経済を考える1

ロビンソン・クルーソーのように無人島で1人で生活すると、生産活動に分業や協業がないことにより過剰生産物の交換の為の労働は必要ない。まして、交換の道具である貨幣も必要ない。交換による富の創出を前提とする為の生産性向上活動もない。生産性向上の成果は他の必要な労働に振り向けられるし、富の分配をめぐる争いもない。需要に対し供給力が圧倒的に小さい。これは、個人生産だからである。

 

必要なのは、将来生活の安定の為の生産物の備蓄や、生産性を上げる為の道具や生産材生産への現在労働の振り分けの比率の判断である。

現在何をどの位生産するか、今無理するか、ほどほどに時間かけてやるか、とか、道具や生産材を生産活動の中でどの位の割合にするかを決めることだけである。保存できない程の過剰生産は必要ない。

 

また、住む家、発見してもらい救出される為の信号装置、脱出の為の船舶などに限りある自らの労働資源を配分することが必要なのである。

安定的かつ短時間労働での食糧生産を可能ならしめる為には、有効な道具や生産材を早期に作ることで生産性を高め、残りの労働時間を確保することがトータルでの生産力をもたらすキーとなる。

 

この努力の過程で、フライデーと名付ける別の島に住む土人との暮らしが偶然始まる。ここで分業化が可能になる。フライデーには漁業を専業化してもらい2人分の魚を取りながら、生産性を上げるためのモリや漁網作り、また保蔵の為の干物化や塩漬など専に集中してもらう。ロビンソンは他の作業に集中する。そのことで道具づくりの時間が捻出しやすくなり、また労働が熟練し2人がそれぞれで生産するよりトータルの生産力が上がる。効果により分業化が恒常化する。

だが、ここで2人の間に交換が必要になる。物々交換は偶然の産物でしかなく交換のバランスが一致することは理論上の偶然でしかなく、必ず偏りが発生する。不公平が普通に生じるのだから交換は止まり、分業が止まる。このことを避けるには、交換の等価性を担保する仕組みが必要になる。

ロビンソンが農業、フライデーが漁業を担当するとして、農業が収穫期か否か、漁業が大漁か否かは交換を必要とする時期とは関係ない需要がある。

 

貨幣は2人の間には不要だが、交換時期に時間差が生じる為、交換時点の等価性を担保せざるを得ない。これが他国民同士なら商品貨幣即ち金、又は兌換券など信用性ある商品でバランスをとらなくてはならないが、共同住民であり、貸し借りとして記憶に止めるだけで済む。必要なら貸し借りの記録でよい。

 続く。

 

国家と経済4

ケネーを適用して、経済循環から国家と経済を考えてみたい。前回述べたように、支配階級と生産階級を考察してみる。

支配階級と言っても、現代日本は、王による専制的権力支配ではなく、国民の選挙により選ばれた代表により、政府が作られ、行政執行が行われる。政府は階級としての王ではなく、税による、又は国債発行収入による議会承認を経た予算執行による消費そのものである。

行政サービスや行政機構の維持に消費される。公務員給与から生活保護者にいたるまで。この消費のうち多分の生産階級への所得移転もあり、福祉、教育、インフラ等含む各種サービスを生産階級にもたらしている。が、本質は消費であり、生産ではない。納税ではなく消費支出である。消費支出は国民労働力の再生産消費支出であり、生産階級の生産活動の再生産維持経費である。本来は生産階級が生産セクター内での消費支出をも代行する政府(共同体)公共支出である。

インプットは、生産階級の納税と国債による借入金でアウトプットは消費支出である。生産階級は労働者であろうと、自営業者、弁護士、開業医、経営者であろうと、地主、資本家であろうと、生産階級内部の分配対立はあろうとなかろうと、トータルの生産活動でのアウトプットは、納税である。又は赤字国債発行の承認である。

要はこの政治に生産階級は関わっている暇はないからよきにはからえ、だから、適正か否かまでは保証の限りではないが、傾向として、重税はポピュリズムで通りにくいだけで、その分が国債発行に流れるだけだ。外国に外国通貨建でなければ問題は、先送りされる。国民の負債だから、生産階級内の分配の矛盾即ち返済責任が、労働者側と資本家会社側かその支払い分担の違いが先送りされているだけだ。企業が賃金上げずに内部留保してれば、そちらに重く逆なら軽くしないと矛盾が出るが、その対立を先送りしてるだけで、企業セクター、家計セクター共に内部留保があるのが実態だから、痛み分けとなろうが、国債やめ税金化しても、外国から借金しないでやっていける生産階級の生産性はある、納税能力は生産階級にある、が実態だ。

 

国家の経済モデル3

1では、生産階級と支配階級に分けたが、何も階級闘争を導きたいわけてはない。

国家の経済循環にとっての、発行貨幣を消費するセクターと、回収して返納するセクターをマクロ的に分類しただけである。

貨幣が等価交換としての商品でなく、国家の発行する法貨としての債務と債権の関係による循環経済を見る指標として考えると、もちろん、支配階級も国民として納税しているし、生産階級も生産階級内で完結している市場での交換もある。ここでも法貨は使われて経済を支えている。しかし、マクロでみると、即ち相殺勘定すると、支配階級の法貨が市場での交換により、生産階級の総額としての余剰労働生産物と交換され支配階級の目的と生活の為に消費される。一方で支配階級の法貨は生産階級の余剰労働生産物と交換され生産階級に納税分の法貨として残り、これが納税され、王に回収され、支配階級の次期法貨原資となる。納税を超える生産性向上がある変化が生産階級にある場合は、生産階級内で債権として、例えば銀行への預金として債権数値として記録される。生産階級は、資本と労働者とあり、それはどちらにより多いかは問わない。生産階級内の総和である。生産階級の中味は、納税する企業セクターと家計セクターの合計である。

納税額の不足は、戦時など納税不足分を国債発行で賄う。納税の前借りにあたる。

ちなみに、現在の日本の国債は、累計でも企業、家計セクター計に届かない。1000−500=500兆が政府セクターの純債務で、1300兆超える企業、家計セクター計の純債権に届かないし、国債発行は政府通貨発行の増額にあたるので、市場取引を増大させこのセクターの債権増額に貢献している。しかし、国際的な環境の変化があれば、例えば日本の経常収支が悪化すれば将来の債務となってしまう。平時でありながら戦時のような税収に見合わない浪費が続くことは、肥満体質として避けなければならない。

強い家計と企業セクターに支配階級がどっぷりと浸かっている体質だ。

 

国家の経済学モデル2

1で述べた通り、自由市場のモデル原理主義からスタートした経済モデルで貨幣を考察した場合は、貨幣が等価交換商品として存在しなければならないが、また、それは一般人に自然に理解されるが、国家論から貨幣を見ると、王が金蔵から金貨を兵隊に配り、市場から武器や食料を調達、市場から税で配った金貨を全額回収すればなんの出費も伴わない。これが昔日本の軍隊は軍票という紙の貨幣で支払われたが、これが市場で流通できればこれでもいい。が戦争で負けるとトイレの紙にしかならない。兵が金貨でないと集まらない程度の王の信用かどうかだし、金貨に銅を混ぜて量を増やしても、流通すれば問題なく、また税で劣悪か貨幣を回収するから、金貨で配った時と循環経済では何も違わない。金蔵には王は同額の蓄積財産があるままだ。貨幣生産が地下資源か印刷紙かで表価は同じだが、生産費が異なる為、経済が拡大すると貨幣生産コストはばかにならない。要は信用があれば紙でもいい、価値がなくても市場で表価として現実に流通するかどうかが問題なだけだ。

国家の経済モデル1

封建制時代は、日本でもヨーロッパでも、王が支配階級として領土を所有する。領土所有の欲求の根拠は富であり、その富は、資源の所有権であり、生産階級からの収奪権である。勿論ここから得られる富は、豪奢な王の暮らしの為に使ったり、領土を拡張する軍の為に使ったり、要は富国強兵である。王の間での生き残り競争にも備えなければならない。

これらを王の階級利益のために実行する現代では公務員にあたる階層が支配者階級である。

余談だが豪奢な王の暮らしは、王の権威を高めるだけでなく、奢侈物生産者労働を満たす側面もあり、需要の喚起となる。

 

生産階級からの収奪は、王の領土所有権を債権として生産階級に債務として認めさせることであり、税を負わせることであり、納税を実行する為の税収奪機構、警察、裁判所等の治安機構、又、他国に所有権を奪われないように武士やナイトの軍機構の維持の為に必要な税収を得なければならない。

 

農本社会では、自家消費と翌年の為の種などの年前払い経費分、土地整備や災害保険にあたる原前払い経費分を超えた生産物を農産物現物か商業取引を経た貨幣で納税する。勿論、超えた生産物を超える徴税は長期には、生産力の衰退を、その逆は増大をもたらす。余談だが、税の拡大は戦時含む支配階級の消費需要で行われがちだが、結果として領土拡大と奴隷労働力の確保となれば、生産力の衰退を補える。戦勝後は減税で維持できるはずだが、そうはならず軍の拡大などに収束することが多いのが現実。

 

農業以外の工業の発達が戦力を強化し、農工の発達が商業の発達、貨幣経済の発達を産む。貨幣は捕虜奴隷による地下資源採掘に支えられた。燃えてしまう紙より、戦時の軍の日当じゃないけど保存に強くそれ自体に金属としての価値があるから金属貨幣経済が好まれた。欠点は採掘が間に合わなかったが。

 

貨幣経済は市場取引の拡大を通じて拡大したが、市場は納税の為の、王の管理下にあり、王の発行する貨幣による国家運営、即ち軍や官吏への非生産階級への賃金を市場取引による貨幣収入で生産階級に移行し、それを負わせた債務の回収としての税収を発行貨幣で回収する必要な市場システムであり、古典派の自由市場とは異なる。流通貨幣は発行貨幣であることが必要な条件である。何故か、発行貨幣は100%の価値なくても、交換価値をもつ。所詮、発行貨幣は、税収として回収されるから、王は、自らの出費を伴わずに支配階級を維持できる。支配階級と生産階級のバランスが最大の問題で、戦争を通じて理想のバランスに紆余曲折しながら弁証法的に歴史を進めているに過ぎない世界なのだ。

要は、現実世界では自由市場など存在しておらず、アダムスミスなどの主流派経済学は、自由市場ならばという仮説から数学的に原理を捉えようとしている学問なので、現実の世界に通用せず、間違った判断を提供し、混乱をもたらしているだけで、進化の予測もできず現実の後追いの解釈に止まらざるを得ないのではないか。

経済は政治を超えられないわけだ。続く。

 

 

通貨と国債

日銀は、日銀券即ちお札を発行するが、日銀は日本国政府の子会社であることで、政府発行通貨でもあるお札は、表券主義による通貨でしかない。それ自体に価値はない。

22円の経費で10000円札が製造できる。

では、発行すると9978円の発行益が日銀経由で政府に発生するのか?というとそうではない。正確にはわからないが、万札が価値あるものとして市場に投入されると、結果として貨幣価値が低下するインフレとなり、0を増やしながら、結局は無力な札束を大量生産し混乱生み貨幣価値信用を喪失することになるだけだ。だから、通貨発行は日銀の負債とするしかなく、政府の負債、債務証書として市中の国債や様々な金融商品との交換でこれを資産としながら市中に通貨を投入する。強いて言えば、引き換えに得られた国債金融商品の資産で得られる金利−通貨製造経費がシニョレッジ=通貨発行益になるはずだ。

国債発行は、通貨と異なり期限があり、金利がつくが、国が保証する債務証書である点では日銀券と同じである。税収は日銀が発行した日本円で行うことで発行通貨の債務は消滅できる。

政府の歳出は、税収と赤字国債の合計だが、歳出>歳入なら赤字国債が政府債務として残る。政府債務は清算の必要が迫られなければ借り換えしながら拡大しつつ先送りできる。金利負担だけでよい。金融市場に国債買取の余裕資金あれば、国内で国債を消化でき、他国に経済支配されることはない。現在の金融市場を混乱させずに税収以上の歳出を行うことは将来のインフレによらねば清算はできないが、清算の必要が迫られ、かつ現在の経済構造のまま、ということが前提の場合で、他に小インフレへの誘導や、民間に資金需要がでて税収が上がる、又は法人課税の増税社会福祉の見直し、などを政治的に進める力あれば将来のインフレは遠のく。日本の経済力とポピュリズム的な政治的貧困の総和が戦時でもない国債発行による歳出増を生み出している。官僚含む全てに対する甘さだが、ちなみに第二次大戦時の赤字国債は現代に換算すると4000兆円で、お札を印刷し負債としてではなく放出して支払いに当てた為超インフレとなり預金封鎖から新円切り替えで日本国民は資産を失った。そんなバカな戦争を抑えられなかった国民の民度は、今尚脈々と形を変えて続いているのかも。しかし、一方で焼け跡からその後に奇跡の経済発展し、資産形成しバブル経済に至る力を生み出した国民でもある。

だから今の国債総額の1000兆円から資産500兆円引いた500兆円の債務など大したことはないのかもしれない。資産の国有地を格安で学校用地に売却できる余裕のある国だしね。