資本主義を考える-9

・ケネーに戻ろう!

経済表範式での、生産階級=農奴は、50の生産物のうち、20を年前払いとしての農業生産で経費支出=中間消費=農奴の食糧や種もみなど。

10を原前払いとして固定資産減耗費して、

要は30を中間消費して50の生産物を生産する。

20の余剰生産物は支配階級に収奪納税される。

これは、50の生産物=所得のうち20は、支配階級に所得移転している。

本来なら、生産階級の最終消費の為の労働所得を収奪し、生産階級に代わって支配階級が最終消費しようとしているものである。

支配階級がいないと、より強い他の支配階級の支配をうけるだけであるのだが。

農民一揆で支配階級を倒して生産階級が権力を奪ってもより強い他の支配階級との戦争となり、敗北確率は高い。にわか作りで専門性もない。

社会主義国は、一揆政権が70年続いたものの、資本主義最強国により敗北した。これが20世紀のエポックであった。資本主義後進国でケネーの示した国体で言えば、不生産階級による資本主義化の遅れた後発資本主義国による一揆であった、という限界があるが、何より資本主義発展後の新中世国体が描けないと、下克上となるだけで、誰が支配者になろうと、その顔が変わるだけに終わる。国王の顔を変えても、国体が有効に有益に変化するものでなければ、不幸は持続するだけになる。資本主義の終焉は取って代わる世界が科学的に描ける必要がある。

本人が社会主義国を名乗っても、例えば北朝鮮は中世の国体で資本主義は未発達、単なるできの悪い中世王朝の変種でしかない。

話が逸れたので戻す。

 

ところが、この収奪した20の所得は、本来なら生産階級内の扶養家族を、都市に放出することにより得たもの、とも考えられる。都市に放出された人々は、生産階級の生産物以外の生産物生産労働又はサービス労働につくことにより、支配階級から10、生産階級から10の需要を満たす所得移転労働につく。

この労働につけないものは、死ぬか物乞いになるか盗賊となって他人の所得から収奪するかしかない。不生産階級の人口は、これで調整される。

 

対生産階級に対しては、固定資産減耗費分の補填労働、即ち鋤や鍬の減耗補填や穀物倉庫や荷車、馬車、農奴や借地農経営者の家や家具、家財や衣服、作業着など、農産物以外の生産労働に移転した20のうちの10、即ち非食糧分をその有効需要の範囲で所得移転する。

不生産階級は、都市に追い出された元、生産階級である。

対支配階級に対しては、城の補修や特注の家具や内装、美術品や、仕立て屋、馬具や荷車、馬車、武器などの鍛冶屋、貴金属装飾品などの物的生産労働、

これらを流通する運送や商人、場合により金貸し金融業、などの労働に10、

計20の所得移転を労働により得るのだ。

要は支配階級の需要、生産階級の需要に対して10ずつの20の所得移転有効需要労働を行うことで、生産階級の再生産活動による生産量20と、減耗費補填分の10の合計30の需要のうち、

支配階級は、10を自家最終消費、10は所得移転して不生産階級の労働時間価値生産物と交換して、不生産階級が移転所得分を最終消費、主に食糧を指す。

生産階級の減耗費10を不生産階級の労働時間生産物と交換して生産階級は最終消費、不生産階級に移転した所得は、自らの階級の人口維持食糧以外の、原料や生産手段の道具の減耗費補填や、自らの非食品生活必需品需要補填に最終消費されるのである。

不生産階級は、20を生産して20の所得を逆方向に所得移転し、その20を最終消費している。

この間、現物経済で表現しているが、実際は既に貨幣を使用している。貨幣なしでは流通にならないから。所得の移転の逆方向に貨幣は動き流通をスムーズにするだけで、貨幣はこの話では省略する。

生産階級は50を生産し、30を最終消費、

支配階級は、20を最終消費、

不生産階級は、20を生産し20を最終消費する。

マクロのトータルでは、70が生産される

内訳は、生産階級が50、不生産階級が20、

この生産物を

支配階級が20、不生産階級が20、生産階級が30を最終消費する。

 

日本の江戸時代、フランスのルイ王朝とも符合する歴史的な中世の高度な普遍的な国体経済モデルである、と言える。

ここで、この中世の農本主義を評価すると、動的平衡状態が維持され、単純再生産の国体モデルが描ける。しかし、この国体にせず、島国のような平和が維持される社会であり、強い支配階級を必要とせず、無階級社会で人口維持の生産力だけでよければ、50の生産力で50の総人口需要を賄うことも可能だ。

しかし、生産階級では、固定資産が減耗10して50の生産力があり、この減耗費分はやはり補填生産が必要になる。これは、固定資産=生産手段を人力のみでなく、減耗道具の必要性を前提とした生産性である、鎌や鋤や鍬を減耗分生産しなければならず、その為の奴隷的労働提供が農奴生産と別途に使われているのだから、中世の国家経済モデルは合理的に高度である。

資本主義生産、即ち不生産階級による農具の高度化、や支配階級の戦争による生産領地の保護や拡大の為の武具や兵器の生産を最大化する為の、不生産階級の資本主義化が国体の中で求められ、資本主義萌芽の必然性があるのだ。

 

やはり、支配階級の武装、領地戦争と生産階級の農具の生産性向上、が人口増加=不生産階級増加と支配階級の所得を増やす=武装力に鍛冶屋の発展形や科学技術の進歩が不生産階級に大きな変化を求め、資本主義社会へと繋がるのだ。

 

わかりやすく言えば、鉄の加工力や利用度の向上により、強力な農機具や地下資源採掘力が得られ、農業生産力が上がり、人口が増え、武器が量産される。

富国強兵策をとることができる。

高い生産性は、豊かな不生産階級をももたらし、文化も向上し、愛国的な都市市民を醸成する。

ブラック企業ばかりの世の中では、見えないところで生産をサボりたくなる、当然の結果を生む。(^^)

 

 

 

資本主義を考える-8

・結局のところ、科学技術進歩としての生産手段の主に機械化による圧倒的な生産力により資本主義生産システム導入にいたる。

 

道具使用労働=生産手段を私的所有している自営業者労働は、もちろん、その中で使用道具の優劣や努力即ち労働時間の長時間競争はあったわけで、生産力の差、即ち労働所得の差即ち貧富の差は存在していたのだ。

貧富の差とは労働所得の差であり消費力の差である。

 

生産労働は、素手で労働集約的に家内労働レベルで生産していた時代でも、生産活動には道具程度は使用していた。

しかし人間労働が生産手段の大半を占めていたとはいえ、道具を製造して生産手段の一部に加える為の労働時間は必要であったはずだ。

道具はすぐには消耗せず、少しずつ消耗して労働と結合した道具使用労働が生産手段であったわけだ。

 

生産手段=道具減耗+労働時間、の結合労働時間である。

道具減耗とは、減耗分の道具製造労働時間そのものである。これに道具の原料生産に労働時間を要するなら道具製造労働時間に原料生産労働時間が加算されるだけだ。労働価値説の通りである。

 

例えば、素潜り漁で手づかみで魚をとる労働に代えて、木の枝を削ってモリを作って魚突きで魚をとる場合と比較して、単位時間例えば4時間/日の素潜り漁が限界とすると、4時間手づかみ漁で頑張るか、その内1時間かけて木の枝削ってモリを作り、3時間のモリ突き漁をやることで、漁獲量が多ければ道具使用労働の効果があり、この漁のスタイル、即ち生産手段を人間労働のみ、と比較してより有効な

モリ製造労働時間+モリ使用魚突き漁労働時間にした方が生産量が多いのである。

1時間で作ったモリ製造労働時間で3日の魚突き漁が可能で道具が壊れるのなら、1/3の減耗量労働時間がモリ製造労働時間なのだ。

 

機械との結合労働による生産活動は、機械の減耗費と操作労働時間が生産コストになるのだが、道具利用の生産活動より短時間生産が可能になる。

しかし、道具使用労働が、機械操作労働によって取って代わられると圧倒的な短時間生産化が可能となり、その生産力で自ら平均的な8労働時間を行なえば、何倍もの生産量が得られることで質的にことなる労働所得を実現することが可能となり、自らが労働せずに他人を労働力を商品として雇用してもなお自らの消費生活を可能にすることができる所得を得る自営業者となることができる。

これで初めて資本主義的生産が可能となるのだ。

 

それは一方で生産過剰となる圧倒的な生産力で、他の自営業者の生産物販売を阻害し自営業を放棄せざるを得ない低所得化に追い込み、生産活動を放棄させ失業者を作ることで雇用に応じる賃金労働者も得ることと表裏一体なのである。

 

資本主義的生産をしたくても、自らに代わって労働する賃金労働者が生産されなければ、ただただ

「豊かな消費力を裏付ける所得を獲得した自営業者が現れる」というだけである。

その結果として、富を持つもの=生産手段を所有する者と労働力を商品として交換に差し出す者に二極化するのだが、また、生産物やサービスを消費するのも労働者であり資本家であるのだ。

だが、資本家の消費は生産財生産と多少旺盛な自家消費でしかなく、生産財生産と消費の比率が上昇する。

 

失業者は自殺して総生産、総消費とも失いマクロ経済の規模を縮小する道を選択することも可能だが、機械使用自営業者に移行した生産所得は、自家消費か資本主義生産投資消費される為、その生産活動に労働力商品として自ら販売する=雇用されるか、自家消費の為の交換用消費材生産労働をやるか、サービス労働=召使い労働として雇用されるか、何れかを選択して、所得の消費との交換労働につくことになる。

ここで、機械や原料生産に業種転換した者は自営業者としての独立性を保てるが、機械導入自営業者の減耗費と労賃を除く所得に依存する雇用生産労働者とサービス労働者は、その依存性から労働者階級として格差のレベルを超えた支配、被支配の関係になる。労働者階級内では、雇用による生き残りをかけた非失業競争が繰り広げられることになる。

 

資本家が平均的な生活消費を超えて豪奢な消費材やサービスを好むのであれば、その生産やサービスを、資本家間競争を求めるのであれば、新たなより強力な生産手段生産労働に、また、過剰な生産物をより早く資本化する為の営業販売サービス部門や、資本家の所得をより増殖するための金融投資部門のサービス労働者に雇用されるのである。

 

帰結は、独占資本の形成であり、それ以外は途中段階での資本家、自営業者は何れは労働者階級となる。

資本主義の本質は、労働者階級がほとんどである階級社会を作る経済活動である、とも言える。

資本主義化とは、階級社会作りの活動としての深刻な側面を持つ。

 

・詰まる所、資本主義導入と発展は、失業者を作りながら、これを賃金労働者として資本の運用体系に雇用することになる。

 

失業者がいなければ、例えばある地域に自給自足で生きていて、それがたとえ多少不便で貧しくとも生活が自立して暮らせて、本人達が満足しているのであれば、あえて自らを商品化して時間売り労働する必要はないのだ。

自らの需要分を自らの労働によって生産供給しているのだから。

社会進歩=科学技術力利用生産で格差を作り、自営業者を没落させて賃金労働者を生み出すことに使うことで、支配、被支配の階級分化に帰結させるのが資本主義のシステムである。

 

しかし、生産手段生産までもを含む社会の全てが資本主義生産体系になったとき、それは資本家間の競争がなくなった時、であり完成した資本主義生産システムは拡大できずにその進歩を止める。止まる。

 

それは、もう没落する自営業者=独立生産単位や没落する資本家がもう残されておらず供給されないのだ。新たなフロンティアが資本主義市場に組み入れられなくなった時、世界は閉鎖経済となり、資本主義社会の終焉となる。

そして、支配と被支配の階級構造だけが残ったまま停滞する。単純再生産だけの新中世の時代となる。

 

もし、資本増殖が止まり、生産手段への投資という形での資本家消費がなくなれば、既存の償却資産分の再投資のみとなり、資本は増殖できない。

 

資本家は投資手段を失うので、自家消費しか所得の使い道がなくなる。

資本家の自家消費分の生産労働がおこなわれればうまく経済循環するが、不労所得を消費するだけの豊かな暮らしをする人、とその人の為に生産労働又はサービス労働労働する人がいる、というだけの社会になる。

これは、ケネーの経済表範式で描かれた循環経済社会で、農民の位置に労働者階級がはまる、だけである。

新中世の単純再生産社会が出現するのだ。

 

これを打ち破るには、資本家間競争の果てしない闘争の中で、資本家はグローバリズムにより、国家障壁をも壊しながら資本を輸出し、生産、消費市場を拡大しようとすることになる。

資本主義は、閉鎖経済ではなく、常に閉鎖を打ち破って倒すべき閉鎖経済の社会的存在を否定しなければ所得の拡大を産めないシステムであり、所得拡大を目的としたシステムであり、本質はグローバリズムである。

 

世界が市場となり、世界のどこでも生産が可能になり、最低コストの賃金生産や原料確保が可能になり、貿易が自由化され、市場が開放されこれ以上の生産性向上を求めることがもう不可能になると、

即ちこのグローバリズムが一巡すると、利潤は拡大出来ず、中世化した単純再生産社会となる。

 

現代社会は、グローバリズムによる資本の増殖収益に限界が現れ始めている状態である。

 

産業を飛躍的に発展させる技術革新があれば復活できるし、ITのように、生産の必要コストを削減する技術革新も有効ではあるが、省力化としてマイナスを減らすだけであり、プラスにはならないから限界もある。失業者を産むだけで、生産はしないから。

 

失業者を減らす仕事は、つねに資本増殖の為の仕事しかない。それは需要が資本増殖でのみ発生する階級社会となった結果である。

これ以上の資本増殖に健全な投資=資本主義的生産の為の就労環境が必要なく、自家消費にも限界があるほどに所得が資本の側に偏在しているからである。

 

この環境での、資本増殖は、労賃総額の支払い低下でしか得られず、結果はデフレ=需要不足のマクロ構造を生み出す。

投資の減退を産む資本の集中化の中で、資本は自家消費をも減らせば、死蔵する分がデフレの根源となる。これに実質賃金の低下が伴えば更にデフレが加速する。

 

資本は死蔵せず国外に持ち出されても同じである。

国外に資本輸出されれば、生産活動がより賃金の低い国外で行われるから、生産物の製造単価は下がり、市場占有率は上がる。

資本の生産手段と結合する国内労働が減るので、国内総労働所得は減るが、輸入商品が安価になる、という関係だ。

資本は国内からではなく国外で投資所得を得て、再投資に使われる。

で、国内には対外債権増殖がカウントされる。

 

グローバリズムの行き先について次章でさらに考察したいが、国内では新中世化して支配被支配の関係を残しつつ、資本輸出の資金源として、国内労賃を下げれる限界まで下げる。

これができるのは、国内での資本間競争が飽和し停滞していることにもよる。

労働者階級が結束して賃上げ要求するなら、移民労働者を国内に導入することになる。

反作用は、民族主義者が政権に登壇することになる。日本のグローバリズムは、この前段階である。

 

資本主義を考える-7

・資本主義の発生過程を細かく考えた。

資本主義の発生の根拠は、生産手段の機械化、差別化による生産性向上で得られる労働時間短縮=人間労働主体の生産手段の機械操作労働への転化による短時間労働化による。

これは、(機械減耗費+操作労働)<人間労働費(+道具)

/単位労働時間

が得られる技術革新が得られ、自営業者的生産者の没落による雇用労働者の発生とその雇用、が実現するとき、である。

 

・では、資本主義の終焉とはどのようなものか?

この資本主義生産が閉鎖経済で行き着くと、即ち、生産財生産の資本主義生産化と独占資本、又はカルテルを伴う寡占資本、となった時、投資先がななると、国内の固定資産減耗分の補充投資のみで良くなり、資本家は自家消費分の生産労働者を雇用することで格差を伴ったまま固定し、ゼロ金利社会となり活力を失った新中世となる。

文化、技術も停滞する。

国外からの侵略がなければ、和の思想の普及があれば、格差是正の思想があれば、民主主義思想があり実践されれば、国家社会の発展動機は経済から倫理に移るのかもしれない。

侵略行為ない平和が恒久的であり、金利ゼロ社会で克服すべきデフレが収まるなら、失業者がゼロ、なら、格差に強い相続税がかけられるなら、より厳しく言うなら、私的生産手段の公有化又は協同組合化が進行するなら、資本主義に代わって共産主義=コムニスの共同化社会となる。

歴史上に失敗した社会主義という独裁的陰謀国家の汚名を返上して。

 

しかし長い道のりではある。日本、スイスはかなり近い位置にいる。

日本は小資源国、必要な輸入分は輸出が欲しいが輸出は国外労働者の失業や産業成長阻害となる為、進歩と共に弱くなる。それを見込んだ自立経済は不効率だがやらざるを得ない。エネルギー資源輸入を減らす工夫は長期的投資課題だ。

 

ちなみにスイスの小売スーパーの1/2は、協同組合である。

イギリスのロッチデール公正開拓者組合に端を発する協同組合は、世界の協同組合の先祖である。

スペインのモンドラゴン生産協同組合など、ヨーロッパには先進例も多い。

残念だが、国際ルールは欧米人の先駆者の知恵を学ぶことから始めるべきであり、キリスト教宗教価値観でのヒューマニズムも拝金主義レベルで否定すべきでもない。

日本は、資本主義的階級社会のまま、資本主義発展がデフレにより停止、又は後退していることに問題の本質がある。

資本家が国内で資本主義生産を縮小する限りにおいて、この階級維持には無理があり、サービス労働者は雇用ではない生き方=自営業者への先祖がえり、即ち大型投資を伴わない生産手段レベルでの私的生産への道も開けるのだ。

できれば、資本家をリコールして生産手段を共同化リースして労働者の選挙により企業運営する生産協同組合の道も開かれるのではないか?

資本主義を考える-6

・これまでの叙述をトータルするとどうか?

 

都市自営業者の平面的な均質的均衡経済社会は、それは自らの道具程度の生産手段により、自らの労働を生産手段とする生産物を分業という形で市場で自らの労働分との等価であたかも自らが全てを労働によって得たように、しかも分業による生産性を取り込んだ生産物同士を交換によって入手して消費するのだ。

 

しかし、本来なら労働時間短縮や労働強度の縮小を目的とすべき生産性の向上に伴い、特に生産手段が人力主体労働から機械力主体の機械操作労働に変化することで、大量生産が可能になり、自営業者は労働力という自らを時間売りする商品として資本と交換することで雇用労働者になり、賃金を維持して生存することになる。労働力の商品化が進行したのである。

 

賃金は生産量には比例せず一定したままとなる。

同時に同産業の自営業者を没落させ、一方で機械や原料生産の他産業労働にシフトするが、その需要には限界があり、蓄積資本に依存する言わばサービス労働者という生産業労働者に変わる部分が必ず発生する。自営業者から没落した労働者にあれば、生き残りの為のやむを得ない選択である。

 

サービス労働者の量は蓄積される資本の量に比例して増加する。

資本が資本主義活動=生産性向上の(機械)投資も自家消費もせず、将来不安に備えた死蔵貯蓄として銀行も運用先需要を満たせなくなると、デフレとなる。

経済のマクロ的縮小である。

デフレは単に貨幣現象ではない。

経済発展時に貨幣需要が生産力増加に追いつかない場合に金本位制が維持されることとは異なるのだ。管理貨幣時代のデフレは明らかに需要不足であり、解決の方法も、供給力縮小を一気に行うことか、ケインズ流に将来の債務と引き換えに需要を創出するかであるが、前者は労働力のみを商品とする労働者の失業と引き換えになるわけで、暴動や革命により資産保有者の所得に違法に群がる行為が横行する。その両方を中途半端にしたまま、高度成長期の所得に依存して若年労働者を低賃金にして人口を減らすままにしているのが現代日本である。

 

没落自営業者分の富を資本主義的生産を支配する資本家は得ることになり、これが原始的資本となり、この流れは加速拡大する。

 

資本家とそれ以外の賃金労働者、残った自営業者との経済格差は広がり、消費の主体自体が自営業者から資本家に移行する。

 

資本家は豪勢な自家消費か、投資という消費を、即ち消費の中身を規定するのだ。

資本間競争がある場合には、資本家も自家消費をほどほどにせざるを得ない。

自営業者は、消費材生産生産者から、生産財生産自営業者へ転身するか、資本家の自家消費の為のサービス労働者=実質召使い、となるか、資本家による資本主義生産の直接雇用労働者になるか、しかなく、生産財自営業者に転身しても、いずれは資本家と雇用労働者とサービス労働者に分化するので、また資本家間競争により資本は集中するので、競争に敗れた資本家も自営業者を経て労働者に没落する。

 

・こうして、選挙による民主主義的議会制度による国家運営のレベルにあっても、生産労働者とサービス労働者による労働者国家が資本階級支配のもとに存在する社会が成長する。

資本支配とは、資本と労働時間を販売交換し、生産手段の操作労働と、資本の要請に基づく生産、サービス、召使い労働により失業を免れるまとめて労働者階級による国家運営がなされる。

 

こうして多数のサービス労働者が登場して、所得を集中できる優れた?資本家の為の投資や消費を生存賃金で支える大量の労働者階級が生まれることになる。

資本家が資本増殖競争に励むなら、生産性向上の部門即ち投資対象の事業即ち機械や生産財生産雇用に振り向けられて失業者が減る。また、このことで常に過剰生産と販売競争が行われ、資本家が選別され一方で没落する。

しかも、この時代は、資本家間の生き残り競争でもあるので自家消費は少ない。サービス労働者は、販売競争で雇用され、ある意味健全で召使い労働は少ない。

閉鎖経済で競争がなくなるなら、王となった資本家の豪奢な自家消費の為の消費材生産や召使い等のサービス労働に、生活の糧を求めて雇用してもらうか、資本家ニーズの消費材生産労働が発生する。

 

企業内に貯蓄して投資しなければ、銀行預金となり銀行に貸せない預金が増加してだぶつく。銀行は淘汰される。何も投資しないで現金保管していることが許される競争の少ない状況にあって、投資資金を集めて金利を稼ぐ条件と存在価値がないのである。

 

投資不足とは発展性喪失と同義である。

グローバリズムで、海外に下請け工場を作り、投資資金を海外に求めれば、海外の下請け工場に雇用が発生して見返りのGNPが稼げるが、これには国内の大量の労働者の雇用が犠牲になるので、稼いだ所得が税収として国民に還元されなければ税収は不足し、国家としてはGDPを犠牲にすることになる。

国民は豊かになるどころか、税収不足と引き換えに増税を求められることになる。

ここに自国民第一主義、高給の仕事を!我々の労賃を跳ねて、それを国外の低賃金労働者雇用に向けて収益を資本家が得るシステムに=アンチグローバリズム要求が政治的に出るか出ないかは、労働者階級の自覚性と民主主義の普及度の問題である。

イギリス、アメリカ、ヨーロッパの一部、にうねりとなってアンチグローバリズムが潮流となる根拠がここにはある。

 

資本主義を考える-5

・パン製造業が独占段階になると、競争もなくなるから、他産業の資本主義化に資本が向けられる。

 

2つの流れが考えられるが、

まずは、他産業の、例えば機械製造や原料製造業を資本主義化することだ。資本を他産業に持ち出すことでパン製造業の時と同じ効果と発展が期待できる。

気づけば、サービス業従事労働者ばかりが目立つ。

何故なら、もう一つの流れが、機械製造業の資本主義化で更にここの自営業者はなくなり、人が他産業に移行する。原料採取労働にツルハシを使う気の荒い労働者がわんさかある時代から、見れば大型の機械装置だけが無人で動くような世界が広がり、ほとんどの経費から労賃がなくなり、減耗費のみに近い経費構造になる。

技術革新や新産業発生がなければ、資本主義は停滞して金利もゼロになる。

ただし、新産業の発生は、既存産業の衰退との入れ替えであり、多くは製造経費減を伴うために、ゼロサムであり、サービス労働者の増加を産む変化で終わる。

需要が増えるのは新規市場が開拓されるか=輸出先開拓、国内人口が増えるか、のみである。又は移民の導入による労働者と=消費者の拡大か、これも国内人口増と同義である。

又は技術革新か、いずれかがないと停滞して、資本主義は単なる支配制度の維持でしかなくなる。

不動、不変と言う意味ではなく、総需要は変化せず、ただ、内容や種類が変化するだけになる。

パンの代わりに、ケーキが提供されるが、総購買力は変わらないので、パンが減りケーキが増え、トータルは不変となる。

資本主義を考える-4

・3で、20人の自営業者生産が16人の生産になり、2人は機械製造と原料採取労働に移行し、2人は資本家に雇用される労働者と資本家の召使い労働者とに移行した。

要は直接のこの産業の生産者ではなくなった4人ー1=3人と、消費だけして労働しない資本家とに分化した。

 

この自営業者の生産するものを、例として食パンとして、160個の需要がある閉鎖市場を想定する。

 

20人の自営業者=パン製造業者は8本/日生産して、自分が1本自家消費しても、8本を出荷して自分が8000円の販売所得を得て、その中から1000円で市場から1本を買って消費しようと構わない。

 

市場の人口は、全員がパンのみを主食とするとして、160人で構成され、20人はパン以外に7000円の消費=市場からの購買をして生活している。=他の消費材を交換用に生産している。

160人×8000円=1280000円が総消費であり、総生産であることになる。

そのうちのパンは、160×1000=160000円である。

パン以外の総消費は、=112万。

 

・話を戻して次に進める。

資本主義的生産は、他の自営業者にも伝わり、残りの16人にも適用される。

初めは、

資本家1

資本家雇用労働者1

資本家召使い労働者1

機械原料自営業者2

既存自営業者15人

が、

資本家4

資本家雇用労働者4

資本家召使い労働者4

機械原料自営業者8

となり、既存の自営業者は壊滅する。パン製造業者は4資本主義的生産者のみとなって落ち着く。

 

実際には、この場合も、前のスタート段階も一旦は過剰生産となり、時間をかけて落ち着く。

この場合も4業者以上が資本主義化して過剰生産となり、操業時間短縮や販売経費、コストをかけて資本回収を早めることで優劣がつく。ミクロ的には、販売や市場での競争が発生して、召使い労働を雇用する余裕はなく、営業販売コストに消えていくと考えた方がより現実的である。

また、4業者は、先行して資本主義化した業者の規模の拡大により条件が良く、実際には資本家数はより少なく、最悪は独占状態、即ち資本家1で他の資本家は、サービス労働者に没落する。寡占の段階もあるが、独占禁止法なければ独占資本主義化は免れない。

資本家1

資本家雇用製造労働者4

資本家召使い労働者又は失業を経て他産業労働者7

機械原料自営業者8

他産業労働者となる場合も、資本家に所得が集中するので、資本家の需要=資本家自家消費材又は資本家の投資需要労働に、いずれにせよ他産業に従事することになる。資本家1人で、もうパンは1つ以上必要はないからだ。競争ある場合は販売競争に動員されるが、独占になれば、少なくともパンの販売競争への動員は不要となる。他の産業に移行する。

資本家が現在のように個人ではなく機関投資家だったりすれば、企業が貯蓄すれば、失業又は総賃金が貯蓄分は抑制されることになる。

銀行の間接金融も、借りてがいなければそうなるが、現代日本はこのパターンだ。

 

 

 

 

資本主義を考える-1

・社会的な需要総体は、社会的な分業的生産労働総体により得られる生産物の範囲から満たされる。

需要は、労働生産物から得られる生産物だけで無くサービスも含まれる。サービス労働需要もある、労働が価値を作るのだから。

 

レストランで食事を注文、商品としてのステーキを買うも、雇っている家政婦に原料の肉を買わせて作らせる、かたや商品購入、かたやサービス労賃、原料を調理労働して出てくるステーキに対価を払う意味では同じ需要である。

 

・満たされる需要は、生産労働生産物又はサービス労働の範囲でしか満たされない。空気や水などのように自然に労働を伴わずに得られるものには、需要はあるが、供給労働による賃金所得対価を支払う必要はない。

このことは労働によってのみ価値が生産される、ということでもある。労働価値説を基盤として考えることになる。

需要を超える超過労働があれば、生産物が余剰生産物として残ることになる。超過労働が超過生産となると、超過分の賃金プラスがあれば、市場でプラスの労働所得分の購買が可能となるので、需要さえあれば総生産と総需要は拡大して均衡する。

この場合、超過労働により生産物は過剰に生産されるが、超過労働による労働所得で超過生産物を買うことができる。残業代で給料が増えたんで、その分の購買力が増えて、間接的にでも消費は増える。

経済規模GD Pは拡大するのだ。貯蓄にまわさなければ、ではあるが。

 

ここで、有効需要を生産労働価値又は生産労働所得との等価交換により得られる需要、と定義すると、債務を伴わずに得られる有効需要は、生産労働所得の中から、その範囲で満たされることになる。

 

・集団社会では、生産は分業で行われ、需要は流通過程を経て総需要となる。

もし、過剰生産分の需要がない場合は、在庫として次期生産が縮小するから、生産労働は他の需要の為の労働に分業移転する。所詮、需要は生産力に規定されるのだ。

いよいよ資本主義的生産に移行すべき時期が来た。次章はこの前段階に踏み込む。