経済を考える9-2

もう一度原点に戻って考えてみよう

 

石炭の露天掘りで。

暖房需要と、蒸気機関エネルギー源需要で、露天掘り可能な場所での石炭を、生産して市場に持ち込む労働を考えてみよう。

100人の労働者を雇って、ツルハシ、シャベルで掘ってもっこで運び、集積場に集めて馬車で市場に運んで商品としてとして販売、投下資本を回収する。

 

この仕事を支えるのは、市場のより安価な石炭エネルギーを求める消費需要であり、この需要量が安定しているとすると、この需要を満たす露天掘り産業が複数できて需要と供給が均衡する。この時点で、単純再生産が維持される。

 

1年の単位で考えて、100人の労働者で1日100トンを生産できるとしよう。労働者の賃金、ツルハシ、シャベルともっこの消費額、採掘国有地の賃借料、馬車の維持費以降は、商人資本によるとして、石炭生産業自体が再生産できるか、ということでいうと、かかった経費の合計で販売できれば、不生産階級レベルの協同作業といえる。小さな社会主義世界だが、技術革新のインセンティブは働かない。

ここで販売価格は、商人の経費を上乗せするが、

賃金と道具の消耗品費用、賃借料などが商人への販売額と同等であればこの石炭産業は継続する。生活費を必要とする労働者がいる限り。

ここで、儲けを考える産業資本家がいて、そもそもこの動機が産業新規参入の動機なのだが、労働者の数を減らして、90人の労働者で1日100トンの生産を行うことを強いて、同額の、即ち100人で生産していたのと同じ生産量を可能にしたとすると、消耗品代や地代は固定費として残るが、商人への販売額は同じなので、10人分の賃金が剰余価値として産業資本家の手に入る。これも剰余価値だ。ただし、この剰余価値は労働者の賃金からの収奪であり、マルクス主義的な反抗の根拠となる型の剰余価値であり、略奪型である。労働者が退職しない程度のボーナスを剰余価値から部分投入してごまかすとしても。

問題は、どうやって100人を90人で済むようにしたかだが、1人あたりの労働時間を100/90時間、即ち1.11倍に伸ばして1人分の賃金しか払わないという労働強化による場合、産業資本家による10人分の賃金分の90人の超過労働させられた労働者からの略奪である。これは階級的な力関係による実行だから、90人の不払い賃金の割増分の返還請求権が発生し、民主主義国家なら労使協議、又は労使紛争を裁判も含む争議になる。日本はブラック企業の横行を許しており、労組も崩壊している無権利的な国家となっており、労働協約を労使で共に破っている珍しい先進国である。階級関係に卑屈な面もある。しかしここでの対立を激化させれば、益々労働者を海外に依存する悲しい結果をもたらすことを労働者が認識している面もある。が、人権軽視だし支配者に甘い。この甘さは資本の側がグローバル化すると露呈する。

 

話はそれたが、当初はこれで資本蓄積するが、それが続くかどうかだ。現代でもこの要素の比率の高い部分は残されてはいるが、もしこれだけなら革命の成功で解決する課題ではあり、これが資本主義の本質だとマルクスは考えたように見える。

が、一方で、そこで得た剰余価値と同額の露天掘り機を導入して、もし、その分の機械の減価償却と機械のエネルギー代の合計の金額が、10人分の賃金に相当する費用支出を伴うとして10人の首切りで10人の生産分と等価として導入すると、労働強化を伴わないで剰余価値は出ないが再生産が継続することになるから、争議の対象にならない。機械の導入自体が問題なのではない。ラッダイト運動は、この点では当たらない。

首を切られた10人の労働者は、機械製造業の労働者需要が発生するから、間接的に失業しなくて済む。それはこの企業が内部に石炭用機械製造部門を持つか外部かの違いでしかない。

この場合の経営者は、3k仕事の機械への代替と逆に喜ばれるかもしれない。矛盾はないからだ。しかし、温情は他社に遅れをとる。

 

実は労賃は意外に安く、機械とエネルギーは意外に高い。この時期を過ぎて、機械の能力が上がり、機械の価格も低下すると、10人分の労賃の価格で機械とエネルギー代金の合計が、20人分の労働者の生産力と同等になったとしよう。20人の首が切られ、80人の労働強化なしで100トンの生産量が得られる。

 

すると労働者には損害請求権は発生しないで、経営者は無理なく剰余価値を得られるのだ。これが資本主義の本質的優位性なのだ。剰余価値販売促進費に使えば市場流通を独占でき、石炭産業界でのシェアを上げられ、需要の大半を占め生産を独占でき、剰余価値を独占的に生産し続けられる。ただし、競合他社が同じ機械を導入しないことが前提だが。

他社も導入する導入合戦となると剰余価値は全社で得られ、剰余価値が得られる以上、この産業に新規参入が続き、供給側が増えて、需要が固定されていると供給過剰となり、需要の争奪戦に剰余価値を投入、販売価格は下がり、剰余価値が減り、なくなると飽和均衡になるところで販売価格低下は止まる。

 

資本主義的生産様式は、労働強化による剰余価値増殖が初期にはあり、現在も継続はしているものの、労働強化を伴わなくても、労働力を機械とエネルギーとで置き換えることで、機械の減価償却とそのエネルギー代の和が、労働力に勝る場合は、組成による剰余価値の生産が可能となる為、階級的な視点だけでは解決しない。資本主義的生産様式は、仮に労働強化部分を争議により革命により、労賃の正当な支払があった後も続く強力なシステムなのだ。

だから、本来、マルクス主義は、反労賃略奪と技術革新を社会発展と労働軽減の為に推進する、二つの旗を掲げないと資本主義から共産主義へとはならないはずだ。しかし、現実にできた過去の社会主義は、支配階級による労賃略奪と、生産材生産を実業のレベルを超えて重点生産し、更には鏡として派生するべき輸送、商業、各種サービス、の発展を阻害し、再生産回転を遅らせ、国民に結果としての技術革新の遅れと生産力特に消費材生産力の遅れを通じて豊かさを実感させることができずに、旧資本家階級の位置に共産党が置き換えられ、稚拙な経営がなされたことによる。民主主義軽視も作用している。

 

資本主義は、製造業ならWの組成で機械化を進めることで剰余価値を得て、Wに残余した剰余価値部分のGを生産に振り向ければ、生産物量の増加としてW'として現れ、G'として増加する貨幣資本を回収できるシステムだ。生産量が無理なく剰余価値の生産を伴いながら増加する、できる優れたシステムなのだ。

 

 

 

 

経済を考える9

これからの課題は、資本主義後の世界の考察です。

 

ケネーが農本主義時代を、マルクスが農本時代の不生産階級の成長による資本主義時代の萌芽時期を、見事に表式で示しました。

2人の素晴らしさに脱帽です。頭もいいね、マルクスはインテリにバカにされないように教養をひけらかしすぎで難解だけど、ケネーは小さな図だけに近いのに、物凄い内容、対象的だけど、どちらかといえばケネーのファンです。

 

マルクスの表式に今回手直しをさせてもらい、現代の表式にしときました。

と言ってもマルクスの後継としてのGーWーG でしかないけど。でも、ここを資本主義後の起点にでき、ケネーの範式並みのこと、是非やりたいです。

 

研究会サークルでもあればいいのになー。

 

でも、興味ある人少ないし、金儲けにもならないし、やっても自己満足にしかならないし、みんなそんな暇もないし。です。

そもそも私の説に賛成賛同する人がいるか自体が疑問です。で、賛同者が現れるまでは我が道をいきます。そのうち探しては見ますが。

 

さて、GーWーGーW…が無限に続き、常にW段階でのみ剰余価値を産み、また産まず(不生産階級も存在しながら)このミクロ的なパターンが、複数同時に進行してマクロを形成し、ここに国家などの支配階級の関与が複雑に絡み、影響しあっています。

肝は剰余価値は、労働により間接的にも直接的にも産まれる、ということであり、労働には、機械化による効率化、置き換えも含まれます。

直感的には、機械化はサポートのレベルから、労働の主体を占めるようになり、人間労働がサポート、最低限あるだけ、のようになるでしょう。

 

労働のというか、経営側に属していたWの要素の組成を設計する頭脳労働さえも、既に機械であるコンピュータにかなり代替しています。

資本主義の限界を探る上では、人間労働の機械労働化の極限の想定から始めましょう。

 

経済を考える8-10

剰余価値学説批判として まとめ

 

GーW  、貨幣資本を生産資本に転換するにあたり、

等価交換で、原料Pmと原料を新たな有用物に変える労働力Aとに交換して生産活動に入り新有用物としてG貨幣資本に戻す。

ここで、の生産経費は、原料代と労賃である。この労賃が回収できて再生産循環ができるのが、ケネーの不生産階級だ。剰余価値は発生しない。

 

ここで資本主義、すなわち剰余価値生産が内蔵されたシステムを検討しよう。

原料は同じ、その原料を加工して、製品を作るが、労働者による生産を、工場での固定資産減耗と機械のエネルギー消費に置き換えることができた組成で生産資本化ができた場合、

即ち、Aを、A1(Aよりかなり小さなAである機械操作人)と、機械の固定資産減耗、機械の操作によるエネルギー消費、に置き換えた合計が、Aを下回る組成ができたとき、即ち、剰余価値mをWの組成に加えないと等価交換GーWが成立しなくなったときに剰余価値は発生し、バランスをとる。

生産活動はその組成において実践的に実行されるだけであり、生成物Wを放出する。そのWは、運輸、商業経費の付加による価格形成により正当に貨幣資本に交換されるが、仕入れとして生産直後の製品自体を商業資本により、等価交換しても差し支えない。立派に生産資本に剰余価値は蓄積されている。

というもの。

この理論の利点は、運輸、商業の製造業から派生する主要なサービス業種でさえ剰余価値を生産できる、という理論的裏付けの証でもある。

剰余価値が、たとえ生産資本への組成後による労働者の労働によって初めて発生するとしても、生産資本の組成を資本の管理側で発生させる頭脳労働によるものならば、既に発生する根拠が埋め込まれており、残念だが資本に帰属する価値であるから、これは階級闘争による労働者の帰属を正当化し得ない。

 

1回のGーW変換で、原料が製品に化ける、化けさせるのだが、できる製品の量は原料を超えない。

化けさせる労働力、または労働力代替品が節約、省力化されないと剰余価値がGーW  のWでは付加されるmは生じない。

 

生産資本の組成での生産活動Pの後のW'なる商品増は、原料増を伴ってのみ発生する。確かに労賃からの収奪、労賃以上に働かせることは、そしてそれを略奪することは、労使という階級対立の中で現実に行われる野蛮な略奪行為で、現在でも続く問題ではあるが、原料が製品に変わるわけだから、そこで原料増を前提とする議論は場外乱闘でしかない。

しかし、製造業は静かにそして着実に剰余価値を生産活動が続く限り育んでいる。

剰余価値はどう使われるのか、それは市場放出の際の放出価格の低減補助金として、市場占拠用に活用され、また、高度な機械の導入資本として次の回転に使用される原前払増加として活用される。これが資本主義の本質なのだ。

更に加えるなら、剰余価値生産の為のこのシステムは、機械の特性による利点、寝ないで済む、文句をいわない、などや、均質性にバラツキが少ない、筋肉を超えた力をも発揮できる、早く持続し続ける利点もあり、G-W回転数を上げることができ、単位時間あたりの生産量を飛躍的に拡大できる利点があり、副産物的な利点による効果も大きすぎるものがある。欠点は機械の製造費が高いことだ。それと、雇用継続の社会的プレッシャーが、常に経営者にのしかかることだ。ここを割り切れれば、恐ろしい社会が生まれる、それが現在だ。

 

結論は、

GーW(Pm+A)…P…W'ーG'

は、現代も続くが初期には主流の略奪型資本主義

正解は

GーWーG

の変換過程で、Wの生産資本段階で、mを醸成するのが、製造業、WーGのWでmを醸成するのが、流通業商業である。ということで、現実の資本主義は、階級間の力関係で、略奪型部分も含むので間違いやすい、ということでしかない。

これで、8の課題は終わるが、マルクスの示した表式も、資本主義発生の時期から、今日の日本にさえ続いている、併用されながら資本蓄積効果を上げている。だから新モデルだけでは現状を評価できない。要は、権力構造によるシステムを利用した略奪型資本主義も併用されているわけだから、マルクス主義的な階級対立理論を武装解除する必要はない。

システムを紳士的にのみ稼働させるだけでも剰余価値を生み出し続けることができるが、今やシステムの目的が資本の増殖のみになり、かつその資本増殖がままならない状態で、グローバル化の時代になり、資本主義的生産様式が機能不全というか、限界に達しつつある。変わるだろう次のシステムの予測を考察する時代にあると思われる。

 

しかし、マルクスの当時の表式理論だけでは、略奪型資本主義の統制を国家を利用した規制で中止させ、紳士的な資本主義システムにする、にとどまるという限界も指摘せざるを得ない。日本では少なくとも有効である現実がある。

後進国で、社会主義経済化の実験がいくつか行われたが、結果として紳士的な資本主義システムを目指さざるを得ず、飛び級が有効ではなく、戻り級しているわけで、今後は先進国と共に資本主義後の検討に入ることになるだろうと。

要は、資本主義の合理的システムが、何によりどこに限界を生じさせ、どう変わるか、主体的に変えられるのか否かをケネーやマルクスの論理で、場合によりケインズの力も借りながら検討しなくてはならない。

まだ、誰からも答えが示されてはいない。

 

 

 

 

 

 

経済を考える8-9

8-7を補足する。

当時はイギリスの資本主義は萌芽の時代で、マルクスの分析通り、石炭エネルギーによる蒸気機関を利用した機械生産を導入しながらも、機械の剰余生産効果は低く、それでも生産力は職人不生産階級のそれと比べて圧倒的であっただろう。機械による生産の割合の低い分、略奪型に頼らざるを得なかったはずだ。というのも、機械の比率を上げる為には、機械自体の生産の成果がある程度産業に蓄積してからの効果であるからで、機械自体の生産体制が整うまでは、その資本となる剰余価値生産が極めて少ないからだ。その時期を短期間に通過するには、労使の権力関係に依存した略奪型資本主義の併用、依存は強くならざるを得なかったはずだ。

 

マルクスの資本主義分析は、残念ながらその時期の限界性あるものであった、と推察されるから、略奪型資本主義の資本論、にならざるを得ないが、当時の先端の現実分析であったこと、他に近代型の資本主義がなく、しかも略奪型資本主義自体が存在しない農本社会が圧倒的だった為、この限界性ある理論が受け入れられたし、労働者の置かれた悲惨な状況も確かにあったのだ。

 

さて、職人生産の時代、すなわち道具を駆使する程度の不生産階級による非食料品の生産体制は、労働力、すなわちエネルギー消費しながら物を有用に変化させる機能を継続再生産することであった。

非食料品生活必需品需要に応えるものであり、支配階級、生産階級、自階級の需要に応えるものであった。労働力を機械の減耗とエネルギー消費と剰余価値生産に置き換えていくことで、剰余価値生産財生産に置き換え、生産材生産にも機械導入でという連鎖によってマクロ的に成長することで、職人生産が機械生産に取って代わられ、機械生産による生産も、より高度な機械生産に置き換えられるので、消費需要が一定なら、より高度な機械生産が需要を独占する生産体制となる、置き換え競争は続く。より高い剰余価値生産目指して競争が続くが、その剰余価値はより高度な機械生産に投資されないと、剰余価値生産が継続できない。この流れを考えるとき、生産体制の高度化のニーズが生産資本組成Wに内包されるはずだ。

貨幣資本Gが、剰余価値gを産み、その剰余価値が貨幣資本として活躍されないと、新たなgを生まない。

しかし、最終消費需要に支えられるこの生産体制の伸びは、需要すなわち置き換えられた労賃減と、他の労働に転換した労賃増の合計の総供給を超えられない。このあたりもあとで検討しなくてはならないかも。

 

経済を考える8-8

剰余価値は、労働に代替する機械化の発展により生み出される、とすると、GーW の貨幣資本の生産資本への転化で、その組成段階で予定剰余価値が計画され、P生産の実行でW内で生産後の商品の形で生産されるから、Gの成果でしかない。労働者階級が握るべきは、GのWへの転化の内容に意見参画することだろうが、生活費を寄こせとなるだけなら、旧資本家と同レベルとなり、支配階級にとって変われない新たな資本家階級との交代にしかならない。

 

生産して新規の商品に変化した生産物は、その段階で、即ち出荷待ち商品の内に、剰余価値は含まれている。これは、未支出のGとしておいても良いし、原料と、新労働組成即ち機械とエネルギーの増として1回転の規模をあげても良いが、製造業ならば、初めの未使用Gとして取り置くよりも、精算後商品の増としてGと交換してもらった方が良い。

では、機械と生産による剰余価値とは、何か?素手による職人10人による1日の生産量と、工場による1日の生産量が変わらなかった場合は、工場の剰余価値は、そのまま、組成メリット分となる。工場1日で職人集団3日分生産なら継続生産なので3倍得られる。この得られた剰余価値は、資本として再投資されることによって更に単位あたりで増殖できるが、その為には、さらなる効果的機械投資の増が求められる。資本家の最終消費ではない。

しかしながらここまででは、製造後商品に需要がある場合で、ここまでだとセーの法則の範囲である。

1日で30職人分の製造量があったとしても、これを換金して、新たな生産資本組成で生産するには、WーGの等価交換により、貨幣資本に等価で戻さなくてはならない。蔵出しの商品に市場への輸送と商人への換金機能と、これらの活動を継続再生産するには、滞留時間分の銀行からの信用による繋ぎ資金も必要だ。製造業は、普通は資本を製造業に早く戻したいから蔵出し価格で商人に販売して、それでも製造業に剰余価値は得られているが、商人が運輸コストと販売コストを加えて販売価格とする。その労働支出と原料にあたる輸送機械の減耗補充費やガソリン代、消耗部品代は、回収して活動を継続しなければならい。不生産階級で剰余価値産まないのが商人、剰余価値を産むのが、流通資本や商業資本であり、これも機械化による生産性向上により得られる。

物は使ってないが、物作りは需要の為だから生産力が上がれば、こちらも製造業と変わらない資本主義システムである。サービス業種が価値を産まないと考えるなら、製造業が製造輸送販売業を肩代わりするしかないから、もし、労働者が同一賃金なら、製造業と同レベルの賃金総額と同額の賃金支出を伴うまでの規模と生産性までサービス業種も成長することになるしその必要がある。鏡の裏と表、実数と虚数の関係に近い。需給関係によるが、成長期は製造業が大きくなるが、成熟期は販売量の競争が製造業の存立を決める為に、サービス業種が大きくなる。この傾向はグローバル化で、製造業コスト競争となり、更に拍車をかける。

 

 

経済を考える8-7

さて、GーW  変換を深掘りする。等価交換である。

 

G貨幣資本ーW生産資本への変換と生産活動Pまでの製造業工程を細かく見てみよう。

マルクスは、貨幣資本としてのGをWの不変資本Pmと可変資本Aとの生産資本に等価で変換してP生産活動を行う。

製造業は、ある材料を労働により有用な生産商品にして等価で生産資本を回収して再生産できるようにする。これが、剰余価値を産まないで再生産のみを可能にする生産水準が不生産階級だから、剰余価値を産んでいる水準の生産が資本主義生産。

等価交換なのにどこから剰余価値が生まれるのか。

等価交換でありながら剰余価値が生まれる価値以上の労働があった、即ち生産工程でWーW'がないと説明できないから、生産工程が価値を産むとした。出来上がり商品増の価値増加部分が無賃労働に帰属するとした為、

GーWーGではなく、GーWーW'-G'とした為に、製造業唯一主義、製造業労働価値説を生み出した。

結論は、やはりGーWーG  だったのだ。

マルクスは労働力商品の資本側からの搾取として捉え階級闘争の必要性を科学的社会主義として導いたわけだが。ここからは、サービス業の剰余価値生産を説明できできない。サービス業の価値も説明できない、この理論闘争は現在も続いているが、現実から無視されかかっているだけで、理論的には置き去りにされている。

初期資本主義の野蛮さでしかなく、反乱が主流になる前に健全化されて逆に発展した。理論が間違っていたからだ。にもかかわらず、マルクスの功績は画期的であり、尊敬に値する論理性ある科学的なものなので、後継者の理論研究の不足であり、革命宗教理論のままにして放置した後継者に問題があった。

 

ミクロ的に見て見よう。

不変資本Pmは、原材料、エネルギー費用、機械の減耗費用、工場施設等の減耗費用が、A賃金という労働力の再生産費用を伴って製造段階Pで化合させて生産物を生産する。この製造業の流れを継続したいなら、製造後商品にこれらの価値が移転していなければならない。ではどこに剰余価値が潜んでいるのか?探してみよう!

 

原材料やエネルギー費用は、確かに不変資本として同価値が製品に移行し、即ち再生産費用としても回収すべきだが、また労働力もその再生産費用を回収しなくてはならないが、ここでの労働力の支出は素手で行うのではなく、全部移転しない過去資産の固定資産を活用しての生産水準なので、その意味では固定資産増の減耗分もPm分に含めて回収べき費用ではある。

 

不変資本は、先ほど原材料とエネルギーの費用と述べたが、原材料はエネルギーを使ってそのものを製品に変化させる、と考えるべきもので、原材料が多ければ投入エネルギーも大きい、という関係にある。不変資本に分類するのは、いかがなものか?

回収しなければならない経費支出ではあるが、自ら変化させられるもの、ではなく変化させる為の力なのだ。

機械の投入エネルギーは機械の食糧にあたる。機械は減耗とエネルギー消費を行う労働力の代替物であり、変化前の原材料とは異なり、変化させる側にある性質のものである。

労働力もエネルギー支出して、減耗するその再生産費用と共に賃金として受け取るわけだ。その意味では、機械など、エネルギー消費でものを変える労働と同質の側面をもつ。

 

素手で労働を行うなら、例えば針金からクリップを作る場合、価値の移転は、針金代と、労働力商品の再生産費用の和が製造後の価値として、というより価値額で販売できれば、彼の生活は成り立つ。

金持ちが職人を大工場で雇い、 そこでクリップを大量生産しても、何も変わらない。剰余価値は生まれない。ここでできるのは、金持ちが職人労賃で1.2倍の労働を強いて、1.2倍の製品を、1.2倍の貨幣資本を回収すれば、0.2の剰余価値を手にすることができる、というものだ。極端に言えば、これがマルクスだ。確かに階級制度が問題だ。しかし、これは階級制度の略奪を資本主義的生産システムに持ち込んだ訳であるから等価交換ではない。それに、1.2の生産物には、1.2倍の原料投入が必要になる。これでは、働きすぎで労働力の再生産ができない職人をバラバラにいさせるか、一箇所に集めたかの違いでしかなく、マクロではなにも違わない。こんな目に合うなら、中長期には職人が去るだけだ。第一集まらない。集まる必要もないから破綻する。資本主義初期には、日本の女工哀史、イギリスにおける労働者階級の状態、少し前の中国だ、固定資産減耗のというか機械化比率が低すぎるので長続きはしない。この方式での略奪的不等価交換、がマルクス剰余価値の説明だ。まだ、初期で機械生産による置き換えが未発達だし、エネルギーも高価だったかも。

 

大工場にする意味は、職人による生産スタイルを、機械という、固定資産減耗とエネルギー消費する人間労働の代替物を導入し、置き換えられる部分に、機械操作という、ペンチで針金を切断して短時間で大量に丸めるクリップ職人(たとえである)に変わり、高速切断機と丸め加工機、の機械操作のできるクリップ職人としては未熟練な少数労働者と、電気代に組成Wの組成を組み替えて、職人集団を集めて同量の生産物を得るのに対し、少なくて済む費用支出で同量の生産が可能な時、ここに内的に剰余価値が生まれるのだ。

ラッダイト運動に、その意味はあるのだ。

増産の増分に剰余価値がある、労働時間の延長に発生根拠がある、というのはあるが主要ではない。機械が摩耗するものの疲れないぶん、寝なくても良いぶん、労働時間が3倍になる?機械労働者を雇ってそこにエネルギー食糧と摩耗代償金を払うだけ、しかも逆らわないし。

三交代でやれば圧倒的な増分を得るが、それは剰余価値の発生根拠とは無縁の話。生産サイクルがより短時間になるだけで回転数があがるからだけだ。

また、天候の影響や、種子のDNA情報による限界もないから圧倒的な生産量を産むが。

 

機械の減耗+機械のエネルギー代が、労賃のそれと比較して機械<労賃となるから機械を導入するわけで、その差が剰余価値となる。

確かにここで削減される人は、マクロ的には他の不生産階級や生産材製造業の労働者となるから、必ずしも否定的なばかりではない。農業部門の増産なくても、職人が、機械生産労働者になれば問題はない。

PmとAに分けて考えるのではなく、Aは労賃と機械の減価償却と機械のエネルギー消費に置き換える、

即ちA1+Pm2+Pm2のエネルギー費用、を可変資本のAに分類して考えるべきだ。

固定資産減耗でも工場施設の償却経費等はPm1としてもいいはずだが、大工場でないと機械の導入運用ができないから、可変資本に分類すべき。

こう分類した後で、可変資本から剰余価値が生まれる、と規定すべきで、労働者の長時間労働の中の不払労働が本来労働者に帰属すべき剰余価値というのは歴史的にはあるし、そうした略奪型資本主義は労使関係の不平等性や社会的認知度により現在も存在している。が、それはいつの世もある権力関係の歪みであり、資本主義の本質ではない。

日本や中国の資本主義には、この略奪型が多く存在し、ドイツにおいては少なく、純粋資本主義により近い形でありながら堅実に発展している。

 

 

 

 

経済を考える8-6

ケネーの範式の時代は、不生産階級の労賃は職人労働の再生産で、その為には主婦も子供も養える賃金はあるわけだ。

これが、工場生産に移行して労働が児童や女性による単価の低い労働に機械化で移行すると、剰余価値が生産される。その意味ではマルクスの生産資本段階で剰余が生まれるのではあるが、ケネーの言う通り、農業は、自然の力で商品自体が増殖するが、労働はその補佐でしかない。農業は労働と太陽や土の恩恵により価値が増加する。一方で不生産階級の特徴は、本質的に価値の増殖はできない。Aという原料を、労働でBという有用物に変えるだけで、それを行うのが労働であることに変わりがないが、機械により、部分的に労働を置き換えることで、労働だけで生産するより余剰が出る。その余剰とは機械の減耗を補充して余りある余剰であり、それが更に高度機械生産の根拠となる。

この余剰、剰余価値の生産をするか否か、ゼロなら

剰余価値は、全額賃金となり、賃金を平均的なその時代の再生産費に抑えて剰余価値をそこそこに抑えるなら、次世代の高度化にも対応できる再生産だが、市場を独占していないと、賃金をギリギリにした方が勝つ。ここで労使の対立関係があるが、生産を管理する部門を労使どちらが主導するかでその分配が決まる。

市場では、職人生産物が駆逐され切るまでは、職人生産物と工場生産物が共存しているが、剰余分の一部は運輸や商業資本の発達を通じた生産活動にも行き渡り、ここでの雇用と機械投資を生み、また一方の使い道として生産を上げる高度な機械と同時に商業システムを高度化する機械の生産をももたらす。剰余は健全に投資として活用されきる。

マクロ的には職人の人口減による労賃総量減と機械を使用する非熟練労働による労賃増加があり、後者が剰余価値を生む為に、この剰余が、市場の商品需要が一定でしかないとしても、機械生産による生産物比率の高まりは、剰余の使い道が高度な生産機械生産に振り向けられるので、また、ここにはより高度な技術が必要となるので、廃業した職人による生産材生産部門への移転が進むことになりやすいのではないか。

であれば、労働者階級は絶対的に貧困化するのかどうかも疑問だが、生産総量の問題が関係するかもしれないので、この検討はこの先にする。