場が小さければ民族主義的思想や国家主義的思想により、資本主義的生産システムを維持し拡大できるが、この道はすでに第二次世界対戦で周回遅れの中国を除いて経験している。

 

TPPではなく、相互保護主義協定の締結が21世紀の平和存続の在り方ではないか。

また、商品輸出ではなく、たそがれるものの、平和な新中世社会を作る事ではないか。

 

この期に及んで、資本主義推進拡大による壁の打開の効率は極めて悪く、日本は労働者階級の実質賃金の切り下げや、長時間労働による生産増により、結果としては需要が減りデフレ化する経済縮小に至っている。

 

 

 

 

資本主義を考える-14

・資本主義のポイントは何か。

 

ロビンソンは、モリ=道具を1時間かけて作って3時間の素潜りモリ漁で5匹の1日の必要食糧を得ることができるようになった。総労働時間は4時間。

モリを作らないで手づかみ漁やってた時は、5匹取るのに8時間もかかっていたとすると、4時間の余剰時間が得られたのだ。

この余剰時間は、ロビンソンのものである。

個人で閉鎖経済なら、生産性向上は余暇時間として現れ、いくら高度に生産性を高めても資本主義には絶対にならない。

 

他の消費材を生産したり、投網製造にして更に道具レベルを上げることで、漁業就労時間を短時間化したり、ボーっとすごしたり、自分の価値観で消費ができる時間を生産したのだ。従って、道具を製造する労働時間を1時間増やして素潜り漁をやると、8時間労働が3時間労働に削減できるのだが、1時間労働時間が取られるので、労働所得の収支は、

8時間素潜り手づかみ漁で、5匹の食糧    が

1時間モリ製造労働+5匹の食糧+4時間余剰時間

となる、ということだ。

この形は、モリ製造を投網製造に格上げして、製造時間はよりかかるが、それ以上に漁労働時間が短縮され、余剰時間が更に増加する、というパターンで道具の高度化が進むことになる。

 

・ロビンソンが何百人何千人もいる一般的社会では、

漁業、農業、各種製造業にと各産業に複数の手工業者による生産活動が行われていて、それぞれ生産活動して労働所得を得ている。

中世の絶対王政の支配階級のみは、農民の労働所得を税収奪して所得移転しているし、農民も固定資産を生産手段として動員して生産しており、減耗補充分の労働所得があるのだ。

 

生産階級、不生産階級、支配階級の総生産は、

ケネーの範式では、

各、50、20、0、合計70

所得は、30、20、20、と生産から支配に所得移転。

総消費も、30、20、20、合計70である。

 

総消費について分析してみよう。

生産階級の30は、次回生産の為に自家中間消費の20が除かれるから、固定資産減耗補充分の10、である。流通する最終消費。

支配階級の20は、全て流通する最終消費である。

不生産階級の20は、労働所得であり、流通する最終消費である。

 

流通市場には、10+20+20が所得が投入されて流通交換される。10+20は、生産階級余剰生産物であり、20は、不生産階級生産物である。

所得は債権となり、

支配階級が20の、即ち10+10の生産物と交換し消費する。

残は生産階級生産物が、20、不生産階級生産物10、だが、生産階級は不生産階級生産物を10を回収して減耗固定資産を補填する。

不生産階級は、20の生産階級生産物を得て消費する。10は食糧であり10は生産物原料なり中間消費である。

5の原料なり中間消費で5の労働を付加して、10の価値生産物として交換するのを2階級に対して行うと、10の労働所得と10の原料補填が得られるので、10の純所得で食糧を得る、という構造である。

日暮の手工業商業者である。食うために働くだけ。

 

これ以上の生産物を生産したとしても、購入する需要がないので、日暮の手工業商業者内に多少の貧富の差はできるが、総需要が一定であり、手工業レベルなので、生産構造に変化は起きない。

循環型の均衡経済システムが維持され中世状態となり安定する。

 

ここに、資本主義生産システムを導入すると、前章までの状態が起きるのだ。

即ち、機械化による大量生産で、生産過剰にして日暮の手工業者の労働所得を一極集中する。総需要は変わらない。従って手工業者は、失業者となるのだが、機械製造部門に移転できるものと、機械操作労働製造業に賃金雇用されるものと、失業者として資本家所得に依拠した労働提供するものとに分かれるのだ。

この最も大きな存在が商業であり、運輸業であり金融業である。早期に大量の投下資本を回収してシェアを高め、早く再投資する循環を生き残りをかけて各資本家が求める。また、高度に生産性の高い機械や生産システムを導入する競争になるが、この資金も所得回収労働の競争となる。

要は無理矢理過剰生産を維持しかつ大規模化して、生産所得を一極集中して、失業者を増やし、その失業者を製造業機械操作労働者、高度機械製造者、サービス労働者を増やす不均衡生産システム、が資本主義である。

 

生産物自体は、少人数の労働時間で生産は可能であり、製造業が所得を蓄積できるが、ここの雇用労働者数は機械の性能向上により、益々少なくなるから失業者と機械生産者=生産手段生産者が増加することになる。その分はサービス労働者数の増加となる。

又は、資本家所得をあてにした自家消費物生産者も含まれるが、召使いに豪奢な物を作らせるのも、手工業者から生産物を買うのも大差ない。資本家集積所得を労働所得で移転するだけだ。

こうして新たな支配階級が登場して、不生産階級は、雇用労働者となり、生存を確保することになる。

以上は、閉鎖経済圏での話で貿易が可能なら、他国の生産所得を奪って失業者を他国に押し付けることもできる。この場合は輸出を旺盛に行い、生産規模も需要が拡大するわけだから、更に生産規模も拡大できて資本家所得も増える。

これにより、原料調達力も求められ、輸出先市場の拡大も必要で、これを閉鎖経済圏で行いたいとする反抗的な国に対しては不等価交換の貿易条約を締結する為に、場合により軍事力を使う為に、工業生産力需要が飛躍的に高まる。

資本主義は、植民地や貿易を盛んにしたがるし、交易条件を良くする為に、植民地又は経済ブロック作りと軍備増強がセットになるのが特徴的である。

 

全ては、支配階級の為の手工業者集団が、資本家の所得集約の為の機械工業化、大量生産により、農業生産力を基盤とした安定収益の絶対王政より、遥かに大きな所得収益力を経済圏の広域化により得られる資本主義生産システムをとる資本家が、近代的な支配階級として交換、又は王政の象徴化により、支配階級となる。

 

貿易依存度を見てみよう。

ドイツ68%。フランス42%、ロシア36%、

中国30%、日本24%、アメリカ20%、である。

仮に国内人口が減ろうとも貿易依存度を高めて他国の需要を取り込めばデフレは回避できる。

しかしながらこの数字は、国内需要規模の小ささを示すことになり、しかも貿易摩擦を起こし、他国の生産所得を破壊する為に、保護貿易対立を生む。

結論としては、相手国の労働所得を奪わないように現地工場を作る、ことの方が揉め事は少なくなる。

ドイツはここまで外需に頼ると、中国と対立できなくなる。

やはり、自立型経済にして、前のめりの資本主義生産システムに偏らない事が肝要だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義を考える-13

前章でほぼ輪郭は出来上がってきた。

 

ロビンソンクルーソーなら、1人で漁業でもやるしかないが、素潜り手づかみ漁では1日8時間やっても5匹しかとれない。ようやく1日分の食糧だ。

モリ突き漁にすればモリを作るのに1時間かけても、3時間の漁業で5匹とれるとすると、自分の自由時間=余剰時間が以前より4時間できることになる。

この4時間は別の生産活動に使うこともできる。例えば果物を採取に行くとか、家を補修したりとか。隣の島民と物々交換したりで総生産を拡大することも余暇時間として遊ぶことも可能だ。

総生産が拡大可能で、すると総消費も拡大する。

 

生産手段が、むき出しの人間労働だけ、だったのが道具使用労働になると、道具を作る労働時間が増えて(=精密には道具使用時間のうちの道具減耗分の道具生産労働時間分が新たに付加されるのだが)

今度は、生産手段は、道具なし人間労働から道具使用労働時間となり、道具減耗費生産分労働時間+道具使用労働時間の合計時間=総生産労働時間が以前より短縮されるのだ。

だからこそ道具を作る余計な時間を加えても道具使用労働にする意味があるのである。

総労働時間が長くなるだけなら、道具製造労働労働時間をあえて割く必要はないはずだ。

 

そこで短時間化して終わるもよし、ロビンソンで言えば、即ち余暇時間としてとしてもよし、漁業以外の生産時間にしてもよし、自分が労働者でもあり、資本家又は支配階級でもある自営業者だから、その剰余時間の利用法の選択は彼は自分で決められる。

生産量の増加もできるのだ。

漁獲量そのものを増やすことも可能だ。

隣の島の原住民でもいれば、その生産する穀物との交換の為、というように。商品用に過剰生産することも可能だ。

 

生産時間増加による生産量増は、それが総所得増になるから、総消費増になる。

より豊かになる、ということなのだ。

 

ただし、ロビンソンの場合は、労働時間をコントロールするだけだ。ここには階級社会はないから。

だから、いずれ道具をモリ突き漁業から、魚群探知機装備の船を持ち、漁網利用の漁業に生産手段を高度化したからといって、彼の場合は資本主義になるかといえばそうはならないのだ。

より裕福なロビンソンにしかならない。

せいぜい短時間で沢山の魚が取れ、これが他人の需要を満たすし、その分が自分の他の需要を交換で満たしてくれて、自分がより豊かになるだけなのだ。

 

道具使用の労働時間短縮で余剰時間で機械をコツコツと生産して、生産手段を高度化し、これに機械利用労働時間の配分を高めて直接の漁業就労時間を減らしてトータルでこれまた就労時間総時間が減って最終形は常に余剰時間増となるだけだ。

 

従って、資本主義というのは、道具使用生産レベルを機械生産レベルに自営業者が生産性を高めることは、必要条件であっても十分ではないのだ。

単に裕福な自営業者にしかならない。

その結果としての時間当たりの生産増は、所得増となり豊かな消費生活がおくれるようになる、というだけでしかない。他の自営業者がより良い道具を活用する自営業者より、相対的に貧しい、というだけであるが、これが最低賃金ではないが、生きるギリギリの所得があれば、何も問題は起きないのだ。

 

資本主義かどうか、には生産手段の機械化とかの生産手段のいわゆる進歩とかは、微量たりとも影響を与えないのである。逆立ちしてもロビンソンは資本主義にはなれないのだから。

敢えて言うなら、余剰時間を増やす、ことをのみ目的とする生産活動になったとき、に近いが、それともまた異なる。

 

結論を急ぐなら、この生産手段の人間労働に付随した道具労働から機械生産に付随した操作人間労働にすることによる圧倒的な生産時間短縮により、これを雇用労働で社会的平均的労働時間を労働させると、=労働所得を与えると、生産過剰となり、自営業者の道具労働生産所得を激しく奪って失業者に追い込み、この失業者を雇用し支配すること、即ち賃金労働者階級を生産手段に用いて不労所得を増殖させるシステム、が資本主義なのである。だからそのためには、道具による生産活動不能生産者=失業者を生産して雇用労働者に追い込む必要がある。

だから自分の機械使用労働分だけを失業した雇用労働者にやらせるのではなく、商品としてより多くの雇用労働者を資本家所得で雇用することが可能となるのだ。これで、資本家所得はさらに増えるし、失業者もその分ー機械原料や機械の製造業に移動する部分を除いて、直接雇用されるし、他の産業にも触手を伸ばして資本主義雇用をすれば、資本家所得は格段に増えるのだ。同様の失業者を更に算出しながら。

 

残余失業者は、資本家の自家消費を需要とする労働か、資本の増殖システムを拡大する目的の為に雇用動員するのが資本主義システムであるから、支配階級と非支配階級の生産関係を固定化する。

「階級形成を行うのが資本主義生産システム」

なのである。

資本家は、失業者を

自らの召使いサービス労働に雇う、か、

自らの自家消費の既存市場にはない豪奢な美術品や音楽演奏等を求めるなら、その職にも需要がでる。即ち生産所得が頂ける。この生産自営業者となる事も可能になることで、その所得で消費が可能になる。

また、機械生産が人手不足となるから、機械生産を資本主義雇用で生産力を拡大できる為、そうなるのが一般的であり、資本主義の発展は生産財、生産手段の主要部分である原料生産と機械生産、の工業化に著しい発展を伴う。

 

現実の社会は分業で生産して、生産物を過剰生産して流通に投入した生産物を相互に正確には社会的平均的必要労働時間どおしで交換することで分配して、自らが様々な商品を生産して所得化し、消費するのと同じ結果をより合理的に得る、のである。

 

集団社会で産業として分業生産している、ということは、他人の為に生産労働をして債権化してその債権を放棄する代償として、自らの債権分の消費にふさわしい他人の生産した商品を手に入れることで、自ら生産して消費するのと同様の行為、又はそれ以上の消費を成し遂げよう、というものだ。これが分業社会だ。

 

だから、債権の証明=労働時間換算時間量、とその交換の儀式は必要で、使用価値即ち目的物は人によりその種類や量が異なるし、必要な時間さえ、例えばもっと後で必要とか、ということで貨幣が使われるのだ。

貨幣には商品貨幣=金本位制、と法定貨幣とがあり、金本位制をとると、経済成長すると金の採掘量が債権債務証明量の増加に遅れをとることでの流通不調による不況=デフレが起こるので、信用が得られれば法定通貨が良いことになる。

しかしその欠点は法定している支配階級の存在とその強制力の維持力の届く範囲でのルールでしかない。

信用貨幣は権力問題を除外視できないのだ。経済活動や経済学は数学、論理学、政治学、哲学、様々な学問の混合学問であり、部分では完結できないのだ。純学問性は低いが、人は皆このために生きてるのだ。しかも身近なのによくわからない(^^)

 

話を戻せば、分業生産社会にあっては、これはロビンソンのような機能分化の許されない特殊なモデル社会を除けば、全てが集団社会であるのだが、分業化された生産労働がなされ、それは交換により総所得として表現する機会を得て、総消費物となった生産物と交換される、ということが理論的にも現実の経済生活でも当たり前なのだ。ロビンソンの場合と同じに。

 

ロビンソンなら、豊かな消費を目指して生産し、生産時間の短縮化をはかるのだが、短縮化によるより豊かな消費のための時間、を得ることである。

しかし集団社会での分業生産では、機械生産による機械操作労働時間により労働時間短縮効果を得た上でさらに労働力を賃金で雇用し、短縮せずに労働時間延長(=社会的な平均労働時間まで)することで、生産性競争に遅れた同業生産者の生産での生産商品量を奪うことができるから、より正確には、より早い資本の回収を通じて再生産循環を高速回転できることで、自営業者の生産循環を破壊することができる。

要は、機械導入により生産コストは下がっており、販売経費をかけたり販売価格を下げるなどして資本の回収を早めることもでき、そのことで需要を早く満たせる為に、自営業者側は販売少なく、資本回収遅く、再生産が遅れ、生産所得を資本主義の機械生産に明け渡す。

生産者は、市場から神の手により要求される機械生産や機械生産用原料生産に転業、業者移動するし、資本主義生産を主導する資本家に雇用されるのだが、マクロの総労働時間が減るから機械化の意味はあるわけで、そうでなければ導入の意味がない、

従って集団社会にあっては、機械化生産の結果は同業者の非機械化生産している既存の生産者から業種移転させてなお失業者を生み出すことになる。

失業者は、自らを商品におとしめて、機械化生産者の増加した生産所得の消費の為の生産に組み入れてもらうしか生存方法がないのである。

もちろんこの人達は、資本家の生産所得生産の為の労働力商品として直接に生産ラインに雇用して救済してもらう人も中にはいるのだが。

資本家所得は、機械による短時間操作労働になるのを、所定時間労働でタダ働きさせることで、生産コストの下がった商品を大量に生産できるので、生産過剰状態を経て供給側を自営業者的生産から、没落自営業者=失業者、生産手段自営業者、生産手段原料生産自営業者、にシフトさせ、更なる残りの失業者=道具としての生産手段をも放棄した=道具製造業者も没落するのだが、を商品の1つとして雇用する、そしてなお未活用失業者が残ることになる。

資本主義システムとは、自らの生産力増で、結果として他人の生産所得を自らに集中させる生産システムであることがわかる。

失業者は必ず存在し、この失業者を資本家は雇用してこのラインに製造労働者として、又は、機械製造、地下資源原料、動力エネルギー原料労働者に全てを振り分けて生産、所得集中すると、この消費材生産の他業者がこの経済圏ではいなくなり、均衡を崩す力の源、即ち生産所得をもつ自分以外の生産者がいなくなるまで資本家所得増加は続き、そしてついに独占状態になるのだ。

 

そのために不均衡を発展の原動力にしていた循環が、動的平衡になる。均衡してしまうのだ。

もう、機械、原料、動力エネルギー原料への移動労働者も、それを操作労働する失業者もいらない状態になる。

が、もう一方では失業者が取り残された状態になる。この取り残された失業者がいるからこそ、機械生産手段の導入に価値があるのだ。

この残余失業者に対して資本家が旺盛な自家消費をやめると、失業者は固定した生活苦が遅い、自殺した場合や国外に移民した場合は、彼らの生産所得は発生せず、その消費も減るのだから、その分の資本家の所得も減り消費も減る。国民総生産が減るのだ。

これを防ぐには、閉鎖経済社会条件なら、労賃を生活ギリギリまで減らしながら資本家所得を増やしても資本家が自家消費しない限り、需要が減り続けることになる。

不労所得者となった資本家が雇用しきる範囲でしか、結局のところ需要がないので、生産力がおちるだけになる。

 

発生させた失業者に労働所得を与えなければ生産量を減らして生産所得も減らすしかないのだ。ましてや機械を生産することは、ロビンソンでいえば、総労働時間を長くするだけの無意味な活動となる。

これが資本主義生産システムを終焉させるしかなくなる、ということなのだ。

 

資本主義の本質は富=生産所得の一元化の為の階級分化システムであり、全ての生産者を労働者階級にすることで生産所得を一元化させるシステムそのものであるところに本質があり、その意味では、果ては支配階級の生産の一元化の為のシステムに過ぎない。労働者階級は、その所得の一部を支配者である資本家からもらって生きる、召使いに過ぎない。

 

他人の生産所得を奪って自らの消費所得とするシステムであり、機械化はその為の道具でしかない、ということがわかる。

 

弱肉強食の生存競争をむき出しにしただけのシステムがその本質にはあり、生存本能そのものである為、悲しいサガだが、それだけに強力である。

常に、生産所得を持つ経済圏内外の領域を求めないと、閉鎖経済圏ではすぐにも吸い尽くすことになる。

こうして、野蛮な対外膨張主義となり、グローバリズムとなる思想でもある。

これに対抗できるのは、一国社会主義とかではなく、グローバリズムの労働者階級思想集団によるアンチグローバリズムの成長であるだろう。

世界は、支配階級である資本家と、圧倒的多数を占める資本家に雇用される被支配階級である労働者階級と、資本家所得の自家消費に依存する失業者に分化する。支配階級間に国境がある場合は、失業者には出兵による資本家債権の保護の為の雇用さえある。

経済のグローバル化を各国が認めた現段階でも、債権回収を拒否する国に対する圧力は、国家間の外交による規約による制御が働くが、それがなされなかった場合は、軍を動かすことになる。

話が蛇行したり重複しているが、徐々に前進しているので、次の章で再編してみる。

 

資本主義を考える-12

・資本主義の終了

資本主義は終焉する。

それは、発生時に生産力の飛躍的増加をもたらす、生産手段の高度化により、機械化といっても良いのだが、人と道具の結合した生産手段の機能を、機械の操作労働による機械に大きく依存した機械と人の結合労働に変わることにその根源がある。

既存の供給サイドの、生産に伴う労働所得のうち、一度は供給過剰にして、既存の供給機構を破壊して、失業者と機械生産者、機械原料生産者、エネルギー原料生産者を生み出し、供給機構を集中一元化することで、生産労働所得を集中する。

それでもなお供給側で吸収しきれずに失業者がでることで、合理性=生産性が得られるというものだ。

失対事業として供給サイドを増加させるには、資本主義システムによる資本家の収益の消費が必須となり、それは豪奢な自家消費の為の生産サイド補強や、まだ資本主義システム化していない生産部門への機械生産投資への資本主義的雇用の発生、である。

要は、発展と失業者増加はセットであり、失業者を吸収する新たな産業が起きている間は、経済発展の根幹をなすシステムである。

閉鎖経済系では、全てに資本主義システムが行き渡ると、供給サイドは、既存の資本主義と新たな生産手段の向上技術を持った新資本主義システムとの闘いになり、既存資本主義を食いながら新資本主義に入れ替わる。既存資本主義の雇用労働者を大量に失業者に放出しながら。しかもその技術取得には長い時間と大きな消費投資を伴い効率も極めて悪いのだ。

資本主義は、平たく言えば生産手段機械化による生産手段保持者への労働所得の集中、であるなら、その課題を閉鎖経済系でほぼ成し遂げれば終わるのだ。それは、生産手段への投資消費が、減耗補填のみ、となった状態を指す。新たな投資は、コスト増加でしかなく不合理になるのである。

で、何が残るのか。

資本主義システムそのものの持つ、資本家と労働者と失業者、という合理性ある生産システムで出来上がる階級構造だけである。

この場合でも資本家の持つ生産手段は、減耗分を補充するだけだが、これによる収益は資本家に属するので、労働者との格差のある所得は固定される。そして投資先はないので、資本家の自家消費だけが失業者を救済する。労働者は、資本家所得増の為に、生きる生活ギリギリの賃金で抑えられる階級構造はいきるものの、それによって集積する資本家所得との合計は変わらないから、新中世的なゼロサム社会となる。資本家が明日のために所得を浪費も含む消費をせず貯蓄すると、その分の需要が減り、生産力を落とすことになる。

 

新中生のケネー式の構造を考えてみよう。

支配階級は、資本家となる。

生産階級は、労働者階級となる。

不生産階級は、産業予備軍即ち失業者、である。

失業者を減らそうとすれば、資本家は自家消費を強めることしかなく、豪奢な消費材生産に専念する。

日本のようにそれをせず将来の有効な投資資金として貯蓄死蔵させれば、たちまち失業者が増えるが、もし、これも日本のように正規、非正規、バイト、などのように雇用を多様化すれば、実質の賃金総額を固定した、ワーキングシェア、となり失業者は減るが非正規が増えるだけである。

国外侵略的に国外の需要を取り込んで過剰生産による所得増、リカード方式で国際市場に挑戦をやるのか、新中世を甘んじて受けるか、であろう。

現代日本は、すでにケネー型の範式的な単純再生産社会となり、新規投資がすでに不合理になっていてその需要はない。

世界も、リカード的な合理性より、自国産業への融資を求めており、投資需要は国外にある。

貿易より自国の雇用や産業育成を求める、反リカードが勢いを強めている。

 

とすれば、対策は輸入品の削減であり、これまでリカード的視点で切り捨てられ、他国に依存したエネルギーや農業など、国内生産には向かないで切り捨てて、付加価値の高い労働生産物に特化シフトしてきた流れがあり、それは合理的であった。

これからは、輸入品額リストのうちから上位から選抜して国内投資を未来から借り入れ(今は現在からの借入が可能だが)生産効率を上げる投資を行うことで生産性が多少はあがる。

現代日本は、銀行に過剰貯蓄があり、これを担保化できる国債の発行余力がなお大きい。

国債発行によるエネルギーや食糧生産に投資できるしすべきである。自立経済性を強める戦略をとることが、真の安全保障となる。

警察官増やすより、治安の悪化要因を削除する方がマシな社会と言えるだろう。

科学技術を総動員して安全保障商品の増産を図るのが、昨今は世界的に不況低金利となった時代の課題かもしれない。

生産手段の高度化が資本主義の発生なら、これが邪魔になる時代に資本主義は終わり、自立性経済への不合理な投資=新社会主義、の時代に移行することが救済の道ではないか。

投資は何をやってもよいのだが、第2新幹線やリニヤではないだろう、これこそ無駄金で高度成長期のトップ引きの意識でしかない。

今回の種子法改悪で、アメリカの属国化が決定的になっており、アジアの中でのアメリカの代理人としての防波堤の役割の押し付けに従うのではなく、自立性経済の強化による骨太の経済作りを、国債発行による国家経済政策を推進すべきではないか。

何故なら民間では当面の投資収益率が低い国家100年の計的な投資課題だから。

そしてそれをなすべき経済基盤はこの国にしっかりあるのだから。(^^)誇大妄想を心配しないでね。(^^)

野党見てると、政権交代して何をやるのか、がさっぱり見えない水準で、苛立つ今日この頃、自民党は、アメリカの番頭化して憲法改正アメリカの武器購入ましっぐら。苛立つよ(^^)

 

資本主義を考える-11

・ケネーの範式では、貨幣を捨象して考えると

生産階級は、20の農奴食糧と種籾と、100のうちの10、即ち1/10の固定資産減耗=生産手段との農奴の結合労働によって、10を減耗させながら

50の生産物を得る。

ここで得る20の剰余生産物は、農奴を監視収奪する借地農経営者が取得し、生産手段の所有権がここにあれば、農奴には賃金=生存用食糧を与え、生産手段所有権を盾に余剰生産物20を自らの所得、とすれば資本主義システムの資本家そのものの機能である。

実際は、借地地代として支配階級に全納税しているにすぎない。

この絶対主義的な収奪システムがある限り、資本蓄積が借地農経営者には生じ得ない。支配階級がその所得を農業の拡大再生産、即ち不生産階級に支払って農機具や肥料の生産、農薬の生産、農業施設建設、開墾による農地増、などを行えば増産でき、増益ができるが、豪奢な自家消費に集中しているので、資本家として機能しなかっただけのことだ。

 

島国などでなく、大陸で領地紛争が頻発すると、軍用鉄器生産に入れ込むので、消費増となりますます所得は増えず借金が増す。

しかし、戦勝すれば開墾にあたる新農地と新農奴=生産手段、が得られるが、マクロ社会的には±ゼロ、ゼロサムである。

競争社会である以上、参戦はせざるを得ない。

 

100の固定資産のうち、1/10を生産手段として減耗しているのだから、100の固定資産蓄積投資は過去に形成していたことになり、投資力が停滞して減耗補充のみとなっている発展力が=増産力が落ちていた単純再生産社会となり、成熟していたことがわかる。

 

また、過去には、農機具の発達時期があり、ここに消費分を投資に振り向けた社会が存在していたこともわかる。

税収奪を弱めた賢明な?或いは甘い?支配階級がいて、生産階級内に余剰生産物が減耗分を差し引いてもなお残があり、その残を階級内で消費しきらなかった未来志向があり、固定資産即ち生産手段を拡大蓄積した歴史があったはずなのだ。

100はその証である。

減税してその分を投資による固定資産増にすることでも税収は増えるのだ。現代日本の逆構造だが。

 

支配階級には20の剰余生産物が納税されるが、彼らは自家消費専任者集団であり、その消費のうち、食糧以外は、残余食糧所得と非食糧生産物との交換で消費材を仕入れて消費する。

その消費材は、不生産階級によって労働生産された加工変形生産物10と食糧との交換となる。

 

加工変形生産物を生産するには、原料が必要であり、10の原料は生産階級から得る。-10借り状態。

対支配階級に、5の原料と加工賃5で10の価値物を生産する。同様に5の原料と5の加工賃で10の価値物を作り生産階級に代物返済する。2階級に対して、10の原料で10の労賃を付加して10ずつを販売、10は原料費、10は労働力再生産費として得るが食糧消費して終わる。

要は日暮しの労働者としての自営業市民である。

 

こうしてみると、ケネー範式における中世の絶対主義的農本社会でも、生産手段の利用による農業生産で剰余価値生産がなされていたことになり、言い方を変えれば、農業部門だけの部分資本主義、が農本社会の特徴である。

不生産階級に剰余価値生産はない。が、前章の通り、不生産階級の2階級への需要に対して、機械化投資を行うことによる過剰生産により、生産量増=販売量増=所得増が得られる。

資本主義システムへの移行は、しかしながら動的平衡が保たれる単純再生産社会にあっては生まれる余地はない。需要がなければ投資分が欠損金を産むだけになる。

需要拡大、即ち有効需要、即ち閉鎖経済圏では有効需要は増加はしないのだ。

農産物について言えば、人口が停滞していれば生産増の必要がない。仮に機械化投資をしても、輸出できなければ、富裕者と失業者が増えるだけで所得の移転が起きるだけで、ゼロサムである。機械化投資分が負い目になるだけだ。

 

生産力を背景とした国外輸出がどうしても必要になる。特定の産業に独占価格が形成されても、需要は増えず、他の産業を衰退させるだけだ。

要は消費所得の総体が変化しなければゼロサムであり、格差の拡大でしかなく、生産性上でより有効な投資は、労働時間の削減となってあらわれるのであるから、マクロでは需要に変化なければ失業者や生活保護必要者を増やすことと並行することになる。そうでなければ所得は増加し得ない。

資本蓄積は雇用減を一方で作り、その失業者増圧力こそが生産性向上そのものだからである。

また、移転した所得は、その所得との交換を求める労働がなければ、総需要が減退する。

 

ケネー範式での不生産階級は、手工業者の集まりであるが、ここに機械生産を伴う資本家階級による生産システムが入ると多数の失業者(と機械生産労働者)が現れ、過剰生産力のはけ口を国外需要に依存することになる。

不生産階級を代表するのは、絶対主義王制ではなく、生産管理できる資本家グループであり、ここに権力と収益が集中するので、国際的覇権主義が生まれる。また、失業者の処理には、覇権主義の軍隊への徴兵がもたらされることになる。

 

これをも拒否するならば資本は増殖できず、不生産階級が全て資本家の雇用になると、資本主義の発展は止まり、過剰な生産手段が重荷になる。この生産手段投資が債務を負ってなされていたならば衰退は加速する。

絶対主義支配階級には既に上限の農産物生産力があり、税収も一定。

比べて不正産階級は統合が進み資本家と労働者と失業者増に。資本家も対外膨張を考えないと、失業者分の本来所得分を自家消費しないと総販売量が減ることになり、投資できずに自家消費が増えることで没落基調にならざるを得ない。

また、生産階級も絶対主義王制で発展性なく固定するので、この中に機械化による省力化は、同様に失業者を生み、不生産階級に放出され、失業者増となる。この場合、生産階級と不生産階級の区別は必要なく、資本家、労働者、資本家収益分の失業者(資本家自家消費分の雇用は生まれるが)、旧支配階級、の混在した国家となる。

一巡すると投資がないので、金融機関も衰退する。新たな支配階級となった資本家グループを支配の頂点としつつも投資による生産力増に伴う所得増の道がなく、覇権主義的、又は輸出入貿易による所得移転の期待を実現するしか道はない。

 

他国を踏み台にする覇権主義債務超過にさせ紛争になると軍事力を背景に債権回収をはかることになる。国内的には、独占価格での収益維持や労賃の節約=(総賃金の減額=非正規構成増を含む)対策が進むが、それ自体が需要を削減する。

この手を緩めれば矛盾は先送りされるが、暗い新中世となる。社会不安や治安の悪化で所得を守るだけの資本家と、まともな給料もらえるのは一部の正規社員のみで、ほとんどがブラック企業になって企業存続を優先せざるを得ない。

打開策を覇権膨張にせざるを得ないのは中国を見ればわかる。

支配階級とそれ以外、が激しい格差で維持される中世が、

資本家階級とそれ以外の更に激しい格差で維持される新中世となる。

生産階級と支配階級だけの新中世、支配階級の所得の投資がなく、消費だけが失業者を救済するものの、所得を消費しきらない限り、失業者が残る。

 

覇権主義の実行による経済発展か、新中世か、どちらを選ぶかだ。

また、資本家は貿易摩擦により、資本輸出による生産手段投資の国外化による収益を求める。

国内生産手段に投資の意味はなく、補充のみてあり、補充すら行わなければ失業者が溢れ、一方では国外収益だけがある。国内労働者不要論となる。

 

国外戦争を嫌う健全な日本人にとっては、資本輸出を嫌う闘争が求められるし、資本輸出が債権回収不能となろうと、軍事力で回収するのを嫌がるとすると、国内の仕事はなくなる。

国外債権の回収、の仕事が中心になりかねない明日を憂う。

 

資本輸出は、資本の自由ではあり、規制しなくてよいが、外国で再投資するなら勝手にすればよいが、日本に持ち帰る時に、再投資分も収益として高税をかけないと国内に持ち込めないようにしないと。

そして、国内の民間投資には雇用の観点から税制を優遇し保護すべき。そして、輸入品に一定の税をかけて国産=国内投資と国内雇用の補助金として再分配する、要は保護貿易になれば、国内経済は安定化する。アンチリカード政策は、グローバリズムの弊害が高まり、覇権主義がぶつかり合う時代には、自立性経済に投資を官民でやる政策こそが経済を成長させ、国際的地位衝突を決定的にしない策である。

極めて不合理ではあるが、国内の弱体産業を育成した方が良い。なぜなら雇用が奪われないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義を考える-10

・経済学の母、フランソワ・ケネーの経済表範式の資本主義発展による変化モデルの作成へ!

 

ケネーの中世経済システムでは、支配階級の存続をかけた富国強兵の為に、また財政基盤となる税収、即ち農産物増産の為に、

不生産階級の生産性向上による貢献を時代が求めることになる。

これは、単に支配階級ということではなく、歴史的にはその前に絶対主義的という冠詞を伴うのだが。

支配階級は、自らの税収奪維持拡大は支配階級間競争にさらされ、生存競争そのものに支配される。

 

端的にわかりやすく言えば、戦争の道具である武器や武具に欠かせない鉄の加工品を製造する鍛冶屋による増産圧力が常にかかる、ということだ。

しかし相変わらずのその日暮らしの自営業の都市市民でしかない鍛冶屋の自営業的生産では、この需要拡大には、その数を増やすだけでは爆発的需要増には応えられず、生産システム変化需要=資本主義化をもたらすのだ。

 

この需要増が、生産速度、生産量増を求め、まずは自営業所得を総量で増やし、この所得を奪いながら所得集中を産む資本主義的生産システムが有効な生産システムとして導入される。

前章参照のこと。

 

息の長い農機具のレベルアップによる生産収益増より、領主の領地戦争での武器や武具の生産で、より速さと生産量が求められるのであり、支配階級間戦争にとっては資本主義システム導入が階級間の内部対立には至ることはない。

挙国一致、民族主義でこの国体の中で資本主義システムが成長できる根拠がある。

 

国債発行して負債を負っても生き残りをかけた需要増に沿った生産活動が求められるのだ。

戦争は、製鉄加工技術を育てながら資本主義的生産システムも並行して育てる、需要増の母になる。

消耗し追加生産が求められる。武器商人は最も儲かるのだ。関連産業も伸びる。

自国でなく他国への武器、武具販売なら、リスクは債権がチャラにならないように戦勝国にのみ販売することが求められることになる。しかし、戦争はどちらが勝つかわからない。リスクヘッジとしては、両国に債権を作るしかない。又は、債権の多い側に付いて参戦することだ。第二次大戦は、イギリスへの債権保護の為にアメリカは連合国としてイギリス側で参戦した。ドイツ債権は少なかったはずだ。その間、アメリカは生産力を増し、富を蓄積した。

 

中世では、支配階級は近隣領主間の領土戦にさらされる。土地本位制、農本主義だったから、土地=生産手段である。生産手段の争奪戦である。

武器の大量生産を求める為に、単なる消費材としての武器製造を、資本主義的な工場制の機械を主たる生産手段とする機械操作労働に転換していく。

ここでの需要を満たす所得は、税であり、税の前借りである国債の発行であり、国家貨幣鋳造の悪化によるインフレ政策などで必要分が賄われる。

 

この所得の消費により、機械製造労働が誘発されて武器の生産性は上がり、また消耗も激しいので、更に需要が続くし拡大する。

この需要を支えるのは、もう多数の鍛冶屋、ではない。

生産性の高い工場生産により、需要の大半を賄うと、鍛冶屋労働の需要による労働所得をマーケットから収奪する資本家による工場生産が生産所得を集中して受け取ることになる。資本が増殖できる。

増殖資本は生産手段投資と失業労働者雇用という資本家消費を誘発する。

 

中世の戦時には、自営業生産の資本主義化は、支配階級のニーズでもある。支配階級の生き残りには、鉄の加工消耗品の資本主義的生産システム導入は必須であり、平時の民間資本が不十分であれば、国家が自ら資本主義生産システムを実行するほどである。

しかし、材料調達や輸送など周辺環境が民間で育っていないと、後発組は暴力的な資源調達など侵略戦争になりがちで、敗戦につながりやすいが。=日本。

ということは、資本主義が主流の価値観なのか、領主の絶対主義の価値観なのか、後者の国体のまま資本主義システムを入れようとすると、国家資本主義にしかならず、国体は中世の王制のまま、生産経済システムだけが資本主義、しかも育っていないから総生産力は低く軍需生産のみが資本主義的に突出するいびつな政体ができあがる場合もある。

 

要は、トラクター生産もないところで戦車を生産する、車もほとんどない社会で戦闘機を生産する、などだ。

経済基盤がない中では自ずと力量不足の精神主義になりがちだ。

絶対主義での資本主義、市場未成熟、政治体制が絶対主義で合理的な生産消費交換システム、では自ずと矛盾と無理があり、崩壊した旧社会主義国に典型的であるし、後発絶対主義国家で資本主義導入国であり、戦前の日本は絶対主義的天皇制であり、国体は絶対主義、資本主義導入はあるという程度の未成熟国であったと言えるだろう。

 

話を戻して、本題に移る。

マルクスは資本主義のミクロ解析段階が主である。

しかしケネーの経済表範式を学び、賞賛し刺激されて再生産表式を表すに至っていて、この後に命が尽きてしまった。

これはマクロ分析であり、ここが不十分なのだ。

 

この後は国体論や階級論を除き数学的に偏った片肺の経済学としてソ連モスクワ大学卒のレオンチェフにひきつがれて国民経済計算即ちGDP理論が確立されアメリカで採用、その後は世界の国の経済運営の理論になってはいるが、国体分析=政治システムには対応していない分析のみの理論的に矮小化された経済学となっていて、マルクス的な壮大な歴史的改革的価値観や影響力はない。

資本主義未成熟な後進国社会主義=20世紀に破綻。

歴史観や方向性ない応用数学ミクロ経済学主体の近代経済学、では資本主義発展から衰退、発展後資本主義の先、は見通しがないのだ。

 

そして最大のテーマは、資本主義の成熟とその後のケネー式モデル作りに進みたい。

ここには、勿論数学的合理性は求められるものの、国体論や階級論を包含するものでなければならない。

この間の分析からは、国体論や階級論を歴史的に考察しないと資本主義の発生メカニズムは分からなかったはずだ。

不生産階級の資本家と労働者階級への階級分化による生産手段の高度化による生産性向上ニーズが資本主義の発生動機であるのだから。

資本主義の発生は、この間の章の積み重ねでざっとではあるが手応えを持って掴めた感がある。

資本主義は絶対主義的農本主義体制の母体から、その一部を発達させ必要性を持って変化して生まれた。これが成長して母体の大半、からほぼ全体が変化する、そして母体が資本主義となった時に、その母体の一部から変化して何かが生まれるはずだ。

弁証法そのものである。

 

次章から検討する。